フランツ・カフカ作『変身』の登場人物、あらすじを詳しく紹介するページです。作品の概要や管理人の感想も。
※ネタバレ内容を含みます。
『変身』の登場人物
グレーゴル・ザムザ
外交販売員。両親が借金をしているため、一家を支えるために五時の汽車で仕事に通っている。五年間のサラリーマン生活で、病気をしたことがなかった。自分に情愛を示す、音楽好きの妹のグレーテを音楽学校に入れてやろうという計画を立てていた。
ある朝自分が巨大な虫になっていることを発見し、自分の部屋に引きこもることとなる。しばらくは、グレーテが持ってきてくれるものを食べながら生活し、部屋に誰もいない時は、窓の外を眺めたり天上にへばりつき、グレーテが入ってくるときは自分の姿を見せないように寝椅子の下に潜んで生活していた。
壁にへばりついている自分の姿を見た母親が気を失うと、気つけ薬を探す妹を手伝おうとして部屋の中から這い出し、父親に林檎を投げつけられてしまう。その林檎が背中に突き刺さり腐敗していったことが原因で体の自由が効かなくなり、ものを食べる事もしなくなる。そのまま徐々に弱っていき、家族からも見捨てられ、部屋の中で孤独に息絶える。
父親
五年前に破産し、それ以来働いていない。太って体の自由が効かなくなっており、立ち上がることもままならなかった。
グレーゴルが虫になると部屋の中に閉じ込め、会おうとはしなかった。一家を支えるため、徐々にしっかりと歩くようになり、小使として働いて家計を助ける。
妻がグレーゴルの姿を見て気絶すると、グレーゴルに林檎を投げつけ、そのうちの一つが背中に突き刺さる。
部屋から這い出して下宿人を驚かしたグレーゴルを処分しなければならないというグレーテの意見に同意する。
グレーゴルが息を引き取ると神に感謝を捧げ、グレーテに結婚相手を探してやらなければならないと思い始める。
母親
喘息もちで足を引きずっている。虫になったグレーゴルを見ると父親の腕の中に倒れこむほどのショックを見せ、しばらくは彼の部屋に入らなかったが、グレーゴルのことを気にかけていた。一家を支えるため、服飾店から頼まれた針仕事を行う。部屋を広くしてやろうというグレーテの意見により、グレーゴルの部屋に入るが、家具を片付けることは息子が人間に戻ることを諦めているようだと言って嘆く。結局グレーテの意見に従って家具を片付けることにするが、部屋の中で壁にへばりついているグレーゴルの姿を見て気絶する。
一家を支えるため、服飾店から頼まれた針仕事を行う。グレーゴルが息を引き取ると神に感謝を捧げ、グレーテに結婚相手を探してやらなければならないと思い始める。
妹(グレーテ)
十七歳。大の音楽好きで、ヴァイオリンを好んで弾く。グレーゴルが虫になると、様々な食事を与えて嗜好を探したり、食べ残しを掃除したりと世話を焼く。窓際に椅子を押していき、ガラス窓を開けっ放しにして外を眺められるようにしてやったり、グレーゴルが動き回りやすいように部屋にあるものを片付けようとしたりと優しさを見せる。家族のためにも売り子として働き、夜は速記術とフランス語の勉強に当てるようになる。しかし次第にグレーゴルをぞんざいに扱うようになり、部屋の掃除も行わなくなっていく。自分のヴァイオリンの演奏に惹かれてグレーゴルが部屋から這い出し、下宿人を驚かすと、グレーゴルのことをけだもの呼ばわりし、処分しなければならないと父親に宣言する。
グレーゴルが息を引き取ると神に感謝し、新しい家に引っ越す計画について活き活きと両親に語る。
女中(アンナ)
以前からザムザ家に仕えていたが、虫になったグレーゴルを見ると、一切他言しないことを約束し、家から出ていく。
支配人
グレーゴルの会社の上司。出社してこないグレーゴルの家を訪れ、首を宣告するが、虫になったグレーゴルの姿を認めると、声を上げて逃げ出す。
手伝い女
グレーゴルが虫になった後で雇われた骨太の老婆。グレーゴルのことを一切怖がらず、三人の下宿人に締め出された荷物を部屋に運んで汚す。グレーゴルのことを分別があると最後まで思い続けていた。グレーゴルが息を引き取ると、その死体を処分し、それが母親とグレーテの心をかき乱したため、暇を言い渡される。
三人の下宿人
稼ぎ頭を失った家族が家計のために招き入れた。グレーテにヴァイオリンの演奏を頼み、その音に惹かれて部屋から這い出したグレーゴルを発見する。焦った父親に腹を立て、下宿の契約を解除すると言い出すが、グレーゴルの死後、反対に父親から立ち退きを宣言される。
『変身』のあらすじ
グレーゴル・ザムザは外交販売員として働き、一家を養っていました。ある朝グレーゴルが目覚めると、自分が巨大な虫に変身していることに気づきました。グレーゴルはその姿のまま出勤することを考えましたが、身体が思うように動かず、人間の声を出すこともできなくなっていました。心配した両親や出勤先の支配人が鍵のかかった部屋の前を訪れたため、ザムザはドアのところまでなんとか這っていき、顎を使って鍵を開けました。ザムザの姿を見た支配人は逃げ出し、母親は気を失い、父親は彼を部屋の中に押し込めました。
