谷崎潤一郎『卍』の登場人物、あらすじ、感想

 『卍』は、1928年から1930年にかけて連載された谷崎潤一郎の長篇小説です。常に他者からの崇拝を求め続ける令嬢・徳光光子を中心に、その光子に翻弄される三人の男女の、「卍」型の人間模様が描かれた作品です。
 大阪、神戸を中心とする関西を舞台に、光子に愛情を捧げる既婚女性・柿内園子によって語られる一人称形式の小説です。己れの欲望を成就させるため、時に騙し合い、時に共謀しながら複雑に絡み合う四者の関係が、園子と光子の同性愛を軸に展開され、谷崎潤一郎の小説の中でも、非常に官能的な作品となっています。
 このページでは『卍』の登場人物、あらすじ、感想を紹介します。ネタバレ内容を含みます。

『卍』の登場人物

徳光光子
阪急の蘆屋川に住む羅紗問屋の娘。女子技芸学校で洋画を習っている。自分をモデルにして絵を描いていた園子に近づく。

柿内園子
既婚者。夫の他に恋人がいたが、その恋人と肉体関係がないまま別れる。女子技芸学校に入り、光子と出会う。光子の一歳歳上。

柿内幸太郎
園子の夫。大阪の今橋ビルディングに事務所を借りて弁護士を開業する。

綿貫栄次郎
光子の恋人。二十七、八歳。美男子であるが、陰険で疑り深い性格。

『卍』のあらすじ

※もっと詳しいあらすじはこちら

 以前、夫の他に恋人を持っていた柿内園子は、「先生」と呼ばれる小説家に、その恋人についての相談をしていました。やがてその恋人と別れ、家にいることが多くなった園子は、女子技芸学校に入り、音楽、絵、裁縫、刺繍を習い始めました。

 園子は、モデルを用いた絵画の授業で、同じ技芸学校に通う、以前から好意を持っていた徳光光子の顔を無意識のうちに描きました。そのことに気づいた学校の校長は、その絵が似ておらず、他にモデルがいるのではないかと笑いました。そのため園子は校長と険悪な関係になり、話したこともない光子との関係を噂されるようになりました。
 園子は、光子に迷惑をかけたであろうことを気に病み、彼女の顔色を伺いました。しかし光子は、特に不愉快に思っている様子ではありませんでした。

 ある日、園子は光子に話しかけられ、校長が自分たちを陥れようとしていることを知りました。詳しい話を聞くと、光子は大阪でも有名な金持ちから結婚を望まれていたようでした。しかしその男にはもう一人、市議会議員の娘が縁談を持ちかけていたため、その市議会議員が光子との縁談を破談にさせようと、校長を買収して悪い噂を広めようとしているのでした。
 光子は、妙な噂が出回ったことを詫び、せっかく友達になったのだから、いっそのこと学校で仲良く振る舞い、周囲が自分たちを冷やかすのを見てみようと提案しました。園子はすぐにその提案に同意しました。

 やがて二人は本当に仲良くなり、園子はできあがった絵を光子に見せました。光子は、自分の体つきがその絵とは違っていると言いました。その不満な様子を見た園子は、裸を見せてほしいと光子に頼みました。光子はあっさりとそれを了承し、園子の寝室で裸になりました。光子の体を見た園子は、その美しさに驚嘆し、気が狂ったように彼女が纏っているシーツを剥がしました。光子は園子を受け入れ、されるがまま何も言わなくなりました。

 やがて光子と園子は蜜月の時を過ごすこととなりました。二人は毎日のように手紙をやり取りし、お互いの家を行き来し、人目が気になると宝塚の温泉へ通いました。光子は園子のことを「姉ちゃん」と呼び、園子は、女が女を恋することに口出しをする権利はないという理屈をつけて大胆に夫を騙し、騙された夫を嘲弄し、夫の諦観したような態度に苛立つようになりました。それにともない、夫は園子と光子の関係をあやしむようになり、二人は夫婦間でのいさかいを起こすようになっていきました。

