夏目漱石『こころ』の詳しいネタバレあらすじ

夏目漱石作『こころ』の詳しいあらすじを紹介するページです。

※簡単なあらすじ、登場人物紹介、管理人の感想はこちら(『こころ』トップ)

上 先生と私

 書生であった私は友達に呼ばれて鎌倉へ行きました。しかしその友達の母親が病気になり、郷里から呼ばれたため、私は一人残ることとなりました。私は毎日海へ行きました。私には荷物をいつも預けている掛茶屋がありました。

 私はそこで先生に初めて会いました。先生は一人の西洋人を連れていたため、私の気を引きました。先生は西洋人とともに海で泳ぎ、掛茶屋へ帰ると、着物を着てさっさと行ってしまいました。
 私は先生をどこかで見たことがあるような気がしていました。

 私は翌日も同じ時間に掛茶屋まで出かけました。先生は一人でいました。私は泳ぎに行った先生の後を追いましたが、追いつくことはできませんでした。掛茶屋へ戻ると、先生は入れ違いで外へ出て行きました。
 私はそれから毎日先生を見かけましたが、声をかける機会を得ませんでした。

 ある日、私は先生が落とした眼鏡を拾いました。先生は有難うと言ってそれを受け取りました。その翌日私は先生の後に続いて海に飛び込み、先生に話しかけられました。それから私は先生と懇意になりました。

 私はその晩、先生の宿を訪ねました。広い庭の境内にある別荘のような建物でした。私は年長者に対する口癖で、彼のことを「先生」と呼びはじめました。先生は家族ではない者たちと住んでいました。私は先生に会ったことがあるような気がすると言ってみましたが、先生は私には見覚えがないと言いました。

 先生が東京に帰るとき、私は自宅を訪ねに行ってもいいかと聞きました。先生は「ええいらっしゃい」と言っただけで、私はそのそっけない返事に傷つきました。しかし先生が亡くなった今になって考えてみると、自分を軽蔑していた先生は、自分に近づいてくる人間に対して、近づくほどの価値のないものだからよせという警告を与えていたようでした。

 東京に帰って一ヶ月ばかりたつと、私は先生に会いたくなり、自宅を訪ねてみました。一度目は留守でした。二度目の訪問で、私は先生の奥さんらしき人に出迎えられました。先生はこの日も留守でした。奥さんは美しい人で、先生が毎月雑司が谷の墓地にある仏に花を手向けに行っており、今日がちょうどその日であると言いました。私は雑司が谷へ行ってみることにしました。

 私は墓地にいる先生を見つけ、声をかけました。先生は当惑した表情を見せました。私が暮石の様式や書かれていることについて喋りたてると、先生は「貴方は死という事実をまだ真面目に考えた事がありませんね」と言いました。誰の墓に毎月花を手向けているのか私は聞きました。先生はしばらく答えませんでしたが、一町ほど歩いたところで、友達の墓があるのだと答えました。

 私はそれから時々先生を訪ねるようになりました。先生からは近づきがたい印象を感じました。しかしどうしても先生に近づかなくてはならないという気持ちが、私に強く働きました。

 ある日、墓参りと散歩を同じように考えていた私は、先生の墓参りに同行させてほしいと頼みました。私に、先生は話す事の出来ないある理由があって、他人と一緒に墓参りには行きたくないのだと答えました。彼は奥さんさえも墓参りに連れて行ったことがないようでした。

 私は月に二、三度ずつ先生の宅へ行きました。先生は私に何故自宅に来るのかを聞きました。私は先生を研究するために近づいたわけではなかったので、特別な理由はないと答えました。先生は自分のことを淋しい人間だと思っていて、私がそのうち自分のもとへ来ることはなくなるだろうと言いました。

 私はいつのまにか先生の家の食卓にもつくようになり、自然と奥さんとも話すようになりました。

 ある日、私は、先生と奥さんの二人と酒を飲みました。奥さんは先生に勧められ、わずかばかり飲んだだけでした。奥さんはいつもより愉快そうにしている先生に毎日飲むことを勧めました。子供がいれば淋しさも軽減するだろうと言う奥さんに対し、先生は子供はできないだろうと言いました。その理由を聞くと、先生は「天罰だからさ」と答えました。

 先生と奥さんは私が見る限り、仲が良い夫婦でした。しかし一度だけ私が先生の玄関先にたつと、奥さんと先生が諍いを起こし、奥さんが泣いているのが聞こえてきました。私はそのまま下宿へと帰りました。すると先生が私の下宿へ来て散歩を持ちかけました。その晩私たちは酒を飲み、先生は奥さんと喧嘩したことを私に打ち明けました。先生は、自分が妻の考えているような人間なら、これほど苦しんではいないと言いました。
 先生は私に、自分が強い人間に見えるか弱い人間に見えるかと聞きました。私が中位に見えると言うと、先生は意外な顔をしました。
 先生は、自分が妻しか女を知らず、妻も自分のことをただ一人しかいない男だと思ってくれており、自分たちは最も幸福に生まれた人間である筈だと言いました。私は先生が「幸福な人間である」と言わずに「幸福な人間である筈」と言ったことに疑問を感じました。

 ある日、先生を訪れると、先生は外国へ行く友達を送りに横浜に行っていたため、私は家の座敷に上がって待たせてもらうことにしました。その間に私は奥さんと話しました。
 もともと先生は東京帝国大学を出ていましたが、仕事をしていませんでした。それは私にとって不思議でした。先生は仕事をしない理由を、「どうしても私は世間に向って働らき掛ける資格のない男だから仕方がありません」と言っていました。
 奥さんは、何かをやりたくてもできないでいる先生を気の毒がっていました。奥さんは先生の若い頃の話をあまりしたがりませんでしたが、書生時代は今とは全く違った性格だったようでした。当時、私は先生と奥さんの間にロマンスの存在を仮定していました。しかし先生が死んだ今ではロマンスの陰に悲劇があったことを私は知っています。そしてその事実を奥さんは今でも知らずにいます。

