森鴎外『堺事件』の登場人物、詳しいあらすじ、感想

 『堺事件』は、一九一四年に発表された、森鴎外の歴史小説です。
 一八六八年、無許可で上陸したフランスの水兵たちを、当時堺の町を取り締まっていた土佐藩の歩兵隊が銃撃して殺害し、その罪を問われて切腹した事件を題材にした作品です。この事件は、明治天皇がフランスの公使への謝意を表したり、伊藤博文が事件の解決のために奔走したりと、日本政府が初めて経験した大きな外交問題のひとつであったようです。切腹の際、藩士たちは、切った腹の中から自分の内臓を取り出し、検視をしていたフランス兵たちを恫喝したと言われています。思わず目を背けてしまいたくなるような凄惨な場面が描かれますが、切腹をした十一人の藩士たちの命に代えてでも守りきった武士道が表現された作品となっています。
 このページでは『堺事件』の登場人物、あらすじ、感想を紹介します。

※ネタバレ内容を含みます。

『堺事件』の主な登場人物

山内豊範
土佐藩藩主。

杉紀平太
堺に派遣されていた土佐藩大目附役。

生駒静次
堺に派遣されていた土佐藩目附役。

伊達宗城
外国事務係。前宇和島藩主。

深尾鼎
堺事件の解決のために駆けつけた土佐藩の家老。

小南五郎右衛門
深尾とともに堺にやってきた土佐藩大目附役。

箕浦猪之吉
土佐藩の六番歩兵隊隊長。二十五歳。

池上弥三吉
土佐藩の六番歩兵隊小頭。

杉本広五郎勝賀瀬三六山本哲助森本茂吉北代健助稲田貫之丞柳瀬常七
切腹を遂げた六番隊兵卒。

橋詰愛平岡崎栄兵衛川谷銀太郎金田時治
切腹を赦された六番隊の兵卒。

西村佐平次
土佐藩の八番歩兵隊隊長。二十四歳。

大石甚吉
土佐藩の八番歩兵隊小頭。

竹内民五郎横田辰五郎土居八之助垣内徳太郎武内弥三郎
切腹を赦された八番隊の兵卒。

『堺事件』の詳しいあらすじ

 明治元年戊辰の年の正月、徳川慶喜の軍が伏見鳥羽の戦いに敗れ、大阪城を守ることができずに海路で江戸に逃れた時、大阪、兵庫、堺の役人は職を捨てて隠れ、一時期これらの都会は無政府状態に陥りました。そこで朝廷の命令により、大阪は薩摩、兵庫は長門、堺は土佐が取り締まることとなりました。
 堺に入ったのは、土佐の六番歩兵隊と八番歩兵隊でした。土佐藩は、堺の民政も行うこととなり、大目附の杉紀平太、目附の生駒静次らが入りこみ、兵を監察して町政を取り仕切る軍監府を置き、隠れていた旧幕府の役人をそこの事務を行わせました。

 二月十五日、フランスの兵が大阪から堺に来るという知らせが軍監府に届き、杉は、六番と八番の隊長に、大和橋への出張を命じました。
 フランスの兵が通るのであれば、外国人事務係の伊達宗城から通知があるはずであるのにそれがなく、内地を旅するのであれば免状がなくてはなりませんでした。杉と生駒が大和橋で待っていると、そこへフランスの兵が通りました。彼らは免状を持っておらず、大阪へと引き返しました。

 しかしその日の夕方、フランスの軍艦が二十艘の小舟に水兵を乗せて上陸させたという知らせが届きました。六番隊の隊長の箕浦猪之吉と、八番隊の隊長の西村佐平次が駆けつけると、水兵たちは、神社仏閣、人家に無遠慮に立ち入り、女子供を捕まえてからかっていました。堺の町人たちは、見慣れない外国人を恐れて逃げ惑いました。
 両隊長が舟に帰そうとしても通訳がおらず、誰もいうことを聞かなかったので、陣所に引き立てる命令を下しました。するとフランスの兵士は、立てかけてあった隊旗を奪って逃げて行きました。土佐歩兵隊に所属する旗持の男が、逃げるフランス兵に追いすがり、鳶口(建築の解体に使う金属製の棒)を脳天に振り下ろしました。これを見た他のフランスの水兵たちが短銃で一斉射撃を開始すると、両隊長は射撃を命じました。その結果、フランスの水兵からは十三人の死者が出ました。
 杉が駆けつけて射撃をやめさせると、土佐の隊長二人は、命令を待つことができなかったと弁明しました。杉は、こうなった以上、フランスからの報復があるかもしれないので、防戦の準備をするように言いつけ、生駒を外国事務係へと遣りました。
 両隊はフランスの報復を待ちました。夜になるとフランスの端艇がやってきて、自国の兵たちの死体を捜索して帰って行きました。

