夏目漱石『坑夫』の詳しいあらすじ

夏目漱石作『坑夫』の詳しいあらすじを紹介するページです。ネタバレ内容を含みます。

長蔵に声をかけられる

 許嫁がいる身でありながら、ほかの娘と惹かれあってしまった「自分」は、自殺も駆け落ちもすることができないまま、許嫁や親に申し訳が立たなくなり、生家を飛び出しました。東京から夜通し北へ向かい、泊まる宿も金もなかったので、神楽堂(神社の境内に設けられた建物)で少しだけ寝て、夜明け前に起きると松原を歩き続けました。
 もともと家に戻らないつもりで行く宛もなく歩いていたため、「自分」は何のために歩いているのか分からなくなり、歩けば歩くほど抜けることのできない世界へ深く潜り込んで行くような気分になりました。やがてその曇ったような世界に不安を感じ、いっそ世界が闇になれば良いと思い、自殺を考えることを慰謝としながら、暗いところを求めて歩いたのでした。

 掛茶屋を見かけて休もうか迷っていると、半纏(はんてん)なのかどてらなのかわからない服を着た男がこちらを向き、煙草の脂で黒くなった歯をだして笑いました。気味が悪くなりながら腰掛けると、その男は真面目になり、白い眼で「自分」を物色しました。その視線が嫌になって歩きだすと、どてらの男は、後ろから「自分」を呼び止めました。
 人から言葉をかけられる資格がないと思っていた「自分」は、先ほどまで気味が悪いと思っていた男に温かみを感じ、彼の方へと戻りました。

 どてらの男は、働く了簡はないかと聞きました。暗いところを求めていた「自分」は、何と答えるべきか分からずにぼんやりとその男を眺め、「働いても善いですが」と答えました。そして人間のいない方へ行くつもりだったのが、人間のいる方に引き返したのだから、やはり「自分」は、娑婆にとどまるつもりでいるのだと考えました。
 どてらの男は、儲かることを受けあいました。それほど儲けなくてもよいと答えると、男はその答えに驚きながら、その仕事を本当に引き受けるのであれば話すと言いました。「自分」は、「遣る気です」と答えました。

 茶店に入ると、男は、何のためらいもなく、蠅のたかった饅頭を頬張りました。食べるのを躊躇した「自分」も、その様子を見て饅頭を食べ、一度食べてしまうと、それほど神経にさわらずに二個目を食べました。結局「自分」は、男と競争のようになりながら、その饅頭を食べ尽くしました。
 どのようなことをやるのかと聞いても、男は儲かる話だから是非やるようにと勧めるだけでした。
 死ぬことも、人のいないところへ行くこともできなかった「自分」は、生きるために働く気になり、儲けなくてもよいので、神聖な労働であれば何でもやると答えました。

 男は、銅山の坑夫の仕事を周旋しており、自分が周旋するとすぐ坑夫になれると言いました。あたかも坑夫になれるのが上手い話であるかのような話ぶりに、茶店のかみさんも口裏を合わせて同意しました。
 「自分」は、労働者の中でも最も苦しく下等なものが坑夫だと思っていましたが、深く考える余裕がなく、単に働ければよいということだけを考えました。そして、人のいない、死に近いところで働く仕事が今の自分に合っていると考え、坑夫にしてほしいと頼みました。

 どてらの男は長蔵という名でした。長蔵は、「自分」の過去を一つも聞きただそうとしないまま、繁華街を通り、停車場へと連れて行きました。「自分」は、長蔵が詐欺ではないかと考えて、引き返そうかとも考えましたが、若さゆえに、彼がポン引きだとは考えることができず、本当に好意から親切にしてくれているのではないかという考えを捨て切ることができませんでした。
 停車場へ着くと、長蔵は、「自分」の足りない分の汽車賃を払うと言って、ワニ革の高級な蝦蟇口ごと預かり、「自分」が逃げ出さないように見張りながら三等の切符を買い、手渡しました。

