山本周五郎『赤ひげ診療譚』の詳しいあらすじ、登場人物紹介

山本周五郎作『赤ひげ診療譚』の詳しいあらすじを紹介するページです。ネタバレ内容を含みます。

※全体の簡単なあらすじ、登場人物紹介、感想はこちら(『赤髭診療譚』トップページ)

狂女の話

登場人物

おゆみ
類稀なる美貌の持ち主で、幼い頃から手代に悪戯され、その後も男に脅され関係を持ったため、男女の営みを悪いことだと思い込む。男を誘惑して殺すようになったため、小石川養生所に隔離されている。

お杉
奉公でおゆみに仕えている。登と親しくなり、頻繁に会うようになる。(この後の短編にも度々登場します。)

お雪
養生所の台所で働く。森半太郎のことを慕っている。

五平
小石川養生所の栽園の園夫。体が大きく肥えた老人。

吉太郎
小石川養生所の栽園の園夫。痩せて無表情な若者。

次作久助富五郎
小石川養生所の栽園の園夫

あらすじ

 貧しい人たちを無料で診察している小石川養生所に呼ばれた保本登は、津川玄三という医者に出迎えられました。登はこの場所に呼ばれただけのつもりでしたが、津川は登とここの仕事を交代し、いずれ出ていくことになっていました。

 診療所は貧民でごったがえしていました。津川は医長の新出去定に登を紹介しました。去定は白茶けた髭をびっしり生やしているため、赤髭と呼ばれていました。今日から登は見習いとしてここで働くことになったと、去定は決めつけるように言いました。

 登は長崎で三年間の遊学を終え、江戸に行って御見目医(藩主やその家族などを担当する医師)の席が与えられることになっていました。そのため小石川養生所で働くことに納得がいきませんでした。

 登は同じ見習いの森半太夫を紹介され(半太夫は津川のことを無視していました)、牢屋のような施設内を案内されました。去定は腕は確かでしたが、あまりに横暴が過ぎるので皆から嫌われていると津川は話しました。

 登はさらに、幕府直轄の薬草地栽培に従事する男たちが、それぞれの仕事場で働いている様子を、津川の案内によって知ることとなりました。

 奉公人のお杉は、おゆみという富豪の娘の世話をしていました。おゆみは婚約を破棄されてから狂女となり、男を色仕掛けで連れ込んで簪で殺すそうで、今では親が敷地内に自費で建てた牢屋のような家に閉じ込められていました。去定はこの狂女を治療していました。おゆみの病は先天性のものなので、罪にはならないようでした。

 お杉と登は親しくなり、人に隠れて会うようになりました。登はここに連れてこられたことに対する不平をお杉に訴え、禁止された酒を飲みました。自分が長崎で得た蘭方医学の筆記と図録を去定が狙っていると思っていた登は、それらの資料を全て出すように命令されても、それを拒否していました。

 やがて津川玄三は登と入れ替わり、小石川養生所を去っていきました。登は見習医にはならずにここから出たいと思っていたので、入所患者の手当てをせず、去定に心酔している森半太夫と度々衝突しました。

 天野まさをという女が、登を訪ねてきました。登は直接その名前を憶えているわけではありませんでしたが、登にとって忘れられない女であるちぐさの姓が天野でした。まさをはちぐさの妹であるに違いありませんでした。登を訪ねてきた目的はわかりませんでしたが、登はうっかり会ってはいけないと思い、取次のものに部屋にいないと伝えるよう言いました。

 ある暗い夜、お杉は登を呼び止めました。お杉はしゃがれた声でおゆみについての話を始めました。おゆみの生母は他に男を作って出奔し、その後殺されていました。おゆみ自身も、際立った美貌のため、九つの頃から手代に脅されて情事を行い、その後も何人かの男に悪戯をされました。これらの事情は、男女のひめごとが罪であるというのに、断ると殺されるという意識をおゆみに植えつけたようでした。

 いつの間にかしゃがれ声だったお杉の声音が変わっていました。登はこの女がお杉ではなくおゆみであることに気づきました。おゆみは薬酒を飲ませて幻影し、登を殺そうとしに来たのでした。おゆみは簪を登の左の耳のうしろへ押し当て、自分が男を殺した様子を再現してみせました。登は気を失いました。

 翌日、去定に介抱されて目を覚ました登は、お杉から自分の話を聞いたおゆみが、自分を標的にしようと企てていたことを知りました。おゆみはお杉に薬酒を飲ませて眠らせ、わざとしゃがれ声を出してお杉のふりをし、登にも薬酒を飲ませて近づいたのです。去定は狂って暴れるおゆみを抑え、登を助けました。去定が気づくのがあと少し遅ければ、登はおゆみの標的になって殺されていたようでした。

