太宰治『皮膚と心』の登場人物、あらすじ、感想

 『皮膚と心』は、1940年に発表された太宰治の短編小説です。太宰治の得意とする、女性一人称の形式で、吹き出物が全身に広がる語り手の女性の心境の変化が細かく描写される作品です。
 このページでは『皮膚と心』の登場人物、あらすじ、感想を紹介します。


皮膚と心

※ネタバレ内容を含みます。

『皮膚と心』の登場人物


語り手。二十八歳。容姿にコンプレックスがあり、縁談がまとまらず、母と妹を助けながら自活して生きていくことを決めていた。自活の当てができてきたところに、現在の夫との縁談が持ち上がり、その縁談を引き受ける。

夫(あの人)
三十五歳の腕の良い図案工。小学校を出ただけで、親も兄弟もなく、「私」の亡き父の恩人に育て上げられた。「私」が女学校時代から惹かれていた、銀座の有名な化粧品店の蔓ばら模様の商標を考案した。六年間の結婚生活を送り、捨てられた過去がある。

『皮膚と心』のあらすじ

 「私」の左の乳房の下に、小豆粒に似た吹き出物が見つかりました。やがてその吹き出物は首、胸、腹、背中に広がり、皮膚病を嫌悪する「私」は、自分が人でないような気がしました。
 夫は薬を買ってきて「私」の身体に塗りました。

 「私」と夫は、その年の三月に結婚をしました。「私」にはそれまでもいくつかの縁談があったものの、まとまることはなく、二十五歳の時に、母と妹を助けて生きていく覚悟を決め、自活の道を探しました。洋裁の仕事を行いながら、自活の当てができかけていた頃、夫との縁談の話が持ち上がりました。

 夫は、小学校を出ただけで、親も兄弟もなく、「私」の亡き父の恩人とでもいうべき人が拾い上げて面倒を見て育て上げました。三十五歳の腕の良い図案工で、収入が良い時もあれば何もない時もあるようでした。初婚ではなく、六年間の結婚生活を送った後、一昨年前に相手から捨てられ、一生独身で過ごそうと思っていたところへ、父の恩人が「私」との縁談を持ってきたのでした。
 「私」はそのような縁談を持ってこられて困惑し、ことを荒立てないように断ろうとしましたが、ふいにその人がかわいそうになり、弱い家庭に住む、婚期の遅れたおたふくの自分とは似合いの夫婦かもしれないと思い、縁談を引き受けることに決めました。

 それ以来、「私」は、幸福な結婚生活を送りました。女学校時代から惹かれていた、銀座の有名な化粧品店の蔓ばら模様の商標は、夫が考案したものであることを知り、「私」は胸がときめくような思いをしました。それでも夫は、学歴などにこだわり、痩せて小さく、貧相な顔をしており、自信のなさそうな顔をしています。
 夫は、先妻と住んでいた赤坂のアパートを引き払い、「私」との結婚に備えて築地へ越したため、「私」は先妻のことを普段は考えることなく生活することができていました。
 しかし「私」も夫も、二人揃って自分の容姿に自信がなく、自分を卑下し、ぎくしゃくしてしまうことがありました。そのような時、「私」は結婚が誤りだったと考え、過ぎ去ってしまった青春を思い、夕食で泣き出してしまうこともありました。そのような悪いことを考えてしまうために、「私」は自分の嫌悪する皮膚病になったのではないかと考えながら床につきました。

 翌朝、その吹き出物は、全身に広がりました。「私」は、夫に自分の姿を見せるのが恐ろしくなり、結婚などしなければよかったと考えました。脇の下のリンパ腺が硬く腫れて痛みだしたことに気づいたとき、「私」は崩れるように座り込んでしまいました。
 夫に具合を尋ねられると、「私」は自分で自分が分からなくなり、実家へ帰ると言って泣き始めました。すると夫は仕事を休み、電車が嫌だった「私」のために自動車を呼んで、有名な皮膚科に連れて行きました。

