レフ・トルストイ『悪魔』の登場人物、あらすじ、感想

 『悪魔』(ロシア語:Дьявол)は、結婚前に関係を持っていた女性の肉体を忘れられられずに懊悩する男エヴゲーニイの破滅を描いた作品です。

 トルストイは、三十四歳の頃に、宮廷医の娘であった十八歳のソフィヤ・アンドレーエヴナとの結婚を果たしますが、その結婚よりも前から自分の領地にいた農民の女性と関係を持っており、子供も作っていたようです。『悪魔』は、(諸説あるようですが)その時の経験をもとに書かれた作品で、その農民の女性に激しく嫉妬していたソフィヤ夫人の気持ちを考慮して、トルストイ自身が発表を躊躇していたと言われています。1911年、トルストイの死後になって出版されたこの小説は、彼の晩年の性に対する思想が最もよく現れた作品の一つに挙げられています。

 このページでは、『悪魔』の登場人物、あらすじ、感想を紹介します。ネタバレ内容を含みます。

『悪魔』の登場人物

エヴゲーニイ・イルチェーニェフ
主人公。登場時の年齢は二十六歳。上流社会の立派な家庭に育ち、ペテルブルク大学法学部を優秀な成績で卒業し、ある省に勤め始めていた。死んだ父親の作った借金の返済のため、領地の経営に着手することを決意し、田舎の村に住み始める。

ペチニコワ・ステパニーダ
エヴゲーニイがダニーラから紹介された農民の女。

リーザ・アンネンスカヤ
エヴゲーニイの妻。それほど裕福でない家柄の娘。

マリア・パーヴロヴナ
エヴゲーニイの母。息子の華やかな縁組を期待しており、家柄の釣り合わないリーザとの結婚に不満をいだく。

アンドレイ
エヴゲーニイの兄。近衛騎兵隊に勤務する。

ワルワーラ・アレクセーエヴナ
リーザの母。リーザの流産とともにエヴゲーニイの家に住み着く。

ダニーラ
エヴゲーニイの父のお抱え猟師だった森番。エヴゲーニイにステパニーダを紹介する。

アンナ・プロホロワ
ステパニーダの友人。

ミハイラ
ステパニーダの父。

ペチニコフ
ステパニーダの夫。

ワシーリイ・ニコラーエウィチ
家畜番。

サモーヒン
エヴゲーニイの家の井戸を掘った老人。

ニコライ・セミョーノウィチ
医者。

ドゥームチン
前貴族会長。

『悪魔』のあらすじ

※もっと詳しいあらすじはこちら

 立派な家柄に生まれ、ペテルブルク大学法学部を優秀な成績で卒業したエヴゲーニイ・イルチェーニェフは、大臣の口利きである省に勤めていました。彼の父親は、妻と共に散財しながら外国やペテルブルクで暮らしていた貴族で、莫大な負債をつくりました。
 父の死後、エヴゲーニイは、弁護士から相続の放棄を勧められました。しかし父と交渉のあった地主が、領地の村を管理して事業を立て直し、借金を返済することを勧めたため、エヴゲーニイはその地主の言葉に従い、退官して母と共に住み、領地経営に乗り出しました。

 しかし田舎に住み始めて二ヶ月も経つと、ペテルブルク時代に人並みに女性と関係を持ってきたエヴゲーニイは、その方面の問題をどのようにすればよいかわからなくなりました。

 ある日、彼は森の番小屋で、父のお抱え猟師だった森番のダニーラを相手に話し込み、夫が町に行っているペチニコワ・ステパニーダを紹介してもらうことを約束しました。その翌日、彼は番小屋へと出かけ、森の中にいたステパニーダと会いました。
 ステパニーダは清潔で器量の良い、気さくな女で、エヴゲーニイと関係を持つことに嫌な顔をしませんでした。エヴゲーニイは満足して家に帰り、思い切り仕事に取り組む事ができるようになりました。

 しかし、やがて父親の晩年の負債が更に明らかになり、その返済は困難を極めました。潤沢な生活に慣れていた母マリヤ・パーヴロヴナは、その負債がどれほどの痛手になるのかを想像することすらできず、息子の縁組がすべてを立て直してくれると確信していました。
 事業の立て直しのためでなく、愛情による結婚を望んでいたエヴゲーニイは、なかなか気に入った女性を見つけることができませんでした。一方でステパニーダとの関係は続いていて、彼女の何もかもが、彼には魅力的に思われました。彼は、その関係を健康のためなのだと解釈しようとしていましたが、その一方で自分がいまわしい行為をしているという思いを捨てられませんでした。

