谷崎潤一郎『刺青』ってどんな作品?登場人物やあらすじを詳しく解説

谷崎潤一郎の処女作である『刺青』の登場人物、あらすじを詳しく紹介するページです。作品の概要や管理人の感想も。

※ネタバレ内容を含みます。

『刺青』の登場人物

清吉
人々に持て囃されている若い腕利きの青刺師。決めた人にしか青刺を施さず、構図と費用は自分で決める。針で刺される人々のうめき声を聞くのが好きで、美女の肌に自分の魂の作品を彫り込むことを夢見ている。


十六、七歳の清吉の馴染の芸妓の妹分。

『刺青』のあらすじ

 人々が「愚(おろか)」という貴い徳を持っていて、世の中が今のように激しく軋みあわない時分でした。誰もが美しくなろうと努め、肌に刺青を施しました。
 清吉という若い腕ききの刺青師が、世間で持て囃されていました。彼は、自分を惹きつける肌と骨組みを持つ人にしか刺青を施さず、一切の構図と費用を自分で決めました。
 彼は肌を針で突き刺される時にあげる人々のうめき声を聞くのが快感で、美女の肌に自分の魂の作品を彫り込むことを夢見ていました。
 ある夏のゆうべ、清吉は深川の料理屋「平清」の前で、駕籠(かご)の簾の影から真っ白な女の足がのぞいているのに気がつきました。この足こそ自分が探し求めていたものだと思った清吉は、その籠を追いかけましたが、見失ってしまいました。

 清吉は、その足を忘れることなく翌年の春を迎えました。清吉の家に馴染みの芸妓から寄越された使いの娘が入ってきました。その芸妓は自分の羽織の裏地に絵模様を書いて欲しいと頼み、そのついでに自分の妹分として御座敷に上がる予定である使いの娘を引き立ててやってほしいと手紙に書いていました。
 その娘は十六、七歳に思われましたが、何人もの男を弄んだ女のように整った顔立ちをしていました。その娘は前年に料理屋「平清」から駕籠に乗った、清吉の探し求めていた足の持ち主でした。清吉は娘の手を取って二階に上がり、巻物を見せました。それは四肢を鉄の鎖で縛り付けられて処刑を待つ男を眺める中国の王妃の末喜(ばっき)が描かれたものや、大勢の男の骸を見つめ、桜の幹に身を寄せる女が描かれたものでした。清吉は、この絵の女たちが、その娘の本当の姿であると言いました。
 自分はこの絵に描かれている女のような性分を持っていると娘は清吉に白状し、恐れおののき、帰らせてほしいと懇願しました。しかし清吉は麻酔剤を使って娘を気絶させ、眠っている娘に針を刺し、刺青を施し始めました。
 清吉は夜更けまでかけ、娘の背に巨大な女郎蜘蛛を描きました。それは彼の渾身の作品でした。清吉の心は空虚になりました。
 娘は目覚めると、美しくなった自分の背中を見たがりました。色上げをするために湯殿に入ると、娘は苦しんでいる自分の姿を見られるのを嫌がって清吉を二階へ行かせました。
 色上げを終えた女は、身仕舞を整えて清吉のいる部屋に上がってきました。今までの臆病な心を捨てた女は、「お前さんは真っ先に私の肥料(こやし)になったんだねえ」と清吉に言いました。刺青を見せて欲しいと清吉が頼むと、女は服を脱ぎました。朝日が刺青に差し込み、女の背中は燦爛としました。

作品の概要と管理人の感想

 『刺青』は、一九一〇年に発表された、谷崎潤一郎のデビュー作です。人の肌に針を突き刺して色素を入れ、絵柄を描く刺青(入れ墨のこと)を通し、肉体的な痛みを伴う快楽、人体(特に足)へのフェチズム、異性に支配される喜びといったテーマが書かれる作品です。

 この作品の主人公清吉は、自分が美しいと思った人にしか刺青を施さず、一切の構図と費用を自分で決める人気の刺青師でした。彼は理想の女の肌に渾身の作を描くことを夢見ています。ある日、なじみの芸妓の使いで訪れてきた娘を一目見た清吉は、娘の美しさに惚れこみ、その美しい肌に作品を描くことを決意します。清吉は娘を気絶させ、その背に巨大な女郎蜘蛛を描きます。清吉の描いた女郎蜘蛛を背負った娘は、もともと自分の中に持っていた魔性を開花させ、清吉自身をもその魅力に取りつかせてしまいます。「お前さんは真っ先に私の肥料(こやし)になったんだねえ」と言って服を脱ぎ、刺青を見せる娘からは、当初の清吉を恐れる様子は完全に消え去っており、空恐ろしい印象すら受けます。

 自分の手で幼い娘を妖艶な女に作り上げ、その女によって支配されるという内容は、代表作『痴人の愛』にも類似しており、谷崎潤一郎がその後の生涯を通して書き続けていくテーマです。そのように生きることは、はたから見れば「愚か」なのかもしれません。しかし、支配され続けることを求める彼らが最上の快楽を知っているということを、誰に否定することができるでしょうか。
 そのように考えると、この作品の冒頭『それはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。』という一文は、愚かで愛おしく、最も快楽を知っている人々を、その後の谷崎潤一郎が生涯をかけて書き続けていくことを予言するかのような名文であると思います。