森鴎外『阿部一族』の登場人物、詳しいあらすじ、感想

 『阿部一族』は、一九一三年に発表された森鴎外の短編小説です。
 江戸時代初期、熊本藩初代藩主である細川忠利の一周忌に、家臣である阿部権兵衛が自分の髻(ちょんまげのことです)を位牌に添えて投獄されたことで、他の兄弟をはじめとする阿部一族が屋敷に籠城し、細川家に仕える武士たちによって討ち取られた事件を題材にした作品です。鴎外が数多く残した歴史小説の中でも代表的な作品で、この時代に生きた武士たちのすさまじい生き様が描かれています。
 このページでは、『阿部一族』の登場人物、詳しいあらすじ、感想を紹介します。

※ネタバレ内容を含みます。

『阿部一族』の登場人物

細川忠利
一五八六年〜一六四一年。肥後国熊本藩の初代藩主。参勤交代のために江戸へと行こうとしている時に病に罹り、死去する。生前、十八人に殉死の許しを出していた。

細川光尚
一六一九年〜一六五〇年。忠利の嫡子。一六四一年、父の死に伴い、肥後国熊本藩の第二代藩主となる。忠利の一周忌に、自分の髻を切って位牌の前に供えた阿部権兵衛を不敬者として縛り首にする。

内藤長十郎
忠利の側仕え。酒での失敗を許されて以来、忠利に命を捧げることに決めていた。忠利死去の際、十七歳の若さで殉死を遂げる。

津崎五郎
忠利の犬牽き(猟犬の世話をする係)。身分が低いにもかかわらず、殉死を願い出て許され、飼っていた犬と共に腹を切る。

阿部弥一右衛門
千百石余りの領土を持つ、古くからの忠利の忠臣。仕事に手ぬかりがなかったため、却って忠利が反撥する癖を持つようになり、殉死の許しを得ることができなかった。忠利の死後、自分が殉死しなかったことを幸に生きているという噂を聞き、子供達の前で腹を切る。

阿部権兵衛
弥一右衛門の嫡子。島原の乱で手柄を立て、二百石の領地を得ている。弥一右衛門が殉死の許しを得ないまま腹を切ったことで、他の殉死者たちと区別され、父の跡を継ぐことができず、領地を兄弟と分割される。これがきっかけとなって武士を捨てようと決心し、忠利の一周忌に、自分の髻を切って位牌の前に添えるが、この行為を光尚に咎められ、縛り首となる。

阿部弥五兵衛
弥一右衛門の次男。阿部家の隣家に住む柄本又七郎と同じ槍を嗜んでおり、懇意にしていた。権兵衛の死後、他の兄弟たちと相談して屋敷に立て籠り、討手と対峙する。又七郎の槍に突かれ、自ら腹を切って死去する。

阿部市太夫
弥一右衛門の三男。島原の乱での軍功により、二百石を得ている。藩主となる前の光尚に仕えていた。討手により、他の兄弟と共に死去する。

阿部五太夫
弥一右衛門の四男。島原の乱での軍功により、二百石を得ている。討手により、他の兄弟と共に死去する。

阿部市之丞
弥一右衛門の五男。元服前で前髪がある。討手により、他の兄弟と共に死去する。

林外記
細川家に勤める大目附役。弥一右衛門が殉死の許しを得ずに腹を切った後、他の殉死者との区別をつけなければならないと考え、その領地を権兵衛のみに継がせずに、兄弟に分割して与えることを光尚に提案する。

天祐和尚
京都大徳寺の和尚。忠利の一周忌のために熊本を訪れる。

柄本又七郎
権兵衛の屋敷の隣に住む、細川家に仕えていた武士。史実では栖本又七郎。懇意にしていた阿部一族の悲運に同情し、敢えて自ら討手に加わり、弥五兵衛を討ち取る。