 翌日、土佐藩は堺の取り締まりを免じられ、兵を引き払うこととなりました。両隊長は堺を発ちました。生駒静次は、堺の軍監府から外国事務局へ報告へ行き、外国事務局は、隊長の一人に出頭を命じました。
 フランス軍艦ヴェニュス号から公使が外国事務局と交渉にかかり、土佐藩主がヴェニュス号に出向いて謝罪すること、堺で土佐藩の隊を指揮した士官二人と、フランス人を殺害した兵卒二十人を、死刑に処すこと、そして土佐藩主が十五万ドルを支払うことを要求しました。
 土佐藩主の代理として、家老の深尾鼎が、大目附の小南五郎右衛門とともに到着し、六番、八番両歩兵隊の士卒を一人ずつ呼び出し、襲撃に加わったかと聞きました。その中の二十九人が、襲撃に加わったと答えました。
 襲撃に加わらなかったと答えたものは、帰国させられ、射撃を行なったと答えたものは、刀を取り上げられました。

 二月二十二日、大目附小南は、六番、八番隊の兵卒たちに、藩邸の大広間に出るように命じました。隊長と小頭を除いた二十五人が大広間に並ぶと、深尾が金襖から出てきて、フランス人が朝廷に下手人二十人の死刑を要求したことを伝えました。深尾は、その二十人を選ぶことができないので、稲荷社でくじ引きを行い、死刑になる二十人を決めよという命令を下しました。
 二十五人は、稲荷社へ赴いてくじ引きを行い、裁きを受ける二十人が決まりました。その内訳は、六番隊と八番隊のそれぞれの隊長と小頭、そして十六人の隊員でした。死刑を免れた者たちは、自分たちも二十人と同様な処置を願い出ましたが、却下されて隊籍を除かれ、数日のうちに国に帰されることが決まりました。
 十六人の隊員は、本邸に留め置かれ、藩邸を警固する士官が持ってきた酒を飲んで眠ってしまいました。
 その中で一人、酒を控えていた八番隊の隊員、土居八之助は、同じ隊員の杉本広五郎を起こし、明日打首になってもよいのかと聞きました。杉本は皆を起こし、自分達は兵卒になったときから死ぬことは覚悟しているが、恥辱を受けないために、死刑ではなく切腹させてもらおう話し合いました。
 十六人は取次役の詰所へ出かけ、奉行衆への面会を求めました。八番隊の兵卒、竹内民五郎は、上官の命令で発砲したことを自分達は犯罪と認められないが、どのような罪に当たるのかを聞かせて欲しいと言って、大目附役の小南らに詰め寄りました。
 小南は一同の気色に押され、評議をするので控えるているように申し付け、奥に入っていきました。
 しばらくして小南が出てくると、家老深尾鼎からの御沙汰書を読み上げました。それは、彼らが切腹することを許すというものでした。その場には、役人や外国の公使も来ることになるようでした。この決定に満足した十六人は、自分たちが切腹することで、今後も士分としての扱いをして欲しいと頼みました。
 小南らは詮議し、彼らを士分として取り立てることを決めました。
 一同は、隊長と小頭に、これを報告しました。隊長たちもまた警固隊の士官の馳走を受けて寝ていましたが、配下の者たちがやってくると面会し、彼らが切腹を許され、士分に取り立てられたことを聞いて喜び、また彼らとの別れを悲しみました。

 二月二十三日、邸内では二十人に酒肴が振る舞われ、彼らは用意された駕籠で護送されました。二十人の護送を命じられた熊本藩と広島藩は、彼らを丁重に扱いました。
 二十人は、切腹の場所に決められていた妙国寺へと到着すると、駕籠を出て本堂に並びました。
 切腹が終わると、死骸は駕籠に乗せられ、宝珠院に用意された大甕に移される手筈になっていました。
 切腹を見届ける検使は、外国事務係の総裁ら、護衛を任された細川家と浅野家の重役に、土佐藩の深尾鼎や小南、そしてフランス公使たちでした。
 二十人は、いつもの通りに談笑し、死んだ後にお世話になる僧侶に金を渡し、自分達が切腹する場所を見物しようとして、張り巡らされた幕の中に入りました。
 彼らは自分達が葬られる宝珠院を見ておこうと、揃って出かけました。土居八之助は、宝珠院に掘られた穴の前に並べてある大甕(おおがめ)に入り、なかなか好い工合だと言いました。
 二十人は本堂に帰り、挨拶をして杯を挙げました。

