日本の短編小説の最高傑作とも称される梶井基次郎の『檸檬』のあらすじ、作品の概要、管理人の感想を紹介するページです。
『檸檬』の登場人物
私
肺尖カタルや神経衰弱を患い、借金を背負っている。「えたいの知れない不吉な塊」に心を押さえつけられている。
『檸檬』のあらすじ
※ネタバレ内容を含みます。
えたいの知れない不吉な塊に心を押さえつけられ、「私」は京都の街を放浪し続けていました。その頃の「私」は肺尖カタルや神経衰弱を患い、借金も背負っていましたが、いけないのは病気でも借金でもなく、その「不吉な塊」だと感じました。親しんでいた音楽や詩にも辛抱ができなくなり、金もないため、以前は好きだった丸善も避けるようになっていました。
友達の下宿を転々として暮らしていた「私」は、友達が学校へ行ってしまうと空虚な気持ちになり、いつものように街を彷徨いました。
ある果物屋の中に入ると、そこには檸檬が置かれていました。その檸檬の冷たさを感じ、何度も匂いを嗅いでいるうちに、自分の心を押さえつけていた不吉な塊が、いくらか弛んでくるのを「私」は感じました。
「私」はその檸檬を握りながら往来を歩き、その重さこそが自分の探していたものであり、全ての美しいもの、善いものを重さに換算したものだと考えました。
幸福を得た「私」は、普段避けていた丸善に入りました。しかしその途端、幸福な感情は逃げていき、「私」の心は憂鬱になりました。画集を取り出すことすら重く感じた「私」は、抜き出した本をバラバラとめくっては置くことを繰り返しました。
積み上げた本を見ているうちに、「私」は袂に入っている檸檬を思い出しました。様々な色彩の本を積み上げて城に見立て、その頂点にその檸檬を起くと、檸檬の周囲の空気だけが緊張しているような印象を与えました。
「私」は、それをそのままにして、何食わぬ顔をして外へ出ることを思いつきました。爆弾を仕掛けたような気分で丸善を出た「私」は、その爆弾が大爆発を起こし、気詰まりな丸善を木っ端微塵にしたらどれほど面白いだろうと想像しながら、京極の街を下っていくのでした。
作品の概要と管理人の感想
『檸檬』は、1925年に発表された梶井基次郎の代表作です。檸檬の持つ鮮やかな色彩や、冷やりとした感触によって揺れ動く心情を詩的に描き、しばしば日本の短編小説の最高傑作と評される作品です。
この作品で描かれるのは、果物屋で手に取った檸檬によって変化していく語り手の心情です。
「えたいの知れない不吉な塊」に心を抑えつけられた語り手は、以前のように音楽や詩を楽しめなくなっています。彼は「見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられ」、古い裏通り、安っぽい絵の具で塗られた花火、色ガラスで飾られたおはじきなどを見て慰められています。以前まではお気に入りだった、様々な色合いの商品で飾られた丸善も、借金で生活が蝕まれるようになってからは、重苦しい場所に感じるようになっています。
このような気持ちを抱えたまま街を放浪していた語り手は、お気に入りの果物屋に入り、檸檬を手に取ります。その檸檬の冷たさは快く、語り手は「ずっと昔からこればかり探していた」かのようなしっくりとくる感覚を覚え、幸福を感じます。
檸檬によって「軽やかな昂奮に弾」み、今まで敬遠していた丸善にずかずかと入っていった語り手でしたが、すぐに幸福が逃げていくのを感じます。彼は画集を本棚から引き出しても元に戻す力がなく、ただそれを積み重ねていくことしかできなくなります。しかし、袂にあった檸檬を思い出すと、再び「軽やかな昂奮」が戻ってきて、積み重ねた画集の上にその檸檬を据え付け、眺め入ります。
語り手は更なるアイディアを思いつきます。それは画集の上に据え付けた檸檬をそのままにして外へ出るというものでした。丸善の棚に爆弾を仕掛けてきたつもりになった語り手は「気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」と考えながら街を歩き去ります。
憂鬱な気持ちで街を歩いていた語り手が、檸檬を手に取ることで快活さを取り戻すという心情の変化は、読み手の心をも揺れ動かします。その檸檬を爆弾に見立てて丸善に置き去る結末では、語り手と同じように心が軽くなるような感覚を味わう人も多いのではないでしょうか。
また、この作品は、本当に色彩が鮮やかです。
憂鬱な気分を抱えたまま街を彷徨っていた語り手は「あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様を持った花火の束」、「びいどろという色硝子で鯛や花を打ち出してあるおはじき」などを好みます。
丸善の中にある「赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜」といった描写も印象的です。
そして、語り手が檸檬を買う果物屋は、暗闇に浮き上がるように描写されます。
店頭に点けられた幾つもの電燈が驟雨のように浴びせかける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。
『檸檬』より
最後の一文では、「活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極」を語り手は歩き去っていきます。
語り手が抱えていた重苦しく憂鬱な心情と、これらの街のカラフルな描写は非常に対照的で、お互いがお互いを際立たせているようです。
その中でも「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色」と表現される檸檬の色は、非常に際立って連想されます。
語り手は、赤や青のカラフルな画集を積み上げます。この「画集を積み上げる」という描写は、それまでに描かれたものの中でも最も色彩に富んでいます。そしてその色彩に富んだ画集の頂点に、語り手はその檸檬を乗せるのです。
見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。
『檸檬』より
このように表現される光景は、非常に清々しい印象を与えます。
この檸檬の鮮やかさは、モノトーンの上に置かれてようやく発揮されるようなありきたりなものではなく、色とりどりの画集の上に置いてもなお際立つどころか、ほかの「ガチャガチャした色の諧調」を吸収して「カーンと冴えかえる」ほどの鮮やかさです。つまり、それまでに描かれてきた数々の物の中で、頂点に立つ鮮やかさを持つものとして表現されているのが、檸檬なのです。
そしてその檸檬の鮮やかさに釣られるように、重苦しく憂鬱であった語り手の心情も段々と色を帯びてきます。
結末では、画集の上に置いた檸檬を置きっぱなしにして丸善から出ることを語り手は思いつき、それを実行します。京極の街を歩き去るときの心理描写は直接書かれていないものの、誰にも理解されない秘密を抱え、にやりとする語り手の顔が思い浮かぶようです。
憂鬱な気持ちを抱えたままの語り手であれば、このようないたずらを思いつくことはできなかったでしょう。彼が快活な気分になったのは、気詰まりな丸善を爆破するという妄想によるものです。しかしそれ以上に、そのようないたずらを「思いつくことができる」ということを知り、自分の心に余裕ができてきたという自覚を持つことができたのが、語り手にとって重要だったのではないかと思います。
芥川龍之介の短編小説に『蜜柑』というのがあります。その作品における蜜柑もまた、人の心を和ませる役割を担っています。柑橘というのは何か人の心を豊かにする効果があるのでしょうか?私たちも、檸檬や蜜柑を目につく場所に置いておくだけで、普段とは違った心持になれるかもしれませんね。