 ある日、先生と私が上野に行くと、仲の良さそうな一組の男女を見かけました。先生は私に恋をしたことがあるかと聞きました。私がないと答えると、先生は「恋は罪悪です」と言いました。
 先生は、私が自分に興味を持っていることに対して、私の中に女への恋の前段階として、人間に対する興味が芽生えているのだと分析しました。先生は、自分には特殊な事情があり、私の興味に満足を与えられる人間ではない、と言いました。私が腑に落ちないでいると、先生は私を焦らしていることに対し、申し訳なさを感じている様子を見せました。
 私が自分を慕ってくることに、先生は苦しさを感じていました。自分すら信用できない先生は、自分のことを信じすぎないよう、私に警告を与えました。

 私は先生のこのような厭世的な言動の裏に、痛切な事実があるのではないかと考えるようになりました。
 私は奥さんとの恋愛事件を想像したり、誰のものだからわからない雑司ヶ谷の墓から、その事実を推測してみましたが、何もわかりませんでした。

 先生が上京してきた同郷の友人と会うため、どうしても出かけなければならない夜がありました。盗難が近所で多発していたため、奥さんとともに家にいてくれるように私は頼まれ、奥さんと話をする機会を得ました。奥さんは先生が人の顔を見るのが嫌いになっていると話しました。先生が奥さんのことを好きになったから、世間を嫌いになるのだと私が言うと、奥さんは世間を嫌いになって自分のことも嫌いになっているのだと答え、私とこれ以上議論するのを断りました。

 もし奥さんがいなくなったら先生は生きていられると思うかと、私は聞きました。
奥さんは、自分がいなくなったら、先生は不幸になり、生きていくこともできないかもしれないと答えました。うぬぼれから出た言葉ではなく、先生をできるだけ幸福にしているのだと信じての言葉でした。しかし先生は人間が嫌になっているようだから、人間の一人である自分のことも嫌になっているのだろうと奥さんは言いました。
 奥さんの先生に対する理解に、私は感心しました。私は奥さんが先生の妻であることを忘れて不躾になり、昔の先生はどんなだったのかと質問しました。昔の先生は自分の希望するような頼もしい人だったのだと奥さんは言いました。
 奥さんは何度も、先生が変わってしまった原因が自分にあるのではないかと、先生に問いただしたと言います。しかし先生は自分が悪いのだと言うばかりでした。その度に悲しくて仕方がなくなると言って、奥さんは目に涙をためました。

 奥さんは先生が変わってしまったことに心当たりがありました。それは先生が大学にいる時に、親友を亡くしていることでした。その親友は変死したようです。その親友が死んだことが、先生が今のようになってしまった原因であれば、自分に原因があるのではないので楽になります。しかし親友を一人亡くしたことがそこまで人の性質を変えてしまうものなのか、奥さんは疑問に思っていました。私は雑司が谷にある墓はその人のものかを聞いたが、奥さんはこれ以上は答えられないと言いました。
 私は奥さんを慰めました。先生が帰ってくると、奥さんは先程までの感傷を忘れたかのように、機嫌よく迎えました。私は彼らを幸福な夫婦として捉えました。

  秋が暮れて冬がくるまでは格別なことはなく、私は奥さんに衣服の洗い張や仕立てを頼みました。

 冬が来て、父の調子が悪くなり、私は帰郷しました。必要な金は先生に立て替えてもらいました。先生は風邪気味でした。先生は「私は病気になる位なら、死病に罹りたいと思ってる」と言いました。
 奥さんの母親は、私の父親と同じ腎臓の病気で死んだということでした。吐き気がなけれはまだ大丈夫だと奥さんは私に教えました。

 郷里に帰ると、父の病気は思ったほどではありませんでした。私の兄は九州におり、妹は嫁いでいるので、このようなときに一番実家に帰りやすいのは、書生をしている私でした。
 私は先生に手紙を書いて金を用立ててくれた礼を述べました。先生は私に簡単な返信をよこしました。

 私と父は将棋をよくしました。父は将棋を差すのが好きでした。しかし私は段々と手持ち無沙汰を感じるようになったので、早めに国を出ることにしました。

 東京に帰った私は、先生に金を返しに行き、父の容態について話しました。
 先生は腎臓の病気の怖さを語ったあと、「不自然な暴力」で死ぬ人のことを語りました。先生いわく、自殺する人は皆、「不自然な暴力」で死ぬということでした。

 年が明け、私は卒業論文を作り始めました。私は行き詰まって先生に助けを求めました。先生は自分が知っている知識を私に分けてくれましたが、最近は書物を読まないので、新しいことはわからないと答えました。なぜ書物を読まなくなったのか聞くと、以前は知らないというのが恥のようにきまり悪かったのが、今はそのように感じなくなったのだと答えました。
 私は四月の下旬まで先生の敷居をまたがず、私は苦しみながら論文を書き上げました。

 五月のはじめ、論文を書き上げた私は先生と散歩しました。私たちは植木屋に入りました。先生は芍薬畑のそばにある古びた縁台のようなもののうえに大の字に寝ました。私は端の方に座って煙草をふかしました。
 先生は私の家に財産があるのかを聞きました。私は山と田が少しあるばかりだと答えました。
 私も先生に財産があるのかを聞きました。先生は昔は財産家でしたが、今は金はあるが財産家ではないと答えました。
 先生は私に、万一のことの後で面倒なことになるのが財産の管理問題なので、父親が元気なうちに財産をもらっておいた方がいいと助言しました。
 先生は私に兄弟の数や、親戚は皆いい人なのかを聞きました。私が問題はないと答えると、人間の中に鋳型に入れたような悪人は存在せず、普段は皆いい人であるが、いざという時に悪人に変わるものだと先生は言いました。
 植木屋の十歳ほどの子供がきたので、先生は子供に五銭をやり、少しここで休ませて欲しいと頼みました。