竹内和馬
細川家に仕えていた武士。千百五十石を持つ鉄砲隊の頭。島原の乱で十六歳で手柄を立てた人物。二十一歳。阿部家の討手の指揮役として表門に配され、討死する。

高見権右衛門
細川家に仕えていた武士。五百石を持つ鉄砲組の頭。島原の乱での軍功がある。討手の指揮役として裏門に配され、阿部家を討ち取ったあと、それぞれの働きを光尚に報告する。

『阿部一族』の詳しいあらすじ

 寛永八年(一六四一年)、肥後国の熊本城藩主、細川忠利は、参勤交代のために江戸へ向かおうとしているときに病にかかり、三月十七日に五十六歳でこの世を去りました。
 二十三歳になっていた嫡子の光貞(後に光尚と改名)は、江戸に参勤中で静岡県西部にいましたが、父の死の知らせを聞いて引き返しました。

 五月五日の四十九日が済む頃には、忠利の側近の中から、既に十数人の殉死者が出ていました。

 殉死には、死んだ当主の許しを得なければならないという掟があり、その許しなく死ぬのは犬死と同じことでした。忠利は、忠実な家臣を嫡子の光尚のために残しておきたい気持ちを持っており、また殉死というものが残酷なことであると気づいていましたが、彼らが生きながらえた場合に、恩知らずや卑怯者だと言われながら生きるのも口惜しいだろうと考え、仕方なく殉死を許しました。

 殉死した者の中で、忠利のそばに仕えて雑用を行っていた内藤長十郎は、まだ若輩で際立った功績もなかったものの、生前の忠利に目をかけられていました。長十郎は酒での失錯を忠利に許されたことがあり、その恩に報いなければならないと考えていました。
 忠利の生前、長十郎は、死後のお供をさせてほしいと頼みました。忠利は、まだ十七歳の長十郎の殉死を許しませんでした。
 長十郎が引き下がらずにいると、忠利は強情な奴だと言って、二、三度頷きました。それは殉死を了解する合図でした。長十郎は、自分が殉死をしないことで受ける屈辱から逃れることができ、さらに殉死者の遺族は優待を受けることができるため、安心して死ぬことができると思いました。
 四月十七日の朝、長十郎は、母親、妻、弟の佐平次を呼んで殉死のことを明かし、盃を取り交わしました、
 酒が利いてきた長十郎は、居間の真ん中に寝転がり、鼾をかきはじめました。昼を過ぎると、介錯人が訪れて来たため、妻は姑に促され、長十郎を起こしました。
 少しだけ寝るつもりで気持ちよく寝過ごしてしまった長十郎は、普段と同じように一家四人で食膳につき、その食事が終わると、死に場所と決めていた寺に行き、腹を切りました。

 忠利の犬牽き(猟犬を飼い慣らす者)津崎五助は、ねだるようにして殉死のお許しは得たものの、家老たちは、五助の身分が低かったことから、死ぬのを思いとどまるよう説得を試みました。
 五助は、家老たちの言うことを聞かず、自分の犬を連れて、死に所と決めていた寺へ行きました。彼は自分が死んだら野良犬となる犬を不憫に感じ、もし野良犬となっても生きていたいと思うなら、取り出した握り飯を食ってくれと話しかけました。犬は五助の顔ばかり見て、握り飯を食おうとはしませんでした。五助は一緒に死ぬかと聞くと、犬は一声鳴いて尾を振りました。五助は犬を抱き寄せて脇差を刺しました。
 犬の死骸を傍に置いた五助は、同じ脇差で腹を十字に裂き、殉死を遂げました。

