レフ・トルストイ『クロイツェル・ソナタ』の登場人物、あらすじ、感想

 『クロイツェル・ソナタ』は、1891年に出版されたレフ・トルストイの小説です。
 題名にも使われている『クロイツェル・ソナタ』は、1803年に作曲されたベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第九番のことを指しており、この作品中で重要な役割を果たしています。
 この作品は、出版の前年には既に出来上がっていたものの、ロシアの検閲から発表を許されなかったため、ソフィア夫人が自らペテルブルクの皇帝アレクサンドル三世に嘆願し、出版許可を取りつけたと言われています。性的欲求は人間のすべての争いの根源であるとするトルストイの考え方が理解できる作品となっています。
 このページでは、『クロイツェル・ソナタ』の登場人物、あらすじ、感想を紹介します。ネタバレ内容を含みます。

『クロイツェル・ソナタ』の登場人物

ポズドヌイシェフ
「私」と同じ列車に乗った中背の紳士。列車の乗客との議論を行った後、妻を殺した経緯を「私」に語る。

ポズドヌイシェフの妻
ペンザ県の地主の娘。ポズドヌイシェフと結婚後、争いを繰り返すようになる。

トルハチェフスキー
ポズドヌイシェフ夫妻の前に現れたセミプロのバイオリニスト。


この物語の書き手。列車の中でポズドヌイシェフに出会い、彼が妻を殺した経緯を聞く。

婦人弁護士商人番頭
ポズドヌイシェフや「私」と同じ列車の乗客。

『クロイツェル・ソナタ』のあらすじ

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 二昼夜にわたり汽車の旅を続けていた「私」は、他の乗客とロシアの結婚問題について語り合っていました。

 すると、「私」と同じように始発から乗り続けていた紳士が話題に入り込み、人間の愛情はすぐに心変わりするものなので、一人の人間を何年も思い続けるということはないと断言しました。彼の主張によると、結婚は性行為のためにあり、その結果は常に欺瞞か強制で終わるので、世の中の夫婦は互いに憎み合い、時には殺し合うこともあるようでした。
 この主張は周囲からの反感を買いました。紳士は自分をポズドヌイシェフと名乗り、妻を殺したことがあるのだと言いました。すると他の乗客は去って行き、並んで座っていた「私」だけが取り残されました。やがてポズドヌイシェフは、黙り込む「私」に話しかけ、妻を殺した経緯を話し始めました。

 貴族として生まれたポズドヌイシェフは、十六歳の時に売春宿に行って以来、人並みに放蕩しながらも、自分は道義的な愛すべき男だと信じきっていました。
 三十歳の頃、彼はある破産した地主の娘と知り合いになり、その娘こそが結婚相手に相応しい女だと確信してプロポーズをしました。
 その娘は美人で、彼女の身につけている衣服や装飾品の性的魅力に惹かれたポズドヌイシェフでしたが、自分たちのつながりは精神的なものであると信じ切っていました。

 結婚するとまもなく、二人の間に軋轢が生じはじめました。それは、肉体関係を持った後で偽りの恋慕の情が薄れ、お互いの本当の関係が明るみになったためでした。二人は、性欲によってお互いへの憎しみに蓋をしながら、その性欲がおさまると、つまらないことでの喧嘩を繰り返すようになりました。やがてポズドヌイシェフは、愛は高尚なものなどではなく、醜悪ないやらしいものであると考えるようになりました。

 妻が初めての子供を産んで身体を壊し、子供を乳母に預けると、彼女が子育てを放棄したように妻としての役割を放棄するだろうとポズドヌイシェフは考え、激しく嫉妬するようになりました。

 二人の間には五人の子供が産まれましたが、子供が体調を崩すと、いつも妻は心配のために大騒ぎし、ポズドヌイシェフを苦しめました。そのため子供たちは夫婦にとって、新たな不和のきっかけとなりました。
 やがて、譲歩することがなく、沈黙か当たり障りのない会話だけをしなければ、憎悪の感情を抑えることができなくなった二人は、お互いに理解し合うことができないのだという結論に至りました。

 その後、家族は都会での生活を始めました。妻は体調を崩し、これ以上子供を産むことを医者に禁じられました。子育てから解放された妻が、これまでにも増して念入りに化粧をし、挑発的な魅力を身につけていくのを見て、ポズドヌイシェフは、彼女が自分とは別の、新しい恋愛を求めているのではないかと考えました。二人はこれまでにも増して恐ろしい言い争いを繰り広げるようになりました。

 そのような時に、以前のポズドヌイシェフの友人であったトルハチェフスキーという男が夫婦の前に現れました。トルハチェフスキーは、バイオリンのセミプロであったため、ポズドヌイシェフは、自分が妬いていないということを見せつけるために妻との合奏を頼みました。トルハチェフスキーは、妻を助けながら見事な演奏を行いました。
 ポズドヌイシェフは、トルハチェフスキーが欲望を抱いていることや、妻がその欲望を了承していることに気づき、嫉妬に悩まされましたが、余計に愛想良く振る舞い、以降も妻と合奏をしてほしいと頼みました。

 それから二、三日後、妻との合奏の曲目を決めるためにトルハチェフスキーが家を訪れました。ポズドヌイシェフは、彼に愛想良く振る舞いながらも、嫉妬のあまり激しい憎しみを感じました。トルハチェフスキーが帰ると、ポズドヌイシェフは再び妻と口論になり、妻は痙攣を起こすほどのヒステリーに陥りました。やがて妻の気分が収まると、二人は仲直りをしました。ポズドヌイシェフが嫉妬していたことを白状すると、妻は笑いながら、トルハチェフスキーに惹かれる可能性を否定しました。