 ある日、光子が風呂に入っている間に衣服を盗まれたという電話が園子に入りました。
 電話口の対応で、光子が男と一緒に風呂に入ったことを悟った園子は、悔しさを覚えながらも彼女の元へ向かいました。その宿屋では、綿貫という男が待ちかまえており、着物を渡して帰ろうとする園子を引き止め、今回のことを詫びました。綿貫は、以前から光子の恋人であったものの、園子との関係を認めてくれなければ自分との関係も続けないと言われ、嫉妬を感じながらも園子と光子の関係を容認しているようでした。
 園子は悔しさを感じながらも、着替えを済ませた光子を家まで送り、家に帰ると葡萄酒を煽りました。

 翌日から園子は気を入れ替えて光子と会うのをやめ、夫のために生きることを決心しました。彼女は外に出ることもせず、毎日夫の帰りを待ち受けるようになりました。

 半月後、園子の元へ大阪の病院から電話が入り、園子が光子を通じて避妊の本を又貸ししていた婦人が、その本に書いてあることを実践して身体を壊し、責任問題になりかねない状況になっているので、光子に話を聞いてほしいという依頼がありました。その病院の医師と思われる人物から急かされた園子は、夫に了承を得て、光子に会うことを決めました。
 光子は予想外の早さでやってきて、馴れ馴れしい口調で、避妊法が上手くいかなかったのは、実は自分なのだと言いました。光子は、本に書いてある薬を飲んで腹痛を起こし、病院に行ったものの、そこが父親の息のかかった病院であったため、堕胎を断られ、本を貸した人が証人になるのであれば手術を引き受けると約束され、手の込んだ電話をかけてきたようでした。証人になってほしいと頼まれた園子が迷っていると、光子は苦しみ始めました。園子は光子を寝室に寝かせ、促されて帯を解きましたが、やがて彼女が苦しんでいるふりをしているだけだということに気づきました。しかし光子は自分の嘘が見透かされていることを知りながら芝居を続け、そのうちに園子は彼女の罠にはまり、よりを戻してしまいました。

 園子は、光子が綿貫の子を妊娠しているので、自分が面倒を見なければならないと夫を欺き、再び光子と会うようになりました。光子は、仲居と口裏を合わせ、綿貫と逢引きをしていた宿屋の電話番号を園子の事務所であるということにしていたようで、園子は、自分がそのような場所で逢引きを行うことに悔しさを覚えながら、関係を続けました。

 ある日、綿貫が自分に会いたがっていると聞いた園子は、仕方なくそれを了承し、打ち解けない綿貫との対面を果たしました。その後日、園子は綿貫に呼び止められ、光子が妊娠しているにもかかわらず、結婚を拒否していることを知りました。綿貫は、これからはお互いに嫉妬するのをやめ、光子を共有するのを認め合い、彼女から利用されないように結託しようと持ちかけました。光子の妊娠を初めて知った園子は、もし光子と結婚できるのなら、その後も自分のことを味方と思ってくれると言うのを聞き、綿貫の提案に乗り、これから連絡を取り合うことを決めました。その四、五日後、園子は、綿貫に強要されて、光子を共有するための誓約書に血の印を押しました。

 光子は、園子と綿貫の同じところに傷があることに気づき、そのわけを園子に問い詰めました。園子が誓約書のことを話さず、反対に妊娠のことを問い詰めると、光子は涙を流しながら妊娠を否定し、そもそも綿貫には子供を作る能力がなく、自分との結婚を実現するために嘘をついているのだと主張しました。綿貫のような男に見込まれた自分の不幸せな運命を嘆き、激しく泣く光子に、園子は深く同情し、誓約書のことを白状し、彼女が綿貫と手を切れるようにすることを約束しました。

 それ以来、園子は毎日のように光子のもとへ通いました。しかし、二人の関係を邪魔したい綿貫が誓約書を夫に見せるという裏切りを行ったことで、これまでに夫を欺いていたことが知られ、園子は自由に外出もできなくなってしまいました。
 これを光子に伝えたところ、二人は駆け落ちし、薬を飲んで心中するふりをして、夫に自分たちの関係を認めさせようと考えました。

 その三日後、園子は海水浴に行くふりをして光子と落ちあい、別荘で死なないように加減した量の薬を飲みました。
 二、三日昏睡状態に落ちた園子が目覚めると、駆けつけて来ていた夫は、先に目覚めていた光子の手中に落ちていました。園子は裏切られたことを知りながら、自分と光子の関係を維持するため、夫と光子の関係も許さざるを得ませんでした。
 園子の夫は光子の実家へ行き、綿貫が光子に寄り付かないようにと忠告を与え、綿貫からは証拠となるような誓約書を全て買い取り、光子から手を引かせました。