 忠利の許可を得て殉死した十八人のほかに、阿部弥一右衛門という者がいました。
 彼は古くから忠利の側に仕えており、周囲も自分も殉死するものと思っていました。しかし勤勉で、手ぬかりのない仕事ぶりだった弥一右衛門は、どこか親しみづらいところがある男で、忠利は、彼の言うことに反対する癖がついていました。弥一右衛門が殉死を願い出ると、忠利はどうしてもそれを許さず、生きて光尚に奉公してほしいと言いました。その後も弥一右衛門は何度も殉死を願い出ましたが、それが許されないうちに、忠利は死んでしまいました。
 弥一右衛門は、殉死せずに生き残ることはできまいと考え、犬死と知って切腹するか、浪人になり熊本を去るかのどちらかだと考えながら、いつものように自分の勤めを果たすことに専念しました。
 五月六日に、十八人のものが皆殉死し、熊本中は、誰の殉死が立派であったなどという噂で持ちきりになりました。二、三日後、弥一右衛門は、自分に殉死の許しが出なかったことを幸いに生きているという噂があることを知りました。
 その噂を聞いた弥一右衛門は、その日家に戻ると、子供たちを集め、腹を切ることを告げました。そして、許しのなかった男の子供だと言われて侮られることもあるだろうが、兄弟喧嘩をせず、恥を受けるときは一緒に受けるようにと言い残すと、子供たちの目の前で切腹し、自分で首筋を刺し貫いて死にました。
 父の死を間近に見た兄弟たちは、周囲からどのような目で見られようと、自分たちは離れ離れにならず、固まっていこうと誓い合いました。

 光尚の家督相続が済み、殉死した十八人の家の者たちは、そのまま嫡子に父の跡を継がせることができ、未亡人や父母には扶持が与えられました。
 しかし阿部弥一右衛門の遺族は、嫡子の権兵衛が父の跡を継ぐことができず、領地を兄弟と分割されてしまいました。それは、大目付役の林外記という男が、殉死の許しを得ていない弥一右衛門の子供たちと、他の殉死者の間に区別をつけなければならないと考えたためでした。
 これにより、権兵衛の兄弟は、家中のものたちに疎んじられるようになり、不平を抱えるようになりました。

 寛永十九年三月十七日、忠利の一周忌に、京都の大徳寺の天祐和尚が来ることになり、家中のものは準備に勤しみました。
 当日になり、殉死者遺族の一人として忠利の位牌の前に進んだ阿部権兵衛は、焼香を終えた後に、脇差を使って髻(もとどり、髪を束ねた部分)を切り、位牌の前に備えました。
 他の侍たちがその行為を見咎め、詰問をしたところによると、権兵衛は、自分の領地となる筈であった部分を割いて、弟たちに分配されたので、忠利にも、父親にも面目が立たないと思っており、焼香のときに武士を捨てようと決心したと言いました。
 その話を聞いた光尚は、面当てをされたような思いになり、権兵衛の出入りを感じる措置に出ました。
 これを受けて、阿部一族は、まだ逗留している天祐和尚にすがることにしました。天祐和尚は気の毒に思い、髻を切って僧門に入ったも同然の権兵衛の助命だけは願ってみようと言いました。
 しかし、天祐和尚が権兵衛の助命を願うことを予期した光尚は、和尚が帰郷するまで何の沙汰も出しませんでした。

 天祐和尚が熊本を発つと、光尚はすぐに、忠利の位牌に不敬な真似をした咎で、権兵衛を縛り首にさせました。
 阿部一族は集まって評議し、権兵衛が縛り首にされた以上、これ以上の奉公は不可能であると考え、屋敷に立て籠り、討手と戦って死ぬことを決意しました。彼らは門戸を固く閉ざして酒宴を開き、老人や女は自殺し、幼いものを刺し殺しました。

 権兵衛の屋敷の隣に住む武士、柄本又七郎は、自分と同じように槍を嗜んでいた弥五兵衛と懇意にしており、弥一右衛門の殉死が許されないと聞いた時から、阿部一族を気の毒に思っていました。
 細川家に仕える身分であるため、籠城している阿部一族を見舞うことのできない又七郎は、妻を見舞いに行かせました。阿部一族は、心から又七郎夫婦に感謝し、死後、自分たちを思い出すことがあったら、一遍の読経をしてくれるよう頼みました。

 阿部家の表門には竹内和馬という男が、裏門には高見権右衛門という男が、討手として差し向けられました。和馬は、島原討伐の時に十六歳で手柄を立てた男でした。
 和馬は、林外記が自分を表門に配し、忠利への恩返しをさせると言ったたことを聞くと、自分はするべきだった殉死をせずに生きながらえていた人間に思われていたのだと考え、討死することを決心しました。

