『戦争と一人の女』は、1946年10月に、雑誌「新生」に発表された坂口安吾の短編小説です。
同年11月に、坂口安吾は、『続戦争と一人と女』という姉妹編を、雑誌「サロン」に発表しており、こちらの『続‥』の方は、作品集「いづこへ」に収録される際、『戦争と一人の女』と改題されました。そのため、同じ題名の作品が二つ存在することとなり、例えば新潮文庫では「サロン」収録版が、岩波文庫では「新生」収録版が『戦争と一人の女』として収録されるというややこしい事態となっています。
当サイトでは、「新生」版を『戦争と一人の女』として、「サロン」版を『続戦争と一人の女』として紹介していこうと思います。
このページで紹介する「新生」版『戦争と一人の女』は、当時日本を支配していたGHQの大幅な検閲を受けて1946年に発表されました。その後25年を経た、安吾の没後の1971年に刊行された『坂口安吾全集』の中で、この作品はようやく検閲前の状態で収録され、いわゆる完全版が人々の目に触れるようになりました。
このような紆余曲折を経て完全版が一般に流布されるようになった本作品は、現在では坂口安吾の代表作の一つと目され、映画化もなされています。
このページでは、『戦争と一人の女』の登場人物、あらすじ、感想を紹介します。ネタバレ内容を含みます。
『戦争と一人の女』の登場人物
女
幼い頃に両親に売られて娼妓になり、その後ある男の妾に身請けされて酒場の主人となる。生まれながらの淫奔な性質により、客のほとんどと関係を持っていたが、戦争で酒場の経営が困難になると、その中の一人であった野村との同棲を始める。
野村
女の経営していた酒場の客。戦争ですべてが破壊されるであろうと考え、夫婦にならない約束で女との同棲を始める。
『戦争と一人の女』のあらすじ
野村は戦争中、一人の女と住んでいました。敗戦ですべてが滅茶滅茶になるだろうからと考えて始めた同棲で、家庭的な愛情はなく、夫婦にはならない約束でした。
遊女屋にいたことがある女は、肉体的な快楽を持ちませんでした。しかし生まれつきの淫奔な性質と、娼妓であったころの習慣から、ある男の妾から酒場の主人となると、気に入った客とすぐに関係しました。彼女の肉体は魅力的で、多くの男を惹きつけましたが、自身が愛情を持たなかったので、いつも相手の男を惑わすまでには至りませんでした。執念深い交渉が苦手な女もまた、そのような関係を好んでいました。彼女は儲けようという意志の弱く、戦争で酒が入手できなくなると、すぐに店をたたみ、客の一人であった野村との同棲を承諾しました。
野村は、女が自分と一緒になっても、他の男と関係を持つだろうと思っていました。しかし彼女の家庭的な暗さを感じさせない貞操観念のなさは新鮮で、遊び相手には適していました。
女は、食物や遊び場の不足する戦争を嫌っていたものの、刺激を与えてくれる爆撃を好み、空襲警報がこないと退屈で苛々しました。野村は、爆撃の魅力が浮気の魅力に勝っていたがために、彼女が浮気をしないことに気づいていました。しかし女は、自らそのことに気づいておらず、自分が奥さまのようになったことを楽しんでいました。野村は、そのような女の可憐さを楽しみました。
女は、肉体の喜びを持たないことに申し訳なさを感じながら、野村に応えました。野村は、そのような女に絶望しながら、その絶望を見せまいと努めました。しかし女は野村が隠している絶望に気づいていました。
二人の住む町が爆撃され、焼夷弾によって四方が火の海になると、野村は女と逃げようとしました。しかし女は、死ぬのを恐れながらも、野村と住むこの家を焼きたくないと言って、火を消して欲しいと懇願しました。野村は、動悸を打ちながら怯える彼女のことを、なんと可愛い、正直な女だろうと思い、死に立ち向かう勇気を得て、女とともに家の四方に水をかけました。
火は隣家まで迫りましたが、野村の家は焼け残りました。
疲労困憊した女は野村を強く求め、なぜ野村を愛しながらも、体が感動を覚えられないのかと泣き始めました。
野村は、一時的に興奮し、感動する女を可愛いと思いながら、その女の愛は空襲があるからこそ自分に注がれるのだと冷ややかな感情になりました。
戦争のために博打もダンスも旅行もできないため、女は亢奮と疲労を求めて自転車に乗り始めました。二人は自転車で遠い町の貸本屋で本を探して戻る生活を送りました。
女は、戦争が終われば、不真面目な商売をやめ、真面目な恋をするつもりでした。しかし、女が今後上陸してくる敵兵との恋を意識していることに野村は気づいており、そのような彼女に憎しみを感じ、苦しめるように扱いました。女は抵抗せず、もだえながらも満足している様子でしたが、やはり快楽を感じることはありませんでした。
そして激しく遊んだ後、女は、野村を白々しい無表情で見るようになりました。野村はその白々しい表情を忘れかね、その顔に執着を感じるようになりました。野村は女に憑かれたようになり、戦争がいつまでも続いてくれればよいと思いました。
戦争の終わる五日前、野村は防空壕の修理中に怪我をして、歩行に不自由を感じるようになりました。