 やがて園子も夫も支配したいと考えた光子は、二人が正常な夫婦生活を送れないようにするため、睡眠薬と葡萄酒を飲ませ、眠りに入るのを見届けてから家に帰るようになりました。自分だけが寝かされるのではないかという疑いを持ちながらその睡眠薬を飲み続け、朝起きてからも一日中ぼんやりとした意識で過ごさなければならない園子と夫に対し、光子はこれまでにも増して生き生きとするようになりました。園子と夫は、死ぬことを覚悟しながら、運命に身を任せるように生きました。
 やがて、光子の駆け落ちを手助けしたことで解雇されていた以前の使用人のお梅が、綿貫とグルになり、これまでのことを全て新聞にすっぱぬきました。記事がいく日も出続け、抜き差しならない状況になると、光子は、園子と夫を道連れに死ぬことを決意しました。

 三人は光子を真ん中にして横になり、薬を飲みました。しかし翌日、園子だけが目を覚まし、光子と夫が死んだことを知りました。生き残ったのは偶然ではなく、二人に騙されていたのではないかと思った園子は、死んでもあの世で邪魔者扱いされるのではないかと考え、二人の後を追うことができませんでした。

管理人の感想

 谷崎潤一郎は、手練手管をつくして人々を支配する妖婦型の人物を多く描いた作家です。発表当時大きな反響を呼び、「ナオミズム」という流行語を生み出した『痴人の愛』のナオミなどがその典型ですが、『卍』における光子も、ナオミに比肩されるような凄まじい個性を持っています。

 ナオミと光子は、二人とも、手中に収められそうな人物に狙いをつけ、相手を支配してしまうという点は共通しています。しかしナオミは育ちが悪く、主に金銭や豪奢な服装のために男たちを利用するのに対し、裕福な家庭の光子は、金銭目当てで人を誘惑することはなく、ナオミよりも崇拝や愛への渇望が大きいように思われます。彼女の相手は園子、綿貫に加え、最終的には園子の夫も含めた三人になるのですが、その三人を常に自分に縛り付け、お互いの嫉妬心を煽るためにさまざまな嘘を重ね、時には睡眠薬にまで手をつける行動は、常軌を逸しています。
 不貞や移り気を隠すために嘘をつくというのは、ナオミとも共通していますが、頭が悪く短気であったためにその嘘がすぐに暴かれるナオミとは対照的に、光子は、園子や綿貫だけでなく、家族に対してもかなり複雑な嘘をつき、その嘘が暴かれたとしても、その暴かれたこと自体を利用して同情を誘ったり、うまく立ち回る術を心得ています。

 最終的に、光子は園子とその夫を道連れに自殺を図ります。誰かを常に惹きつけていたいといった願望は、少なからず誰にでもあるものだとは思いますが、自殺に他人を巻き込むというところまでいってしまうと、これはもう心の闇です。最初の男であった綿貫が、結婚相手として適さず、性格も非常に陰険であったことを鑑みても、光子の内面は、他人の人生をも引きずりこむような恐ろしさを持っています。管理人の勝手な想像ですが、もしナオミが同じ状況に立たされていたとしても、彼女は他人を道連れにする死を選ばずに、何がなんでも生きたんじゃないかと思います。

 ナオミのような人物は、一度「毒抜き」が行われてしまえば忘れるのは簡単そうですが、光子の愛によってがんじがらめにされ、一人取り残された園子のこの先の人生は、けっこう大変なんじゃないかと思います。金のためでもなく、自己満足のために男も女も誘惑し、死んでなお、他人に深い傷を残す光子に、管理人はナオミ以上の「業」を感じます。

 もともと直接的な表現はなくとも艶かしい文章を書く谷崎潤一郎ですが、この『卍』においては、このような深い「業」を持つ光子の手練手管が、やや直接的な表現で描かれており、非常に官能的です。登場人物たちの騙し合いによってもたらされるスリリングな展開も含め、非常に濃密な時間を与えてくれる作品だと思います。