 四月二十一日、一手と共に錠前を壊して籠城する阿部家の屋敷に雪崩れ込んだ竹内数馬は、戸を開けて中に飛び込み、市太夫、五太夫の槍に脇腹を突き抜かれました。

 細川家に仕える身として、阿部家と敵対しなければならない柄本又七郎は、敢えて阿部家と戦うことを決意し、弥五兵衛と対峙しました。戦いの末、又七郎は弥五兵衛の胸を突きました。敗北を悟った弥五兵衛は、腹を切るために座敷へと入って行きました。

 高見権右衛門が裏門を押し破って邸内に入ると、既に市太夫と五太夫は無数の傷を負い、市之丞は倒れていました。権右衛門は、自分に忠誠を尽くす小姓が盾となり、この戦を生き延びました。

 阿部一族は、弥五兵衛が切腹し、市太夫、五太夫、七之丞が息耐えました。

 高見権右衛門は、阿部の屋敷に火をつけて引き返し、光尚に阿部一族を討ち取ったことを伝え、それぞれの家臣たちの働きを詳しく述べました。

光尚は、権右衛門に命じて一同を庭に呼び入れ、討手に加わった者たちの労をねぎらいました。

阿部一族の死骸は、川で洗われ、その傷が吟味せられました。その中でも弥五兵衛の傷は立派であったので、その傷をつけた又七郎は誉れを得ることとなりました。

管理人の感想

 『阿部一族』は、熊本藩主細川忠利の死去の際に、殉死の許しを得ることができないまま腹を切った阿部弥一右衛門の息子たちが、藩の不遇な処置に納得できず反旗をひるがえし、討手によって全滅させられるまでが描かれた短編小説です。
 亡き君主の後を追って切腹する殉死という文化がテーマになっており、読み手によって非常に意見の分かれる作品だと思います。

 まず始めに、安易に死を選ぶ登場人物たちの生き方には、全く理解も共感もすることができないという意見があると思います。死んだ当主の後を追うことが名誉だという彼らの常識は、現代人の感覚とは大きくかけ離れており、殉死の許しを得ようと得まいと、それは単なる後追い自殺に過ぎないのではないかという考え方です。殉死という言葉自体に拒否反応を示す人もいるかもしれません。

 一方で、武士道を貫き通した彼らの行動を礼賛する意見もあると思います。たしかに現代の我々の尺度で見た時の彼らの行動は理解し難いものです。しかし、立派な死に様を見せることが誉れ高いこととされており、殉死者の遺族が高待遇を受けることができた当時の社会において、自ら命を散らしていった彼らの行動は、勇敢で賢明であったと考えることもできるのではないかと思います。

 もちろん、上にあげた二つの意見はどちらも極端なもので、ある部分では登場人物たちに共感できるけれども、その他の部分では共感することができないといった意見もあるでしょう。いずれにしても、この作品で書かれているのは、現代とはかけ離れた常識の中にいた人々の、すさまじい生き様です。やや史実とは異なっている部分もあるようですが、これほどの覚悟を持って自分の人生を全うした人々が存在していたという事実に、ただただ驚嘆させられるばかりです。彼らの潔い人生には無条件で敬意を払わなければならないような感覚にもさせられます。そしてこのような、現実世界では出会うことのない価値観を持つ人々や、私達にはとても到達することのできない、途方もない意志を持った人々を描き出すのが、文学が成し得ることの一つであると思います。

 また、この驚くべき物語に、鴎外の簡潔な文体は非常にマッチしています。淡々として飾り気がなく、作者自身の意見が極力排除された文章は、阿部権兵衛とその兄弟たちが命を捨ててまで守り通した武士道の精神を、そのまま表現しているかのようです。

 見栄や外聞のために自分の尊い命を捨てなければならない当時の社会に、現代に生きている私たち読者が否定的な意見を持つのは当然のことだと思います。しかし『阿部一族』は、そのような賛否両論を超えた次元で、死すらも恐れずに行動した人々の「凄み」のようなものが表現された作品であると思います。