梶井基次郎『ある崖上の感情』のあらすじ、登場人物、感想

梶井基次郎作『ある崖上の感情』の登場人物、あらすじを紹介するページです。作品の概要と管理人の感想も。

『ある崖上の感情』の登場人物

※ネタバレ内容を含みます。

生島
その年の春に大学を出て就職する口がなく、その日その日を無気力な倦怠で送っている。崖上から窓が見える家に住んでおり、そこの貸主である未亡人と体の関係を持っている。また、しばしばその崖上に登り、他人の家の窓を眺めることによる恍惚状態を味わうことを期待している。山ノ手のカフェで知り合った石田に、崖上から人々を見ている自分が、根を失った浮草のように感じられると語り、その崖上へと誘う。

石田
山ノ手のカフェで生島と出会い、他人の家の窓の中に見える光景について語り合う。窓の中を見ている自分が根のない浮き草のように感じられる生島に対し、窓の中にいる人々こそが、儚い運命を背負って浮き世に生きていることを感じると語る。

百合ちゃん
生島と石田が語り合った店のウェイトレス。断髪していて薄い夏の洋装をしている。少しもフレッシュなところがなく、汚いエキゾティズムが感じられる。来店した外国人と楽しげに会話する。

小母さん
四十を過ぎた未亡人。子もなく夫と死に別れ、どことなく諦めた静けさがある。家の間借り人である生島に体を許している。

『ある崖上の感情』のあらすじ

※ネタバレ内容を含みます。

 ある蒸し暑い夏の夜、山ノ手のとあるカフェで、二人の青年が話をしていました。一人の酒に酔った青年の生島は、ある崖の上に立って、他人の窓の中を見ていると、自分が根を失った浮草のような存在に思えてくると語りました。窓の中の眺めは、元来人をそのような気持ちへと誘うものがあるのではないかと彼は語り続けます。
 もう一人の男、石田は、酒に酔った様子はありませんでした。彼は、生島とは対照的に、窓の中の人間を見ていると、その人々が儚い運命を持ってこの浮世に生きているように思えると語りました。
 生島は、自分の家の窓が崖の上から見える場所に住んでいました。彼は自分の部屋の窓を開け、自分自身を曝け出しているのが楽しいと語ります。反対に、彼は自分のいるところからいつでも人の家の窓が見られたらどれだけ楽しいだろうと想像することがあるようです。そしてその趣味は結局は人のベッドシーンが見たいということに帰着するのではないかと彼は打ち明けました。
 生島は、いつも登っている崖の上から見る一つの窓がありました。その窓を見ていると、どこからか人の足音が聞こえ、その足音が自分の後ろで立ち止まる妄想が膨らみます。その人間は自分の秘密を知っていて、今にも自分の襟首を掴んで崖から突き落とすのではないかという恐怖の状態に、彼は恍惚とするようでした。
 その窓の中に、彼はベッドシーンを見たと思ったものの、どうやらそれは違うものでした。しかしその時の恍惚状態こそが、自分が窓の中を覗く目的の全てであるといういうことが、生島にはわかりました。

 石田は、自分が読んだことのある小説の内容を語り始めました。それは、ある日本人のヨーロッパの旅の話でした。その日本人は、ウィーンのホテルの窓から、ある一つの開け放された窓を見つけました。その窓の中にいるのは、裸体をベッドの上に投げ出している男女でした。男はそれを見て、自分は長い旅の末にやっとこの古い都にやってきたのだと感じました。
 生島は、自分が窓の中を見ている崖の上へ、石田を誘いました。しかし、石田は笑うだけでその誘いには乗りませんでした。

 生島は、その夜遅く崖の下の家へ帰りました。彼はその家を貸している四十歳の未亡人(小母さん)と身体の関係を続けていました。彼はいつもその女の部屋に入り、寝床を共にし、自分の部屋に帰っていくのでした。
 その身体の関係で、彼の心が満足することはなく、段々と嫌気を感じるようになりました。女は諦めたように平気で、それが彼の嫌悪をさらに刺激しました。

 彼は窓を開けて崖の方を見ました。彼は、今夜カフェで話し合った石田が、自分と同じような欲望を抱いているにもかかわらず、崖上へ来ることを拒んだのだと固く信じていました。

 彼は崖上から見えた、窓の中にいるように思えた裸体の男女により、それを見ている自分が情欲を刺激され、恍惚とした心の陶酔を感じたことを思い出しました。

 それに比べて、自分が小母さんを抱く時には、陶酔を感じることはありませんでした。
 しかし彼にはまだ一つの空想が残っていました。それは、小母さんと寝床を共にしている時に、部屋の窓を開け放ってしまうというものでした。そのときに誰かが崖の上に立っていて、自分たちの行為を眺めて感じる刺激を通して、自分たちにもある陶酔が起こってくるのではないかと彼は考えました。