 妻とトルハチェフスキーが合奏することになっている日曜日になると、ポズドヌイシェフは妻を信じようと努めながら、二人の演奏するベートーヴェンのクロイツェル・ソナタを聴きました。ポズドヌイシェフは、二人の演奏を聴き、自分でも知らなかった、まったく新しい情感が開けたような感覚になりました。彼はよい音楽を聴かせてもらったことに感謝すらしてトルハチェフスキーと別れました。

 ポズドヌイシェフは落ち着いた気持ちになり、その二日後、郡部での仕事のため、妻に別れを告げて旅に出ました。しかしその旅先で受け取った妻からの手紙には、自分が留守の間に、約束の楽譜を届けにきたトルハチェフスキーから合奏の誘いを受けたが断ったと書かれていたため、楽譜を届ける約束をしていたことを知らなかったポズドヌイシェフは、再び妻への疑惑を否定できなくなりました。
 やがて彼は、クロイツェル・ソナタを演奏し終えた時の妻の顔を思い出し、あの瞬間に二人の間ですべてが成就していたことを悟りました。

 彼は朝になると、急用ができたと言って家へと帰りました。

 家に着くと、玄関ホールにはトルハチェフスキーのオーバーがかかっていました。ポズドヌイシェフは短剣を手に取り、妻とトルハチェフスキーのいる部屋のドアを開け、妻に飛びかかりました。
 トルハチェフスキーは、ポズドヌイシェフを制止しようとしましたが、すぐに戸口へと逃げ出して行きました。ポズドヌイシェフがその後を追おうとすると、妻はそれを制しようと腕にぶら下がりました。
 ポズドヌイシェフは、肘で妻の顔を突いてソファに倒し、彼女の咽喉を締め、短剣を左の脇腹に突き刺しました。

 取り返しのつかないことをしたことを悟った彼でしたが、自分の部屋に入ると、不意に眠気に襲われ、二時間ほど眠りました。彼は自殺のためのピストルを装填していましたが、死ぬ気持ちにはなれませんでした。やがて妻の姉がやってきて、妻が危篤だということを伝えました。

 妻は最期までポズドヌイシェフを憎みながら息を引き取りました。ポズドヌイシェフは、刑務所に移送されたものの、名誉のための殺人であったとされ、無罪になりました。

 「私」の前でこれだけのことを話すと、ポズドヌイシェフは啜り泣きながら毛布にくるまり、座席に身を横たえました。
 朝になると、「私」はポズドヌイシェフに別れを告げました。別れ際、ポズドヌイシェフは「どうも、失礼をいたしました」と言いました。

管理人の感想

 『クロイツェル・ソナタ』は、妻を嫉妬によって刺殺した男ポズドヌイシェフの物語です。

 列車の中で語り手に出会ったポズドヌイシェフは、愛や結婚について自論を述べたあと、自分が起こした妻殺しの悲劇を語り始めます。

 三十歳まで放蕩を繰り返していたポズドヌイシェフは、妻の性的魅力に惹きつけられて結婚したため、精神的な結びつきを得ることができずに争いを繰り返します。
 やがてセミプロのヴァイオリニストであるトルハチェフスキーが現れると、ポズドヌイシェフは妻に激しく嫉妬するようになります。
 妻とトルハチェフスキーは、ベートーヴェンの『クロイツェル・ソナタ』を合奏します。ポズドヌイシェフは、その演奏の素晴らしさに心打たれ、一時嫉妬から解放されるものの、旅行中にトルハチェフスキーが家を訪れてきたことを突き止めると、激しい憎しみに駆られながら妻を短剣で刺し、殺してしまいます。

 女性は男と対等な権利を常に奪われ続けてきた存在であるため、清純無垢に見える娘でも、男が女の体のみを求めていることを無意識に知っており、知らず知らずのうちに性欲に働きかけるような格好をして、自分の望む男を支配するのだとポズドヌイシェフは主張します。その結果、男は女を性の対象としてしか見ることができなくなり、伴侶となるべき人に対しても精神的なつながりを持てなくなるというのです。若い頃の放蕩癖も、そのような悪循環に拍車をかける一因として、この作品では描かれているように思われます。

 個人的には、ポズドヌイシェフの主張は、性と精神というものを切り離して考えすぎているように思います。彼が性的に妻に惹かれていたのであれば、なぜそれを精神的な結びつきと考えることができなかったのか、なぜそれを愛と呼ぶことができなかったのか。性的な充足を得た後で表面化するお互いへの不満を本来の関係だと思わず、性的な充足を得る前のお互いへの恋慕の心を本来の関係だとなぜ思うことがでなかったのか。それができていたのであれば、彼の人生は大きく変わっていたのではないでしょうか。

 トルストイは、ポズドヌイシェフと同じように若い頃に放蕩を繰り返し、農民との間に子供を作ったこともあるそうで、放蕩の翌日には必ず激しく後悔し、やがて性欲が諸悪の根源だという考えに至ったようです。
 この性に関することが善であるか悪であるかという問題については、おそらく誰もが一度は思い悩むことで、その答えも様々です。『クロイツェル・ソナタ』は、そのような難しい問題について考え抜いたトルストイが真っ向から挑んだ作品で、その理念は、現代にも通用する部分があり、誰も口にすることができないことを代弁しているようにも思われます。

 性欲を諸悪の根源とする考え方は、現代では、過度な潔癖と取られることも多いのではないかと思います。しかし、このトルストイの深い内省により、『アンナ・カレーニナ』などの素晴らしい作品が生まれたのも事実です。
 現代に生きる私たちも、この作品を単なる古典と決めつけず、ポズドヌイシェフが深く悩み抜いた問題について、自分自身がどのように捉え、実践していくべきか、再考する機会があってもいいのかもしれません。