夏目漱石『坑夫』の登場人物、あらすじ、感想

 『坑夫』は、1908年(明治41年)に、朝日新聞に連載された夏目漱石の長編小説です。
 その年に朝日新聞に載る予定だった島崎藤村の小説の執筆が滞り、急遽、漱石がその空白を埋めるために依頼されて書いた作品です。
 その前年、以前坑夫として働いていたある青年が、漱石の元をひょっこりと訪れ、坑夫になるより前の心の葛藤を小説の材料にしてくれないかと頼みました。その時漱石は、その青年の語る「個人の事情」は書きたくないと断ったようです。しかしその後、島崎藤村の代わりに朝日新聞からの執筆依頼を受けた漱石が、その作品の材料に、青年の坑夫として働いた経験のところだけを貰いたいと申し出て話を聞き、この『坑夫』を書き上げたと言われています。
 このページでは『坑夫』の登場人物、あらすじ、感想を紹介します。

『坑夫』の登場人物

自分
東京の相当な地位のある家の十九歳の青年。許嫁がいる身で他の娘の惹かれあったことが親類に知られてしまい、自殺も駆け落ちもすることができず、生家を飛び出す。あてもなく北へと歩き、掛茶屋でポン引きの長蔵に声をかけられ、坑夫になることを決意する。

長蔵
掛茶屋で「自分」を見かけ、坑夫にならないかと持ちかけたポン引きの男。どてらなのか半纏なのかわからない服を着ている。「長蔵」という漢字は、主人公が想像でつけたあて字。目についた若者に手あたり次第声をかけ、鉱山に連れて行くことで収入を得ている。

赤毛布
赤毛布(あかけっと)を着た男。茨城あたりから来た田舎者で、宿場で長蔵に声をかけられ、すぐに坑夫になることを了承する。

小僧
宿場の裏手にある山の中から現れた家なしの子供。長蔵に芋をもらい、坑夫になることを了承する。

原駒吉
飯場頭(一つの飯場を預かる坑夫の隊長)。長蔵から「自分」を坑夫にするための人員として紹介される。「自分」がきちんとした教育を受けていることを察し、坑夫になることを思いとどまるよう説得を試みる。

婆さん
飯場の部屋で、膳を供する手伝い女。

金さん
「自分」と同じ飯場の部屋にいた瀕死の重病人。病気のために金を借りて、妻を抵当に取られている。

初さん
飯場頭に命じられ、「自分」を坑道内の作業所へと案内した坑夫。坑夫が勤まりそうにない「自分」を侮蔑しており、帰り道で先を歩かれたことに気分を害し、坑道内に置き去りにする。

安さん
坑道で道に迷った「自分」が出会った坑夫。しっかりとした教育を受けていたものの、二十三歳の時に女のことで犯罪を犯し、シキへと逃げてきた。犯した罪は時効になっているが、所業が消えることはないと考え、鉱山で働き続けている。「自分」の境遇を察し、日本のためになる仕事をするようにと忠告を与え、東京への旅費を都合してくれることを約束し、シキの外へと連れ出してやる。

艶子
「自分」の東京での許嫁。

澄江
東京で「自分」と惹かれ合った女。

医者
鉱山の町の診察所で働いている。健康の証明をもらうために診察にきた「自分」に気管支炎と診断を下し、坑夫になることを禁じる。

『坑夫』のあらすじ

※もっと詳しいあらすじはこちら

 東京の相当な家柄の出であった「自分」は、許嫁がいる身でありながら恋愛事件を起こし、生家を飛び出しました。
 東京から夜通し北へ向かい、掛茶屋で休もうかと迷っていると、どてらを着た男が「自分」を物色し、坑夫にならないかと聞きました。それまで自殺を考えながら暗いところを求めて歩いていた「自分」でしたが、話しかけられた途端に実は娑婆を求めていたことを悟り、生きるために働こうと、男の誘いを引き受けました。
 その男は、長蔵という名でした。長蔵は、「自分」を連れて列車に乗り込み、ある宿場町で降りました。その宿場で、長蔵は、赤毛布(あかけっと)を着た男と、山の中から出てきた小僧に話しかけ、「自分」にしたのと同じように、働く気はないかと聞きました。赤毛布と小僧が、その誘いをすぐに受け、平然としているのを見た「自分」は、これまでの恋愛事件を一人で大袈裟に考えていたことに気づきました。
 「自分」、長蔵、赤毛布、小僧の四人は山路を歩き、牛小屋のような場所で一晩を過ごし、翌朝から再び歩き始め、鉱山の町へと到着しました。