 私たちは植木屋を出ました。私は先生に、人が悪人になる時とはどのような時なのかを聞きました。
 先生は金を見るとどのような君子でもすぐ悪人になるのだと言いました。その答えがあまりに平凡だったので、私は不機嫌になって先へと歩き出すと、先生は、金を見て悪人に変わる人と同じように、私の感情ですらすぐ変わるではないかと言いました。
 その言葉で私は先生を憎らしく思いました。私は先生をやり込めようとして、先ほど財産について語った時に、先生が少し興奮していたことを持ち出してみました。先生は、自分の父親の生前は善人であった親戚が、父が死ぬとともに欺いてきたので、そのことを執念深く忘れずに人間というものを憎むことを覚えたと言いました。
 無遠慮は私は先生の過去を聞きました。先生は過去の因果で、人をみな疑っていますが、私だけは疑いたくないと言いました。死ぬ前にたった一人でいいから、人を信用して死にたい。私にその一人になってくれるかどうかを先生は私に尋ねました。

 私は卒業し、先生の家の食卓で夕飯を食べました。先生の卒業証書がどこにいったのか、先生も奥さんもよく知りませんでした。
 先生は私に卒業したら何をするつもりなのかを聞きました。私は、まだ何もする気が起きないと言いました。私は先生にどれくらいの財産があるのかを聞きました。奥さんは大した額はないと言いました。

 私は二、三日中に帰国することになっていたので、暇乞いをして、九月あたりにまた来ると言いました。先生夫婦は父を大事にするように言いました。
 先生は奥さんに、自分がもし先に死んだらどうするか聞きました。奥さんは老少不定(人の生き死には予測できないこと)だから仕方がないと答えました。先生は自分が死んだら家を全て奥さんにやろうと言いました。奥さんは、死について語る先生の話を聞いてだんだんと心が重くなってきたようでした。
 私がすぐに家に帰らずに町の方へ歩いていくと、一緒に卒業した男に会いました。彼は私を酒場に連れて行きました。

 翌日、私は実家からの頼まれ物や、必要な書物などを買いに歩きました。それから三日目の汽車で東京を発って国へ帰りました。
 私は国で見込みのない病気にかかっている父のことや、夫婦のどちらが先に死ぬかという先生の言葉を思い出し、人間を儚いものに感じました。

中 両親と私

 父は以前会った時と同じように元気で、私が卒業したことを喜びました。私は、おめでとうと言っておきながら、心の底でけなしているような先生の方を高尚だと思い、卒業を珍しがる父を不快に感じました。
 しかし、父は私が卒業するまで生きられないだろうと思っていたということを聞いた私は、自分の先程までの考えを愚かだと思いました。

 母によると、父親の容態は安定しているようでした。安心しきっている母に、先生の奥さんの母親の死んだことを話して、病気に対する忠告を与えました。
 私は父がいなくなった後の田舎に一人残される母のことを考え、その先も自分は東京で気楽に暮らしていけるのだろうかと考えました。

 両親は私の卒業祝いに人を呼ぶと言いました。私は田舎の客の野卑なところが嫌いであったため、祝いをしたいとは思いませんでした。しかし明治天皇の御病気の一報が入り、卒業祝いは中止になりました。
 私は先生に手紙を書きましたが、返事が来ることはありませんでした。明治天皇の御病気の報せを聞いてから、父は自分の病気のことも深く考えこんでいるようでした。

 明治天皇の崩御の知らせが届きました。父は衝撃を受け、元気がなくなってきているようでした。私は新聞を読みながら東京のことを思い出し、寂しさを感じました。

 私はある友達から手紙をもらい、地方の中学教師の口を勧められました。私はそれを断り、父と母にこのことを報告すると、二人とも異存はないようでした。父と母は大学を卒業した私に不相当な地位と収入を期待しているのでした。
 父は先生に職業の口を紹介してもらえばいいのではと提案してきました。何も仕事をしていない先生から就職先を紹介してもらうのが不可能だということを、父はよく理解していないようでした。

 父は自分の死後、田舎に取り残される母のことを案じているようでした。その一方で私が東京でいい地位につくことも望んでいました。東京に残りたかった私は、先生に職を周旋してくれという手紙を、無理と知りながら書いてみました。しかし先生からの返事は来ませんでした。

 父が元気であったために、私は病気のことを時々忘れ、財産について話をする機会を逃しました。

 九月になり、私は就職口を探すふりをして東京に出ようとしました。私は寂しがる父と、返事をよこさない先生とを比較しました。私は父のことはよく心得ていました。しかし先生のことはまだよくわかっていませんでした。私は先生のことをよく知らなければ気が済まず、関係が途絶えるのが私には苦痛だったため、東京へ発つ日取りを決めました。

 東京へ発つ二日前の夕方に風呂へ入った父が倒れました。父はすぐに歩けるようになり、「もう大丈夫」と繰り返しました。しかし不安に感じた私は、出立の日を伸ばしました。父は自分のせいで東京へ行けなくなった私に「気の毒だね」と声をかけました。その三、四日後に再び卒倒すると、自分の死が近いのを自覚してか、見舞いに来た叔父をなかなか帰しませんでした。

 私と母は、兄と妹に手紙を出しました。兄は忙しい職についており、妹は妊娠中でした。

 父の危険はいつくるかわからないと医者は言いました。私たちは、その医者の周旋で町の病院から看護婦を一人呼びました。
 父は治ったら東京へ遊びに行こうなどと言う一方で、死んだら母を大事にしてくれと私に頼みました。

 父の病気は悪くなっていきました。私たちは兄と妹に電報を打ちました。

 先生からは返事は来ませんでした。私は母を満足させるために何通も手紙を書こうとしたが、父に叱られたり母の機嫌を損ねるよりも、手紙を何通もだして先生に見下されるほうを遥かに恐れていました。父が存命なうちに私の職が決まれば安心するだろうと母は言いましたが、結局私は先生に手紙を出しませんでした。