 秋に入ると、エヴゲーニイはしばしば町へ行くようになり、そこで出会ったリーザ・アンネンスカヤという女性に熱をあげ、結婚を申し込みました。それ以来、彼はステパニーダと手を切り、リーザをつれて村に帰りました。
 結婚後、エヴゲーニイは負債を返済するのが不可能なことが分かり、妻の金を使わざるを得ない状況になりました。七ヶ月が経った頃、リーザは落馬して流産し、その後の体調が戻らなくなり、それとともに彼女の母親が自宅に入り込みました。リーザの家柄が高くなかったこともあり、二人の母親の相性は良くはありませんでした。
 これら全てのことにエヴゲーニイは苦しみながら、没落した財政を立て直していきました。リーザはそのような夫の感情を敏感に察知し、生活が楽になるように努めました。

 その年の終わり近く、リーザは再び身ごもりました。

 翌年の精霊降臨祭の前日、妊娠五ヶ月を迎えリーザは、屋敷の大掃除をするために、女中の手助けとして日雇いの女を二人頼みました。そのうちの一人がステパニーダでした。ステパニーダは、リーザがどのような女かを見ておきたいと考え、現在の浮気相手である事務員に頼んで仕事を回してもらっていたのでした。
 早起きして領地の畑を周り、朝食に戻ってきたエヴゲーニイは、ステパニーダに気づくと、彼女のことを振り返って見ずにはいられませんでした。書斎に入ったエヴゲーニイは、結婚以来解放されたと思っていた淫らな気持ちが表れてきたのを感じ、そのような気持ちが心の中に湧いてきたことに苦しみました。彼は恥をしのんで、家畜番のワシーリイ・ニコラーエウィチに、独身の頃にステパニーダと関係を持ったことを打ち明け、今後は彼女を雇わないようにと頼み、心の落ち着きを取り戻しました。
 しかし、翌日の聖霊降臨祭で着飾って躍るステパニーダの姿を目にしたエヴゲーニイは、激しい欲情が湧き起こり、彼女の後を追い始めました。農民に呼び止められたことで踏みとどまりましたが、彼はいずれ自分が誘惑に負けるだろうと感じました。

 庭で足を踏み外したリーザが、お産のために安静状態になっても、エヴゲーニイはステパニーダのことを考え続けました。ステパニーダは、わざと彼の目につくところに現れるようでした。彼は何度かステパニーダに出会うにつれ、彼女と関係を持つことの罪を自覚しながらも、想いを募らせるようになりました。

 六月の豪雨が二日降り続いたある日、工場へ向かったエヴゲーニイは、ショールをかぶった一人の女がやってくるのを見かけました。それはステパニーダでした。
 エヴゲーニイは自分でもどうしてよいかわからないまま、彼女を小屋へ誘いました。しかしその後、リーザが呼んでいるという従僕の声を聞き、彼は小屋に行くのを思いとどまりました。
 その後エヴゲーニイは、迷った挙句小屋へと行きました。そこにステパニーダはいませんでしたが、小屋までに設けられた小道には彼女の足跡がついていました。それを見たエヴゲーニイは、夜更けに彼女のところへ忍んでいくことを決めました。

 しかしその日、リーザが自分のためにモスクワでのお産を控え、自宅にとどまることを宣言すると、エヴゲーニイはその申し出に感動し、ステパニーダに対する欲望を捨て去らなければならないと考えました。そして家に滞在していた叔父に相談し、家族とともに旅行へ行くことを決めました。
 家族はクリミアへと出発し、エヴゲーニイはそこで二カ月を過ごしました。八月、リーザは女の子を産みました。

 九月、以前のステパニーダへの恐怖から解放され、リーザをより深く愛するようになったエヴゲーニイは、我が家へと帰りました。彼は子供を産んだリーザをより深く愛すようになっていました。
 やがてエヴゲーニイは領地経営で成功を収め、選挙では県会議員に選出されました。町からの帰路、エヴゲーニイはステパニーダを見かけても心を打たれず、そのことに喜びを感じました。