 自分を助け出し、なおかつこのことを誰にも知らせずに処理してくれるという去定に対し、登は「赤髭か、悪くないな。」と心の中で呟きました。

駆け込み訴え

登場人物

六助
有名な蒔絵師。妻に自分の弟子の富三郎と出奔された過去を持つが、その後も娘のおくにを気にかけ、共に住むように持ちかける。木賃旅籠の柏屋に度々顔を出していたが、最近死去した。

富三郎
指物職。もと六助の弟子であったが、おくにの母親と出奔した過去をもつ。悪い仲間と付き合い、寺の釈迦像を盗み出しておくにに訴えられ、捕らえられた。

おくに
富三郎の現在の妻。富三郎が犯した罪を奉行所に訴えに行くが、夫を訴えたという不届きで逆に捕まる。

おくにの母親
自分の夫の弟子であった富三郎と出奔し、富三郎をつなぎとめるために一人娘のおくにと結婚させた。住み込みの茶屋奉公に入るも、死ぬまでおくにに嫉妬し、看取られるのを拒んだ。

金兵衛
木賃旅籠の柏屋の主人。

松蔵
富三郎とおくにが住む、京橋小田原町五郎兵衛店という貸家の差配。おくにの駆け込み訴えを手伝う。

とも
おくにの子供。十一歳。高熱を出している。

助三
おくにの子供。八歳。

おとみ
おくにの子供。六歳。

又次
おくにの子供。三歳。

島田越後守
奉行。

あらすじ

登の見習い医にならないという意思は変わりませんでしたが、彼は患者を診ることにしました。おゆみとの一件以来、去定に対する意識は変わっていました。去定は、医学は無力であり、無知と貧困を克服することが医学の助けになると説きました。薬籠を背負う小物で吃りの竹造と共に、登は去定の外診に同行することになりました。

 一行は木賃旅籠の柏屋の主人の金兵衛に呼び止められ、登が一人で話を聞くことになりました。柏屋には、最近死んだ有名な蒔絵師の六助が度々泊まっていました。六助は寡黙な男であったため、生前は有名な蒔絵師ということもわからず、家族がいるのかも定かでなかったようですが、その四人の孫が柏屋に来ているようでした。

 四人の孫たちは、差配(貸家の管理人)の松蔵という老人に連れてこられてきており、皆ひどいなりでやせ細っていました。

 松蔵の差配をしている長屋に、五年前に引っ越してきたのが、四人の子供の親である富三郎とおくにでした。富三郎は指物職で、元から生活は悪かったようですが、悪い仲間とつきあい、おくにに乱暴しました。富三郎はおくにに父親の六助から金をもらうように言っていましたが、おくには父親と断絶していました。

 ある日芝愛宕下の南宗院という寺の金剛の釈迦像が盗まれ、犯人を訴えた者に銀二十五枚を与えるという触書が出ました。富三郎はその犯人の一人でした。生活に困っていたおくには、富三郎を改心させるためもあり、松蔵の協力を得て、駆け込み訴えを行いました。しかし奉行所は妻が夫を訴える不届きと判断し、おくにを牢に入れました。おくには、六助に子供達をあずけるよう伝言を残し、松蔵は六助のいる柏屋に子供達を預けました。この話を聞いた去定は、子供の診察を行ったあと、牢屋に向かい、奉行の島田越後守と話をつけ、おくにを助けました。

 去定に助け出されたおくには、自分の半生について語りました。

 おくには六助の一人娘でしたが、幼い頃に母親が六助の弟子である富三郎と出奔しました。おくには十二歳まで六助のもとにいましたが、その後母親に連れ出されました。母親は富三郎とおくにを養い、さらに富三郎を繋ぎ止めるために二人を夫婦にしました。自分が取り計らった娘と恋人の結婚であるにも関わらず、母親はおくにに嫉妬し、死ぬ際にも看取られるのを拒みました。その後、六助が訪れておくにを助けようとしましたが、おくには申し訳なさからそれを断りました。おくには富三郎を殺したいほどに憎んおり、改心させるために訴えたというのは嘘であると語りました。
 去定はおくにに同情するとともに、不幸な境遇から犯罪に手を染めた富三郎ですら憐れみました。

 去定が牢からおくにを助けることができたのは、奉行の島田越後守の奥方の気鬱の病を診ており、島田が妾を持っているのを知っていたためでした。島田の奥方は嫉妬深い女でした。去定は妾を持っているという島田の弱みにつけこんで、おくにを牢から出し、さらに島田から十両をせしめて、おくにの財産にするよう取り計らってやりました。

むじな長屋

登場人物

佐八
むじな長屋に住む輻(車輪)屋。労咳にかかっている。稼いだ金や去定に出された薬までをすぐ人にやってしまう。おなかと結婚するが、大火の際におなかの複雑な事情により逃げられる。その後おなかの死を看取る。

