『人間ぎらい』(または『孤客(ミザンドロープ)』)は、1666年に発表されたモリエールの作品です。
モリエールは、コルネイユ、ラシーヌとともに古典劇の三大作家の一人として知られるフランスの国民的劇作家です。1622年1月15日、芸事の盛んなパリのトノレ街で生まれ、庶民出身でありながら、祖父の代が室内業者として国王に関与する仕事に就いていたため、上流の人々に混ざって古典や哲学を学んだ他、法律学を収め、弁護士の資格も獲得したと言われています。その後劇団の座長となり、南仏を巡業し、パリに戻って成功を収め、国王の庇護の元、王宮パレ・ロワイヤルの演芸場で活動しました。モリエールを座長とする劇団は、1680年から現在までフランス国立の劇団として続くコメディー・フランセーズの前身となっています。ちなみにモリエールはジャン・バティスト・ポクランという本名で、彼が「モリエール」の芸名を使うようになったはっきりとした理由は分かっていないようです。
『人間ぎらい』は、過剰な誠実をかかげながらも、恋に苦しみ、訴訟問題にも負けて人間社会からの絶縁を宣言する青年アルセストの物語を描いた作品です。喜劇でありながら悲劇的な要素も持ち合わせ、複雑で繊細な人間の心理が表現された本作は、当時の民衆からの理解を得られず、必ずしも好評ではなかったようですが、現在ではモリエール劇の最も有名な作品として世界中で読み継がれています。
このページでは、そんな『人間ぎらい』の登場人物、あらすじ、感想を紹介します。ネタバレ内容を含みます。
『人間ぎらい』の登場人物
アルセスト
表面上の付き合いを嫌い、どのような場面でも自分の心の奥底をそのまま言葉に表さなければ気のすまない青年。自分の理想とはかけ離れたセリメーヌへの恋に身をやつしている。
セリメーヌ
社交界の男たちに色目を使い、情があるように見せかけるのが得意な若い未亡人。人の欠点を陰であげつらうのが好きで、上流社会で持て囃されているが、徳の高い人々からは身持ちの悪さを批判されている。
フィラント
アルセストの友人。ある程度の美辞麗句が必要な社交界の礼儀をわきまえており、常にアルセストのことを心配している。エリアントに想いを寄せている。
オロント
セリメーヌに想いを寄せる男。自作のソネットをアルセストに酷評される。
エリアント
セリメーヌの従姉。アルセストに想いを寄せている。
アルシノエ
セリメーヌの友人。アルセストに想いを寄せている。道徳的に生きることを美徳としており、セリメーヌのことを内心快く思っていない。
アカスト
侯爵。セリメーヌに想いを寄せている。
クリタンドル
侯爵。セリメーヌに想いを寄せている。
バスク
セリメーヌの従僕。
デュ・ボワ
アルセストの従僕。
『人間ぎらい』のあらすじ
第一幕
嘘や建前を決して許さず、自分の心のうちを率直に言葉にしなければ気のすまない青年アルセストは、友人のフィラントが名前も言えない男に愛想良く接したことを責め立て、今日かぎり親友づきあいはよしてもらおうと言いました。
フィラントは、他人の好意には好意で返すべきだと反論し、率直さは時として人から笑われることもあるので、心を押し隠す方が良い時もあると忠告を与えました。
二人の議論は平行線をたどり、フィラントの言うことを認めようとしないアルセストは、しまいには阿諛追従ばかり並べ立てる全人類に反抗してかかることを宣言しました。
アルセストは、ある訴訟問題を抱えていました。その相手は、うまく立ち回って社交界に出入りするようになった男でした。そのような男相手に、アルセストは何の奔走もしないまま裁判に臨もうとしており、法廷の弁論で、非道な一般大衆が、不審なところのない自分に不正の名を着せるのを拝むことにするのだとフィラントに向けて宣言しました。
フィラントは、このようなアルセストの考えに驚き、彼がセリメーヌという若い未亡人を愛していることを不思議がりました。セリメーヌは、時代かぶれな言動をする女で、アルセストが否定する人間の代表格のような性格でした。しかしアルセストは、八方美人なセリメーヌの周囲にいる男たちに嫉妬し、彼女の欠点を責めながらも、自分の恋の力で洗い清めてやるつもりでいたのでした。
フィラントは、アルセストに想いを寄せるセリメーヌの従姉エリアントや、徳の高い上流社会の女性アルシノエのことを彼に勧めました。
しかしアルセストは、理性の上ではその通りだと理解していながら、どうにもならない感情によってセリメーヌへの想いを断ち切れないでいるのでした。フィラントは、そこまで思い詰めているアルセストのことが心配になりました。
そこへ、セリメーヌに恋する男オロントがやってきて、しきりにアルセストのことを褒めあげ、親しい友人になりたいと申し出ました。