 汽車に乗ると、腐爛目(ただれめ)の男が隣に座りました。「自分」は気味が悪くなって席を移しました。長蔵は、腐爛目の男と知り合いのようでした。「自分」を銅山に連れて行くという話を聞いた腐爛目は、長蔵に向かって「又大分儲かるね」と言いました。
 居眠りして、汽車が停まった瞬間に不意に目覚めると、「自分」はこれから坑夫になるという立場を急に自覚し、嫌な気持ちになりました。

赤毛布との出会い

 長蔵に連れられて列車を降り、改札から表に出ると、宿場の一本の大きな通りへと出ました。「自分」は、このあまりにも真っ直ぐな道に、他界の幻に接したような気持ちになりながら、日が落ちる中を進みました。

 長蔵は、ある料理屋の前で立ち止まり、中から出てきた赤毛布(あかけっと)を着た男を捕まえ、「お前さん、働く気はないかね」と尋ねました。
 「自分」は、長蔵が若い男を見れば働く気はないかと持ちかける男で、決して自分の人格を認められて誘われたわけではないということを悟りました。そして以前の自分を赤毛布と重ね合わせ、情けない気持ちになりました。赤毛布は、すぐに坑夫になることを承知しました。「自分」は彼に同情の気持ちを起こしました。
 しかし、「自分」は、赤毛布と一緒に銅山へ向かうことになるとその気持ちを忘れ、一緒に落ちぶれてくれるという一点でのみ、彼のことをありがたく感じ、すぐに近しい仲になりました。赤毛布は、茨城あたりの田舎者でした。

小僧との出会い

 「自分」は空腹を長蔵に訴え、芋屋で痩せた汚い芋を買い、宿場の外れまでやってきました。
 宿場の外れは、谷川にかかる橋がありました。その人家のない山の方から、一人の小僧がやってきました。
 長蔵は、その小僧を呼び止め、芋をやりました。長蔵から芋を引ったくるように取り、無心で食べる小僧を、「自分」は感心しながら眺めました。
 長蔵が聞いたところ、小僧はどこにも行かないし、どこにも帰らないと答えました。長蔵は儲けさせるから自分と一緒に来るようにと言いました。小僧はすぐに承知しました。赤毛布と小僧が平然としながら、あっさりとついてくるのを見た「自分」は、以前起こした駆け落ち事件を、一人で大袈裟に考えていたことに気づきました。

 四人は黙りながら山路を歩きました。「自分」は置いていかれそうになりながら、長蔵と赤毛布の後をついて行きました。小僧はいつの間にかいなくなり、長蔵は暗闇の中で声を上げて呼びましたが、返事はありませんでした。「自分」は急ぐ力も気持ちも残っていなかったにも関わらず、急ぎ足になる長蔵の後をついて行きました。やがて長蔵はランプのついた一つの家の前で止まりました。そこには先を行った小僧が待っていました。
 そこは草鞋(わらじ)を売っている小屋でした。長蔵は一向をそこに泊めることにしました。
 「自分」は、この牛小屋のような家に泊まることが、非常な慰謝のように思われ、急に張り詰めていた神経が緩み、疲れた足を引きずりながら戸口の方に近寄りました。そして主人と長蔵の馬の売買に関する話を聞きながら居眠りをはじめ、やがて本格的な眠りに落ちました。

銅山に到着する

 翌朝、「自分」たちは、目を覚ますと早速出かけました。少しも朝飯を期待していないような赤毛布と小僧を見て、「自分」は、「あした」というものを考えない人々の中に入ったのだと感じました。
 長蔵は、昼までに銅山へ着かなければならないと言いました。「自分」はその理由を聞く勇気も湧かないまま、急ぎ足で彼らの後をつけました。
 雲が出てくると、「自分」は世の中から隠したい身体を十分に隠すことができることに喜びながら、その中を歩きました。やがて雲の合間から、他の山とは異なった、赤い山が目に入りました。
 「自分」たちは橋を渡って銅山の町へと入り、石崖の下に長屋が並んでいる場所へと連れて行かれました。
 その長屋の中からは、およそ都会では想像のつかない、病院の患者とは比べ物にならないような顔色の悪い人々が、「自分」たちを見ていました。

