『野菊の墓』は、1906年に発表された、伊藤左千夫の中編小説です。伊藤左千夫は、もともと歌人として知られていた作家で、正岡子規に師事していました。師匠である子規は、俳人として非常に有名ですが、散文においても「ありのままに物事を書く」という写生文運動の中心人物としての一面も持っています。
十九世紀末より、日本では口語体の小説が書かれるようになりましたが、それらはまだ古典の影響を色濃く残しており、実際に話される会話文とは、大きな隔たりを残していました。
当時のヨーロッパにおける自然主義文学に影響を受けた子規らは、実際に会話で使われるような文章で、俳句、短歌を表現し始めました。この手法は散文に持ち込まれ、子規らが中心となって創刊されていた雑誌「ホトトギス」には、多くの写生文が掲載されるようになりました。
伊藤左千夫は、師匠である子規の写生文に影響を受け、初めての小説として『野菊の墓』を書きました。千葉県松戸市の江戸川沿いにある矢切村を舞台に、旧家に住む青年・政夫と、その従姉である民子との悲恋を描いたこの作品は、当時既に人気を博していた夏目漱石に絶賛されました。現代に至るまで、多くの映画化、ドラマ化、舞台化がなされ、非常に知名度の高い作品となっています。
このページでは、そんな純愛小説の定番ともいえる『野菊の墓』の登場人物、あらすじ、感想を紹介していきます。
※ネタバレ内容を含みます。
『野菊の墓』の登場人物
斎藤政夫
主人公。この物語の書き手。
矢切の渡しの東にある矢切村の戦国時代の旧家の息子。回想当時の年齢は十五歳。千葉の中学入学を控えている。
民子
政夫の従姉。市川の実家から、仕事の手伝いや母親の看護に来ている。政夫の回想当時の年齢は十七歳。痩せているが、顔が丸くて白く、生き生きとして元気が良い。
母
病気を患っている。民子を可愛がり、政夫と民子が親しくしているのを容認していたが、周囲からの忠告により、二人が話をするのを禁じるようになる。
嫂
二つも歳の離れた政夫と民子の結婚に反対している。
お増
両親を亡くし、斎藤家に使用人として雇われている。民子と政夫が一緒にいると嫉妬心を起こすが、政夫が学校に行くことになると、離れ離れになったことを嘆く民子に深く同情する。
『野菊の墓』のあらすじ
矢切村の旧家の息子で、中学入学を控えた斎藤政夫は、母親の看護のために市川からやってきた従姉の民子といつもふざけ合って遊んでいました。
二人はお互いに好意を抱いており、民子は政夫とばかり遊んでいたため、家の使用人たちの間で、あらぬ噂を立てられるようになりました。政夫の母親は、二人の関係を多めに見ていましたが、そのような噂を耳にすると、世間体を気にして、民子が政夫の所へ行くことを禁じました。
以来、民子は政夫のところに来るのを控え、改まった口の聞き方をするようになりました。政夫は民子と仲良くすることを禁じられたことで、かえって恋心が芽生え、自分と距離を置こうとしている民子を責めました。民子は葛藤しながらも、部屋に来るようにという政夫の言葉に喜び、人目を忍んで訪れてくるようになりました。
しかし二人の関係が村中に噂されるようになると、民子と政夫は話し合い、お互いに距離を置くことにしました。
それから数日後、村の祭りの前日、政夫と民子は、母親から山畑の綿を取りにいくよう言いつけられ、山へ入りました。二人は、その途中で見かけた野菊の花を、お互いが好きなことを知りました。政夫は、田舎風でも粗野でなく、可憐で優しく品格のある民子を野菊のような人だと言いました。
二人は初めて手を取り合いながら山の中を歩きまわり、仕事を終えると、月明かりに照らされながら切り株に腰を下ろしました。民子は、自分が政夫より年上であることが、結婚の障壁になるであろうことに思い悩んでいる様子でした。政夫は二人の将来について話したいという衝動に駆られましたが、無言のまま時が経つのを待つことしかできませんでした。
家に帰ると、二人がこれ程まで遅くなったことが問題になっており、政夫は、予定よりも早く中学に行くようにと命じられてしまいました。これまでにも増して民子と話をする機会を失った政夫は、恋心を募らせ、民子に自分の想いを伝える手紙を書きました。