 しかし、翌朝、領地を見回っていたエヴゲーニイは、藁を運んでいるステパニーダに気づき、自分の中に何かの変化が生じたのを感じました。そしてその翌日、彼は再び農場に出て、ステパニーダの姿を探していることに気づいた時、自分が破滅したことを悟りました。
 その翌日の夕方、エヴゲーニイは、自分でもわからないまま、かつてステパニーダと逢引きをした干し草小屋の前にやってきて、彼女の姿を認めました。
 他の農民に出会ったため、家に戻ったエヴゲーニイは、リーザとの結婚が欺瞞であったことに気づき、悪魔のようなステパニーダか、リーザのどちらかを殺さなければならないと考えました。そしてどちらの選択肢も選ばず、自分を殺すと言う方法があることに気付きました。

 彼はピストルを手に持ち、部屋に入ってきたリーザにも心の内を明かすことなく、彼女が出て行くと、ピストルをこめかみに当てて引き金を引きました。

 審理では、誰も彼の自殺の解明をすることができず、リーザとマリヤ・パーヴロヴナは、彼が精神異常だったという医師の説を信じませんでした。

管理人の感想

 『悪魔』は、自分の領地に住む農民との性的な関係に囚われ、既婚後も欲望を自制することのできなくなった男エヴゲーニイの物語を通し、性の欲望の罪深さが描かれた作品です。

 上流階級の家庭に生まれたエヴゲーニイは、父親の死後、自分の領地の経営に乗り出します。ペテルブルクの大学の在学中に人並みに放蕩を行なっていた彼は、孤独な田舎の生活の中で抑えきれない性欲に悩み、農民からステパニーダという女性を紹介してもらい、関係を持ち始めます。結婚後は一時期ステパニーダのことを忘れるものの、やがて再び彼女を見かけるようになると、淫らな気持ちをいだき始めます。そしてその気持ちを抑え切ることができなくなり、身の破滅を悟ったエヴゲーニイは、ピストルでこめかみを撃ち抜き、自殺を図ります。

 性欲のために思い悩み、自殺することになった男の話と聞くと、なんだか情けないようにも感じてしまいます。しかし、輝かしい将来を約束され、自分を愛してくれる妻に恵まれ、人格的にも優れていた彼が、ただ一つ、性欲に打ち克つことのできなかったというだけで、人生を終わらせなければならなかったというのは、なんとも悲劇的で、「情けない」という言葉では片付けられない気もします。誰も理解してくれない孤独な状況の中で、領地の経営に尽力することを決意し、父親の作った借金を返済しようと試みた彼の人生を思うと、なおさら不憫です。

 トルストイはこのようなエヴゲーニイの人生を通して、性に囚われることの恐ろしさを描いているのですが、個人的には、自ら命を断つほどに思い悩むくらいならば、ステパニーダと関係を持つという解決方法を模索する手もあったのではないかと思ってしまいます。
 もっとも、現代においても浮気や不倫という問題に対する考え方は千差万別で、人間が何をもって罪だと考えるかというのは、その人の生まれた場所や、時代や、宗教に深く影響されるので、十九世紀ロシアの既婚の貴族にとって、妻子持ちの貴族が農民と関係を持つことがどのような意味合いだったのかは、今となっては想像するより他はありません。

 ただ一つ言えることは、ステパニーダは、エヴゲーニイよりも多くの罪を犯しているにも関わらず、非常に魅力的に、罪とは無縁のように描かれているということです。作中で彼女は、「悪魔」と形容されます。たしかにステパニーダは、魅惑的な「悪女」ではありますが、決して「悪魔」ではなく、欲望のため、また金のために奔放に振る舞っていたに過ぎません。むしろエヴゲーニイが、自分の中にある欲望を「悪魔」のような恐ろしい脅威に育て上げてしまったのだと思います。

 新潮文庫では、『クロイツェル・ソナタ』という作品が同時に収録されており、これら二作品を比較する人も多いのではないかと思います。『クロイツェル・ソナタ』の主人公ポズドヌイシェフは、ある女性に性的に惹かれて結婚するも、嫉妬に狂い、妻を殺してしまった男です。この二作品は、同じようなテーマを扱っていますが、妻殺しという重い罪を背負いながらも、(少なくとも物語の進行中は)生き続けたポズドヌイシェフと、実際には何の罪も犯していないのに自殺を選んだエヴゲーニイの運命はあまりに対照的です。しかしその運命は対照的でありながらも、二人はどちらも性的な問題で思い悩み、地獄のような苦しみを味わっています。
 若い頃に放蕩にふけった人間が、その後どのように生きたとしても、抜け出すことのできない八方塞がりの苦しみを味わうというこの二作品からは、トルストイの人生に対する厳しい目が読み取れるのではないかと思います。