 大雨のために一時中止となった切腹は、申の刻に用意が整いました。
 役人が箕輪猪之吉を読み上げました。箕輪は、短刀を取り、自分が死ぬのはフランス人のためではなく、皇国のために死ぬので、日本男児の切腹をよく見ておけと怒鳴りました。そして彼は自分の腹を切ると、内臓を掴んで引き出し、フランス人を睨みつけました。箕浦がなかなか首を切ることのできない介錯人を怒鳴りつけると、フランス公使たちは、驚愕し、畏れました。
 次に西村佐平次が呼ばれました。介錯人は、西村が刀を引いているうちに首を落としました。
 次に両隊の小頭、池上と大石が腹を切りました。大男の大石は、切腹の刃の運びが滞りなく、手際が最も立派でした。

 十一人が切腹を遂げ、十二人目の橋詰愛平の番になりました。その頃には辺りは暗くなっていました。不安に堪えきれなくなったフランス公使は、何かを言うと、兵卒らと共にあたふたと幕の外へ出ていきました。
 橋詰が短刀を腹に立てようとすると、役人が駆けつけ、フランス公使退席のことを話し、切腹を差し控えるよう言いました。
 残った九人は、一思いに死んでしまいたいと思っていたため、切腹を止められてもどかしい気持ちに駆られました。
 橋詰に問いただされた小南は、各藩の家老たちがフランス軍艦に行ったので、知らせを待つようにと命じました。

 子の刻になり、家老たちが戻ってきました。彼らによるとフランス公使たちは、切腹を見るのが忍びなくなり、残った九名の助命を日本政府に申し立てたようでした。

 二月二十五日、九人は、大阪表に引き上げることとなりました。一同が駕籠に乗ろうとする時、死ぬことのできなかったことを遺憾に思っていた橋詰は舌を噛み切って倒れました。橋詰の傷は浅く、大阪に着くと医者がつけられました。
 九人のものは、一時細川、浅野両家に預けられ、丁重な扱いを受けました。

 三月二日、死刑を免じて国元に帰すという達しがあり、その翌日、土佐藩の隊長が九人を受け取りに廻りました。

 三月十四日、九人は、大阪を出発し、その翌々日に土佐に着き、妻子や父母と顔を合わせました。堺で起きた事件を聞いた者たちは、彼らをひとめ見ようと押しかけました。

 五月二十日、九人のものは出頭命令を受け、流刑に処せられるという通告を受けました。彼らは相談し、自分たちは国家のために死のうとして士分に取り立てられ、フランス人からの助命によって死ななかったに過ぎないのに、なぜ流刑に処せられなければならないのかと訴えました。
 しかし、流刑は自殺した十一人の苦痛に準ずる処分だと目附役が言ったため、九人は納得して流刑を受け入れました。

 彼らは土佐藩の西、幡多郡へと運ばれ、一軒の空き家に住み込むこととなりました。九人は、死んだ十一人のために供養を行い、村民に文武の教育を施し始めました。

 夏になると、村に発生する疫病により、隊員の川谷が死にました。

 十一月十七日、九人は、明治天皇即位による特赦を受け、土佐に戻る許可を得て、死んだ川谷を除く八人が高知に帰りました。しかし罪を赦された彼らが士分の取り扱いを受けるという沙汰はありませんでした。

 堺の宝珠院では、土佐藩は腹を切った者たちのために十一基の石碑を建てました。本堂の後ろには、死ななかったものたちが入る予定であった九つの大甕が伏せてあり、堺では、十一基の石碑を「御残念様」と、九つの大甕を「生運様」と呼び、参詣するものが耐えませんでした。