飯場頭への談判

 ひとつの飯場を預かる坑夫の隊長である飯場頭を訪れた長蔵は、「自分」を坑夫にさせて欲しいと談判しました。飯場頭はあっさりとそれを了承しました。赤毛布と小僧は別の場所へと連れて行かれ、「自分」はそれきり一度も二人に会うことはありませんでした。
 原駒吉という名の飯場頭は、この辺りで出会う人々とは異なった丁寧な言葉遣いで、「自分」のような教育を受けた人に坑夫は勤まらないので、もう一度考え直してみてはどうかと勧めました。
 思いがけなく自己を認められたような気持ちになった「自分」は、泣きそうになりながら、儲けるためにやってきたわけではないのだと答え、嘘つきの周旋屋の言葉のままに来たことは知っているのだと弁解を始めました。
 飯場頭は、そのような「自分」の未熟さや生意気を多めに見てくれ、一時の出来心でここへ来ても、十日も経たずに嫌になってしまうものだと言って、帰るように促しました。
 坑夫になる見込みがないと言われた「自分」は、急に心が緩んで、それまで気づかなかった寒さと、坑夫になることを拒絶された情けなさによって震え出しました。飯場頭はそのような「自分」を憐れみ、帰るための旅費を出そうとすら言ってくれました。
 しかし「自分」は、好意で与えてくれた金も、二、三日宿に泊まってしまえば、すぐに失くなってしまうだろうと考え、帰る家がないので坑夫として使って欲しいと熱心な口調で頼みました。すると飯場頭は、苦しい仕事だと理った上で、「自分」が坑夫になることを承諾し、案内を一人つけるので、翌日の朝シキへと入るようにと言いました。彼によると、山には一万人が従事しており、その人々は、坑夫、坑夫の下働きの堀子、シキの中の大工のような役割のシチウ、主に子供たちの仕事で、石の塊をくだく山市に分けられるようで、坑夫になるには、相当の鍛錬が必要なようでした。
 坑夫でなければ給料の低い堀子になる覚悟があるかと聞かれた「自分」は、引くことができなくなり、「なります」と答え、飯場頭の迷惑にならないようにする決心をつけました。

坑夫たちからの嘲笑

 婆さんに案内され、二階の部屋を見渡した「自分」は、広い畳の部屋の中にある大きな囲炉裏に、十四、五人ずつ固まっている人々を見て萎縮し、これまでの決心を鈍らせました。彼らは一様に、激しい労役の結果、頬骨や顎がせり出し、目玉が奥へ引っ込んだ獰猛な顔をしていました。
 「自分」は、彼らの顔に怯みながら、婆さんに案内されるがまま、離れた畳の上に一人で座りました。坑夫たちは、はじめのうち話しかけることもなく「自分」のことを見ていましたが、そのうちに突然「おい」と話しかけ、侮辱や嘲笑や好奇の表情を浮かべました。
 「自分」がなんとも言うことができずに黙っていると、坑夫たちはどっと笑い始めました。悪意に満ちた嘲弄を受けた「自分」は、彼らのことを不人情だと感じ、切なくなりました。
 出身を聞かれ、東京だと答えると、坑夫の一人は、「自分」のような人間に坑夫になる辛抱ができるはずはないので、早く帰れと脅しました。

 すると、他の者とは違い、世間に普通にいる顔つきの、三十歳手前に見える屈強な体格の男が話しかけました。その男は、学校にも通ったことのある身でしたが、放蕩の結果、シキに入ることになったようでした。彼は自分のようになったら帰りたくても帰れなくなるので、今のうちに東京に帰ることを勧めました。
 「自分」は、彼のような教育を受けたものが、他の坑夫たちから一目置かれていそうなのを見て、この社会で暮らしていけば、いつかは勢力を得ることができかもしれないと考え、誰になんと言われようと帰るまいと決心しました。
 なおも黙っていると、別の坑夫は、ここにある掟を知っておかなくてはならないと言いました。どのような掟があるのかと聞くと、親分や兄弟分があるようでした。親分や兄弟分とはどのようなものなのかと聞くと、やはり彼らは仲間にいれる気はないようで、しきりに帰れと言いました。