しかしアルセストは、友情を結ぶ前にお互いにもう少し知り合わなくてはならないものだと、その望みを退けました。
オロントは、その言葉に納得しながら、自分の創ったソネットを聴いてほしいと、詩を詠み上げました。フィラントは、よくできているとその詩を褒めましたが、アルセストは悪趣味なものだと酷評しました。
結局オロントとアルセストは言い争いになり、フィランドは二人の間に仲裁に入ることとなりました。オロントは、自分の非を謝り、その場を引き取りました。
フィラントは、オロントに対するアルセストの酷い態度に苦言を呈しながらも、アルセストのことを見捨てない意志を示しました。
第二幕
セリメーヌを家まで送ったアルセストは、彼女が誰にでも愛想良く、満更でもない態度を振る舞うことを非難し、ほかの男たちに無愛想な態度をとってほしいと要求し、彼女のことを辟易とさせました。
そこへエリアントが、侯爵のアカストとクリタンドルをともなって現れました。
セリメーヌ、クリタンドル、アカストは、次々に他人の悪口を捲し立て、話に花を咲かせました。
アルセストは、そんな三人の態度を許せず、セリメーヌにお世辞を言って悪口を言うように焚きつけたと、アカストとクリタンドルを非難しました。
しかしフィラントやセリメーヌが偏狭だと反論したために、アルセストは言葉に詰まってしまいました。
そこへ、オロントとの喧嘩の調停をするためにやってきた元帥法廷警主がやってきて、アルセストに出頭を命じました。
アルセストは、オロントの詩が下等であることを認めるつもりがないまま、出頭命令に従って出ていきました。
第三幕
クリタンドルとアカストは、お互いにセリメーヌに恋をしていましたが、自分達が彼女からあしらわれていることに気づいていました。彼らは、自分達のどちらかがセリメーヌの心を靡かせたという証拠を見せることができれば、他のものはその勝利者にセリメーヌを譲り、きっぱりと勝負を諦めることを約束し合いました。
セリメーヌは、友人アルシノエの訪問を受けました。アルシノエはセリメーヌに対し、誰にでもちやほやすることを非難する人がいるので、謹んで行動した方が良いと助言を与えました。
それに対してセリメーヌは、貞淑そうに見えて誰をも見下しているように見えるアルシノエが、皆からの非難の的となっていると言い返し、若いうちから淑やかな振る舞いをするのは検討はずれだと主張しました。
二人は非難の応酬となり、アルシノエが帰ろうとすると、セリメーヌは、馬車が来るまでの間の相手をアルセストに務めさせました。
アルセストのことを想っていたアルシノエは、彼がセリメーヌに心を奪われていることを残念だと語り、表面だけは優しく振る舞うセリメーヌに騙されているのだと忠告しました。
はっきりとした忠告でなければ聞きたくないとアルセストが言うと、アルシノエは、セリメーヌが不実な心の持ち主であるという証拠を見せようと言って、彼を自宅に招きました。
第四幕
アルセストの何事にも真剣な雄々しいところを評価し、恋心を抱いていたエリアントは、彼のセリメーヌへの想いが届かなくなったときになれば、自分がその想いを貰いたいとフィラントに語りました。
これに対し、エリアントに恋心を抱いているフィラントは、もしもアルセストとセリメーヌが結婚してしまったならば、自分へ心を向けてほしいと語りました。
そこへ、セリメーヌがオロントに宛てた恋文を読んだアルセストが、欺かれたと嘆きながらやって来て、復讐を果たすためにエリアントに自分の心を捧げたいと語りました。
セリメーヌがやってくると、アルセストはその手紙を見せつけ、彼女の不実を責めました。
しかしセリメーヌは、その手紙が女に宛てて書いたものだと主張し、アルセストを混乱させました。
そこへアルセストの使用人のデュ・ボワがやってきて、パリを退却しなければならなくなったと言いました。デュ・ボワによると、アルセストの友人がやってきて、訴訟問題に関したことで主人の身が危ないので逃亡するようにと忠告し、紙に一言書き残して去ったようでした。アルセストは、その手紙を読むために、憤慨しながら家へと帰りました。
第五幕
アルセストは訴訟に負け、二万フランを費用として請求され、不公平な人間社会との交際を絶ってしまうことを決心しました。
フィラントは、他人の不正には耐え忍び、思い止まるよう説得しようとしましたが、アルセストの決心を変えることはできませんでした。
アルセストは、オロントがセリメーヌに自分との結婚の意思があるのかを聞いているところに現れ、自分かオロントのどちらを選ぶのか、セリメーヌに選択を迫りました。
困り果てるセリメーヌの前に、アカストとクリタンドルが、アルシノエを伴ってやって来ました。彼らは、お互いに届いたセリメーヌからの手紙を読み上げました。それらの手紙は、すべて心を誓うと見せかけて、他の男たちをこき下ろすもので、二人はこの手紙を世間に吹聴することをセリメーヌに向けて宣言しました。
