『続戦争と一人の女』は1946年11月に雑誌「サロン」に発表された坂口安吾の短編小説です。
同年10月に発表された、『戦争と一人の女』の姉妹編とも言うべき作品で、三人称作品であった前作と同時期の話が、主人公の女の視点から語られる一人称小説となっています。ちなみに、坂口安吾による女性の一人称作品は、この『続戦争と一人の女』を含めて三作品のみとなっており、無頼派と呼ばれる同時代の作家の中で、数多くの女性一人称作品を残した太宰治とは対照的です。
この『続戦争と一人の女』は、作品集「いづこへ」に収録される際、『戦争と一人の女』と改題されました。そのため、同じ内容の作品に二通りの題名がついており、そのうちの一つは、前の作品と同じ題名というややこしい事態になったことがあります。
当サイトでは、10月に発表された前作を『戦争と一人の女』として、11月に発表された本作を『続戦争と一人の女』として紹介します。
『続戦争と一人の女』の登場人物
私
語り手。幼い頃に両親に売られて娼妓になり、その後ある男の妾に身請けされて酒場の主人となる。生まれながらの淫奔な性質により、客のほとんどと関係を持っていたが、戦争で酒場の経営が困難になると、その中の一人であった野村との同棲を始める。
野村
「私」の経営していた酒場の客。戦争ですべてが破壊されるであろうと考え、夫婦にならない約束で「私」との同棲を始める。
カマキリ
町工場の老人。
デブ
井戸屋の老人。
『続戦争と一人の女』のあらすじ
酒場のマダムであった「私」は、戦争で店を続けることができなくなり、客の一人であった野村との同棲生活を始めました。「私」は、かつて売春婦で、ある男の妾であったこともあり、遊ばずにはいられなくなる性質で、酒場の客のほとんどと関係を持っていました。そのため、野村は、「私」がいずれ他の男を渡り歩くようになるだろうと思っていました。
しかし「私」は、野村のことを愛しており、いずれ戦争によって死ぬか、奴隷としてどこへ連れていかれるまでは野村のよい女房であろうと考えていました。
「私」と野村は、カマキリとデブと呼んでいる六十歳ほどの老人を呼び、空襲警報の合間に博打を行いました。吝嗇なカマキリは、負けて亢奮すると、「私」を姐さんと呼び、いやらしい目つきをしました。彼は戦争で生き残って「私」を妾の一人にしようと考えており、日本の負けを喜んでいるようでした。
カマキリとデブは、空襲下では露骨に生に執着し、異常なまでの恐怖を示しました。しかし空襲が終わると、カマキリは他人の不幸を探し回るために被災地の見物を行い、そこに「私」を誘いました。「私」は一度だけ一緒に焼け跡を見に行きましたが、二度目からはその誘いを断りました。
「私」はある暑い日、短いスカートにノーストッキングで自転車に乗り、カマキリを誘いに行きました。カマキリは、息の詰まる顔で「私」の素足を見ると、「私」を草むらに連れて行き、猥画を見せました。
「私」はその本を掴んで自転車に飛び乗り、カマキリがぽかんとしている間に逃げ去りました。
「私」は、自分の肉体に執着するカマキリを破滅させてやろうかと思う時がありましたが、実際にはそれをしませんでした。それはおそらく、「私」が野村を愛しているからでした。
四月十五日の夜、「私」たちの地区は爆撃を受けました。
「私」は自分からさまざまな楽しみを奪った戦争を憎みながらも、夜の空襲の美しさと、とりわけ被害の大きいことが好きでした。空襲が引き起こす業火を見るたびに、「私」は自分が女郎として売られた東北の小さな町が燃えるところを想像し、何もかもが燃えてくれと心に叫びました。
それと同時に、「私」は憎しみも燃えてほしいと願い、野村の愛を確かめたくなりました。野村は「私」の体だけを愛していましたが、「私」はそれでかまわないと考えており、彼のことを激しく求めました。
家の四方が火の海になると、野村は逃げようと言いました。「私」は、逃げ惑う人々が自分たちとは別の人間だと思い、彼らの中には入るまいと思いました。野村にだけは一緒にいてほしいと思った「私」は、逃げたくないことを打ち明けました。すると自分が愛しく思われ、自分たちだけは生き残り、家も焼いてはいけないのだと思い、野村に火を消すように頼みました。
野村は始め驚いていたものの、やがて感動と愛しさでいっぱいの表情を見せました。「私」は涙を流しながら、野村の愛撫を受けました。
それからは夢中になり、「私」たちは迫りくる火に水をかけ、家が焼けるのを防ぎました。
危険が去った時、「私」は虚しさと、満ち足りた気持ちの両方を感じ、もっと強く抱きしめてほしいと叫び、何も考えずに野村が自分の体に夢中になっていることを喜びました。