 「自分」が萎縮していると、婆さんが御膳を持ってきました。揚げ饅頭と薩摩芋以来、二昼夜何も食べていなかった「自分」は、茶碗に米を盛り、その米を食べようとしました。しかしそれは南京米であったため、飯が箸の先から落ちて、全く救うことができませんでした。坑夫たちは再びどっと笑いました。自分は茶碗に口をつけ、その飯をかき込みました。それは飯とは思われない、壁土のような味がしました。
 「自分」は嘲弄されながらも、なんとかこの南京米を片付け、二杯目を食べる気にならずに糸蒟蒻だけを食べて箸を置きました。

 窓の外から、金盥を叩き合わせるような音が聞こえ、皆が窓の方へと寄って行きました。それは皆が「ジャンボー」と呼んでいる歌を歌う一団でした。
 坑夫たちは、布団をかぶっている金さんと呼ばれる人物の布団を剥ぎ取りました。金さんは、一目見ただけで重体の病人とわかる顔つきをしていました。坑夫たちは、嫌がる金さんを立ち上がらせ、そのジャンボーを見せました。
 窓から見下ろした「自分」は、包まれた遺体が運ばれているのを目撃し、ジャンボーが葬式の儀式であることを知りました。そして瀕死の金さんにその葬式の儀式を見せつける坑夫たちが、無邪気な冷酷の極みであると感じました。
 坑夫たちは、やがて死んだ人間はどこに行くのだろうかと、真面目に話し始めました。「自分」は、シキの中から生涯出ないだろうと考えている人間が未来のことを考えていることを意外に感じ、未来の保証を行う宗教というものは必要なのだと考えました。
 金さんが苦しみ始めると、坑夫たちは、彼が病気のために金を借りて、妻を抵当に取られたという話を始め、笑い合いました。「自分」はその話に笑うことができず、下を向いて畏まっていました。

 日暮れ近くなると、坑夫たちは交替を行うために外へと出て行き、「自分」は金さんと広い部屋に取り残されました。金さんはしばらく唸ったあと、静かになりました。
 そこへ作業着を泥だらけにした男たちが次々とやってきて、「自分」を次々に睨みました。「自分」は、纏まりのない考えを巡らせ、いつの間にか現れた婆さんに、「草臥れたろうから、もう御休みなさい」と声をかけられました。
 「自分」は婆さんに教えられたうす汚い布団を敷き、その中に潜り込むと、疲れのためすぐに寝てしまいましたが、南京虫に身体中を刺されてすぐに目を覚ましました。階下からは、作業を終えて帰ってきた坑夫たちがふざけ合って、大勢で笑う声が聞こえました。

初さんにシキを案内される

 翌日になると、「自分」は作業着に身を包んだ坑夫たちが出ていくのを窓から見下ろし、南京米に味噌汁をかけて食べました。朝食が済むと、初さんという人物が現れ、筒袖、泥のついた股引き、尻敷き、草鞋、笠や、鑿やカンテラといった道具を渡しました。「自分」は、初さんに連れられ、雨の降る表に出て、シキの入り口までやってきました。
 「自分」たちはシキの入り口から奥に入り、坑夫の労働時間を計算する見張り所を過ぎ、這わなければならないほど狭いところへやってきました。初さんは、「自分」を催促しながら、狭い穴の中を通り抜け、非常に長く思われる険しい坂を降り、坑を切り広げた作事場に案内しました。
 そこでは、三人の男が丸太に腰をかけていました。初さんは「自分」を彼らに紹介しました。彼らは、シキに入っても売春婦に使ってしまうため、金を貯めようとしてもすぐに失くなってしまうのだということを、新米の「自分」に教えました。
 「自分」は、許嫁であった艶子や、その艶子を裏切る原因となった澄江がこの話を聞いたら、気の毒がって泣くに違いないと考え、その一方で、坑夫たちから馬鹿にされた昨日の光景を二人に見られなかったことを幸福に感じました。
 そこへダイナマイトの大きな音がして煙が立ち、三人は仕事に再び取り掛かりました。「自分」は煙に苦しみながら、前を進む初さんの後をついて行きました。