管理人の感想

 『堺事件』は、フランスの水兵たちと銃撃戦を繰り広げた末に切腹を命じられた土佐藩士たちの、凄まじい武士道精神が描かれた作品です。

 事件の発端は、フランスの水兵たちが無断で堺の町に上陸し、女子供をからかい、隊旗を奪って逃亡したことです。その隊旗を奪ったフランス兵が攻撃されたことで銃撃戦が始まるわけですが、はじめにそのフランスの水兵を攻撃したのは藩士ではなく、鳶の者(旗持を兼ねた火消し役)です。また、先に発砲したのはフランスの水兵たちで、藩士たちは応戦したに過ぎません。

 これら一連の出来事に、土佐藩士たちの非は見当たりません。しかし彼らは刑に処せられることになります。しかも死ぬことになる二十人は籤引きによって決められます。史実がどうだったのかはわかりませんが、この作品に書かれていることだけから判断すると、彼らにくだされた運命は理不尽なことばかりです。もちろん死ぬことになった二十人は納得が行かず、奉行所へと駆け込んで、自分たちの罪状が何なのかと詰め寄ります。

 とまあ、ここまでの藩士たちの行動は理解しやすいです。しかし、ここからの彼らの行動は、現代に生きる私たちとの感覚とは大いに隔たりがあります。彼らは打首ではなく、切腹を求めるのです。
 そもそも彼らは死ぬことが嫌なわけでも、籤引きに納得がいかないわけでもありません。彼らが納得いかないのは、自分たちが国に尽くした行動をとったにもかかわらず、処刑されなくてはならない理由がわからないことと、打首という恥辱を受けたまま処刑されなければならないことです。そのため、土佐藩主の謝罪をフランスの軍艦が要求していることを大目附役から伝えられ、「君辱(はずか)しめらるれば臣死す」と諭されると、彼らはすぐに納得し、むしろ士分(正規の士族)としての扱いを受ける事に喜びながら引き下がります。

 切腹の許しを得た彼らは、当日になってもいつもの通り談笑しながら現れ、自分たちが切腹することとなる幕の中を見物し、埋葬される寺院の墓穴を見に行きます。藩士の一人は、自分たちの死骸を入れることとなる大甕の中に入ってみて、「なかなか好い工合じゃ」などと言っておどけて見せます。虚勢を張っているだけなのかもしれませんが、少なくともこの作品においては、彼らはこの状況を楽しんですらいるような鷹揚さを見せてくれます。

 そしてこの作品のクライマックスで、六番隊隊長の箕浦猪之吉は、切った腹から自分の内臓を取り出し、フランスの公使たちを大喝します。残った藩士たちも見事な切腹を遂げると、その光景の凄惨さに恐れ慄いたフランスの公使たちは、刑の中止を求めます。

 切腹を止められた九人の藩士たちは、流刑を命じられます。彼らは再び納得がいかないと不平を言います。しかし自殺した十一人の苦痛に準ずる処分だと目附役が言うと、九人は納得し、流刑を受け入れます。一度切腹を受け入れた藩士たちが、短期の流刑という小さな罪に対しても文句を言うことを意外に感じた人もいるのではないかと思います。しかし、これはおそらく、藩士たちにとっては、受ける刑の大きさが問題なのではなく、自分たちが納得できる大義名分があるかないかが問題なのだということを表しています。自分たちが刑を受けなければならない理由に納得すると、その刑の大きさが罪の大きさに見合わなくとも、彼らはそれを受け入れるのです。彼らの多くは正規の武士ではなかったようなので、もしかすると、生粋の武士以上に、武士らしく生きることへの憧れや美学があったのかもしれません。
 また、彼らが一度目に死刑を受け入れたのは藩主のためであり、二度目に流刑を受け入れたのは死んだ仲間たちのためです。これは、彼らが個人単位ではなく、自分が属する世界のために生きていることを示していると思います。彼らのように、忠誠を誓う藩主や、共に戦った仲間のために死ぬことも厭わない覚悟を持って生きていた人が、きっとこの時代にはたくさんいたのでしょう。

 幕末から明治にかけては、日本の歴史の中でも、戦国時代と並んでファンが多い時代です。西郷隆盛や板垣退助といった維新の志士たちのような、華やかなイメージを持った人々の活躍が多くのメディアに取り上げられています。しかしその裏で、堺事件に関わった藩士たちのような人々が、自分たちの命を賭して戦っていたのも間違いのない事実です。『堺事件』は、そのような名もない大勢の人々が、今の日本の土台を作ったのだということを思い起こさせてくれる作品であると思います。