おなか
越徳という呉服屋の娘。元から結婚を約束されていた男がいるところに佐八から求婚される。佐八に惹かれて結婚するが、罪の意識からそのもとを去り、もう一人の男と結婚して子供をもうける。

松平壱岐守
三万二千石を持つ四十五歳の巨体。

治兵衛
佐八の差配。

おこと
治兵衛の妻。

平吉
五十歳ほどのむじな長屋の古株。酒に溺れている。

あらすじ

 むじな長屋という、著しく貧しい人が住む地域に、輻(車輪)屋の佐八という男がいました。ガッチリした体つきでしたが、労咳にかかっており、治るとすぐに働いてしまい、養生することがありませんでした。去定はむじな長屋に通って佐八を診察していましたが、佐八は稼いだ金や出された薬までも人にやってしまうような男でした。登も去定に付き添ってむじな長屋に通いますが、そのうちに佐八に勧められて医院用の上着を着るようになりました。

 将軍ご寵愛の局が姫を産んだため催し物が開かれ、そのために小石川養生所は経費を三分の一も削減されました。さらにかよい療治も停止された(これまでも正式には許されていませんでしたが、去定は行っていたのでした)ため、去定は不機嫌でした。去定を警戒して、何かあるたびに目で合図を送ってくる森半太夫に、登は親しみを感じ始めていました。半太夫は労咳を患っていました。

 松平壱岐守に去定は厳しい食事制限を課し、さらに十両という法外な診察料を請求しました。そして受け取った十両のうち二両をむじな長屋に渡すよう登に言いつけました。登はむじな長屋に行き、差配の治兵衛に去定からの二両をわたしてやりました。

 佐八が喀血して倒れており、治兵衛の妻のおことが面倒を見ていました。佐八はおなかという別れた妻に話しかけるようなうわごとを言いました。その日は大変な雷雨で長屋の裏から骸骨が出ました。

 留守のあいだにまさをが再び訪ねて来ており、半太夫はまさをから話を聞いていました。
 ちぐさとまさをの父親の天野源伯は幕府の表御番医を勤めていました。源伯は登の父の良庵と懇意で、登のことを可愛がり、登とちぐさは婚約しました。ちぐさはすぐに結婚したがりましたが、登は結婚してから遊学することに抵抗があり、先に長崎に遊学してしまいました。その間にちぐさは書生と駆け落ちし、実家と義絶しました。ちぐさには子供ができようとしているようです。登がちぐさを許せば、親子は元どおりになれるとのことでした。登が小石川養生所へ来た理由というのは、もともと登の父が、ちぐさに駆け落ちされた登の気持ちが落ち着くまで、養生所で預かってもらうように去定に手配していたのでした。しかし天野源伯は長らく療養所にいては本人のためにならないと、御目見医にする道を登につくってやろうとしているのでした。

 この話を聞いた半太夫は、もう登がちぐさのことを許しても良い頃だと諭しました。これまで自分ばかりが傷ついたと思っていた登もまた、ちぐさの傷を想像し、自分が思い上がっていたことを恥じました。半太夫はまさをが登のことをしきりに心配していたと述べ、まさをのことをいい娘だと褒めました。

 佐八の状態が悪くなったというので、登はむじな長屋へ向かいました。長屋の古株である平吉が酔っ払いながら佐八の様子を伺おうとして止められていました。病身の佐八は、平吉のような貧乏人は酒を飲まなくては生きていけないのだと登に教え、登が医療用の上着を着たことで、街を行く人が医者だと判断することができ、貧乏人が救われると喜びました。佐八は自分の臨終の近いことを気づいており、登に自分の過去を語りました。

 佐八は十五歳で孤児になり、車の輻の親方を頼って育ちました。おなかは二十一歳の時に佐八と出会いました。おなかは病身の父とたくさんの兄弟を抱え、向こう十年の約束で奉公に入って金を借りていました。そのために自由の効かない身であり、佐八が結婚を申し込んでも一度は拒みました。しかし佐八が必死に金を稼いだため、二人は結婚を許されました。

 その後大火が起き、おなかは行方不明になりました。一人になった佐八はむじな長屋にたどり着きました。その二年後、子どもを抱いたおなかにバッタリと会いました。二人はすぐに分かれましたが、その後しばらくして、おなかがむじな長屋を訪れ、これまでのことを語りました。

 おなかにはもともと結婚する予定の男がいて、おなかも家族もそれを了承していましたが、新たに結婚を申し込んできた佐八に惹かれ、来てしまったのだといいます。しかし彼女は佐八と生活していても、もともと結婚する予定であった男に対する罪の意識は消えませんでした。そして大火の時に、罰が当たったと思いこみ、家族の元に帰りました。その後家族に言われるがままその男と結婚し、子供をもうけました。