 初さんは、堀子たちが鉱(あらがね)を投げ込むための大きな穴「スノコ」を見せ、「自分」を手前に張り出した板の上に行くよう促しました。三分の一ほど踏み出した「自分」は、どこまで落ちて行くのか分からないその深さに、それ以上踏み出すのを躊躇しました。堀子は、板の先端まで重い俵を運び、それをスノコの底に落としました。これができるかと初さんに聞かれた「自分」は「そうですねえ」と首を曲げて恐れ入りました。
 初さんは、まだ降りて行くつもりはあるかと聞きました。「自分」は、初さんの中にある、もう降りられまいという侮蔑の感情を読み取り、落第してはならないと考え、降りる意を表明しました。初さんの後から梯子を降りていった「自分」は、切り立った壁になっている下を見て、命が惜しいと思いました。
 十五個もの梯子をおり切ると、冷たい泥水の溜まっている道へとやってきました。水が腰のところまでくると、「自分」は命の危険を感じ、初さんを呼び止めました。初さんは、愉快そうに笑いながら、ここはどん底の八番坑で、水があるのは当たり前だと言いました。
 側面の穴からは、水に浸かりながら作業している坑夫たちが見えました。「自分」は彼らが作業しているところで働くことはできないだろうと考えました。

 初さんは引き返し始め、腰が引けて梯子を登れなくなった「自分」を休ませて、どこかへ行きました。
 一人きりになって意識が希薄になった「自分」は、自滅に向かう途中の、終局地からそう遠くない場所にいることを感じ、嬉しさを覚えました。
 しかし、そのような満足感も束の間、切れそうな足の先や、腰まで凍りついたような感覚に突如として死を感じ、実際に「死ぬぞ」という声を聞いたような感覚になり、自分が死を苦に病んでいるということを理解しました。

 そこへ初さんが戻ってきて、梯子を登りはじめました。「自分」は苦労しながらその後を追い、涙で目をいっぱいにしながら、手を離せば暗闇の中に落ちてしまう梯子を登りました。やがて途中で梯子を登れなくなると、いっそのこと手を離して死んでしまおうかと考えました。しかし、どうせ死ぬのなら華厳の滝に飛び込んで華々しく死にたいと考え、梯子を登りきることを決意しました。

 夢中になって梯子を登りきると、初さんは「自分」を心配していた様子で、喜んでくれました。
 気分が悪かったので梯子の途中で休んでいたと言うと、初さんは、それでは明日は作業はできないだろうと答えました。
 その答えを聞いたとき、自分は坑夫などせず、坑を出て華厳の滝で立派に死ぬのだと考えました。

坑夫になることを決意する

 先に行こうとした「自分」に、初さんは怒りだし、これまでよりも早く坑の中を歩きだしました。とうとう「自分」は初さんを見失い、途方に暮れながら坑の中を歩き始めました。そしてようやく小さな作業場に辿り着くと、一人の鑿をたたいている坑夫が「自分」に気づき、なぜこのようなところをまごついているのかと聞きました。置き去りにされたことを話すと、その坑夫は、送り出してやると約束しました。坑夫は作業を終えると、一服しながら語り始めました。その言葉を聞いた「自分」は、その坑夫がしっかりとした教育と、その教育からくる上品な感情、見識、熱誠を持っていることに驚きました。
 その男は、教育を受けたことがあったものの、二十三歳の時に女のことで犯罪を犯し、社会に戻れない体になり、逃げた先がこのシキでした。それから七年が経ち、犯した罪も時効になりましたが、罪は消えても所業が消えることがないと考え、シキから出ることができませんでした。
 彼は、人間の屑が放り込まれるシキのことを墓場と形容し、なんらかの事情でポン引きに連れられてきた「自分」を憐れみ、帰って日本のためになる仕事をするようにと忠告を与えました。
 男は安さんという名で、旅費を都合してくれることを約束しました。「自分」は、一万もいる坑夫の中で、安さんに出会ったのが奇跡だと思いました。
 「自分」は安さんに感謝し、今日限り山を出ようと思っていたことを打ち明けましたが、安さんの人格に対して、旅費をもらっては失礼だという気持ちが働き、それを断りました。そして東京へ帰るかどうかをよく考えることを約束し、見張所まで送ってもらいました。
 「自分」は、立派に見える安さんを追い出した社会が悪いのだと考え、帰るところのなく、堕落したことを自覚しながら生きて働き、「自分」を救おうとしている彼が生きている間は、死んではならないと決意しました。