 兄と妹の夫が来ました。妹は一度流産しているので、夫が出てきたのでした。彼らは元気そうな父の様子を見て、楽観視しました。

 乃木大将が死んだとき、父は「大変だ大変だ」と言いました。兄と妹の夫は、父の頭が変になったのかと思ってひやりとしたようでした。

 そのようなときに先生から電報が届きました。私に会いたいが来られるかということが書いてありました。兄と妹の夫を呼んだばかりに、先生の元へ行くわけにはいかなかったため、私は行けないという返電を打ち、その後で細かい事情を知らせる長い手紙を出しました。

 手紙をだしてから二日後、先生から来ないでよろしいという文句の電報が届きました。父の病気はますます悪くなり、排泄で布団や敷布を汚すようになり、食欲も落ちてきました。作さんという子供の時から仲が良かった人が見舞いに来たときは、己(おれ)はもう駄目だなどと言いました。
 浣腸をすると父はやや楽になりました。母は先生から電報がきたと言い、あたかもそれが私に就職口を見つけてくれたかのような言い方をしました。父は喜びました。父の病気は最後の段階に達しているように見えました。

 私と兄は仲の良い兄弟ではありませんでしたが、久々に実家で同じ蚊帳の中で寝てみると、兄弟としての優しい心持ちが自然に湧いてきました。私は家の財産はどうなっているのか聞きましたが、兄は何も知りませんでした。兄は先生のことを私から聞いていましたが、先生が働く能力があってもぶらぶらしている人物であると知り、そのような人間をイゴイストだと言いました。私はそれを不快に思いました。

 父は黄色いものを吐きました。医者は兄にいよいよ危ないと言ったようでした。私は兄にここにいる気はないかと聞かれました。兄は仕事をしているのでここに残る気はありませんでした。私もまたこの田舎の地で朽ちていくのは嫌でした。

 父はうわ言を言うようになり、乃木将軍に申し訳ないと口走ったり、母に向かって色々世話になったねなどと言ったりしました。私と兄は遺言のことを聞こうと思いましたが、ぐずぐずしているうちに昏睡が来て、話をするときも不明瞭なことを言うようになりました。

 そのような時、先生から分厚い郵便が届きました。

 その日は父の様子が悪いように見えましたが、私は時間を作ってその手紙を読みました。私にはこの分厚い手紙を読んでいるうちに父の容態が変わるという予感がありました。
 先生の手紙には、私が先生の過去を問いただしたときには答える勇気がなかったが、今は私に対してそれを語る自由を得たと書いてありました。しかし私が上京するのを待てばその自由は失われてしまうと書いてありました。
「自由が来たから話す。然しその自由はまた永久に失われなければならない。」
この言葉を私は心の中で反芻し、不安に襲われました。
 私が続きを読もうとすると、私を呼ぶ大きな兄の声が聞こえました。私は父の最期が来たのだと覚悟しました。

 医師は再び父を楽にするために浣腸をしました。すると父は楽になったようで、医者は帰っていきました。
 私は先生の手紙を再び読み出しましたが、父の容態を気にするあまり、落ち着いて読むことができませんでした。最後のページまでを順々に開いてみて、再び畳んで机の上に置こうとしたところ、結末に近い一句が目に入りました。
「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世には居ないでしょう。とくに死んでいるでしょう」
 私は最後のページから先生の安否を知ろうとして順番にページをめくっていきましたが、それではわからずに、この手紙を畳みました。

 父の意識はまだ朦朧とはしていませんでした。私は医者に父が二、三日持つだろうかと聞こうとして医者の家に駆け込みましたが、医者は留守でした。
 私はそのまま俥を駅へ向かわせ、母と兄へと手紙を書いて車夫に届けさせて、東京行きの汽車に乗りました。そして先生の手紙を袂から取り出して読み始めました。

下 先生と遺書

 先生は、この夏私から受け取った職業周旋の頼みに対して、何も手を打たなかったといいます。自分の家に財産がありながら、地位のために職を得ようとする私を、先生は苦々しく思っていました。

 会いに来れないかという電報を打ったとき、先生は自分の過去を私に物語ろうとしていました。先生は、私が来れないと知って失望しましたが、返事を書こうとして、どうせ書くなら時期が来たときにこの手紙をやろうと思い、返事を出すのをやめました。

 先生はそれからこの手紙を書き始めました。この手紙を書くのを自分の義務とするとともに、自分の過去を書きたいという想いがありました。私という、自分の過去をまじめに受け入れている人に教訓を与えたいという思惑もありました。この手紙の内容は非常に暗いものであるが、その中から私の参考になるものをつかんでほしいとのことでした。先生は若すぎる私を時々笑うようなこともありました。しかし私が先生の過去を無遠慮に知りたいと申し出たときに、先生は私を尊敬したようでした。そのときはその要求を斥けましたが、先生はこの手紙でそれを伝えることを試みようとしていました。

 先生は二十歳になる前に両親を亡くしました。父親は腸チフスで、看護した母親にそれが感染しました。兄弟はいませんでした。先生はその前から東京へ出る算段になっていたため、母は叔父に先生のことを頼みました。たった一人残された先生は、叔父の計らいで東京へ行き、高等学校へ入りました。

 先生は裕福なほうであり、叔父に送金してもらっていました。叔父は事業家で県会議員にもなった男で、父親はいわゆる財産家でした。二人は全く違ったタイプであったが、仲は良かったようです。先生は叔父のことを信頼していました。

 夏休みに先生が帰郷すると、叔父夫婦が家に住んでいました。先生の由緒ある家は売るわけには行かず、叔父は二里も隔たった先生の家と自宅とを往復していました。
 叔父は先生に結婚を勧めました。早く嫁をもらって亡くなった父の後を相続しろと言いました。しかし先生は結婚というものが近くに感じられず、また東京に出ました。東京では所帯染みた仲間は一人もいませんでした。

