中島敦『李陵』の登場人物、あらすじ、感想

 『李陵』は、1943年、中島敦の没後に発表された短編小説です。匈奴と呼ばれる北方の騎馬民族との争いを繰り広げていた中国・前漢の時代に李陵、司馬遷、蘇武という三人の人物が辿ることとなった数奇な人生を描いた作品です。中国の歴史書に書かれている史実を題材に扱いながらも、登場人物たちの抱いていた苦しみや葛藤が緊張感のある文体で書かれており、中島敦の数ある名作の中でも、傑作との呼び声高い作品となっています。

※ネタバレ内容を含みます。

『李陵』の登場人物

李陵(りりょう)
?〜紀元前74年。騎都尉(きとい、軍務を行う漢の官職)として、五千の歩兵を連れて匈奴の勢力圏に入る。善戦するも敗れて捕虜となり、且鞮侯単于の元で生活する。匈奴に降伏する意思はなかったものの、誤解により漢攻略のための軍略を授けていると思われ、故郷で家族を皆殺しにされる。この知らせを聞いて漢への不信を覚え、単于からの対漢軍略の相談に乗るようになり、新しい妻を娶って匈奴との仲を深めていく。自分より一年早く捕らえられ、なお降伏しない蘇武と再会し、匈奴に寝返った自分を恥じるが、生涯漢にもどることはなかった。

司馬遷(しばせん)
紀元前145年(?)~紀元前86年。太史令(古代中国の歴史の記録や天文や暦を司る職業)。死んだ父の念願であった史記の編纂にあたっていた。匈奴に捕らえられて生きながらえている李陵を擁護して宮刑に処される。自殺を考えながらも使命感から史記の編纂を続け、その八年後に著述を完成させる。

蘇武(そぶ)
紀元前139年〜紀元前60年。もともとは孝武帝の側近。平和の使節として捕虜交換のために遣わされるも、部下が匈奴の内紛に関係して捕らえられたため、胸を刺して自殺を図る。回復後も匈奴に降伏することなく、北方の些末な家で厳しい生活を送る。十九年間を匈奴の地で過ごしたのち、漢へと戻る。

武帝(ぶてい)
紀元前140年〜紀元前87年。漢の勢力が絶頂のときに、五十年余りの間君臨した皇帝。

李広(りこう)
?〜紀元前119年。李陵の祖父。父のいない李陵を教育する。匈奴との戦いに遅れて参加できず、自ら首を跳ねて死亡する。

李広利(りこうり)
弐師将軍(じじしょうぐん)と呼ばれる軍人。匈奴攻略のため、李陵に先立って北方に派遣された。

陳歩楽(ちんぶらく)
李陵の軍として匈奴の勢力圏で探った報告書を都に伝える。敵兵が現れなかったため、戦線に異常はないと伝えたが、その後、李陵の軍の惨敗が伝えられたため、自害させられる。

公孫敖(こうそんごう)
匈奴との戦いで勲のあった将軍。制圧した地域の名前から、因杅(いんう)将軍と呼ばれる。天漢二年の匈奴との戦いで左賢王に敗れると、李陵が匈奴に軍略を授けているという誤報を語り、李陵の家族が処刑されることとなる。

管敢(かんかん)
李陵軍の軍侯。手ぬかりによって衆人の前で面罵されたため、匈奴に寝返った。

司馬談(しばだん)
司馬遷の父。武帝に仕えていた。司馬遷に海大の大旅行をさせて教育を施す。武帝が泰山に登ったときに病床にあり、従っていくことのできないことを嘆いて死去。

衛律(えいりつ)
武帝に仕えていたが、親しくしていた李延年が武帝の怒りに触れて殺されると、これを恐れて匈奴に投降した。且鞮侯単于に重用される。

且鞮侯単于(しゃていこうぜんう)
?〜紀元前96年。匈奴の首長。匈奴相手に善戦して捕らえられた李陵を丁重にもてなす。

狐鹿姑単于(ころくこぜんう)
?~紀元前85年。且鞮侯単于の長男。父親在位の間の名は左賢王。射の名手であった李陵を尊敬し、友情を深める。

李緒(りしょ)
匈奴に寝返った漢軍の将軍。自分と間違えられて匈奴に軍略を授けたと思われた李陵の家族が処刑されると、その恨みを買って李陵に刺殺される。

大閼(だいえん)
且鞮侯単于の母。李緒と関係を持っていた。

弗稜(ふつりょう)
八歳で孝武帝の後を継ぎ、昭帝となる。

霍光(かくこう)
?年〜紀元前68年。大司馬大将軍(軍事を司る役職)として昭帝の政を助ける。漢にいた頃の李陵と親しく、上官桀とともに李陵を漢に戻そうという計画を立てる。

