森鴎外『高瀬舟』ってどんな作品?登場人物やあらすじを詳しく解説

森鴎外作『高瀬舟』のあらすじ、登場人物を紹介するページです。作品の概要や管理人の感想も。

『高瀬舟』の登場人物

喜助
三十歳ほどの住所不定の男。幼い頃に両親を亡くし、弟と残された。西陣の織場で働いていたが、弟殺しの罪で流刑に処せられ、護送の高瀬舟に乗っている。

喜助の弟
喜助とともに身を寄せ合って生きてきたが、病気で体を動かすことができなくなり、罪悪感を感じていた。

羽田庄兵衛
喜助を高瀬舟で護送する役人。四人の子供と母親と妻を養っている。金持ちの商人の娘であった妻は、金がなくなると、親元から時折金を貰ってくる。

『高瀬舟』のあらすじ

 徳川時代、島流しの刑になった京都の罪人は、高瀬舟に乗って川を下り、大阪へ連れて行かされました。この舟には、罪人の他に、主な親類が一人乗ることが許されていました。護送の役人は、罪人と親族のものが話す悲惨な境遇を聞くことになるのでした。
 寛政の時代、喜助という三十歳ほどの男が、弟殺しの罪で高瀬舟に乗りました。喜助には同乗する親戚もいませんでした。護送する役人は羽田庄兵衛といいました。庄兵衛は、護送されるときも楽しそうな顔つきをしている喜助の態度を疑問に感じ、何を思っているのかと聞きました。
 骨を惜しまずに働いても、次から次へとその金が流れてしまったという喜助は、島流しの刑にあったものに与えられる二百文をありがたいと思っていると言いました。彼はその二百文を元に、新たな仕事を行うつもりでいるようでした。妻、母親、四人の子供を養っている庄兵衛は、君主から給与を貰っていましたが、満足を覚えたことはありませんでした。不運な人生を送ってきたのであろう喜助が、自分の生活に満足しているところが、自分と違うところであると庄兵衛は考えました。なぜ人を殺めたのかと聞くと、喜助は語り始めました。
 喜助は幼い頃に両親を亡くし、弟と生活を始めました。そのうちに弟が病気で動けなくなり、喜助一人に稼がせるのが申し訳ないと繰り返すようになりました。ある日、喜助が家に帰ると、弟は剃刀で気管を切って死のうとしていました。弟は苦しんでいましたが、なかなか死ぬことができず、喉に刺さっている剃刀をうまく抜いてくれれば死ねるだろうと、喜助に頼みました。喜助は弟の怨めしそうな目を見て、その剃刀を抜いてやる決心をしました。喉元の剃刀に手を当てて引き抜こうとすると、弟の世話をしていた近所の婆さんが入ってきて、再び駆け出して行きました。気づくと弟の息は切れ、喜助は役場へと連れていかれました。
 喜助の話の道理が通っていると思った庄兵衛は、その行動が人殺しと言えるのかということがわからなくなりました。喜助を罪人にした奉行所の考えを信じようとしても、腑に落ちない想いは彼の中に残りました。

作品の概要と管理人の感想

 『高瀬舟』は、1916年に発表された短編小説です。現代においても頻繁に議論になる安楽死を取り扱った作品です。
 舞台は罪人を乗せて京都から大阪へと向かう高瀬舟の中。弟殺しの罪で捕えられた喜助が、護送役の庄兵衛と共に川を下っています。喜助が晴れ晴れとした顔をしているのを疑問に感じた庄兵衛が、その理由を尋ねるところからこの小説は始まります。
 喜助は、これまでまとまった金を手に入れたことがなく、流刑の際に送られる二百文に喜んでいるようでした。人を殺めた理由を聞くと、自殺を失敗した弟の喉に刺さる短刀を引き抜いて殺したことを喜助は語ります。その話を聞いた庄兵衛は、もうすぐ死ぬことがわかっている人間を楽にするために、その息の根を止めてやったことが罪に当たるのかわからなくなります。
 腑に落ちない思いで護送する庄兵衛とは対象的に、罪に問われたはずの喜助が晴れ晴れとした顔をしているのは、自分が正しいことを行ったという確証を持っているためでしょう。弟を自らの手で殺めることなく、見殺しにしたのであれば、たとえ世間から裁かれることはなくても、自分で自分を裁かなければならなくなります。彼はそのことをきっと理解していたのでしょう。
 しかし、それでもなお、彼が不幸な境遇にいることは間違いありません。唯一の親類であった弟を亡くし、殺意を持って行ったわけではない殺人が罪に問われて流刑にされるのですから、客観的に見れば、以前よりも不幸になったという見かたもできるかもしれません。そのように考えると、喜助が晴れ晴れとした顔をすることができているのは、他人と比べることをせずに自分の幸福を決めることのできる資質と、定められた運命をしっかりと受け入れる謙虚な心に依るところも大きいのではないかと思います。
 『高瀬舟』は、安楽死を問題提起するだけでなく、不幸な境遇においても前向きに行きていこうとする喜助を通して、人間がどのような心構えでいれば幸福になれるのかが書かれている作品としても読めるのではないでしょうか。さまざまな意味合いにおいて、非常に先見性のある作品であると思います。