伊藤左千夫作『野菊の墓』のあらすじを詳しく紹介するページです。
※ネタバレ内容を含みます。
矢切の渡しの東・矢切村の旧家の息子であった斎藤政夫は、思い出すと涙が止まらなくなる十年余り前のことを書き留めることに決めました。
当時、政夫は中学入学を控えた十五歳でした。家には、政夫の二歳上の従姉の民子が、仕事の手伝いや、病気を患っていた母親の看護のために市川からやってきて同居していました。
民子は、政夫と大の仲良しで、何かと用事を作っては部屋に入ってきて、政夫をからかいました。政夫もまた、民子が部屋を覗いてこない日は何となく淋しく、民子の顔を見れば心が落ち着きました。民子は近所の女たちに誘われても外へ出ることなく、政夫とばかり遊んでいたため、家の中や隣家で噂を立てられ、母親に政夫の所へ行くことを禁じられました。
民子は恥じ入った様子を見せ、政夫の所へは来なくなり、丁寧に改まった口の聞き方をするようになりました。しかし、母に叱られたことにより、却って政夫の中に民子への恋心が芽生えました。
ある日、茄子畑で民子と偶然会った政夫は、今更ながら民子を美しく可愛らしいと感じました。彼は何かを話さなければならないような気がして、民子がここ数日変わってしまったことを指摘しました。民子は、母親に叱られたことで、一生懸命に政夫と距離を取ろうとしているにもかかわらず、自分から距離を置こうとしているかのように言われたのが口惜しいと、政夫を責めました。政夫は、母親に咎められても自分のところへ来て欲しいと言いました。民子は喜びと心配の間で葛藤している様子でしたが、そのうちに喜びが心配に勝った様子を見せました。
民子は人目を忍んで、政夫の部屋にやってくるようになりましたが、二人はお互いを意識するが故、長居をすると気が咎めるようになりました。
二人の関係は家だけでなく村中に噂されるようになり、とうとう政夫は民子と距離を置くことにしました。民子はふさぎ込んでいる様子でした。
四、五日後、陰暦の九月十三日、村の祭りの前日、政夫の家の者が総出で野に出ることになりました。政夫と民子は、山畑の綿を取りにいくよう、母親からの指図を受けました。二人は喜びながらも、一緒に畑に行くのを人に見られると極まりが悪いと思いました。
道中、政夫が野菊の花を採ると、民子はそれに気づきました。二人はお互いが野菊の花を好きであることを知りました。
政夫は、田舎風であっても粗野ではなく、可憐で優しく品格のある民子を野菊のような人だと言いました。二人はこの会話に深い意味があるように感じながら、その先を言うことができずに無言で歩きました。
政夫が無理に話しかけると、民子は今自分が十七歳で、政夫よりも年が多いことを気に病んでいるようでした。政夫は、このような話をする民子の真意を感じました。
二人は山畑に着き、早く仕事を終えて一日遊ぼうと言い合いました。三時間ほどで仕事の七割方を片付けた政夫が、水を汲むために山の向こうへ行こうとすると、民子は自分も連れて行って欲しいと懇願しました。
お互いの気持ちを分かっていながら、これまで手を握り合うことのできなかった二人は、山越えで助け合うことによって初めて手を取り合いました。
民子は、その途中に咲いていたリンドウの美しさに感動し、政夫をリンドウのような人だと称しました。
二人は仕事を終え、月明かりに照らされた松の切り株に腰掛けました。覚束ない自分たちの行く末について、政夫は話したい衝動に駆られましたが、無言でぼんやりと時間を過ごすことしかできませんでした。
家では、二人がこれ程まで遅くなったことが問題になっていました。二人きりで山にやったことを責められた母は、祭りが終わったら、予定を早めて学校へ行き始めるようにと、政夫に命じました。
政夫と民子は、家の中であっても、あまり話をすることができずに日々を過ごしました。政夫はその状況に耐えかねて、民子に想いを伝える手紙を書きました。
十月十七日、政夫は、民子と、作女の増子に見送られて学校へ行くために矢切の渡しへと降りてきました。民子はやつれて見え、痛々しい印象を抱かせましたが、涙を目に浮かべ、薄化粧を施した美しさは、政夫には特別に引き立って見えました。政夫は、これが生涯の別れになるとは思っておらず、二人は一言も言葉を交わすことなく別れてしまいました。
政夫は学校へ行ってからも、民子のことが頭から離れなかったため、多くの人の中に入って気を紛らわせ、できるだけ騒いで疲れて寝るようにしていました。
冬季休業になって実家に帰ると、民子の姿は見当たりませんでした。政夫は民子のことを家族に聞くことができず、一晩を明かしました。翌朝、政夫はお増から、民子が嫂によって市川の実家に帰されたことを知らされました。