家族に迷惑をかけないように、部屋から這い出さないことを決心したグレーゴルは、窓の外を見ながら生活しました。食物を持ってくるのは、妹のグレーテでした。グレーテは兄の食べ物の嗜好を探り、部屋の中を掃除しました。妹が自分の姿を見るのを嫌がっていると感じたグレーゴルは、彼女が部屋を訪れて来る気配を感じると、寝椅子の下に身を潜めました。
グレーテは、グレーゴルが部屋の中を這いまわりやすくするために、家具を片付けることにしました。しかし、その作業を助けるために入って来た母親がグレーゴルの姿を見て気絶すると、父親はグレーゴルめがけて林檎を投げつけ、そのうちの一つがグレーゴルの背中に突き刺さりました。グレーゴルは気絶し、思うように体を動かすことができなくなりました。
やがてグレーゴルは食べることをやめ、衰弱していきました。大黒柱を失った三人の家族は、それぞれに働き口を見つけ、家に下宿人を招き入れました。グレーテは次第にグレーゴルの部屋の掃除を怠るようになっていき、手伝い女の婆さんだけが彼の部屋を訪れるようになりました。下宿人がグレーゴルの存在に気づくと、家族たちは混乱し、グレーゴルを処分することを考え始めました。
グレーゴルは汚物だらけになった自分の部屋で、衰弱のために身動きが取れなくなり、息を引き取りました。
手伝い女の婆さんによってそのことを知った家族たちは神に感謝し、両親はグレーテのためによい結婚相手を探してやらなければならないと考え始めました。
作品の概要と管理人の感想。実存主義とは?
『変身』は、1915年に発表されたフランツ・カフカの代表作で、実存主義文学の先駆けとなった作品と言われています。
実存主義とは、「実存は本質に先立つ」という考え方です。実存とは、この世界に投げ出された人間自体のことを指し、本質とは、その人間が作り上げていった自分自身のことを指します。つまり、「外交販売員のグレーゴル」で例えるなら、まずこの世界に投げ出されたグレーゴルという存在が実存で、そのグレーゴルが作り上げていった外交販売員としての自分が本質に当たります。この考え方においては、「はじめから読まれるために存在する本」、「はじめから着られるために存在する衣服」といったモノと、人間は真逆の存在になります。
人間はなぜ不安に駆られるのか、それは本質を伴わないまま、この世界に投げだされるからです。この不安を脱却するためには、自分自身を繰り返し作り上げ、主体的に生きなければなりません。
虫になるまでのグレーゴルは、「外交販売員」としてだけでなく、「一家の大黒柱」、「妹想いの兄」といったいくつもの本質を築き上げてきました。ところが、ある日突然虫になったことで、それが崩壊してしまうのです。彼が不安から逃れるためには、再び本質を積み上げていかなければなりません。しかし人間でないグレーゴルは、人間としての本質を積み上げることはもうできません。彼が迷い込んでしまった不条理の世界では、不安から逃れる方法はもはやないのです。
実存主義で有名なサルトルは、「人間は自由の刑に処せられている」と言いました。幸いにも虫になっていない私たちは、人間としての本質を積み上げ、不安から逃れることができます。それは、裏を返せば、自由に生きることはできても、その責任を負わなければならないということです。この『変身』は、虫になってしまったグレーゴルを通して、私たちが人間として生きるには、どのようにするべきなのかを指し示してくれている、といった読み方もできるでしょう。
上にあげたように、いろいろと難しい解釈ができてしまうこの作品ですが、最大の魅力は、虫になったザムザ自身の善良さ、人間らしさにあると管理人は思います。
彼は、家族の大黒柱として、激務に耐え抜き、いつか妹を音楽学校に入れてやろうと密かに考えています。
自分が虫になったことに気づいても、その姿のまま出勤することを考え、両親や支配人のために顎を使って必死に鍵を開け、弁解を試みます。
自分の正体が知れ渡ることになると、家族に迷惑をかけないようにと決心し、窓から外を眺めながら生活し、妹が訪れてくると気を使って寝椅子の下に身を潜めます。
扉に体の片側が引っかかって身動きが取れなくなったり、混乱して天井からテーブルの上に落ちてしまったり、妹の演奏に我を忘れて部屋を這い出したりと、おっちょこちょいで人間らしい側面も持ち合わせています。
たとえ姿は虫となっても、グレーゴルの行動は人間そのもので、その人間らしさからは愛おしさすら感じてしまいます。しかしグレーゴルが人間としての些細な幸福を積み上げていたことを知るほどに、虫になった彼が家族から見捨てられて死んでいくという不条理が際立って感じられるのです。
「実存主義」、「不条理文学」などというと仰々しく聞こえてしまいますが、グレーゴルのことを好きになり、惨めな彼の人生を憐れむだけでも、この作品を読む価値はあると思います。