谷崎潤一郎作『秘密』の登場人物、あらすじを詳しく紹介するページです。作品の概要や管理人の感想も。
※ネタバレ内容を含みます。
『秘密』の登場人物
私
秘密の生活を持つことに快楽を感じ、人目のつかない浅草のある寺に住み始める。
T女
かつて上海を旅行する汽船の中で「私」と関係を持っていた女。
『秘密』のあらすじ
私はある気まぐれな考えから、自分の周りにいる人々から遠ざかり、浅草にある真言宗のある寺の庫裡(くり、寺院で僧侶が居住する場所)の一間を借り受けました。
日本全国を旅行してきましたが、住み慣れた東京の、浅草の観音堂の裏手にどのような街が広がっているかが全く頭に浮かばず、幼い頃に父親が蕎麦を食べさせてくれたときに通ったこの辺りの道が別世界のように思えたこともあって、自分が身を隠すにはもってこいの場所だと考えたのでした。
色々と歩いてみると、今まで通ったことのない区域が多くあることに私は気付きました。当時の私は、鋭敏な感覚がすっかり鈍り、何にも興味を抱けなくなっていたので、このような奇妙な街を傍観しながら、自分の行動を世間から秘密にしているということを愉快に感じました。
私はそこで、奇怪な書を読んだり、古い仏画を壁に飾り、香を焚いて生活しました。ある日、ウイスキーで酔いながら散歩に出かけると、私は古着屋で見かけた女物の袷(あわせ)を着て、女の姿で往来を歩いてみたいという欲望に駆られました。私はその袷を買い、ほかの衣装も揃え、化粧を施し、女の姿になって夜道へ繰り出しました。誰も怪しむ者はいなかったので、私は心持ちまで女のような気分になり、いつも見慣れている光景も新しく思えてきました。私はそれから毎晩のような仮装をして出かけるようになりました。次第に大胆になり、犯罪的な連想をするために、匕首や麻酔薬を帯の間に挟むようになりました。
一週間ほど経った頃、私はいつものようにウイスキーを煽り、山友館の二階の貴賓席に上がり込んでいました。場内の人々は自分の艶やかさを見ているように感じました。
私の隣には男女が腰掛けました。芸者のようにも見える女は、二十六、七の美貌の持ち主でした。その女は、私が二、三年前に上海に旅行する途中の汽船の中で関係を結んでいたT女でした。私たちは住所も名も名乗ることはありませんでした。当時女は私に恋い焦がれていましたが、私は上海につくと姿をくらましました。女は「Arrested at last(とうとう捕まった)」と、フィルムの上に現れた説明書を読み上げました。私はその女の美しさを隣に見て、自分の扮装を卑しみました。場内の人々の視線がその女に注がれていたため、かつて自分が弄んで捨てた女に対し、嫉妬と憤怒を感じ始めました。それと同時に再び男としてその女を征服してやりたいと考えた私は、次の日もこの席に来て自分のことを待つようにという走り書きの手紙を密かに女の袂に投げ込みました。
女は帰り際に私の耳元で「Arrested at last」と囁きました。女が自分に気づいていたことに、私は恐れました。
寺へ帰ると、私の頭巾の裏から紙切れが落ちました。その紙切れには、女が私のことを始めから気づいていたこと、明日会うことに異存はないが、自分に都合があるため、雷門の前で待っていてくれれば、車夫を迎えに行かせること、住む場所を知られてはいけないため、目隠しをさせてもらうことが書いてありました。
翌日、大雨の中、雷門の前で待っていると、私は目隠しをされ、俥に乗せられました。女が隣に座っているのが私にはわかりました。私はミステリーのような状況に悦びを覚えました。
一時間ほど俥に乗り、私は座敷に通されました。目隠しを解かれると、女は自分のことを身分も境遇もわからない夢のような女だと思っていつまでも付き合いを続けて欲しいと私に言いました。
私はそれから毎晩のように目隠しをされて女の元を往復するようになりました。
私はそのうちに、女の家がどこにあるのかを知りたくなりました。女の家に向かう途中、目隠しを外して欲しいと懇願すると、女は少しだけ目隠しを外し、周りの景色を見せてくれました。その繁華は、私には全く見覚えがありませんでした。
その光景が頭から離れなかった私は、雷門の前に立ち、いつも進んでいると思われる方向に進んでいきました。目隠しをして俥に乗られている時の感覚を頼りに往来を進んでいくと、一度だけ目隠しを外した通りを見つけました。私たちはいつも大きな迂回をして進んでいたようでした。そしてとうとう女の家を突き止めると、二階の欄干から女が私を見下ろしていました。自分の秘密を暴かれた女は失意の表情を見せ、障子の陰に隠れて行きました。女は芳野という財産家の未亡人だということがわかりました。
私は女を捨て、「秘密」から魅力を感じることもなくなって、血だらけの歓楽を求めるようになって行きました。
作品の概要と管理人の感想
『秘密』は一九一一年に発表された、谷崎潤一郎の短編小説です。秘密を持つことに魅了された男が、謎多き女と逢瀬を重なるうちに、女の秘密を暴きたいという衝動にかられるという内容で、耽美主義と言われる初期の谷崎潤一郎らしい作品となっています。
この作品の書き手である「私」は、普通の刺激に慣れてしまったために、何に対しても興味を抱けなくなり、奇怪な出来事を求めて下町の寺に隠居を始めます。その寺のなかで「私」は、魔術や催眠術や探偵などの本を読み漁り、住職が持っていた地獄や極楽を描いた古い仏画を部屋の壁にぶら下げ、お香を焚いて、ウィスキーを煽りながら暮らします。
このような生活を送っているだけでも、倒錯した男だという印象を受けますが、「私」はそれだけでは飽き足らず、女装にまで手を出すようになっていきます。
そのような「私」の前に現れたのが、以前関係を持っていた女でした。女は自分のことを謎多き女に見せるために、「私」に目隠しをつけて家まで連れてこさせ、逢瀬が終わると再び目隠しをつけて雷門の前まで送り届けます。男に自分の正体を明かさないまま会い続けることが、却って男を自分につなぎとめることを知っていた女もなかなかの手練れであると思われますが、その女の秘密を暴いてみたいという衝動に「私」は駆られるようになっていきます。そのような衝動を我慢できなくなった時点で、このような種類の恋は、終わりを迎えなければならないのでしょう。女がある金持ちの未亡人であったことがわかると「私」はとたんに女に対する興味をなくしてしまいます。秘密は秘密であるから魅力的なのであり、それが暴かれたとたんに色あせてしまうのです。
その後「私」は、「もッと色彩の濃い、血だらけな歓楽を求めるように傾いて」いきます。人間の欲望というものは限りがなく、ある欲望が満たされると、より刺激の強い別の欲望へと取り憑かれて行くのでしょう。谷崎潤一郎は、快楽の果てに恐ろしい運命へと陥っていく人間を数多く書いており、この男の末路も悲惨なものになりそうです。しかしそれでもなお、より欲望の深いところへと突き進み、美しいものを求め続けていく潔さのようなものが、谷崎潤一郎の作品にはあるように感じます。