 学年の終わりに再び帰郷すると、再び叔父から結婚の話を勧められました。今度は叔父の娘、すなわち先生の従妹という相手がいました。先生は子供の頃からこの従妹とは親しくしていましたが、恋愛とは程遠い存在でした。先生はその縁談を断り、再び東京に帰りました。

 それから一年経った夏、学年試験を終えた先生が再び帰郷すると、叔父の家族の態度は何か妙なものに変わっていたように感じました。

 先生は死んだ父母が残した財産について詳しい知識を得ようとしました。叔父は二、三日ごとに私の家と自分の家を往復して、忙しい身分でしたが、それは財産問題について語るのを避けるためであるようにも見えてきました。
 先生はもともと中学の同級生だった男から、叔父が妾を持っていて、一時事業で失敗したにも関わらず、最近になって盛り返してきたということを聞きました。先生は叔父を疑惑の目で見るようになり、談判を開きました。
 以前私が先生に、普通の人がまた悪人になるのはどのような時なのかを聞いた時、先生はこの叔父のことを考えていたのでした。

 叔父は先生の財産をごまかしていたことがわかりました。勧められた従妹との結婚話は、叔父が愛していなかった従妹を先生に押し付けようとしてのことでした。
 訴訟を起こすには学生の先生には時間が足りなかったため、先生は友達に頼んで、親戚がまとめてくれた財産を金に換えて、叔父とはもう会わないようにしました。財産は少額でしたが、学生として生活するには十分な額でした。

 先生は、一戸を構えてみようとに気分になりましたが、実行するにはまだおぼつかないような気がしていました。宅だけでも探してみようと、小石川から伝通院のあたりを歩きました。駄菓子屋に貸家はないかと聞くと、素人下宿ならあると言います。それはある軍人の遺族の住んでいる家でした。その家の主人は日清戦争で亡くなっていて、未亡人と一人娘と下女だけで生活を送っており、寂しいので下宿人が一人欲しいということでした。先生はその軍人の遺族の家を訪ね、未亡人にいつ引っ越してきても構わないと言われました。

 早速先生はその家に移り住みました。その家の部屋には、活けられた花と、その横に立てかけられた琴がありました。そこの家の御嬢さんが飾ったものであるようでした。先生はその琴を弾いたり、部屋を花で飾ってくれるお嬢さんに好意を抱きました。活け花は下手であり、琴の音はよくなかったが、先生はそれらをよく見て耳を傾けました。

 先生が故郷を去ったときにはもう厭世的になり、小石川に移っても緊張状態でした。しかし未亡人の奥さんからは先生は鷹揚だと思われているようでした。
 奥さんと御嬢さんは、先生の僻んだような眼や疑い深い様子に取り合わなかったため、先生は以前ほど人を疑わなくなっていきました。そのうち先生は御嬢さんとも冗談を言うようになっていきました。御嬢さんが部屋に来て、話し込むこともでてきました。
 奥さんは先生と御嬢さんを二人きりにして出かけることはあまりありませんでした。奥さんは先生と御嬢さんを近づけようとしつつも、用心しているように見えました。先生は奥さんのそのような態度をどのように取ればいいのか判断に迷い、奥さんのことを見くびりました。
 しかしそのうちに、私と御嬢さんを近づけようとしつつも、私に用心しているように見える奥さんの思惑は、どちらも真実であると考えるようになり、奥さんを悪く見るのをやめました。

 先生はこの家で信用されていると感じるようになってきました。故郷のことを話し、二度と国へは帰らない、あるのはただ両親の墓だけだと言ったとき、奥さんは感動し、御嬢さんは泣きました。それから奥さんは先生を親戚のように扱い始めました。しかし奥さんは叔父と同じ理由で、金のために自分と御嬢さんを近づけようとしているのではないかという猜疑心が、先生には生まれ始めました。そして御嬢さんもまた、奥さんと同じ策略家なのではないかと思い、不安になりました。

 先生は学校へは出席していましたが、勉強に張り合いを感じることはできませんでした。御嬢さんの部屋に出入りする男がいることに気づき、その正体が気になりましたが、名前を聞いても簡単に答えられてしまうだけでした。先生は御嬢さんを嫁にもらおうかと考えましたが、奥さんに誘き出されるのがいやで躊躇しました。

 服装に構わず、自分でよそ行きの着物を拵えるということは全く考えなかった先生に、奥さんは着物をこしらえるように言いました。先生と奥さんと御嬢さんの三人で日本橋へ買い物に出かけ、帰りには奥さんは木原店(きはらだな)の寄席のある横丁に先生を連れていきました。それを誰かに見られていたようで、先生はその次の月曜に妻を迎えたのかとからかわれました。
 先生がこの話を奥さんと御嬢さんにすると、奥さんは笑いましたが、迷惑だろうと言って先生の顔を見ました。先生は気持ちを伝えようとしましたが、御嬢さんの気持ちを確認していないことに気づき、打ち明けるのを躊躇いました。御嬢さんの縁談の話はないのかと聞くと、そのような話もあるが、まだ若いし美人でもあるから大して急いでいないと奥さんは答えました。奥さんは改まって先生にどう思うかを聞きました。先生はなるべくゆっくりの方がいいだろうと答えました。

 その頃、先生は子供の時からの友達であったKを家に引き込みました。Kは浄土真宗の坊さんの子で、次男でした。Kは宗教、哲学を深く考えている男でした。Kは中学の時に医者の家に養子に入りました。実家の寺も裕福でしたが、養子先も財産家でした。
 Kは学資をもらって東京へ来ました。養子先はKを医者にするつもりでしたが、Kは医者にならない決心をしていました。東京に着いてからは、先生と同じ下宿に入りました。