上官桀(じょうかんけつ)
霍光とともに昭帝を補佐した。漢にいた頃の李陵と親しく、霍光とともに李陵を漢に戻そうという計画を立てる。

任立政(じんりつせい)
隴西出身。李陵を漢に帰すため、使節として匈奴の地に送られる。

常恵(じょうけい)
十九年前に蘇武に従って胡地に来た。漢の使いに生存を知らせたのがきっかけで、蘇武が漢に帰ることになる。

『李陵』のあらすじ

※もっと詳しいあらすじはこちら

 前漢の七代皇帝、武帝の時代、北の国境は、遊牧民族の匈奴による殺人や略奪に苦しめられていました。武帝に忠誠を誓う軍人の李陵は、五千人の歩兵を連れ、匈奴攻略のための遠征に出かけました。十日間ほど国境の山間で敵情を探り、出発しようとすると、遠方から敵兵が迫ってくるのが見えました。李陵の軍は撤退を試みましたが、三万とも思われる敵兵に、遠くから矢を放たれ続けて体力を奪われました。そして匈奴へと寝返った男の裏切りにより、李陵軍に後援がないことを知った匈奴の軍は、一斉攻撃を仕掛けました。
 李陵の軍は大量の死傷者を出し、一人ひとり走って逃げることとなりました。李陵は戦闘に入り込み、馬を討たれて気を失い、敵兵に捕らえられてしまいました。

 翌年、李陵が捕らえられて生きているという報が届くと、皆が武帝の顔色を窺って、李陵の悪口を言いました。しかし太司令(古代中国の歴史の記録や天文や暦を司る仕事)の司馬遷だけは、匈奴の本隊相手に善戦した李陵を褒めたたえ、この発言のため宮刑に処されることとなりました。司馬遷は自殺すら考えましたが、死んだ父親から引き継いだ史記の編纂を成し遂げる使命感から、自殺を踏みとどまりました。

 匈奴に捕らえられた李陵は、決して降伏しようとはしませんでしたが、北方の地で丁重にもてなされました。やがて且鞮侯単于(匈奴の首長)の子の左賢王が李陵を尊敬の目でみるようになると、二人はともに狩猟に出かけるようになり、親交を深めました。

 漢と匈奴の間に再び争いが起きると、李陵が匈奴に軍略を授けているという誤報が漢にもたらされました。この噂を聞いた武帝は激怒し、李陵の家族を全て殺してしまいました。この誤報は、匈奴についた李緒という将軍と李陵が間違えられたために生じたものでした。
 この知らせを聞いた李陵は激怒し、李緒を刺し殺しました。李緒は単于の母と関係を持っていたため、李陵は且鞮侯単于に命じられ、北方の地に身をひそめました。

 単于の母が病死し、呼び戻された李陵は、右校王という役職につき、単于の娘と結婚して子を授かりました。彼は次第に漢攻略の相談にも乗るようになり、匈奴との仲を深めていきました。

 一方、バイカル湖のほとりには、武帝の側近であった蘇武という男が住んでいました。李陵が捕虜になった一年前、蘇武は平和の使節として訪れ、部下が匈奴の内紛に関連して捕らえられたのでした。蘇武は降伏せず、剣で自分の胸を刺しましたが一命をとりとめ、以降一人で羊を放牧して生活していました。

 且鞮侯単于が死に、左賢王がその後を継いで狐鹿姑単于になりました。狐鹿姑単于は、蘇武と二十年来の友人であった李陵に、蘇武の生死を確かめに行き、もし生きていれば降伏を勧めてほしいと頼みました。
 蘇武は、極寒の粗末な丸木小屋で、家畜を盗まれ、飢えに耐え忍びながら生活していました。李陵は、決して匈奴に屈しようとしない蘇武の凄まじい意思に驚嘆し、自分を売国奴のように感じ、降伏を勧めることはできませんでした。
 数年後、武帝が崩御したという報せが届くと、蘇武は涙を流しました。

 武帝の崩御により、李陵を漢に戻そうとする話し合いがもたれるようになりました。
 李陵の知人であった任立政が使節として派遣され、李陵は密かに帰郷を勧められました。しかし、李陵は匈奴とともに生きることを選択し、辱めを受けるであろう漢には戻りませんでした。

