森鴎外『寒山拾得』の登場人物、詳しいあらすじ、感想

 『寒山拾得』(かんざんじっとく)は、一九一六年に発表された森鴎外の短編小説です。
 寒山と拾得は、七、八世紀ごろに、中国浙江省東部に位置する霊山・天台山の国清寺に出入りしていたと言われる二人の僧です。彼らはいつもみすぼらしい格好で、奇声を発しながら寺の廊下を歩くといった奇行の持ち主であった一方で、仏教の教理に深く根ざした詩を、山林の石、竹、民家の壁などに書き連ねていました。
 伝説では、寒山が文殊菩薩の化身、拾得が普賢菩薩の化身、そして二人の師の豊干(ぶかん)が釈迦の化身であると言われており、本国では、彼らのことを『三隠』と呼んでいるようです。

 閭丘胤(りょきゅういん)という長安の官吏が、三人が残した詩を編纂し、『三隠詩集』として後世に残したとされていますが、実は寒山、拾得、豊干だけでなく閭丘胤も、実在の人物であるかはわかっていません。しかし、とにかく『三隠詩集』というのが残っていて、閭丘胤が書いたとされるその序文には、台州(現在の浙江省東部)に赴任することになった彼が、頭痛をまじないの力で治してくれた豊干に勧められ、国清寺の寒山と拾得を訪れた時の顛末が書かれています。

 森鴎外の『寒山拾得』は、この『三隠詩集』の序文にある寒山と拾得の伝説をもとに書かれた作品です。鴎外は、この作品について書かれた随筆『寒山拾得縁起』の中で、寒山と拾得について興味を持った子供のために聞かせた話を、一冊の参考書も見ずにそのまま書いたと述べており、綿密に調査によって書かれた他の歴史小説とは一線を画した作品となっています。このページでは、『寒山拾得』の、登場人物、あらすじ、感想を紹介します。

『寒山拾得』の登場人物

閭丘胤(りょきゅういん)
台州に赴任することとなった長安の官吏。

豊干(ぶかん)
天台の国清寺にいた僧侶。寒山と拾得の師で、釈迦の化身と言われる。閭の頭痛を治し、寒山と拾得の名を教える。

道翹(どうぎょう)
国清寺に来た閭丘胤を案内した僧。

寒山(かんざん)
天台山の西にある寒巌という石窟に住んでいた僧。拾得が残しておいた残飯を貰いに、国清寺を出入りしていた。文殊菩薩の化身と言われる。

拾得(じっとく)
豊干が松林の中から拾ってきた捨て子。寺の厨で炊事を担当している。普賢菩薩の化身と言われる。

『寒山拾得』の詳しいあらすじ

 唐の貞観(第二代皇帝太宗の年号。西暦六二七年から六四九年)の頃、長安の閭丘胤という官吏が、台州(現在の浙江省東部)の主簿(帳簿を扱う役人の長)に着任することになりました。

 閭(閭丘胤の本来の姓は「閭丘」のようですが、この小説においては、鴎外の勘違いのために「閭」となっています。)が台州へ旅立とうとした時、ひどい頭痛に襲われました。医者の薬を飲んでも治らず、出立を延ばさなければならないと思っていたところへ、ある一人の僧が彼を訪れ、清浄な水があれば頭痛を治して見せようと言いました。

 仏典を読んだこともなかったものの、僧や道士に尊敬の念を抱いていた閭は、その僧にまじなってほしいと頼み、汲みたての水を持ってこさせました。僧は、その水を受け取って口に含み、閭の頭に吹きかけました。
 僧の水に気を取られた閭は、頭痛を忘れました。

 治療代を受け取らずに帰ろうとした僧を閭は引き留め、どこのものかと尋ねました。すると僧はこれまで天台(浙江省東部)の国清寺(天台山の南麓にある天台宗の総本山)にいた豊干(ぶかん)だと名乗りました。
 台州に会うべき人がいるかと聞くと、豊干は、国清寺にいる拾得(じっとく)と、その寺の西にある寒巌という石窟にいる寒山(かんざん)の名を教えました。豊干によると、拾得は普賢の化身で、寒山は実は文殊の化身であるようでした(普賢と文殊は、釈迦の両隣に侍す仏教の菩薩です)。