 Kと先生は同じ科に入りました。Kは養家から送られる金を使って、自分の好きな勉強をしていました。聖書を読み、コーランにも興味があるようでした。Kは二年目の夏に一度実家に帰った以外は帰ろうとしませんでした。三度目の夏、先生が故郷と決別した年、Kは親を欺いて自分の好きな勉強をしていることを、養家先に手紙で白状しました。
 Kの手紙を見た養父は怒り、実家からも叱責を受け、学資を止められました。Kは勉強をしながら就職口を探しました。そのために時間がなくなりましたが、勉強の手を緩めることはありませんでした。
 そのうちに養家から出してもらった金を実家の方で弁償して復籍することになりましたが、その代わりに実家の方からも勘当される形となりました。
 Kには他家に嫁いだ姉がいました。Kはこの年の離れた姉を好いていました。その姉がKを心配しているので、どのようになったか知らせてくれと先生に手紙をよこしました。
 先生はKの進む道に賛成した手前、自分が万一の場合はどうでもするから安心してほしいと返事を書きました。

 Kは一年生の時に復籍し、それから一年半自分の労力ですべてをまかないました。次第にKは健康と精神に異常をきたしていきました。いらいらすることが多くなり、自分の未来に失望していきました。しかし、自分の意志の力によって強い人にならなければならないという意識を捨てきれず、窮屈な環境に居続けました。
 先生は強情なKを説き伏せて、遊ぶよう忠告しましたが、Kは聞き入れませんでした。心配になった先生は、一緒に住んで一緒に向上していきたいという口実をつくり、Kを自分の家に連れて帰りました。

 奥さんは気心の知れないKが来ることに反対しましたが、先生が説き伏せました。Kの食費は秘密裏に手渡すつもりでした。仏教の教義で養われたKは、衣食住について贅沢をするのは不道徳だと考えていたようでしたが、生活環境が今までよりもよくなったことは一目瞭然でした。
 Kは苦労することで救われるという考えをもっていました。そのせいで辛い目に合っていると思った先生は、Kのその考えを正してやりたいと思っていました。しかし、Kが軽い神経衰弱にかかっていたようなので、先生は激されるのがいやで議論はしませんでした。

 Kを奥さんと御嬢さんに会話をさせることで、頑迷な態度を和らげてやろうと、先生は努めました。Kはなかなか心を許さず、女と無駄話をする先生を軽蔑してすらいるようでした。
 しかしそのうちに、Kは、女を軽蔑すべきものではないと思うようになり、態度も少しずつ柔らかになっていきました。先生がそれを奥さんと御嬢さんに伝えると、二人とも喜びました。

 ある日先生が下宿に帰ると、Kの部屋に御嬢さんが入っていました。奥さんは先生を御嬢さんと二人きりにして外出することはありませんでした。奥さんはどうしたのかと聞くと御嬢さんは笑いました。先生はこのような時に笑う女が嫌いでした。先生が真面目な顔をしていると、御嬢さんは少し用事があって出かけたと言いました。先生はそれ以上問い詰めませんでした。奥さんが帰って来て、いつもの時間に魚屋が来なかったので、出かけていたのだと言いました。御嬢さんはまた笑い、奥さんに叱られました。

 一週間ばかりすると、また御嬢さんはKの部屋にいて、先生の顔を見ると笑いだしました。
 御嬢さんは先生を変な人だと言いましたが、先生は何が変なのか聞きませんでした。先生は食後にKを散歩に連れ出し、Kの御嬢さんに対する気持ちを聞こうとしました。しかし、Kは要領を得ない返事をして、学問の話をするばかりでした。

 卒業まであと一年になった頃、Kに対して嫉妬し始めていた先生は、彼を御嬢さんから遠ざけるために旅行に誘いました。Kは行きたくないようでした。しばらく議論した結果、奥さんが間に入り、二人は房州へ行くことになりました。

 先生は海水浴をして、岩場に座り本を読んで過ごしました。自分の隣に座っているのがKではなくて御嬢さんなら良かったと先生は思い、Kも同じことを考えているのではないかと危惧しました。

 Kへの嫉妬により、先生はだんだんと過敏になっていきました。Kの神経衰弱はよくなっていったようで、その落ち着きが御嬢さんから来ているのではないかと疑った先生は、それを明らかにしたがりました。Kは先生の気持ちに全く気づいていないようでした。

 先生は自分の気持ちをKに伝えようかと思いましたが、なかなかできませんでした。Kに対する疑いを後悔し、心のなかで謝りながらも、Kのほうが自分よりも学問も容姿も態度も優れていると先生は思い、すぐまた不安になりました。

 二人は海辺を延々と歩き、銚子へとたどり着きました。彼らは暑さと疲労で、普段の心持ちと違った感覚になり、頭を使う込み入った話はしないようになっていました。
 二人は鯛ノ浦という景勝地に着きました。そこは日蓮が生まれた場所で、その日に二匹の鯛が磯に打ち上げられたという言い伝えがありました。そのため鯛を取るのが禁止されていて、泳いでいるのを見ることができました。Kはその鯛を見ながら日蓮のことを考えているようでした。
 二人は誕生寺という寺に行き、そこの坊さんに会いました。Kは坊さんに話を聞き、寺を出ると日蓮の話をしました。先生は疲れていたので、その話をあまり聞かずにいい加減な返事をしました。それに気を悪くしたKは、夜宿に着くと、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言って先生と議論を始めました。

 先生はその時人間らしいという言葉を使って弁論しました。先生はKの人間らしくない意味を分析し、本当は人間らしいのに、人間らしくないように振る舞うのだ言うと、Kはそれ以上反論をしませんでした。

 翌日から再び込み入った話をしなくなったので、先生は御嬢さんへの気持ちをKに打ち明けなかったことを後悔しました。二人は真っ黒になって東京に帰りました。

 旅から戻ると、御嬢さんはKよりも先生を優先して世話をするように見えました。やがて九月になり、先生とKは学校へ通い出しました。

 十月の中頃、Kよりも先生の方が早く帰ることになっていた日に、先生が帰ると、Kと御嬢さんの笑い声が聞こえ、Kの部屋から逃れるように出ていった御嬢さんの後ろ姿が見えました。先生は御嬢さんに逃げていった理由を聞けませんでした。そのうち御嬢さんは、先生が一緒にいるときでも、Kのことを縁側へ呼んだりすること増え、Kのほうにばかり行くように思えました。