 その五年後、蘇武が漢に帰ることが決まりました。十九年前にわたって匈奴に屈することなく、厳しい生活を耐え忍び続けた蘇武の偉大さに、李陵は心を打たれました。

 司馬遷は、宮刑に処せられてから八年後、史記の編纂の大部分を完成させ、それから数年かけて『史記』を完成させました。大仕事を終えた司馬遷は、虚脱の状態になり、任立政が都に帰ってきた頃には、既に他界していました。

 その後の李陵に関しては、正確な記録が残されていません。しかし、狐鹿姑単于の死後に起きた国内の内紛に巻き込まれたことは、想像に難くありません。

管理人の感想

 この作品では、中国の前漢の時代に活躍した三人の歴史上の人物、李陵、司馬遷、蘇武の辿った人生が描かれています。

 主人公の李陵は、もともとは漢に忠誠を誓う武将でしたが、匈奴に捕らえられると、情報の錯綜により、故郷で反逆者と思われて家族を皆殺しにされてしまいます。漢に対して不信感を強める一方で、匈奴の粗野でありながらも正直なところに彼は徐々に惹かれていき、ついに己の信念を捨てて匈奴と共に生きる決意をします。

 祖国で裏切り者扱いされた李陵をただ一人擁護したのが司馬遷です。司馬遷は、父親の念願であった史記の編纂者として充実した日々を送っていましたが、李陵を擁護したことで宮刑に処せられてしまいます。変わり果てたわが身の有様に絶望を感じた司馬遷ですが、自殺を考えながらも、史記の編纂のためだけに生き続け、その仕事を八年かけて終わらせます。

 李陵よりも先に匈奴に捕らえられていた蘇武は、降伏することを拒否し、自分の胸を刺して自殺を図ります。匈奴の治療によって回復した後も決して降伏しようとせず、極寒の地でネズミを食べながら一人で暮らします。十九年間、漢への忠誠を貫き通した蘇武は、ようやく故郷へと戻ることを許されます。

 敵と共に生きることを決意した李陵と、敵に屈することなく漢に帰還した蘇武と対比がこの小説の大きな軸になっています。しかし匈奴に寝返った李陵が弱く、降伏しなかった蘇武が強いという単純な構図でこの作品が成り立っているわけではなく、祖国を捨てたという十字架を背負いながら異国で生きるという李陵の決心は、それはそれで強さを必要としたのではないかと思います。

 そして、小説の軸となっている李陵と蘇武の人生の対照性に、新たな方面から光を当てる役割を担っているのが、司馬遷であると思います。

 司馬遷も蘇武と同じように、己の信念を曲げなかった人物です。しかし史記の編纂という大仕事をやり遂げた司馬遷が、その後の自分の人生に満足を得ることができたかというと、必ずしもそうとは言い切れません。彼は史記を書き上げたあと、漠然とした不安や寂しさを感じるようになり、長く生きることはできませんでした。目的を遂げた後も、苦しみから抜け出すことができなかった人物として司馬遷は描かれており、漢に戻ることで一応の解決を見た蘇武の人生とは対照的です。

 あるいは、司馬遷の人生は、漢に戻った蘇武が幸福になれるとは限らないということを暗示しているという見方もできるかもしれません。
 史実では、蘇武は爵位を預かり、八十まで生きたようですが、漢に帰ったあとでどのような想いを抱いていたか、今となっては知る由もありません。胡地にいる間に誓っていた漢への忠誠が大きいほど、そのイメージと、戻った後に感じる現実とのギャップに幻滅することも多かったのではないかと思います。胡地での生活を懐かしむようなこともあったかもしれません。

 誤解によって家族を殺された李陵、真実を述べたために宮刑に処された司馬遷、たった一人で極寒の地に取り残された蘇武と、彼らはとてつもない絶望を抱えながら生きています。その生き切った先に幸福が待っているかというと、必ずしもそうとは言い切れない。希望も何も見えない中で、運命に翻弄されながらも、ただひたすらに生きていく。そのような彼らの生き様には魅了させられます。

 彼らの人生からは、学ぶことが非常に多いと思います。しかし、この作品を読んでいると、そこから得られる教訓を考えたり、彼らの人生について分析や批評を加えることは二の次になり、その壮絶な物語にただただ魅了され、緊張感のある文体にどっぷりと浸るだけでよいのではないかという気分にさせられます。

 『李陵』は、そのような力を持った小説であると思います。