 しかしこの前佐八にばったり会ってしまったことで、目が覚めるように佐八への愛情が蘇ってきたといいます。

 ここまで話した後、おなかは服の中で匕首を自らに向けて佐八に抱きつき、命を絶ちました。佐八はおなかの遺体を長屋の裏に埋め、以来自分の周りにいる貧乏人のためにのみ生きることに決めたといいます。

 裏から出た骨はおなかのものだと差配に伝えてくれと、佐八は登に頼みました。

三度目の正直

登場人物

藤吉
大工。猪之の縁談を何度もまとめる。

猪之
藤吉の弟分。十二の時に大政(だいまさ)という大工の棟梁に弟子入りした。若い女に人気があった。何人もの女と縁談をまとめては嫌になって破談にし、今は気がおかしくなっている。

おちよ
藤吉の妻。大工の娘。

お孝
藤吉が猪之の縁談を最初にまとめた飲み屋の女。

およの
猪之が二番目に縁談をまとめた居酒屋の女。

お松
猪之が三番目に縁談をまとめた女。足袋股引問屋の女中。

おせい
猪之が四番目に縁談をまとめた水戸の女。

おたま
猪之が十八の頃になついてきた棟梁の娘の友達。当時の年齢は九歳。

お杉
小石川養生所の狂女おゆみの面倒を見ている奉公の女。

あらすじ

 狂女のおゆみが自殺未遂をしました。その時去定と登は、藤吉という大工の家で、猪之という男の診察をしていました。猪之は藤吉の弟分で、二十五歳でした。藤吉の妻のおちよが猪之の面倒を見ていましたが、猪之は目はトロンとしていて、きちんと診察されていることにも気づかないようでした。登も去定も気鬱と見立てましたが、去定は、藤吉によく話を聞いて原因を探るよう、登に命じました。

 翌日登は藤吉に会いに行き、話を聞きました。猪之は十二の時に大政(だいまさ)という大工の棟梁の家に弟子入りしました。
 藤吉と猪之は、二つ違いで親しくなりました。猪之は若い女に人気がありましたが、一切遊ぶことをしませんでした。

 ある日猪之は同じ町の居酒屋の娘で、まるまると太ったお孝という女を嫁にしたいと、藤吉に取り計らうように頼みました。荒っぽい女だったので藤吉は反対しましたが、猪之がどうしてもというので、話を持っていって縁談をまとめました。しかし、お孝が手を握って気取りながら「一生捨てないで」と言っただけで猪之は嫌になり、縁談を断りました。それから猪之は、居酒屋の女のおよのを気に入りました。およのは素人女ではありませんでしたが、猪之は必死に藤吉に頼み込み、また縁談をまとめてもらいました。同じころ、藤吉も大政から出た大工の娘のおちよとの縁談を決め、普請の仕事で水戸に行くことになりました。ある日猪之は藤吉に自分も水戸に連れていってくれと頼みました。話を聞くと、他に嫁にもらいたい女ができ、およのとの縁談を断るため、ほとぼりが冷めるまで水戸に行きたいと言います。藤吉は怒りましたが、結局猪之の希望を叶えてやりました。

 次は近江屋という足袋股引問屋の女中で、お松という十八の娘でした。しかし、お松が酒を飲んで、「あなたはあたしのもの」と言ったことで、猪之はとたんに嫌になって、縁談を断ってくれと藤吉に頼みに来ました。水戸でもおせいという小料理屋の女に惚れ、藤吉が縁談をまとめては断りました。
 藤吉が所帯を持っても、猪之は藤吉の家に頻繁に出入りしました。やがて様子がおかしくなり、仕事もせず、鉢植えに逆さまに木を植えたりするようになりました。
 この話を登が去定にしたところ、猪之は幼いころから女にちやほやされすぎたせいで、藤吉への愛情が募り、無意識の間に藤吉を困らせ、甘えることで、藤吉と自分を繋ぎ止めようとしているのだと診断しました。

 猪之は養生所に入ることとなりました。

 登は少しずつ猪之に近づき、話を引き出しました。猪之は十八歳のころ、棟梁の娘の友達の九つのおたまという娘になつかれました。ある日おたまに抱きつかれた拍子に唇を吸ってみたところ、舌を入れてきました。猪之は九つの娘がこのようなことを知っていることが怖くなり、女というものすべてが怖くなりました。

 しばらくすると、猪之はお杉に惚れました。今度は藤吉に庇われたわけでも、女たちから誘いをかけられたわけでなく、彼は本心からお杉を憐れみ幸せにしようとしていました。登は猪之とお杉との縁談を去定に相談すると、藤吉に伝えてやりました。