 十一月の寒い日、先生が下宿に帰ると、Kの部屋には誰もいませんでしたが、火鉢が暖かそうに燃えていました。Kは一度帰ってまた出かけたと奥さんは言いました。
 先生が賑やかなところへ行きたくなって出かけると、Kと御嬢さんが一緒に歩いているのに出くわしました。御嬢さんの束髪はいつものように庇がでておらず、蛇のように頭の真ん中に巻きつけてありました。二人とすれ違い、どこへいっても面白くない気分になった先生はぬかるみの中をどしどし歩いて帰りました。
 Kに御嬢さんと一緒に出たのかと聞くと、偶然出会ったから連れて帰ったのだと言いました。先生が食卓で御嬢さんに同じ質問をすると、また先生の嫌いな笑い方をして、どこに行ったか当ててみろと言いました。先生は癇癪を起こしましたが、奥さんしかその癇癪に気づきませんでした。

 嫉妬の念が増えるにつれ、奥さんに御嬢さんをくれと談判しようかと先生は思いましたが、御嬢さんがKの方に心を傾けているような気がして、なかなか踏み出すことができませんでした。

 年が暮れて春になると、皆でカルタをすることになりました。先生が百人一首を知っているのかと聞くと、Kは知らないと答えました。先生がKを軽蔑しているのではないかと思ったのか、御嬢さんはKに加勢しました。先生は気分を悪くしました。しかしKは得意らしい顔をしなかったので、先生はなんとかその場をやり過ごしました。

 二、三日後、奥さんと御嬢さんが朝から市ヶ谷にいる親類の家に行くといってでかけました。Kが先生の部屋にやってきて、奥さんと御嬢さんの話を始めました。Kは御嬢さんについて、先生にもわからない立ち入ったことを聞きはじめました。先生が何故そのようなことを聞くのかとKに聞いたところ、Kは御嬢さんに対する切ない恋を先生に打ち明けました。先生は苦しみを感じましたが、Kはそれには気づかない様子で話し続けました。先生はそのうちにKに対して恐ろしさを感じるようになりました。先を越されたと思いましたが、自分の気持ちを伝えることはできませんでした。

 Kに先を越された先生は、町をあてもなく歩きましたが、Kのことが念頭から離れることはありませんでした。先生にはKを動かすことはできないと思いました。
 先生が家に帰ると、間も無く奥さんと御嬢さんが帰ってきました。二人は先生たちがいつもより黙っているのに気づきました。先生は心持ちが悪いと答え、Kは口がききたくないのだと答えました。御嬢さんが笑いながら、また難しいことを考えているのだろうと言うと、Kは少し赤くなりました。

 先生は眠れない夜を過ごしました。Kも眠れないようでした。先生はKに話を聞きたいと自分から申し出たが、Kはそれを渋りました。それからしばらくは先生とKはそのことについて話さずに過ごしました。そのうちに学校が始まり、先生とKは連れ立って出かけることが増えました。先生はKに、自分だけに打ち明けたのかと聞くと、Kはそうだと答えました。その恋を成就させるつもりなのか、胸のうちにしまっておくつもりなのかを先生は聞きました。Kはそれに対しては黙ったままでした。

 ある日、先生が調べ物をするために学校の図書館に行くと、Kに呼ばれました。Kは先生を散歩に誘いました。Kは恋愛している自分をどう思うかと先生に聞きました。先生はなぜ自分の批判が必要なのかを聞くと、自分が弱い人間であるのが恥ずかしく、自分で自分がわからなくなるとKは言いました。先生が退こうと思えば退けるのかと聞くと、Kは苦しいと答えました。
 Kの弱みを見て取った先生は、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言いました。

 Kは精進という言葉が好きでした。それは道のためには恋愛も捨てなければならないことを意味していました。

 先生は再び、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言うと、Kは「僕は馬鹿だ」と言って、目を伏せて歩き出しました。
 Kはその話をやめたがりました。先生は、話を止めるのはいいが、恋を止めるだけの覚悟がKの中にあるのか、もしそれができないのであれば、普段Kが口にしている道のためにはすべてを捨てるべきだと言う覚悟はなんだったのか、とKを責めました。Kは「覚悟ならないこともない」と言いました。

 家に帰ると、御嬢さんは私たちが何を話していたのか聞きたがりました。Kはいつもよりも黙ったままで、すぐに部屋に入ってしまいました。
 先生はKとのやりとりに勝利した気分になり、よく眠りました。するとKが襖をあけ、先生がまだ起きているのか聞きました。Kは眠れないようでした。

 先生にはKの言った覚悟という言葉が気にかかり、それは御嬢さんに恋を打ち明ける意味ではないかと思うようになりました。そして御嬢さんをもらうための談判を、先を越される前に奥さんにしなければならないという思いに囚われました。しかし、それはKがいないときになされなくてはならなかったため、なかなかその機会は訪れませんでした。

 一週間後、先生は仮病を使いました。先生は奥さんに、Kが奥さんに何か変わったことを言っていないか確認した上で、御嬢さんを妻にくださいと談判しました。奥さんは二、三先生に質問し、あっさりと御嬢さんを差し上げると言いました。
 先生は落ち着かなくなって外出し、御嬢さんにばったりと会いました。御嬢さんは先生に病気は治ったのか聞きました。先生は治ったと答えました。
 奥さんはその日のうちにこの話を御嬢さんに伝えました。

 先生が帰るとKが戻っていて、病気はもういいのかと聞きました。先生はKに謝りたくなりました。
 夕飯に御嬢さんは来ませんでした。Kが奥さんにその理由を聞くと、奥さんは決まりが悪いのだろうと答え、微笑しながら先生の方を見ました。