 閭は台州に着くと、寒山と拾得に会うため、天台の国清寺を目指して出かけました。六里半の道のりを二日かけて国清寺へ辿り着くと、閭は道翹(どうぎょう)という僧に出迎えられ、客間へと案内されました。道翹によると、本堂の後ろの僧院に住んでいた豊干は、虎に乗って寺に入り込み、廊下で詩を吟じていたようでした。
 拾得という僧がまだこの寺にいるかと聞くと、道翹は、拾得は寒山とともに厨で火に当たっていると答えました。閭は、その厨まで案内してもらいました。
 道翹によると、拾得は、豊干が松林の中から拾ってきた捨て子で、拾われてから三年ほど経った頃、十六羅漢の一人である賓頭盧尊者の像がどれほど尊いのかを知らないまま、その像と向き合って食事をしていたところを見つけられ、今では厨で僧たちの食器を洗っているようでした。
 寒山は、西の寒巌という石窟に住んでいて、拾得が食器を洗っている時、残っている食べ物を竹の筒に入れて取っておくと、それをもらいにくるようでした。
 閭は、そんなことをしている寒山拾得が文殊と普賢なら、虎に乗った豊干は何なのだろうと考えました。

 道翹は、閭を厨に案内し、かまどにうずくまって火に当たっている拾得を呼びました。
 拾得は、二、三寸伸びた頭を剥き出して、草履を履いていました。寒山は、木の皮で編んだ帽子を被り、足には下駄を履いており、どちらも痩せてみすぼらしい小男でした。拾得は道翹に呼ばれてにやりと笑いましたが、返事はしませんでした。
 閭は、二人のそばへ行き、恭しく礼をして、官吏の正式な挨拶を行いました。
 寒山と拾得は、同時に閭を見ると、顔を見合わせて腹の底から笑い、厨を駆け出して逃げて行きました。驚いてその後を見送った閭には、寒山が「豊干がしゃべったな」といったのが聞こえました。
 道翹は、真っ青な顔をして立ちすくんでいました。

管理人の感想

 『寒山拾得』は、唐の時代、浙江省東部に位置する霊山・天台山の国清寺に出入りしていた三人の僧である豊干、寒山、拾得の詩を集めた『三隠詩集』の序文を題材に書かれた作品です。
 この『三隠詩集』の編纂者で、序文を書いたとされるのが、台州に赴任した官吏・閭丘胤です。閭丘胤は、台州に赴任する直前、豊干という禅僧にまじないの力で頭痛を治してもらいました。豊干が国清寺から来たということを知った閭丘は、台州に会うべき人はいるかと尋ね、寒山と拾得なる人物が、それぞれ文殊菩薩と普賢菩薩の化身であると聞きます。閭丘は台州に着くと、さっそく国清寺へと出かけ、かまどの火にあたっていた寒山と拾得に、官吏流の正式な挨拶をします。すると寒山と拾得は、大笑いしながら「豊干のおしゃべりめ」と言って逃げだしてしまい、閭丘は唖然として二人の後を見送ります。

 ここまでが鴎外の書いた『寒山拾得』のあらすじになるのですが、何の前知識もなくこの作品を読んだほとんどの人が、この唐突とも言える結末に唖然とし、わけがわからないという感想を抱くのではないかと思います。なぜ閭丘がこのような目に合わなければならなかったのかを考え込んでしまう人も多いのではないでしょうか。