 急ぎ足で帰ると、初さんが待っていました。自分のことを置き去りにしながら、上から叱られるのが怖いために待っていた初さんに唾を吐きかけようとしましたが、死ぬのを断念したばかりの身であることを思い出して喧嘩をするのを堪え、勢力のあるであろう安さんの名前を出さなかったことで、初さんの面目も守ってやりました。
 初さんは、飯場頭のところまで「自分」を連れて行きました。
 安さんが生きているうちはここにいると決めた「自分」は、飯場頭にその決意を伝えました。
 飯場頭は、「自分」を置くことに決め、医者に健康の証明を貰ってくるようにと伝えました。

 飯場へ帰ると、坑夫たちは相変わらず罵声や皮肉を浴びせかけてきました。「自分」は夕飯を食べると、飯場を抜け出して安さんに会いに行きました。
 安さんは、「自分」を部屋に上げ、いつ帰るか聞きました。世の中に顔を出したくないので帰らないことにしたと告げると、安さんは呆れた様子を見せました。他の坑夫たちに虐められた話をすると、安さんは、今に仇を討ってやると言いました。「自分」は心丈夫になり、安さんの部屋に長居させてくれと頼みました。安さんの兄は高等官で長崎にいるらしく、その事実は「自分」を大いに感動させました。安さんは、相談があればいつでも来るようにと言ってくれました。
 安さんの部屋を出た「自分」は、この場所で七日も働けば、一人前に堕落することができるだろうと考えました。

 元気づいて飯場に帰ると、部屋には金さんのほかに誰もいませんでした。
 「自分」は布団を出して潜り込むと、まもなく南京虫に刺されて飛び起き、思わず泣き出し、父よりも母よりも、艶子よりも澄江よりも家の畳と蒲団が恋しくなりました。そして澄江が自分のことをすぐに忘れるであろうことや、艶子が泣いているであろうことを考えているうちに眠りにつきました。

気管支炎の診断

 翌日、目が覚めると、「自分」は九時を待って病院へと出かけました。横柄な態度の受付に待たされてぼんやりしていると、ジャンボーが目の前を通りました。
 しばらくすると、「自分」は受付に命じられ、控え所を出て、診察場へと行き、坑夫のような顔立ちの医者に職業を聞かれました。親の厄介になって生きてきたことを言うと、医者は「自分」のことをごろつきだと言いながら、裸になるように命じました。

 診察の結果、「自分」は、気管支炎と診断され、坑夫になることを禁じられました。

 肺病の前兆である気管支炎だったことで、もうすぐ死ぬのだと考えた「自分」は、死ぬことも生きることもどうでも構わなくなり、運命によってその時を迎えるまでここにいて、堕落の修行をして死ぬのを待とうと考えました。
 「自分」は飯場頭の家に戻り、気管支炎と診断されたことを伝えてなお、置いてくださいと頼みました。飯場頭は考えてみようと言って、明日また来るようにと言いました。
 その晩は、「自分」は坑夫たちに何を言われても相手をせず、布団を敷かずに囲炉裏の側にあぐらをかいて仮眠をとりました。そして金さんや安さんの運命を夜明けまで考えましたが、そこに何らかの感情が生まれることはありませんでした。

 翌日、飯場頭は、坑夫たちが買ったものを記録する飯場の帳附の仕事の口を見つけてくれていました。「自分」は嬉しいとも安心したとも思わず、その仕事を引き受けました。

 帳附の仕事を始めると、坑夫たちはこれまでの態度を変え、お世辞を言うようになりました。「自分」は堕落の稽古を始め、南京米を食べ、南京虫にも食われる生活を始め、給金が入ると、ポン引きが連れてくる子供たちに菓子をやりました。
 そのような生活を五ヶ月続けた後、「自分」は東京に帰りました。これが「自分」が坑夫に就いた経験の全てで、小説のようになっていないことからも、事実であることが分かるでしょう。