やがて終戦となり、女は歩けない野村に口移しで紅茶を飲ませながら、空襲を受けた夜、自分は一緒に焼かれて死にたいと思っていたのだと語りました。
彼女は、激しく遊んだあとに白々しい表情をするときも、何も深刻なことは考えていないようで、野村が自分を可愛がってくれたことをありがたく思っているようでした。自分は女の体を貪っただけだと野村が言うと、女は、人間はそれだけのものであり、それだけでいいのだと答えました。野村は、女が驚くべき真実を語ったと思いました。彼は、遊びがすべてという女の思想にはついて行けませんでしたが、夫婦関係も所詮これだけのものなのかもしれないと考え、女が良い女房なのかもしれないと思いました。
幼い頃から男の玩具になってきた女は、遊びを汚いこととは思っていなかったものの、自分自分が良くない女であることを自覚していました。そして自分を汚いものと決めてかかり、自分の過去を軽蔑し、良い人間にしてくれようとしない野村を、彼女は責めました。
野村は、自分たちが初めから夫婦になろうとしなかったことが良くなかったのだと言いました。すると女は蒲団をかぶって泣き出しました。
戦争が終われば、女が他の男と関係し始めるのは時間の問題だと考えていた野村は、女が自分たちの関係を破綻させるために、わざと自分に食ってかかってきたのかもしれないと考え、女が他の男と遊び出しても、それを見ぬふりをして一緒に暮らすことはできないと考えました。
女は、仰向けに寝ころんで「どうにでも、なるがいいや」と言いました。
野村は、女の水々しい体を貪り見ながら、どの人間も戦争をオモチャにしていたのだと考え、終わってしまった戦争に、もっとしゃぶりついてやればよかったのだと思いました。
管理人の感想
『戦争と一人の女』は、元娼婦の女と、その女の営む酒場の客であった野村との、戦争中の同棲生活を描いた物語です。
野村の同棲相手である女は、幼い頃に両親によって売られ、娼婦として働いていたことがあり、肉体の快楽を感じられない体になっています。
野村は、どうせ戦争によってすべてが滅茶滅茶になるのだからと、愛情のない、遊びの関係のつもりで女と住み始めます。
生来の淫奔な性格を持っていた女は、快楽を感じない体であるにも関わらず、元々さまざまな男との関係を持っていました。しかし野村と住むことになると、浮気をせず、夫婦のような関係でいることに満足を覚えます。
野村は、女の浮気心の減退が、空襲警報の恐怖によって引き起こされる高揚感に起因することに気づいており、そのため、戦争が終われば、女が自分以外の男と再び関係を始めるに違いないと考えています。
水々しく魅力的な肉体を持つ女は、快楽を持たないにも関わらず、時おり野村を激しく求めます。野村は、自分を求めながらも、いずれ浮気をするであろう女に憎しみを覚えながら凶暴な愛撫を行い、やがてそのような女との関係に固執するようになっていきます。
二人の関係は、戦争がなければ、始まることも、続くこともなかったものです。しかし、戦争のために、野村の女への本当の愛情が押し殺されていることも事実だと思います。女が体のことで泣いて謝る時、また焼夷弾による攻撃を受けた時、野村はしばしば、女の体ではなく、その可憐さや正直さに心を打たれます。しかしはじめから戦争中だけの関係と割り切っていた野村は、体だけの関係だと思い込んで(もしくは思い込もうとして)いるために、なかなか女に対する愛情に心から没頭することができません。その心と体のバランスの齟齬に苛立ち、自分たちの関係が体だけのものであるということを無理に証明しようとして、激しく女を痛めつけているようでもあります。そして戦争というすべてを滅茶滅茶にしてしまう出来事に加え、女の過去や、快楽を感じられないという肉体が、その混乱に拍車をかけているようにも思われます。
このような関係を生み出してしまう戦争というものは、やはり悲しいものなのだと思います。戦争が悲しいということを謳う作品は数多くありますが、このような切り口で戦争の悲しみを語る作品はなかなか見当たりません。
『戦争と一人の女』は、終戦後まもなくの1946年に発表された作品です。急激に変化するパラダイムの中で、誰もが先の戦争の後遺症から脱けだせないでいた時代に、「戦争をオモチャにしていた」と主人公に語らせるのは、理解力のない人々からの反発を招きかねず、作家として非常に勇気のいることだったに違いありません。しかし、どんな状況に立たされても、その状況にかこつけたり、利用したり、楽しんだりせずにはいられないのが人間というもので、これは坂口安吾が戦争を不真面目に考えていたのではなく、戦争の本質をしっかりと捉えていたということだと思います。このような豪胆なことを書く作家だったからこそ、戦後の人々を勇気づける『堕落論』のような作品を生み出すことができたのだと思います。
続編である『続戦争と一人の女』では、本作と同時期の物語が、女の視線から描かれた一人称小説です。そちらでは、野村の思いもよらなかった、女の心にあった真実が明らかになります。是非読んでみてください。