中島敦作『李陵』の章ごとのあらすじを紹介するページです。
※ネタバレ内容を含みます。
一
天漢二(紀元前九十九年)九月、孝武帝(こうぶてい)の時代、漢の北辺では、匈奴の大部隊が現れ、殺人、略奪を繰り返していました。騎都尉(きとい、軍務を行う漢の官職)の李陵(りりょう)は、自分のために命を惜しまない五千人の部下とともに、匈奴(漢を脅かした遊牧騎馬民族)の軍を側面から牽制したいと嘆願して孝武帝に許され、匈奴の勢力圏へと入りました。彼らより先に夏のうちに天山に出撃した将軍の李広利(りこうり)は、一度右賢王(うけんおう、匈奴の貴族の称号の一つ)を破り、その帰途、別の匈奴に襲われて惨敗していました。
李陵は、無謀と言われる徒歩で適地に侵入し、漢の北端にあたる浚稽山(しゅんけいさん)の山間で敵情を探り、付近の地形を調べ、その報告書を陳歩楽(ちんぶらく)という男に持たせて都へと派遣しました。その間、敵兵は現れませんでした。
十日ほど浚稽山の山間にとどまり、出発しようとしたその時、敵兵が現れました。李陵は戦闘に入る準備を整えさせ、敵兵の不意をついて攻撃し、鮮やかに敵を撃退しました。
その敵は、おそらく単于(ぜんう、匈奴の首長)の親衛隊であり、今後さらなる襲来が予測されたため、李陵は、この地を撤退して南へ移ることにしました。
撤退から三日目、李陵の軍は敵兵を遠くに認めました。敵兵は、李陵たちの体力を奪うかのように、遠くから矢を放ち続けました。李陵の軍は、二回傷を負うまでは自分の足で歩かなければならず、三回傷を負って初めて俥に乗せられました。死体は荒野に遺棄するしかなく、また駐屯中に妻になって兵車の中に隠れていた女たちは斬り捨てられました。一行は、泥濘の中を進み、猛烈な匈奴の攻撃を受けました。
匈奴は、ある程度まで南下したら軍を引き上げる予定でしたが、漢軍の中で手ぬかりを叱責された管敢(かんかん)というものが、陣を脱して匈奴に寝返り、漢軍に後援のないことを伝えたため、匈奴は撤退をやめました。
翌日、匈奴の精鋭群が漢軍に襲いかかりました。漢軍は矢も尽き果て、大量の死傷者を出して山間に追いやられました。
その夜、李陵は、全員に食糧を与えて走らせ、そのうちの一人が遮虜鄣(しゃりょしょう、漢の辺境にある城塞)につけば、天子に状況を知らせることもできるだろうと考えました。漢軍は、匈奴の不意をついて走り出し、あるものは匈奴の馬を奪って南へと駆け出しました。李陵は傷を負いながら戦乱のさなかに入り込み、馬を討たれて倒れた拍子に気を失い、生け捕りにされてしまいました。
二
十一月、李陵の五千の漢軍のうち、四百あまりが生き残り、負けたことが長安に伝えられました。李広利の本軍ですら惨敗しているのだから、李陵の軍が破れようと不思議ではなく、李陵は戦死しているのだと思われました。戦線に異常はないと伝えていた陳歩楽だけは自殺しなければなりませんでした。
翌年の春、李陵が捕らえられて生きているという報が届きました。数々の裏切りに合い、群臣への猜疑心を持つようになっていた孝武帝は、この知らせを聞いて激怒しました。
群臣たちは、孝武帝の顔色を伺って、李陵の悪口を言いました。しかし、その中で、太史令(古代中国の歴史の記録や天文や暦を司る職業)の司馬遷だけは、五千の兵で数万の匈奴を射ってきた李陵を褒め上げました。司馬遷は、この李陵を擁護する発言によって、宮刑に合いました。死刑を覚悟していた司馬遷でしたが、宮刑になることは予測しておらず、これは彼に大きな苦痛をもたらしました。
その頃司馬遷は、暦の改正案という大仕事を四年かけて行い、死んだ父の念願であった史記の編纂にあたっていました。彼が残したい史記とは、一人一人の人間に焦点を当て、未来の人々にも当代のことを伝えるためのものでした。宮刑に合った彼は自殺すら考えましたが、使命感がそれを阻み、編纂の仕事を続けました。孝武帝は、司馬遷を宮刑に処したことを後悔し、他の役職につけました。
三
捕らえられた李陵は、胡地(北方民族の勢力下にある土地)に住みながら、敵に従う振りをして機を見て脱出することに心を決めました。匈奴の王、且鞮侯単于(しょていこうぜんう)は李陵を丁重にもてなし、軍略についての話を李陵に聞きました。しかし対漢についての話に李陵が乗ることはなく、漢から投降した人々と口を聞くこともありませんでした。
単于の長男、左腎王(さけんおう)が、李陵を尊敬の目で見るようになりました。李陵は左腎王に射を教え、二人で狩猟に出かけるようになるにつれ、友情のようなものを感じるようになりました。
天漢三年の秋に、漢と匈奴の間に再び争いが起きました。翌四年、漢軍による大征伐が行われましたが、匈奴による激しい攻撃を受け、漢軍は撤退を余儀なくされました。