 そしてその欲望を満たすために、自分はその夜、石田を崖上へと誘おうとしたのだということに彼は気づきました。

 聴き手であった方の青年、石田は、ある晩、生島に教えられたその崖の上へと足を向け、自分の知っている町を俯瞰して見ました。
 彼は自分の田舎に帰ったときに、ある商人宿の中に見た光景を思い出していました。それは苦労が顔に刻まれた五十がらみの男が、顔色の悪い四つくらいの男の子と向き合って朝食を食べている様子でした。石田は、その男の子供に対する愛を感じるとともに、子供が自分の諦めなければならない人生を知っている気がして、涙を落としそうになりました。
 彼は、崖上から見える家々の中で繰り広げられる光景を、芝居でも見ているような感覚で眺めているうちに、生島が言ったように、だんだんと人の秘密を見たいという気持ちが意識されてくるのを感じました。しかし、もし自分がベッドシーンを見たとしても、欲情を感じるより、もののあわれといった感情を抱くのではないかと考えました。
 しばらくすると、石田は崖下の町へと帰って行きました。

 生島は、毎晩のように崖上に現れる人影を認めるようになりました。それはカフェで知り合った青年の石田に違いありませんでした。しかしそれは同時に、自分の空想が立たせた、自分と同じ欲情を持つ、自分の二重人格でした。それにより、自分の欲望は自分から分離し、あとはこの部屋に戦慄と恍惚があるばかりだと生島は考えました。

 石田は、カフェで生島が言っていたようなベッドシーンを見たいという欲望を心のどこかで感じながら、数日間崖の上に行き続けました。
彼はある産婦人科の病院の窓を眺めていました。そこには寝台を取り囲んだ数人の人が立っていました。しばらく他のところを見た後で、再び彼がその産婦人科の窓を覗くと、寝台を囲んだ人々が、ある瞬間に一度に動きました。その中の洋服を着た一人の男が、周りの人々に頭を下げたのが見え、石田はそこで一人の人間が死んだことを知りました。
それは喜びや悲しみを絶したある厳粛でした。石田は、その光景に無常を感じ、病院の窓の人々は他の窓のことを知らず、他の窓の人々は病院の窓を知らず、崖の上に自分のこのような感情があることも知らないのだと思いました。

作品の概要と管理人の感想

 『ある崖上の感情』は、一九二八年に発表された梶井基次郎の短編小説です。

 この小説の最初の舞台は、山ノ手のとあるカフェです。酒に酔った青年生島は、もう一人の青年石田に自分の嗜好を語ります。生島は、窓の中から自分をさらけ出すことや、窓の中にいる他人の秘密を覗き見ることに興味があるようです。それは結局のところ他人のベッドシーンを見たいという欲望と同等のようですが、彼はそのためにいつも家の近くの崖の上に登り、自分に恍惚状態をもたらしてくれる光景を探しています。その夜、彼はその崖上に石田を誘い、断られます。
 次の章では、生島が家主の四十近い未亡人と体の関係を持っていることが明かされます。生島は、崖上から他人の窓を見ることには恍惚状態を見出しているのに、その未亡人との関係には満足できないばかりか、諦観の表情を見せることに嫌気すら覚えています。
 そのような倦怠を伴う関係を変化させるため、生島は、未亡人と寝ているときに窓を開け放つことを思いつきます。
 その欲望は、ただ見られたいという簡単なものだけではなく、自分たちを見ている者へ与える刺激を想像することで、その刺激が自分へ伝わるのを感じたいという欲望です。そして彼は、その「自分たちを見ている者」を作り上げるために石田を崖上へ誘い、石田が崖上に現れるようになると、そこに自分自身を投影し、見る者と見られる者の両方が感じる陶酔を得ようと試みます。

 一方、生島の話に感化された石田は、崖上に行こうという生島の誘いは断ったものの、後日一人で崖上へと登ります。彼は、もしベッドシーンを見ることとなったとしても、生島のように情欲を感じるのではなく、「もののあわれ」を感じるのではないかと思いながら街を俯瞰します。
彼は、崖上からある産婦人科の窓を眺め、そこで一人の人間が死んだことに気づきます。それは予感していた「もののあわれ」を超越した、無常感を彼に与えます。そしてそのような自分の気持ちを、窓の中の人々は決して知ることがないのだと、石田は考えます。

 青山のカフェ、生島の家、崖の上といった多彩な場面で、登場人物たちの複雑な心理が描かれるこの作品は、文庫本で約二十ページながらも、非常に濃密な印象を与えてくれます。
 このギュッと詰まったような濃密さが、この作品の面白みの一つであるとも言えますが、個人的には長編小説で読んでみたかった作品です。
 梶井基次郎の作品は、感受性の鋭い登場人物の心理がとても細かく描写されるため、長く読んでいると多少疲れてくるというか、グッと意識を集中させて読むべきものが多いように思います。短編小説向きの作家と言えるでしょう。結核を患っていたため、長い小説が書けなかったのかもしれません。しかし、もし梶井基次郎が長編小説を書いていたならどのような作品になったのだろうと考えると、それはそれで面白いものになったのではないかと思います。特にこの『ある崖上の環状』は、様々なエッセンスが一緒くたになったような作品です。このような作品が、梶井基次郎の感受性の鋭さを持って長編小説になっていたら、なかなか読み応えのあるものになったのではないでしょうか。
 梶井基次郎は、死に至る病である結核があったからこそ、ピンと張り詰めたような感覚的な文章を残せたのだという見かたもできるかと思います。しかし、日本の文学史の中で独特な位置を占める梶井基次郎が、心身ともに病気に患わされることなく小説を書いていたら、現在残されている珠玉のような短編とはまた違った魅力のある長編ができあがっていたかもしれません。そのように考えると、梶井基次郎が長く結核を患い、若くして亡くなったことは、残念としか言いようがありません。