 病院が性病の専門でもあったため、一人で待っていた「私」は「誰にも、秘密がある」という言葉を囁かれた気がしました。「私」は、自分の吹き出物も、夫にうつされたのではないかという、あらぬ考えを抱き、夫にとって自分が初めての女ではないことを実感しました。「私」は嫉妬という嫌な感情を覚え、初めて夫と前妻のことを憎らしく思いました。
 待合に夫が入ってくると、「私」は、自分の心の中が下品で、堕落したように思えてきたことを伝え、プロスチチュート(娼婦)という言葉すら口をついて出そうになりました。これまで自分の繊細なところを高尚なことのように感じていた「私」は、自分が結局、おろかな頭の悪い女であることを悟りました。
 そのような「私」に対し、夫は、「むりがねえよ。わかるさ」と言いました。

 医者に診せると、その吹き出物は単純な中毒で、すぐに治るようでした。注射をして病室から出た「私」は、もう手の方が治っていることに気づきました。「うれしいか?」と夫に言われ、「私」は恥ずかしく思いました。

管理人の感想

 『ヴィヨンの妻』、『斜陽』といった、太宰治の女性一人称作品に出てくる男は、借金に苦しめられていたり、薬に手を出したり、浮気相手と心中したりと、いわゆる「ダメ男」が多いのですが、この『皮膚と心』では、妻思いの良い夫が登場します。

 主人公の夫は、前妻と六年間を共に過ごし、捨てられた過去を持っています。しかし、主人公と結婚することになると、住んでいた住居を引き払い、前妻の存在を感じさせないような心配りをして過ごします。自分のことを「おたふく」の器量の悪い女だと思っている主人公に対しては、「いい顔だと思うよ。おれは、好きだ。」と言って、コンプレックスを庇います。
 皮膚にできた吹き出物のために主人公が泣きだすと、自動車を雇い、医者へと連れて行きます。身体を見せなければならないことを主人公が心配すると、「お医者を、男と思っちゃいけねえ」と言って慰めます。
 そして主人公が、病気が夫から感染された病気ではないかという、あらぬ考えを抱き、自分のことを堕落した女であると考えるようになると、彼は「むりがねえよ。わかるさ。」と返答します。

 主人公の妻は、そんな夫のことを、常日頃は気が弱く、自信なさげだと評していますが、彼の行動は、その印象からは想像もつかないようなものばかりです。

 本当に妻を想っているからこそ、ピンチに男らしさが発揮されたのかもしれませんが、それらは、女性の扱いを知っているがためにできた行動でもあるという印象を受けます。
 特に、プロスチチュート(娼婦)のような感覚に陥ったと言いかける妻に対する、「むりがねえよ。わかるさ。」という一言は、理論立てて改心させようとするでもなく、一方的に叱り付けるでもない、ただ寄り添うような発言であり、なかなか普通の夫にできるものではないと思います。それは、六年間前妻と過ごした経験があったからこそ言うことができた言葉であり、主人公が本当に前妻の存在を意識すべきところは、この発言なのではないかと思います。

 主人公は、自分の病気が夫から感染されたという、根も葉もない想像から前妻のことを思い浮かべ、嫉妬の念を募らせます。しかし、いかにも他の女性から学んだような夫の慰めの言葉の数々には、嫉妬するどころか、ほんのりとした嬉しさのようなものすら感じています。つまりこの主人公は、ありもしないことを想像して苦しみ、また夫の言葉の本質に気づかないことで幸福を得たのです。そして最終的には「のろけ話」のようになって、この物語を終えています。

 人間の幸不幸というものは、「何が起きたか」ということよりも、「どう認識したか」で決まるものなのではないでしょうか。たとえ自分の信じるべき人が潔白であっても、疑っていては不幸になるだけです。自分を幸福へと導く認識をするために、信じるべき人間のことを詮索することなく、与えられた好意を額面通りに受け取ることが大事なのかもしれません。