徒労に賭ける

登場人物

おとよ
みくみ町の娼家で客をとらされている十三歳ほどの娘。

女主人
おとよが住み込む家の主人。

ならず者
去定にわざとぶつかり、喧嘩を売る。

火の番小屋の男たち
娼家で悪い客がいると出て行ってカタをつけたり、女の逃亡を防いだりする役目を担っている。

井田五庵
小石川養生所の番医。

荒巻と石庵
みくみ町で診察を行う医者たち。

あらすじ

 病室が板敷であることに患者は不満を募らせていましたが、夏の日でも汗を掻くことのない去定は、畳にこそ塵芥と湿気を含み不潔であるとし、板敷を通しました。

 ある日、ならずものが去定にわざとぶつかり、絡んできました。しかし去定は意に返さず謝罪し、人はそのような気分になるときがあると言って許しました。

 みくみ町という土地に娼家のかたまった一画があり、三人の病毒に侵された娼婦が二年前に養生所へ救いを求めにやってきました。それ以来去定はみくみ町の女を強制的に診察していました。

 去定と登がみくみ町に行くと、火の番小屋に男が三人いました。彼らはたちの悪い客がいると出て行ってカタをつけたり、女の逃亡を防いだりする役目を担っていました。ここでは十三歳のおとよもいう娘にも客を取らせており、おとよは瘡毒にかかっていました。女主人はその娘が勝手に男と悪いことをしたと言い張り、その娘の実家の者もどこにいるか分からないと言います。おとよも女主人と同じことを言うようにさせられており、去定が養生所に連れて行こうとすると、ここから出るのを嫌がりました。すると火の番小屋にいた男たちが脅してきたため、去定は薬だけを渡してみくみ町を出ました。その帰り、去定は過去に売女に溺れ、盗みを働き、師を裏切り友を売ったこともあると登に話し、幕府の倹約令のために最近増えだしたならず者たちに芯から同情しました。

 去定は天野源伯からまさをとの結婚を提案されたことを登に伝えました。以前登と婚約して他の男と駆け落ちしたちぐさは両親とは義絶になっており、ちぐさの妹であるまさをと登が結婚することで、ちぐさと実家の義絶を終わらせることができるとのことでした。登の両親もそれに賛成していました。しかし登は医学の修行のためといって、その話を断りました。

 森半太夫に聞くところによると、去定はもともと洋学の馬場轂里という人物の門下で、馬場は去定を後継者にしようとしていましたが、門下を去り、長崎へいって蘭方の医学を学んだようでした。去定は長崎に遊学したこともあり、蘭語も達者であることを知った登は、去定が自分に筆記を出させようとしたのは、技術を盗むためではなく、どんなことからも学ぼうという謙虚な気持ちから出たことを知り、過去の自分を恥じました。

 ある日、去定、竹造、登の三人でみくみ町に行き、去定は拒む家にも入って無理矢理女を診察しました。おとよはみくみ町から姿を消していました。女主人は養生所に入れられるのが嫌でおとよが逃げ出したと主張しましたが、実際には女主人とおとよは親子であるようで、おとよは売られたのではないかと登は訝りました。

 一行がみくみ町を出ようとすると、何人かの男が現れて、みくみ町には関わるなと脅してきました。その中には火の番小屋の男や、以前去定にわざとぶつかってきた男もいました。去定は向かってくる六人を一気に組み伏せ、誰の差し金かを聞いたところ、小石川養生所の医者である井田五庵だと言います。この場所で働いて娼婦から金を搾り取るような商売をしている荒巻と石庵という医者が、井田五庵らと協力し、去定にこの地を荒らされないように仕向けたのでした。去定は自分が倒した相手を治療してやり、さらにこの島で娼婦から金を搾り取ることしかできずに自分を攻撃してくる荒巻や石庵に対してすら同情しました。