 先生はKに対して打ち明ける勇気を持ちませんでしたが、そのうちに奥さんがKに打ち明けたということを聞かされました。Kは驚いた顔をしたようですが、すぐに落ち着いて、「御目出度う御座います」と言って席をたち、結婚はいつかと聞き、自分には金がないので祝いをあげられないと言ったようでした。

 それを先生が知ったのは、奥さんがKに打ち明けて二日ほど経った後でした。普段と変わらず、超然としたKを見て、先生は策略で勝ったが、人間としては負けたのだと思いました。

 その晩、Kは自殺しました。

 先生は目を覚ますと、暗示を受けたようにKの部屋を覗き、Kが死んでいるのを見つけました。机の上には先生宛の手紙が置いてありました。その手紙には恨みが書いてあるのではなく、自分は薄志弱行で、望みがないので自殺すると書いてあり、死後の国元への連絡と、奥さんへの詫びを頼んでいました。最後に、もっと早く死ぬべきだったのに、なぜ今まで生きていたのだろうという文句が書いてあり、先生は痛切に感じました。
 先生はKの顔を見るために頭を持ち上げると、その頭の重さに恐ろしさを感じました。それは死を目にした恐ろしさではなく、この先の自分に暗示された運命の恐ろしさでした。

 奥さんが起きると、先生は部屋に呼び、Kが自殺したことを伝え、Kに謝るつもりで、自分が悪かったと詫びました。奥さんはその言葉の底意までは理解せず、自殺したのは仕方ないことだと先生を慰めました。
 先生は奥さんの指示で医者と警察に知らせました。Kは頚動脈を切って一気に死んだようでした。奥さんと部屋を片付け、国元に電報を打ちました。帰ると線香が焚かれていて、御嬢さんは泣いていました。先生はやっと悲しみを感じました。その悲しみは苦痛を紛らわせるものでした。
 Kの父と兄が国元から出てきて、先生はKの好きだった雑司が谷に墓を作る提案をしました。

 葬式の際、Kがなぜ自殺したのかと、先生は色々な人に聞かれました。新聞には勘当されて厭世的になったとか、気が狂ったとか書いてありました。先生はその度に、自分が殺したと白状してしまえ、という心の声を聞きました。

 奥さんと御嬢さんがそのまま住み続けるのを嫌がったので、今いるところへと引っ越し、その二ヶ月後に先生は大学を卒業し、それから半年もたたないうちに結婚しました。

 結婚すると妻は二人でKの墓参りをしようと言いだしました。妻は二人で墓参りをしてKに喜んでもらおうという腹づもりでしたが、先生は墓前で心の中で謝るばかりで苦痛を感じ、それからは妻と墓参りをしないことを決めました。

 先生は妻と顔を合わせるたびに、Kのことが脳裏に浮かぶようになりました。それが妻の心へと伝わり、自分のことが嫌いなのかと詰問を受けるたびに苦しむこととなりました。先生は妻の純白な心に一つでも黒点をつけるのが嫌で、全てを打ち明けることができませんでした。

 一年経ってもKを忘れられず、書物に没頭しても無駄でした。妻は先生が働かないから何もできなくなるのだと解釈しているようでした。

 先生は、自分を裏切った叔父と、Kを裏切った自分が変わらないことを発見し、何もすることができなくなってしまいました。
 酒で自分を忘れようとしても、なおさら厭世的になるだけでした。そしてまた書物に逃げましたが、妻は何のためにそれほど勉強するのかと聞きました。先生は、自分の妻が自分を理解していないことを悲しく思いました。それとともに、Kの自殺の原因は失恋だけでなく、孤独な道を辿ったあげくに失恋が引き金になって踏み切ったのだと思い始め、自分もそれと同じ孤独の道に入っていると感じてぞっとするのでした。

 そのうちに妻の母が病気になると、先生は手厚く看病しました。それは人間への罪滅ぼしのためでした。妻の母が死ぬと、妻は世の中に頼りにするものは一人しかなくなったと言いました。先生は妻を不幸な女だと思いました。
 先生はできるだけ妻にも親切に接しました。それもやはり罪滅ぼしのためでした。

 やがて先生は人間の罪という、恐ろしい感覚に襲われるようになりました。その度に先生は自分で自分を殺すべきだとの考えが起きるようになりました。

 先生は死んだつもりで生きていこうと決心しましたが、その度に恐ろしい力によって押さえつけられるような感覚になり、自殺するしかないという考えに至りました。これまでも二、三度その衝動に駆られたことがありましたが、妻のことを思い断念していました。

 明治天皇が崩御すると、先生は明治の影響を最も受けた自分が生き残るのは時勢遅れだという気になりました。妻にそれを言うと、笑いながら殉死でもしたらいいと答えました。先生はもし自分が殉死するのであれば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。

 一ヶ月が経ち、御大葬の号砲を聞くと、先生は明治の終焉を感じました。それは乃木大将が殉死した時刻と同じであると後にわかりました。乃木大将は、西南戦争の時に敵に旗を取られて以来、ずっと死のうと思っていたという句を残していました。先生が数えてみると、乃木大将が死のうと思っていた年月は三十五年でした。先生はその人生と、自分に刃を突き立てる瞬間のどちらが苦しいかを考えました。

 それから二、三日後、先生は死ぬ決心をしました。先生は妻の知らない間にこっそりと死のうと思っています。それから十日以上かけて、先生はこの手紙をしたためました。

 この手紙を私が読む時には、自分はもうこの世にはいないだろうと先生は書いていました。それは半ば自分自身の欲求によって書いたものであると言います。偽りなくこの手紙を書くことは、先生にとっても私にとっても、人間を知る上で徒労ではないでしょう。先生は自分の過去を私の参考に供するつもりでした。妻の自分の過去に対する記憶をなるべく純白に保ちたいので、妻が生きている間は、この手紙の内容を腹のなかにしまっておいてほしいと、手紙の結びには書かれていました。