 鉱山の町では、人が住んでいる場所を飯場と呼びました。そのうちひとつの飯場を預かる飯場頭を訪れた長蔵は、「自分」を坑夫にさせて欲しいと談判しました。赤毛布と小僧は別の場所へと連れて行かれ、「自分」はそれきり一度も二人に会うことはありませんでした。
 原駒吉という名の飯場頭は、「自分」のような教育を受けたものに坑夫は勤まらないので、もう一度考え直してみてはどうかと勧め、家までの旅費を出してくれようとしました。しかし、家に帰るつもりのなかった「自分」は、坑夫として使ってほしいと熱心に頼みました。すると飯場頭は、それを承諾し、案内を一人つけるので、翌日の朝シキ(坑道)へと入るようにと言いました。

 「自分」は、寝泊まりをするための広い部屋に案内されました。囲炉裏のところに固まっている坑夫たちはみな、悪意に満ちた嘲弄をこちらに向け、東京から来た「自分」のような人間が坑夫になれるはずがないと言って、しきりに帰れと脅しました。
 「自分」は萎縮しながら、婆さんが持ってきた米を食べようとしましたが、それは南京米であったため、箸で救うことができず、坑夫たちに笑われました。
 窓の外から、「ジャンボー」と呼ばれる歌を歌う一団がやってきました。「自分」は、その集団が遺体を運んでいるのを見て、ジャンボーが葬式であることに気づきました。坑夫たちが、瀕死の重病人の金さんに、そのジャンボーを見せつけるのを見て、「自分」は、無邪気な冷酷の極みであると感じました。
 鉱山から戻ってきた男たちにも次々と睨まれた「自分」は、布団に入り込み、疲れのためにすぐに寝たものの、南京虫に身体中を刺されて飛び起きました。

 翌日、初さんという人物が現れ、「自分」を案内するためにシキへと連れて行きました。
 シキへと入ると、初さんは、堀子たちが粗金(あらがね)を投げ込むための深く大きな穴「スノコ」を見せ、「自分」を怯えさせました。
 「自分」は必死になって初さんに着いて行き、坑内のどん底へと降りて行きました。そこでは水に浸かりながら坑夫たちが作業をしており、「自分」はとても彼らのように作業することはできないと考えました。
 初さんがどこかへ出かけると、「自分」は凍てついた身体に気づき、「死ぬぞ」という声を聞いたような気がして恐怖を感じました。初さんが戻ってきて梯子を登り始めましたが、「自分」はついていくことができなくなり、梯子から手を離して死んでしまおうと考えました。しかし、どうせ死ぬのなら華厳の滝に飛び込んで華々しく死にたいと考え、必死になって梯子を登りきりました。
 ようやく合流した「自分」が先に行こうとすると、初さんは怒りだし、先へと歩いていってしまいました。一人きりになった「自分」は、途方に暮れながら坑の中を歩き、作業場にいる一人の坑夫と出会いました。その坑夫は安さんという名で、しっかりとした教育を受けたものの、二十三歳の時に女のことで犯罪を起こし、逃げてきた先がこの鉱山の町でした。彼は「自分」のことを憐れみ、旅費を都合するのでこの町から帰るように諭し、作業が終わると坑の外まで送り出しました。
 「自分」は安さんに感謝し、彼が生きている間は死んではならないと考え、飯場頭に坑夫になる決意を伝えました。安さんは、「自分」がここにいると宣言したことにあきれた顔をしましたが、いつでも相談に乗ることを約束してくれました。

