芥川龍之介『六の宮の姫君』の登場人物、あらすじ、感想

芥川龍之介作『六の宮の姫君』の登場人物、あらすじを紹介するページです。作品の概要や管理人の感想も。

※ネタバレ内容を含みます。

『六の宮の姫君』の登場人物

六の宮の姫君
昔気質の父母から寵愛を受け、喜びも悲しみも知らずに育つ。父母亡き後、乳母が育ての親となり、その乳母に勧められるがまま、丹波の国の国司だった男の妻となる。

姫君の乳母
姫君の父母亡き後、働きながら姫君の育ての親となり、法師である甥の伝手で丹波の国の国司だった男を会わせる。


丹波の国の前任の国司(中央から派遣された官吏のこと)。器量よく心の優しい男。凋落した姫君の夫となって生活を助けるが、陸奥の守に任じられた父親について行くため、姫君と別れる。

老尼
六の宮に仕えていた女の母。姫君の凋落後、娘とともに丹波の国に退いていたが、その後姫君のことが気にかかるようになって京都に登り、六の宮が壊れていることを発見する。

乞食法師
姫君の臨終に、乳母によって呼ばれた法師。姫君に阿弥陀仏を唱えるように説き、自身も手を合わせてその死を見届ける。その正体は内記の上人と呼ばれる高僧。


姫君の死後、その声が聞こえるという噂になった朱雀門を訪れ、乞食法師に話しかける。

『六の宮の姫君』のあらすじ

 六の宮という土地に住んでいた姫君は、昔気質の父母により寵愛を受け、恋の悲しみも喜びも知らずに育ちました。
 父と母が死ぬと、乳母が働いて育ての親となりましたが、家計は徐々に傾いていきました。
 ある日乳母は、甥の法師の勧めで、丹波の国の前司(前任の国司)の男と会うことを姫君に持ちかけました。
 姫君に会わせてほしいと頼んできたその男は、器量もよく、優しい心の持ち主であるようでした。しかし、姫君はその男に身を任せるのが、苦しい家計を支えるために体を売るのも同然と考え、忍び泣きました。

 男は姫君を愛しました。姫君は、男との逢瀬に喜びを感じることはありませんでしたが、生活は潤い、徐々に安らぎや癒しを感じるようにもなりました。
 しかし、その男は、陸奥の守に任じられた父親とともに雪深いところへ行かなければならなくなりました。男は五年で帰ると言いました。たとえ恋しいとは行かないまでも、頼りにしていた男と別れるのは辛く、姫君は涙に暮れました。

 六年目の春になっても、男は都へは帰りませんでした。姫君は凋落し、乳母と一緒に雨露を凌げる程度の家に住むようになりました。乳母は、男を待つのを諦めるように諭し、新しい縁談を持ちかけました。しかし、人生に疲れ果てていた姫君は再婚を望まず、生きようとも死のうとも同じだと言って、ただ静かに老い朽ちることを希望しました。

 六年前に生き別れた男は、姫君のことを忘れられないまま、常陸の国で新しい妻を迎えました。

 九年目に、常陸の妻とともに男は京に帰りました。男は義理の父に妻を預け、姫君を探しに戻りましたが、六の宮はなくなっていました。
 男は六の宮の政所(家政を取り仕切る場所)と思しきあたりにある傾いた板屋の中に、ある老尼を見つけました。姫君に仕えていた女の母親であったその老尼は、娘とともに丹波の国で暮らしていましたが、最近になって姫君のことが気にかかって京に登ってみると、屋敷が壊れているのを見つけたということを語りました。

 男は姫君を探し歩きました。すると朱雀門の西にある建物の中に、尼となった乳母から看病を受けている姫君を見つけました。
 男は思わず姫君の名を呼びました。姫君は男の姿を見ると、叫び声をあげて筵の上に倒れました。
 乳母は、雨宿りをしていた乞食法師を呼びました。その乞食法師は、姫君のもとを訪れると、阿弥陀仏と唱えるようにと勧めました。男に抱かれた姫君が阿弥陀仏を唱え始めると、地獄の光景と極楽の光景が交互に見えるようになりました。しかしそれらの光景はたちまち姫君の視界から消え去り、暗いなかに冷たい風ばかりが吹いているばかりとなりました。
 男も乳母も、法師とともに念仏を唱えると、姫君は段々と死んでいきました。

 それから何日か後、乞食法師が朱雀門で膝を抱えていると、この朱雀門のほとりに女の泣き声がするという噂を聞きつけた侍に話しかけられました。侍は法師の言葉に従って耳をすますと、女のか細い声が何処からか聞こえ始めました。
 法師は、その極楽も地獄も知らない不甲斐ない女の魂に向けて、念仏を唱えるように侍に勧めました。
 法師の顔を覗き込んだ侍は、その法師が空也上人(平安時代の高僧)の弟子の高僧である内記の上人であることに気づき、その前に両手をつきました。

作品の概要と管理人の感想

 『六の宮の姫君』は、一九二二年に発表された芥川龍之介の短編小説です。『今昔物語集』を下敷きとしており、平安時代の説話集に題材をとったいわゆる「王朝もの」の作品のうちの一つです。知名度は高くはありませんが、「王朝もの」の中でも、この作品を傑作に推す批評もあるようです。

 この作品で書かれるのは、箱入り娘として喜びも悲しみも知らずに育ち、人を愛することもままならないまま、流されるように生活し、死んでからも「極楽も地獄も知らぬ、腑甲斐ない女の魂」と評される六の宮の姫君の生涯です。

 一般的に、文学作品では、「溢れんばかりの歓喜」とか「頭を抱えるほどの苦悩」といった激しい感情が多く書かれますが、この姫君が抱いているのは、そのような激しい感情とは正反対の感情です。男との別離の場面など、多少の感情の動きはあるようですが、むしろ「自主的な感情を持たない様」が描かれていると言ってもいいでしょう。しかし、だからといってこの作品が感動を呼ばないかというと、全くそんなことはないようです。
 普通の人々は、しょっちゅう何かに感動しているわけではありませんし、いつも自主的に行動しているわけでもありません。むしろこの姫君のように、流されるように生き、ただ朽ちていくのを待つのが本当の人生であるような気もします。そのような意味で、この姫君の惨めで憐れな生涯は、身につまされるような共感を呼ぶものであると思います。

 そして、そのように生きてきた姫君が、死後も朱雀門のほとりですすり泣いているというのも興味深いことではないでしょうか。結末では、姫君のすすり泣きを聞きにやってきた侍に、内記の上人が念仏を唱えるように勧める描写が書かれていますが、これによって姫君が往生できたかどうかは最後までわかりません。おそらくですが、内記の上人はこの場所にとどまって念仏を唱え続け、またこの地を訪れた他の人々にも念仏を唱えるように勧め続けているにもかかわらず、姫君の霊は往生できていないのではないかと思います。喜びも悲しみも知らない人生というのは、大きな苦悩を抱え続けてきた人生よりも、より大きな未練を残す物なのかもしれません。