セリメーヌの正体を知ったオロントは幻滅し、これ以上アルセストの恋の邪魔はしないと去って行きました。
アルシノエもまた、そのようなセリメーヌを愛していたアルセストに愛想を尽かしました。
セリメーヌは、自分がアルセストに酷いことをしたと白状し、憎んでもらってもかまわないと言いました。
しかしアルセストは、セリメーヌへの想いを断ち切ることができず、これから行くつもりである人里離れたところへ自分と一緒に行くことが、その罪を償われる方法だと迫りました。
しかし、世間から離れることができないセリメーヌは、その申し出を拒否しました。
傷心のアルセストは、とてもエリアントに心を差し出すことはできないと言いましたが、エリアントは、既にフィラントに心変わりをしており、もはやアルセストからの想いを望んではいませんでした。
アルセストは、一人で人里離れたところへ行き、名誉を重んじる人間として生きることを宣言して去って行きました。
フィラントは、エリアントと共に、アルセストを連れ戻そうと語り合いました。
管理人の感想
『人間ぎらい』は、嘘や建前を嫌う青年貴族アルセストが、その過剰な誠実さ故に、訴訟に負け、恋に敗れて、ついに社交界との付き合いを絶って生きて行くことを決意するまでが描かれた戯曲です。
作品の舞台は、パリの上流社会です。冒頭では、アルセストはフィラントという友人の青年に怒りをぶつけています。その原因というのが、フィラントが名前も言えないような通りがかりの男に、臆面もなく愛想良く振る舞ったというだけで、誰にでも漠然とした礼儀をぶちまけるやり方が気に障ったのです。二人の議論は平行線をたどります。
アルセストは、セリメーヌという若い未亡人に恋をしています。セリメーヌの方もアルセストに対して情があるように見せかけており、二人は一応、恋人ということになっています。しかしセリメーヌは、社交界における典型的な八方美人で、来るもの拒まず、どんな男にもチヤホヤします。アルセストはセリメーヌに身をやつしながら、彼女のそんなところが許せず、自分以外の男との交流を絶ってほしいと要求します。セリメーヌは、自分のことを好きで訪ねて来てくれる友人を追い払うわけにはいかないと、アルセストの要求をのらりくらりとかわします。
やがてアルセストは、その公明正大さが仇となり、抱えていた訴訟に負け、人間との付き合いを断つためにパリを離れることを決意します。
セリメーヌの八方美人なやり方にも綻びが生じます。数々の男たちに心を誓い、同じ手紙の中で他の男をさんざんにこき下ろしていたことが暴露されるのです。他の男たちが彼女に愛想を尽かす中、アルセストはただ一人、想いを捨て切ることができず、人里離れたところへ自分と一緒に行くことが、罪を償うための方法だとセリメーヌに迫ります。しかし社交界を捨てることのできないセリメーヌはその要求を撥ねつけ、アルセストは一人で暮らしていくことを決意します。
エリアントやアルシノエといった、自分のことを想い、さらに自分の信念に共鳴もしてくれる女性がいるにもかかわらず、理想とはかけ離れた存在であるセリメーヌに恋をしてしまうアルセストの姿は、滑稽で喜劇的です。しかしそのような矛盾を抱えながら、理性に逆らえずに感情に囚われてしまうのが人間というもので、このようなどうしようもない感情に囚われた経験のある人にとってアルセストという青年は、非常に共感できる存在になり得るのではないかと思います。
最終的に、セリメーヌの裏切りを知ったアルセストは、復讐のため、自分に恋するエリアントに心を捧げるという宣言を行います。この宣言は彼の最も嫌っていた嘘で塗り固められたものであり、エリアントのことを深く傷つけかねない行為のようにも思われます。結局アルセストは、動機は違えど、知らず知らず自分が糾弾しようとしていたセリメーヌと同じことをしようとしているのです。しかも彼自身、それが自分の信念からかけ離れたものであるということに気づいてはいないようです。八方美人を振りまいているだけのように見えるセリメーヌよりも、誠実を振りかざしながら、誰よりも不誠実なことをしでかそうとしているアルセストの方がより愚かで罪深いように感じてしまうのは、ある種の含蓄があるようにも思われます。
人間というものは社会の中でしか生きていけないものであり、セリメーヌのような生き方も、アルセストのような生き方も、その社会で生きているかぎり、どこかで綻びが生じる両極端なものです。結局のところ、適度に他人と心を合わせ、人の欠点に目をつぶることのできるフィラントのような生き方が、もっとも誠実で人間的と言えるのかもしれません。