鶯ばか

登場人物

十兵衛
伊豆さま裏と呼ばれる一角の長屋に住む四十一歳。苦労しながら職を転々とするが、未だ長屋からでれずに、頭がおかしくなった。鶯ばかと言われている。

おみき
十兵衛の妻。

おとめ
十兵の娘。七歳。

卯兵衛
長屋の差配。

おたつ
卯兵衛の妻。

弥助
長屋の住人。縁日商人。

おけい
弥助の妻。四十二歳。

五郎吉
十兵衛と同じ長屋の日傭取り。三十一歳。

おふみ
五郎吉の妻。

虎吉
五郎吉の長男。

長次
五郎吉の次男。七歳。

おみよ
五郎吉の長女。六歳。

おいち
五郎吉の次女。四歳。

おきぬ
遊郭で勤め上げた女。最近この長屋にきた。

留吉
おきぬの遊郭以来つきあっている男。五十二、三歳で今なおおきぬに貢いでいる

野原孝庵
医者。殺鼠剤を飲んだ五郎吉らを治療する。

あらすじ

 伊豆さま裏と呼ばれる一角の長屋の、鶯ばかとよばれる十兵衛を去定は診察していました。十兵衛は四十一歳の男で、おみきという妻におとめという七歳の娘がいました。

 十兵衛は、森口屋という卸屋で働いていましたが、女に騙されて店を追われ、職を転々としたあと、おみきと出会いました。もといた森口屋から小間物を借りて売り歩く商売を十五年も続けていましたが、子供が二人幼くして死に、おみきは産後の調子がよくなく、長屋からでることがいまだにできていません。七日前、銭湯でおとめが転んだ拍子に、十兵衛はおかしくなり、脇で身体を洗っていた男を殴りつけ、おみきに、「おまえ転んだりするから、よそのおじさんが心配するじゃないか、気をつけて歩きな」などと言いました。そして鴨居に板を渡し、その上に目笊(めざる)を置いて、中に千両のさえずりを持つ鶯がいるので、もうすぐ買い手がつくだろうと言いだしました。

 去定は登に十兵衛を診るように言いつけ、そのついでに同じ長屋にいる体の弱い五郎吉という日傭取りの一家も診るようにと命じました。三十一歳になる五郎吉の家族は、一つ下の妻のおふみ、八歳の長男の虎吉、七歳の次男の長次、長女の六歳のおみよ、四歳の次女のおいちでした。そのうちの長次だけが登によく懐きました。

 同じ長屋のおきぬという女が登に色目を使ってきました。差配の卯兵衛の妻のおたつによると、おきぬは遊郭で勤め上げた女であり、おきぬがきてからというもの、長屋内にいざこざが耐えないようでした。おきぬは遊郭にいた頃の馴染み客三人とつながっており、そのうちの一人の留吉という五十二、三歳の男を騙し貢がせています。彼女は長屋の男にもちょっかいをだし、気の弱い人々には毒を吐きました。今では五郎吉の家族がその標的になり、悪口を言われていました。

 登は実家に帰りました。四十六歳になる母の八重は痛風で寝ており、枕元には思いがけなく、まさをが看病していました。登は、自分がまさをに好意を抱いており、ちぐさへの想いを忘れていることに気づきました。

 伊豆さま裏へ行くと、五郎吉一家が殺鼠剤を飲んで心中しており、親は助かるようでしたが、子は長次以外は死んでいました。野原孝庵という医者がきて、生き残った三人に良い手当をしました。

 五郎吉一家の隣人で、縁日商人の弥平の女房のおけいが五郎吉たちの世話をしていました。おけいによると、床に臥している長次が登とどうしても会いたいと言っているようです。登は長屋を訪れました。長次は、自分が人の家の裏の垣根を盗んで、おきぬがそれを見ており、証人になると言ったため、一家で死ぬことにしたと言います。長次は自分が悪いから、両親のことは堪忍してくれと登に言い、明け方に息を引き取りました。

 長次の母のおふみは少しずつ自分たちのことを語りました。
 五郎吉は十七歳のときに、薬種問屋の仕事で荷物で頭を強く打ち、それ以来物事の判断ができなくなる発作に時々襲われました。知り合って間もなく、おふみが岡場所へ売られそうになったので、二人で江戸を出奔して水戸に三年いましたが、暮らしが不自由になり、江戸に戻りました。五郎吉は職が長続きせず、江戸でも厳しい暮らしをしました。長次だけが気の利く子だったようで、しばしば焚き火の材料にする木材を持ってきました。そして島屋と言う家の垣根を長次が持ってきたのを、おきぬに見つかり泥棒と呼ばれたのでした。彼らは貧困のために死ぬこととなりました。おふみは自分たち夫婦を皆が助けようとしなければ一家で死ねたのにと不平を漏らしました。

 おふみと五郎吉は回復して、長屋から出て行方知れずとなりました。

 おけいたちはおきぬを攻め立て、長屋から追い出そうとしましたが、おきぬは長屋から立ち去るのであれば、おふみと五郎吉を一家心中の罪で訴え出ると言って居座りました。その話を聞いた登は胸がむかつきました。

