梶井基次郎『Kの昇天-或はKの溺死』の登場人物、あらすじ、感想

梶井基次郎『Kの昇天-或はKの溺死』の登場人物、あらすじを詳しく解説するページです。作品の概要や管理人の感想も。

『Kの昇天-或はKの溺死』の登場人物


療養のために訪れたN海岸でKに出会い、懇意になる。Kの溺死を疑問に思った「あなた」への返信の中で、その謎を解き明かすことを試みる。


療養のために訪れたN海岸を訪れていた。自分の月影が次第に人格を持ち、それに伴って自分自身が月の方へ昇天して行く感覚を味わっているところを「私」に話しかけられ、懇意になる。
「私」がN海岸を引き揚げた跡、溺死体となって発見される。

あなた
Kの友人。Kがなぜ溺死したのか思い悩み、「私」に手紙を書く。

『Kの昇天-或はKの溺死』のあらすじ

※ネタバレ内容を含みます。

 「あなた」はKがなぜ溺死したのか思い悩み、ひと月前に療養地のN海岸でKと出会った「私」に手紙を書きました。
 しかし「私」もまた、「あなた」の手紙によりKがN海岸で溺死したことを知ったのでした。そしてそれと同時に、「私」は「K君はとうとう月世界へ行った」と思ったのです。なぜそのようなことを思ったのか、「私」は手紙で説明しようと試みます。

 Nに行って初めての満月の夜、「私」は病気のせいで眠れず、旅館を出て砂浜へと出て行きました。そこで「私」はある人影を目にしました。その人影は、「私」に背を向けたまま、砂浜を前後に動いたり、立ち止まったりを繰り返しました。「私」は不思議な戦慄を覚え、それを見続けました。
 「私」はその人影が落し物を探しているのではないかと考え、恐る恐る後ろから話しかけました。その人影は、決まり悪そうな顔で、「なんでもないんです」と答えました。「私」たちは互いに名を名乗り合いました。それがKとの出会いだったのです。
 Kは自分の影を見ていたと語りました。彼によると、月の光で自分の揺れる影を見ていると、その中に生物の気配が現れてくるようです。影の中に自分の姿が見え、その影は影自身の人格を持ち始め、それにつれて自分の方は月へ向かって昇っていくような感覚になるようです。しかし何度やっても昇天しきることなく、イカルスのように落っこちると言って、Kは笑いました。

 その夜から、「私」とKは会うようになりました。ある日、「私」が朝日を見に海辺へ出かけると、Kも同じようにやってきました。太陽の光の中に浮かぶ船を見たKは、その船の実体が影絵のように見えることが、影が実体に見えることへの逆説的な証明になると思い、「あの逆光線の船は完全に影絵じゃありませんか」と言いました。

 Kの死体が浜辺に打ち上げられていたその前日は、満月の日でした。
 「私」がKといっしょにいた一月の間に、「私」は健康を取り戻したのに反し、Kの病気は徐々に進んでいたように思われます。

 「私」はKの死の夜のことを組み立てて見ようと試みました。

 その満月の夜、Kは自分の影を追いながら海に入りました。病とともにKの神経は鋭く尖り、その影が本当に実体を持つものとして見えたのです。それに伴い、Kの魂は月の方へ昇っていきました。Kの身体は意識を失い、無意識に海の方へと近づいて行きました。Kの身体は倒れるとともに沖へ運ばれました。Kの魂はイカルスのように落ちることなく、無感覚のまま月へと飛び去ったのです。

作品の概要と管理人の感想

 『Kの昇天―或はKの溺死』は、一九二六年に発表された梶井基次郎の短編小説です。
 梶井基次郎の小説は、研ぎ澄まされた感覚を持つ登場人物が多く描かれます。この作品の主人公であるKも、その例にもれず、非常に研ぎ澄まされた感覚の持ち主です。Kは自分の月影を見ているうちに、その影が人格を持ち、それとともに本当の自分自身が月の方に登っていく感覚を覚えます。彼は昇天の途中でいつも地上にいる自分自身に戻ってきてしまうと語ります。しかし、月夜の晩が訪れるたびにその感覚を繰り返し実践し、終いには(書き手である「私」の推察ではありますが)彼は肉体を離れ月への昇天を果たします。
 究極まで感覚を研ぎ澄ませると、その感覚は肉体を離れ、痛みや苦しみといったものから解放されるものなのでしょうか。「私」の推測では、Kの肉体は海の方に歩いて行き、自分の置かれている状況に気づかないまま溺死します。
 魂が肉体を離れるように感じるドッペルゲンガーと言われる現象ですが、結核に冒され、常に自分の死というものを意識せざるを得なかった梶井基次郎は、このような忘我の境地に達していたのかもしれません。
 管理人のような凡人には、そのような感覚はとても理解できるものではありません。しかし、Kが海岸で培ってきた感覚は、平たく言うと、「自分だけのものとして大切にしまい込んでいる感覚」なのではないかと思います。例えば檸檬を手にとって落ち着きを取り戻す、といったような、他の人には理解されない自分だけの感覚を大切に持っていて、いざという時にその感覚を呼び覚ます人は多いのではないでしょうか?
 梶井基次郎の小説からは、「登場人物の感覚自体を理解することはできないけれども、そのような感覚を大切にする心は理解できる」という感想をいつも管理人は抱きます。だから彼の小説は、非常に個人的な感覚を書いているにもかかわらず、登場人物に親近感を覚えることができることがあるのかもしれません。