 翌日、「自分」は、坑夫になるための健康の証明をもらうために医者のところへ行きました。しかし診察の結果、肺病の前兆である気管支炎とされ、坑夫になることを禁じられました。「自分」は、このことを飯場頭に報告しながらも、ここに置いて欲しいと頼みました。すると飯場頭は、坑夫たちが買ったものを記録する飯場の帳附の仕事の口を見つけてくれました。帳附の仕事を始めると、坑夫たちはこれまでの態度を変え、「自分」への嘲弄をやめました。「自分」は「堕落の稽古」だと思いながらその仕事を五ヶ月間続けた後、東京に帰りました。

管理人の感想

 『坑夫』は、恋愛事件を起こして裕福な生家を飛び出した語り手の青年が、ぽん引きの男に誘われて銅山の町を訪れる物語です。
 許嫁がいたにも関わらず、他の娘と惹かれあってしまったことが生家に知られてしまった青年は、自殺を考えながら東京から北へ向かって夜通し歩き続け、ある掛茶屋で声をかけてきた長蔵に誘われ、坑夫になることを決意します。
 長蔵は目についた若者に手あたり次第声をかけて鉱山へと連れて行くぽん引きですが、意外にあっさりと標的をものにしていきます。赤毛布や小僧といった、特に何の考えもなくその誘いについて行く若者を見て、青年は自分が大したことのない恋愛事件であれこれと思い悩んでいたことに思い至ります。
 鉱山では、東京人とは顔つきの違う荒々しく直情的な人々、ジャンボーという祭りのような葬式、南京虫や南京米など、青年は多くの初めて経験することに衝撃を受けます。そして一歩間違えると死んでしまう坑道の中で非常な恐怖を感じ、自殺を考えていた自分が、実は死を求めていないことを悟ります。

 今のように映像技術から前情報を得られない時代に、東京の良家の若者が、田舎の鉱山の街に入ることは、どれだけ衝撃を受けることだったのでしょう。それは現代の私たちが遠い異国の地に行く以上に、「異世界」を感じる経験だったに違いありません。

 この東京では決して入り込むことのできない異世界の中で、青年は徐々にそれまでの懊悩を忘れていきます。

 やがて彼は、飯場頭や安さんといった理解のある人々に出会い、彼らのような人々のために生きなければならないと考え、意地になってこの街に居続けることを宣言します。

 自殺を考えていた青年が、鉱山の町で生きることを決意したこの作品を、成長の物語ととることもできるかとは思います。しかし一方で、物語の前半部と後半部で、青年の主義主張に明白な変化があるわけではなく、終始その場その場で思いついた取り止めのない考えをあれこれと繰り広げているだけのようでもあり、この短い期間だけで、これらの経験が彼に成長をもたらしたかと問われると、はっきりと明言することはできないように思われます。
 思うに、このような過酷な経験というものは、その経験をした後、その経験についてさまざまな考えを巡らせてみて、はじめて成長となるのだと思います。

 この作品は、青年の回想録という形になっていますが、書かれているのは青年が銅山に到着して数日間までで、彼がその後の五ヶ月を鉱山の町でどのように過ごし、どのような境地に至ったのかということは、明確に語られません。
 鉱山での経験を消化した彼がどのように成長したのかを知ることができないまま物語が終わってしまうのは、非常に唐突な印象を与えます。夏目漱石はこのような手法を多用した作家で、『こころ』や『それから』のなどの作品で、登場人物たちの「その後」を書かず、続きが気になるような場所で、物語をバッサリと終わらせています。『坑夫』においても、青年が鉱山に残ることを決意した時点で物語を完結させてもストンと腑に落ちるような気もしますが、あえてその後の五か月間を鉱山の町で過ごし、東京に戻ってきたという設定をつけることで、青年が鉱山でどのように変わり得たのかということを読者に想像させるような余地を与えているのではないでしょうか。彼が鉱山でどのような五か月を過ごし、何がきっかけで東京に帰ろうと思ったのか、そしてそれらの経験を通してどのような考えを抱くに至ったのかを知りたくなるような気もしますが、スッパリと切り取られたようなこの結末は、これはこれで独特の余韻に浸らせてくれるものだと思います。