 十兵衛は相変わらず、幻の鶯の鳴き声を良い声だと言いました。

おくめ殺し

登場人物

角三(かくぞう)
薮下の長屋に住む二十五歳。

加吉
角三の父。畳職人をしていたが二年前に死んだ。

多助
夜鷹そばを営む老人

おたね
しっかりした印象の十九歳の女。多助の孫。角三と祝言をあげる予定でいる。

与七
薮下の長屋の家主の先代。息子の代まで店賃を無償で貸す契約を、住人と取り交わしていた。

高田屋松次郎
薮下の長屋の家主。長屋を料理茶屋や岡場所を作るために、住人を追い出そうとしている。

以蔵
松次郎の配下。

助三郎
長屋の差配。

与平
同じ長屋にいる大工。

小助
同じ長屋にいる左官。

長次
同じ長屋にいる魚屋、三十前後。

正吉
同じ長屋にいる車力。三十前後。

あらすじ

 ある十二月の夜八時過ぎ、去定と登は竹造を連れ、診察を終えて養生所への帰途についていました。夏にかよい療治の停止令が出てから、去定はその費用を自分で負担していました。しばらくかよい療治は黙認されていましたが、再び停止するように与力(奉行の配下のもの)に言われ、さらに養生所の比較的裕福な者が身内にいる場合は食費も取るようにとの命令が出ました。去定は幕府に対する愚痴を登に語りました。

 竹造が倒れている男を見つけました。男はひどい怪我をしていました。話を聞いてみると、人を殺そうとしたが返り討ちにあったと言います。

 男は角三といい、二十五歳で、藪下というところの長屋に住んでいました。

 角三は、同じ長屋のおたねという女に話があるといい、去定に呼んできてもらうよう頼みましだ。

 翌日去定は使いをだし、おたねを呼びました。おたねは昨日の夜の夜のことを報告しました。伊蔵という男が三人の男を連れて、自分の家の若旦那を殺そうとした男がこの長屋にいると言ったそうです。男たちは角三を疑っていました。おたねは、角三が豊島の親類の家に行ったと嘘をつきましたが、もし角三がもどらなければ長屋全体が訴えられることになると言います。

 登は角三の話を聞きました。藪下の長屋の家主は高田屋松次郎という男で、その先代は与七といい、小さな質屋を営んでいました。与七の商売は当たり、質屋をやめて神楽坂に行き、地所と家作を専業としました。藪下の長屋は、十九年前から店子に家賃と修理費を無償で貸しており、現在の松次郎の代まで無償で貸すという契約でした。しかし与七が死ぬと、松次郎はそこに料理茶屋や岡場所をつくるため、ならず者を使っておどし、皆を引き払わせようとしました。

 去定は、角三が豊島の帰りに崖から落ちたところを自分が助けたということにして、長屋に帰しました。一行が長屋に帰ると、松次郎の手下の伊蔵らが自分の亭主を討とうとした犯人を探していました。
 松次郎には怪我はありませんでしたが、犯人が怪我をしているという話であるため、お咎めを受けるのは高田屋のほうだと言って、去定は伊蔵たちを立ち去らせました。

 去定は角三たちにさらに話を聞きました。角三は十二歳の頃から板前の修業をしていましたが、天分がないことがわかり、めし屋をやろうと金を貯めていました。おたねは夜鷹そばをやっている祖父の多助のもとで育てられましたが、多助は卒中を起こしてから呆けていました。角三とおたねは二人とも両親がおらず、一緒にめし屋を営むことを夢見ていました。同じ長屋に与平という大工と、小助という左官がいたので、その二人と見積もりを出してようやく開店にこぎつけました。来月祝言をあげる予定であり、ここまでに四年かかりました。今長屋を放り出されては、借金を背負う上に結婚もできなくなります。そこでなぜ与七が無賃で家を貸していたのかを探ろうと、当時からいた多助に話を聞こうとしました。しかし多助は呆けていて、「おくめ殺し」という言葉を覚えているだけでした。

 翌日、養生所に大工である与平が訪ねてきて長屋に来て欲しいと言いました。去定と登が長屋に行くと、長屋の住人が角三の部屋にいました。皆は今からすることの証人になって欲しいと二人に言って、松次郎を呼び出しました。そして長屋を出たところの空き地に連れて行き、ある場所に誘導すると、松次郎は井戸に落ちました。

 ここは昔おくめという女の子が落ちて死んだ井戸のようです。その位牌のうしろに高田屋と住人の間に取り交わされた約束事が書いたものがあるのを、多助が思い出していたのです。この長屋に住む魚屋の長次がこの書き物を読みました。その書き物によると、松次郎は四歳の時にこの井戸に落ちて、四日目に助け出されたそうです。長屋のものが松次郎を見つけ、与七はそのことに感謝し、子孫の代まで店賃を無償にすると言いました。また、松次郎が思い出さないように、このことは内緒にしてくれと頼み、長屋のものたちはそれを守ってきました。