 鴎外はこの作品の中で、宗教や道に対する人間の態度は、三通りに分けられると語ります。一つ目は道に対して全く無頓着な人、二つ目は深く入り込んで道を求める人、そして最後にその両者の中間に位置する、自分から道を求めることをしないものの、盲目の尊敬を抱いている人です。閭丘はこの三者目にあたる人物で、「盲目の尊敬」を抱いているが故に、みすぼらしい格好で火に当たっている寒山と拾得の本質を見透すことはできません。地方長官という身分を人々から敬われ、賢者を訪ねにいくこと自体を手柄のように思っていた閭丘の官吏流の挨拶は、寒山と拾得によって哄笑を受けることとなります。鴎外版『寒山拾得』は、この「盲目の尊敬」というものがいかに無意味であるかを描いた作品と言われていますが、このような解釈を初見で行うことのできる人はあまりいないのではないかと思いますし、たとえこの「盲目の尊敬」の無意味さというのが理解できたとしても、それならばなぜ豊干が閭丘に寒山と拾得の存在を教えたのかという疑問が残ります。豊干は釈迦の化身であると言われていて、虎に乗りながら詩を吟じていた人物です。そのような人物が、宗教に対して「盲目の尊敬」を抱いている閭丘が寒山拾得に会いに行くことの無意味さに気づかなかったはずはありません。

 この作品について書かれた随筆『寒山拾得縁起』によると、鴎外は、寒山と拾得について興味を持った子供のために聞かせた話を、一冊の参考書も見ずにそのまま書いたようです。
 また鴎外は、「子供はこの話には満足しなかった。大人の読者はおそらくは一層満足しないだろう。」とも述べています。鴎外自身が、読者が釈然としない感想を自分の作品に抱くであろうことを公言しているのだから、やはりこの作品を理解することは難しいのではないかと思います。

 閭丘の書いたとされる『三隠詩集』の序文には続きがあります。

 寒山と拾得に逃げられた閭丘は、二人のための部屋を用意し、寺に呼び戻して住まわせようとしました。しかし寒山と拾得はそのまま寺へ戻ることがなかったため、閭丘は使者を寒巌に向かわせました。そしてようやく寒山を見つけだすことに成功しますが、寒山は巌の穴に入り込み、まもなくその穴は塞がってしまったので、彼らを探すすべは失くなってしまいました。
 後日、寒山が住んでいた寒巌を調べさせたところ、石、木、竹、人家の壁など、三百にもおよぶ詩が至る所に書き連ねられていました。閭丘は、これら寒山の詩を集め、拾得や豊干の詩と併せて『三隠詩集』として編纂しました。

 ここまでの話を知って、ようやく寒山や拾得の、何か底知れない能力のようなものが見えてくるとともに、豊干が二人に会いに行くように閭丘に勧めたのも、無意味なことではなかったのが分かるような気がします。しかし鴎外の作品は、この大切な後日談がばっさりと切り取られています。寒山と拾得は、かまどのそばで火に当たっているみすぼらしい小男としてしか描かれておらず、彼らが残した詩のことには一切触れられないため、それらを編纂した閭丘の功績についても語られることはありません。
 綿密な調査をせずに書いたから、このような大幅な省略がなされてしまったとの見方もできるのではないかと思いますが、管理人個人的には、鴎外はあえてこのような書き方をすることで、寒山拾得の持つ謎めいた魅力をさらに引き立てているのではないかと思います。『寒山拾得』で画像検索してみると、不気味に笑う彼らの禅画が数多く表示されます。鴎外のこの骨子とも言える部分がばっさりと切り取られた手法は、まるでそれらの禅画のように、何か心に引っかかるものを与えてくれます。

 鴎外の初期の作品『舞姫』では、愛する異国の女性を捨てなければならなかった知識人の苦悩が、かなりしっかりとした心理描写ととともに描かれました。
 『阿部一族』、『堺事件』などを中心とした中期の歴史小説では、心理描写を極力排除した淡々とした潔い文体で、初期の作品に比べかなりミニマイズされた印象を受けます。
 『寒山拾得』は、晩年の作品ですが、これはミニマイズされているというよりは、物語の全容を知る上で大事な部分がデリートされているといった方が正しいかも知れません。まるで鴎外が禅問答を楽しむかのように、なかなか説くことのできない無理難題を読者にふっかけているようにすら感じられます。

軍人、医学者として、当時としてはごく一部の人しか成し遂げることのできなかった洋行を行い、さらに作家として後世に名を残すことになった知の巨人・鴎外の至った境地がうかがい知れる作品であると思います。