左賢王に敗れた将軍、公孫敖(こうそんごう)は、李陵が匈奴に軍略を授けているためだと語りました。おそらく、李陵は、李緒(りしょ)という匈奴についた将軍に間違えられて、匈奴に降りたのだと思われたのでした。武帝はこの知らせに激怒し、李陵の親類を全て殺しました。その半年後、李陵はこのことを知って、漢に対して激しい怒りを覚え、李緒を刺し殺しました。
李陵は、単于に事情を話しました。単于の母の大閼氏(だいえん、皇太后のこと)は李緒と関係を持っていたため、単于は北方に隠れているように李陵に命じました。
大閼氏が病死したことにより、単于の家に呼び戻された李陵は、漢に対する軍略の相談にも乗るようになりました。単于は、李陵を右校王(うこうおう)という役職に任じ、娘と娶せました。未だ漢との戦いに赴くことはできなかったものの、李陵は確実に匈奴との仲を深めていきました。
且鞮侯単于が死んで、左腎王が跡を継ぎ、狐鹿姑単于(ころくこぜんう)となりました。李陵は狐鹿姑単于との友情を感じながらも、このまま匈奴の地で生活するべきか悩みました。司馬遷が李陵を擁護して罪を得たということを伝える者がありました。李陵は、司馬遷に対し、議論好きなうるさいやつだとしか思っていなかったので、ありがたいとも気の毒とも思いませんでした。李陵は子供を授かり、匈奴たちが卑しきものだと思っていたことが偏見であったことに気づき、彼らの粗野な正直さを好むようになっていきました。
李陵の二十年来の友人である、漢の武官であった蘇武(そぶ)が、李陵よりも一年早く胡地に住んでいました。蘇武は平和の使節として捕虜交換のために遣わされたときに、部下が匈奴の内紛に関係して捕らえられた男でした。その時、蘇武だけは降伏をせず、剣で自分の胸を刺し、且鞮侯単于に気に入られました。匈奴の治療を受けて回復した後も、降伏を受け入れなかった蘇武は、漢人としてバイカル湖のほとりで羊を放牧していました。
李陵ははるか北の地に住む蘇武に会いに行こうとはしませんでした。
狐鹿姑単于の代になってから数年後、蘇武が生死不明との噂が流れました。狐鹿姑単于は、蘇武の生死を確かめ、もし生きているならもう一度降伏を勧めるよう、李陵に頼みました。
李陵が訪ねていくと、蘇武は、粗末な丸木小屋に、山男のような風貌となって住んでいました。二人は、久々に再会した感動に、言葉が出ませんでした。李陵は数日間滞在し、事情を伝えました。
漢では、蘇武の母は死に、妻は子を捨てて他の家に娶られていました。蘇武は、この極寒の地で、家畜を盗まれ、飢えに耐えながら生活していました。李陵は、彼が単于に降伏もせず、死にもしないのは、運命との壮大な意地の張り合いをしているということだと悟り、誰にも理解されないまま一人で死んでいこうとする彼の意志に驚嘆しました。
李陵は、蘇武が降伏した自分に憐憫の目を投げかけるのを見て、自分が売国奴であるように感じ、単于に頼まれた降伏の勧告を果たすことはできませんでした。南へ帰った後も、李陵の中で、蘇武の存在は大きくなっていきました。
数年後、李陵は再び蘇武を訪ねました。その途中、国境の漢の衛兵たちが白服をつけていることを聞きました。それは孝武帝の死を意味していました。
蘇武はこれを知って慟哭し、血を吐きました。李陵は蘇武の愛国心を目の当たりにして、孝武帝の死にも悲しみを感じない己に対する懐疑の気持ちを抱くようになりました。
漢では、八歳の弗稜(ふつりょう)が孝武帝の跡を継ぐと、霍光(かくこう)が、大司馬大将軍として政を助けるようになりました。すると、もともと李陵と親しかった霍光と、左将軍の上官桀(じょうかんけつ)の二人の間に、李陵を帰そうという話し合いがもたれ、李陵の知人であった隴西の任立政(じんりつせい)らが使節として派遣されました。李陵は、自分と同じように匈奴に降伏した衛律(えいりつ)らと共に、任立政をもてなしました。任立政は、衛律が席を外した隙に、それとなく李陵に漢に帰ることを勧めました。しかし、李陵は漢に帰っても辱めを受けるだけだと言って、その誘いには乗りませんでした。
その五年後、蘇武が漢に帰ることが決まりました。十九年前に蘇武に従って胡地に来た常恵(じょうけい)というものが漢の使いに会って生存を知らせたためでした。李陵は、蘇武の偉大さに心を打たれるとともに、自分の心の中に彼に対する羨望の念があるのではないかと考え、恐れました。
孝武帝の崩御に近い頃、書き始めから十四年、宮刑に遭ってから八年がたち、司馬遷の著述は大方の構想通りにできあがり、それから数年かけて推敲を加え、完成を見ました。司馬遷は、喜びではなく、漠然とした寂しさや不安を感じました。彼は亡き父に報告を行うと、急に虚脱の状況となり、みるみる老け、任立政が都に帰ってきた頃には、この世にいませんでした。
蘇武と別れたあとの李陵に関しては、何一つ正確な記録が残されていません。おそらく、狐鹿姑単于の死に際して内紛があり、そこに巻き込まれたことは想像に難くありません。かすかに、李陵の子が次代の単于に対抗しようとして失敗したことが記されているにすぎません。