 四日間、井戸に閉じ込められた松次郎は降参し、皆は長屋に残ることができるようになりました。

氷の下の芽

登場人物

おゆみ
九つの頃に手代に悪戯をされたことが原因で、男を誘惑して殺していた狂女。死期が近い。

おえい
十九歳。十歳から近六という蠟燭問屋に奉公に出ていたが、妊娠したため暇を出され実家に帰っている。自分を売られないように白痴のふりをしている。

おかね
おえいの母親。おえいを堕胎させるために養生所に連れてきた。

佐太郎
おえいの父親。

近江屋六兵衛
おえいの奉公先(蠟燭問屋の近六)の主人。

あらすじ

 狂女のおゆみが間も無く死ぬようです。父親が養生所を訪ねてきて、九つの時に彼女に悪戯をした手代が見つかるのであれば、その男を殺して自分も死ぬと言いました。おゆみの体質が色情に敏感で、手代のことだけでなく、様々に重なる不幸に耐えられなかったのだろうと登は思いました。おゆみの奉公で雇われているお杉に惚れ込んでいる猪之は、彼女を連れ帰らないようおゆみの親に談判しました。

 去定がおえいという十九歳の白痴の女を連れてきました。おえいは母親のおかねに付き添われていました。おえいは十歳から近六という蠟燭問屋に奉公していましたが、妊娠したので暇を出され、今は親の家にいます。父親の身元はわかっていませんでした。おかねは子を堕ろさせようと去定のもとに連れてきたのですが、おえいは産むといって譲りませんでした。産む前に堕胎を行った方が残酷でないとの考えを持っていた去定は、おえいに子を育てることは無理であると判断して、彼女を三日間預かることにしました。

 登は麹町の実家に呼ばれました。天野夫妻とまさを、また父親の源伯がおり、内祝言を行うこととなりました。盃や銚子を運ぶ女性がおり、その女性が祝いの言葉を述べ、すすり泣いているのを見て、登はちぐさだと気づきました。登はこれで良かったのだと思い、ちぐさと和解しました。これにより天野夫妻からもちぐさは許されました。

 源伯は登が幕府の御目見医になると告げました。しかし、登はおゆみの手にかかりそうになったときに去定に助け出され、内々に処理してくれたことを思い出しました。去定の過去に何があったかはまだ知りませんでしたが、自分の犯した罪の贖罪のために、貧者に対して愛情を注いでいるように感じられました。罪の暗さと重さををおそらく知っている去定に登は強く惹かれていました。

 登はまさをに、幕府の御目見医にはならずに、養生所に残るつもりであると告げ、もし自分と結婚するなら貧乏に耐えなければならないので、よく考えるようにと言いました。まさをは異存はないという目をしてそれに答えました。

 おえいは母親がまた来ると子供を堕ろされると思い、養生所から逃げ出そうとしていました。彼女は白痴のふりをしていたと明かし、登に自分のことを語り始めました。

 おえいの父親は佐太郎といい、今は行方不明ですが、もとは芸人でした。おかねは佐太郎にのぼせあがっていました。子供は六人おり、男の子供は子守や使い走りをやらされ、娘は芸妓屋へ奉公にだされ、客を取らされました。それを見たおえいは梯子段から落ちて頭を打ったときに、近所の松さんというバカを手本に、頭がおかしくなったふりをして売られないようにしました。おえいが役に立たなくなり、奉公先の主人は親夫婦の前借りを拒んだので、佐太郎はおえいを連れて帰ろうとしましたが、おえいはその度に暴れて拒みました。佐太郎がいなくなった今でも、おかねはおえいのようなバカを好きな客もいるだろうと考え、彼女を売ろうとしています。

 おえいは、男は三十越えると女か博打にはまり、いつか壊れる車のようなものだと評し、お腹の子どもの父親も顔も思い出せないような男だと言います。子供がいれば苦労のしがいもあるから欲しかっただけのようでした。登は子を産むまでおえいを預かると約束して、去定に事情を話し、翌日奉公先へ行って、彼女に子が産まれたらまた養ってもらうよう、主人の近江屋六兵衛に頼みに行きました。

 養生所にはおかねが来ていました。登はおえいに子を産ませると伝え、子供を食い物にしているおかねを非難しました。しかし口が達者なおかねに逆にやりこめられてしまいました。そこに去定が現れ、これ以上子供を食い物にすると町奉行に届けてしかるべき処分を受けさせると一蹴すると、おかねは去っていきました。

 去定はおかねのような罪深い人間に対しても、その罪は貧しさのためであると言い、悪い人間の中からも良いものをひきだす努力をしなければならないと主張しました。これに登は反対し、口論の末、自分はここから出て行かないと主張しました。去定は登を御番医にするために津川を戻しており、登がここに残ることを許しませんでした。それでもなお、登はここに居座る決心を崩しませんでした。去定は登に後悔するぞと言いますが、登はためしてみましょうと答え、礼を言いました。去定はだまって部屋を出ていきました。