村の祭りが終わった後、政夫は学校へ行くために矢切の渡しへとやってきました。見送りに来た民子は、一緒にやってきた使用人のお増の手前、政夫に声をかけることができず、二人は言葉を交わさないまま別れてしまいました。
民子のことが頭から離れないまま、政夫は中学校生活を送り、冬季休業になると民子に会うためにすぐに帰りました。しかし民子は家にいませんでした。
政夫は、自分と別れた後の民子が仕事で手違いを起こすことが増え、母と諍いになり、その後母とは仲直りしたものの、政夫と年上の民子との結婚に反対する嫂が、母親を促して市川の実家に帰らせたことを、お増から聞きました。
この話を聞いた政夫は、実家にいるのが嫌になり、正月が明けるとすぐに学校へと戻り、実家に帰ろうとはしなくなりました。
大晦日になってようやく帰省した政夫は、民子が嫁に行ったことを知りました。政夫は、民子が嫁に行っても自分のことを想っていると信じ、学校へ戻っても民子に想いを馳せながら過ごしました。
その年の六月二十二日、政夫は実家からの電報を受け取って帰省し、民子の死を知らされました。
政夫の母によると、民子は望まない縁談を断っていましたが、親類はどうしてもその縁談を進めたがり、政夫の母に意見してもらうことにしたようでした。相談を受けた母が、政夫との結婚を承知することはないと伝えると、民子はようやくその縁談を受けることを決めました。
しかしその後、民子は流産し、体調が戻ることなく三日前に息を引き取りました。政夫の母は、自分が民子を殺したようなものだと言って、民子の墓前で謝ってほしいと泣きながらたのみました。
翌日墓参りに行った政夫は、その墓前で民子のことが不憫で仕方なくなり、地べたに両手両膝をつきました。その墓の周りには、不思議にも民子の好きだった野菊が茂っていました。
民子の家族によると、臨終の民子は政夫の写真と手紙を持ち続けていたようでした。
それから学校へ戻るまでの七日間、政夫は民子の墓に通い、墓の周囲に一面の野菊の花を植えました。
今、政夫は余儀のない結婚をして生きながらえていますが、心は一日も民子の上を去ることはありません。
管理人の感想
『野菊の墓』は、中学入学を控えた十五歳の政夫と、その従姉である十七歳の民子の悲恋の物語です。矢切村の旧家の息子である政夫と、その母親の看病や家の手伝いのために住み込んでいた民子は、いつもふざけ合って遊んでいます。二人はお互いに好意を抱くようになりますが、その関係を快く思わない周囲によってあらぬ噂を立てられてしまいます。二人の関係をそれまで容認していた政夫の母も、周囲にあれこれ言われて厳しい目を向けざるを得なくなり、政夫を予定よりも早く寄宿制の学校に入れることを決意します。政夫が学校へ行き始めると、二人の結婚に反対していた嫂が母親を促し、民子は市川の実家に帰されます。そして気の進まない結婚を強いられて流産し、その後の体調が戻らずに命を落とします。
現代の感覚でこの小説を読むと、女性が歳上の夫婦であってはならないという古い価値観により、政夫と民子の恋が犠牲になったと考えてしまうのは否めません。裏で手を引いているかのように見える嫂の存在は、何か不気味にすら感じますし、その嫂に言われた通りに民子を実家に帰してしまった母親に対しても、もう少し子供たちの気持ちのことを考えてやれなかったのだろうかと考えてしまいます。
しかし、親に決められた相手との結婚が当たり前の時代、歳の離れた二人の結婚が周囲に反対されてしまうのは仕方のないことだったのでしょうし、嫂にしても、当時の常識からすればむしろ真っ当な意見の持ち主だったのかもしれません。
そのような背景がなかなか理解できないほど時代が変わっているにも関わらず、民子の愛らしさの描写や、幼い二人のもどかしいセリフ回しは、今読んでも心の琴線に触れるものばかりです。政夫のことを一途に想い続ける民子の不憫な死、そして民子の死を知ってなお気丈に振る舞う政夫の姿は、おそらくどのような時代になっても、涙を誘うことに変わりはないのではないかと思います。
初めての出版から百年以上が経ち、これからますます当時の因習や常識がなかなか理解できない時代となっていくでしょう。しかし、政夫と民子の純粋な恋心は、いつ、誰が読んでも心を動かされる普遍的なものであると思います。どれだけ時代が変化しても、この『野菊の墓』は、純愛小説の定番として色褪せない魅力を持ち続けるでしょう。