「私」は自分たちの街が焼け野原になり、もう燃えることはないと考えると、落胆を感じました。
カマキリとデブの家が焼けました。カマキリは同居させてくれと頼みにしましたが、「私」は邪険に突き放し、自分の壕に住みなさいと言いました。
「私」は、戦争が終われば、おそらく敵兵に引きずり出されて殺されるので、野村と二人で山奥へと逃げて楽しく暮らそうと考えながら、平和がくれば里へ降りて別れるだろうと思いました。
野村は、「私」への愛撫に期限があると思っているようで、未練を感じながら、憎んだり逆上したりしていました。「私」はそのような野村が気の毒で、彼のなすがままに体を任せました。
戦争が終わり、男たちは引きずり出されることもなく、女たちも敵兵の子を生まされるわけでもなかったので、「私」はその予想外の終わり方に戸惑いました。
「私」は、これからは退屈で平和な日々が来るのだろうと思うと、戦争で死ななかったことを呪わずにはいられませんでした。
「私」は足に怪我をした野村を散歩に連れ出し、戦争中は可愛がってあげたので、今度はうんと困らせてあげると言いました。野村は苦笑しました。
「私」はこれも夢のように過ぎていくのだと感じ、別れることを悲しいとも思いませんでした。
管理人の感想
『続戦争と一人の女』は、元娼婦の女と、その女の酒場の客であった野村との、戦争中の同棲生活を描いた物語です。
前編『戦争と一人の女』は、主に野村の心情を描いた三人称小説でしたが、本作は、前作と同時期の話が女の目線で語られる一人称小説になっています。
本作では、女と野村の他、「カマキリ」、「デブ」と呼ばれる老人らが登場し、戦火において異常なまでの生への執着を見せながら、他人の不幸を餌として生きる醜い人間として描かれています。
語り手の女は、幼い頃に両親に売られて娼婦として働き、その後ある男の妾となり、酒場のマダムとして働きながら客のほとんどと関係を持っていた過去があります。戦争で酒場が続けられなくなると、彼女はその客の一人であった野村との同棲を始めます。
「私の身体は私のオモチャで、私は私のオモチャで生涯遊ばずにいられない女であった。」と語る彼女は、生来の淫奔な性質により、男から男へと転々と渡り歩いてきた女です。
しかし彼女は「愛していること」と「遊ぶこと」は違うのだと考えており、自分が野村のことを愛していることを確信しています。
野村は、女が自分のことを愛しているわけではなく、戦争の高揚感が浮気心を抑えているだけなのだと考えており、女の愛を信じることができません。彼は、始めは体だけの関係のつもりで始めた同棲でありながら、戦争が終われば他の男と関係を持つであろう女に、次第に執着するようになっていきます。そして戦争が終わると、野村は、自分から離れていくであろう女への未練や憎しみを募らせます。『戦争と一人の女』の中で、彼は自分を含めた皆が戦争をオモチャにしていたのだと悟り、今ではもう失ってしまったオモチャに、もっと「しゃぶりついてやればよかった」と考えます。
一方の女は、別離が近いことを悟っても、野村と過ごす日々もいずれは思い出になるだろうと考えます。彼女がオモチャにしていたのは戦争ではなく、自分の体です。戦争が続こうと続くまいと、彼女は自分の体をオモチャにして生き続ける術を知っているため、生きている限りそれを失うことはありません。
この二人の考え方は非常に対照的ですが、自分が愛していることを確信しながら、体だけを愛されていることを喜んで享受し、別離を予感しても全てが過ぎ去っていくことを知っている女の愛し方の方が、自分が愛している確証を持たないまま執着だけを強めていく野村の愛し方よりも、二枚も三枚も上手であるように思われます。
一方、女を自分の元へ引き繋いでおくために利用していた「戦争=オモチャ」を失った野村は、自己の中にある虚無を抱えたまま、戦後の世界を生きていくことに苦しむのではないでしょうか。
「戦争中は可愛がってあげたから、今度はうんと困らしてあげるわね」
「いよいよ浮気を始めるのかね」
「もう戦争がなくなったから、私がバクダンになるよりほかに手がないのよ」
「原子バクダンか」
「五百封度ぐらいの小型よ」
「ふむ。さすがに己れを知っている」
この結末の会話で、女は冗談めかして気の利いた受け答えをしていますが、これから放埒に生きることを宣言し、野村に安息を与えることのできないことへの免罪符を得ようとしているようでもあり、愛する男との別れを予感しながらも、その別れを悲しいとも思えない自分に向けた呵責が含まれているようにも思えます。