お増によると、民子は政夫がいなくなってから、人の眼にも明らかなほどくよくよしており、嫂に散々嫌味を言われて過ごしていたようでした。嫂は、二つも歳の離れた政夫と民子をどうしても結婚させてはならないと母親を説き伏せました。
民子は物忘れが多くなったり、呼んでも返事が遅くなったりして、母を苛々させることが多くなり、ある日手違いで蓆(むしろ)を雨に濡らしてしまいました。それに母は癇癪を起こし、民子は一晩泣き明かしました。それに立腹した母は、乳飲み子の頃から我が子のように扱ってきた民子に、一度叱り飛ばしただけで一晩も泣かなくてもよいものだと口惜しがりました。
お増は、政夫と別れた直後だったために小言を言われて泣いたのだと、民子の代わりに弁解してやりました。その甲斐あって、母親と民子は仲直りをしたように見えました。しかし嫂がうるさく言い続けたため、母親は民子を市川に帰してしまったのでした。
政夫はこの話を聞いて涙を流し、実家にいるのが嫌になり、元旦まで我慢して、翌二日には学校へと戻ってしまいました。市川から電車に乗ったのにも関わらず、極まりが悪くて民子の家に寄ることができませんでした。
政夫はその年、実家に帰るのを避け、大晦日の夜になってやっと帰ってきました。お増は辞めており、話し相手もいない政夫は、元旦二日にもう発とうとしました。すると母親は、民子が嫁に行ったことを伝えました。
政夫は、不思議なほど動揺しませんでした。それは、例え民子が嫁に行っても、自分のことを想っているだろうと考えたためでした。学校に帰った政夫は、できるだけ人を避け、民子に想いを馳せながら過ごしました。
六月二十二日、政夫は実家からの電報を受け取って帰省し、民子の死を知らされました。
政夫の母によると、民子は、市川の財産のある家から嫁に欲しいと言われても、どうしても嫌だと言っていたようでした。しかし親類はこの良縁を先に進めたいので、政夫の母に意見をしてもらおうという話になり、政夫の母は、政夫との縁談を承知することはないと民子に伝えたようでした。政夫との結婚を断たれた民子は大人しくなり、祝儀をあげました。
その後、民子は妊娠したものの流産してしまい、体調が回復することなく、六月十九日に息を引き取ったようでした。政夫の母は、自分が民子を殺したようなものだと半狂乱になって泣きながら、民子の墓に向かって謝ってほしいと政夫に頼みました。
政夫は、民子の病状が悪い時に知らせてくれなかった母を恨みましたが、なんとか心を取り直し、翌日墓参りに行くことを決めました。
一晩泣き明かした政夫は、暗いうちに家を出て市川の民子の家に寄り、出迎えてくれた民子の家族と墓参りに行きました。
政夫は、民子にひと目会いたかったという思いに囚われました。おとなしい民子が、嫁に行っては自分に合わせる顔がないと思ったに違いないと考え、不憫で仕方なくなり、彼は地べたに両手両膝をついてしまいました。その様子を見て、民子の家族も泣きました。
民子の好きだった野菊の花を掘ってきて埋めればよかったと考えた政夫が周りを見渡すと、不思議とその墓の周りには野菊が繁っていました。
政夫はすぐに帰ろうとしましたが、民子の家族がそれを引き留めました。彼らは、民子と政夫が仲良しであったために、お互いに想いあっていたことがわからなかったのだとお詫びをし、民子の臨終の話を聞いてほしいと懇願しました。
民子の祖母が話したところによると、民子の死の二日前に医者が来て、親類に知らせるよう伝えました。政夫の母はその翌日飛んできました。民子は、政夫の母に笑顔を見せ、長年可愛がってくれた御恩に対して感謝の気持ちを述べました。政夫の母が、しっかりしなくてはいけないと元気付けると、民子は死ぬのが本望なのだと言い、それきり口を聞かず、その翌日の明け方息を引き取りました。
夜が明けてから、民子が左手に紅絹(もみ)の切れに包んだ小さなものを持っているのが見つかりました。その手を開いて中を確かめてみると、そこには政夫の写真と手紙が入っていました。
その手紙を読んだ家族は皆、声を上げて泣きました。政夫の母は、民子が不憫でたまらず、許しを乞い、どうしても泣き止みませんでした。
政夫は当分の間、墓参りをすることを約束して家に帰り、元気を装って母を慰めました。七日の間、政夫は毎日市川に通い、墓の周囲に一面の野菊の花を植え、学校へと戻りました。
今、政夫は余儀のない結婚をして生きながらえています。時が経っても、政夫の心は一日も民子の上を去ることはありません。