谷崎潤一郎作『春琴抄』の詳しいあらすじを紹介するページです。ネタバレです。
※目次を開くとネタバレします。
春琴と佐助の墓を訪れる「私」
「私」は、大阪のとある浄土宗の寺の墓へ行き、春琴の墓を見つけました。その墓は、春琴の本名である鵙屋(もずや)の墓が並んでいるところにはなく、寺から高台へ続く斜面の途中にあり、その隣りには、三味線の大家として知られていた門人の検校(盲人に与えられた最高の官名のこと)温井佐助の墓が並んでいました。私は春琴の墓に礼をして、温井検校の墓石に手をかけ、その石の頭を愛撫しながら、夕日が沈むまで佇んでいました。
春琴と佐助の生い立ち
「私」が春琴を知ることとなったのは、春琴の事実上の夫婦関係を結んでいた温井佐助が書かせた、「鵙屋春琴伝」という小冊子を手に入れたのがきっかけでした。
春琴は文政十二年五月二十四日生まれ。大阪道修町(どしょうまち)で代々続く薬種商の次女で、幼い頃から容姿端麗で舞技を嗜んでいたようです。九歳の頃に病気によって盲目となり、舞技を辞め、琴三絃(ことさんげん)の稽古を積みました。音曲の才能があり、十五歳の頃には同門に比肩するものはいませんでした。師匠の検校の春松検校は、春琴の才能に惚れ込み、春琴を弟子に持っていることに誇りを持っていました。
春琴が毎日稽古に通う時に手を引いていたのが、当時丁稚の少年であった温井佐助でした。実家が薬屋であった佐助は、父も祖父も見習い時代に鵙屋に奉公したことがあるため、自身も十三歳の時に奉公に上がりました。その頃には春琴は既に盲目となっていました。田舎者の佐助にとって、大阪の豊かな町人の家で、文字通り箱入り娘として育った春琴は、華奢で青白く、不思議な魅力があるように思われました。佐助は、崇拝の念を秘めながら、まめまめしく春琴に仕えました。もともと気位の高い春琴は、佐助に意地悪に接しました。佐助はそばに仕える間、片時も気を抜くことができず、春琴の顔色を伺い続けましたが、それは彼にとってはむしろ喜びでした。春琴もまた、あまり喋らない佐助に手を引かれるのを好みました。
稽古場に着くと、佐助は春琴を導いて席に座らせ、稽古が終わるのを待ちました。春琴の奏でる音曲を聴いていた佐助は、彼女に同化しようという熱烈な思いを抱くようになり、十四歳の頃からこつこつと金を貯め、翌年の夏に粗末な三味線を買いました。同じ丁稚たちが寝静まると、佐助はそれを天井裏に持ち込んで、暗闇の中、春琴の弾く琴の耳の記憶を頼りに、爪弾きで三味線の稽古を独学で続けました。半年間は誰にも知られずに稽古をしていましたが、段々と油断するようになり、押し入れの中ではなく、物干し台で練習をするようになると、どこからともなく三味線の音が聞こえてくるのに家の者が気付くようになっていきました。佐助は大目玉を喰らい、三味線を没収されましたが、春琴がその音色を聴いてみたいと言いだしたため、佐助は尻込みをしながら、度胸を据えて披露しました。それは短時間の独学にしては上々で、笑い草にするつもりであった家のものは皆感心しました。
師弟関係を結ぶ春琴と佐助
それ以来、盲目の春琴を孤独にさせまいとする家族の計らいも手伝い、十一歳の春琴と十五歳の佐助は、師弟関係を結びました。それは佐助にとっては非常な僥倖でした。最初は遊戯のようであった二人の師弟関係は、次第に真剣なものとなり、春琴は夕食が済んだ後で佐助を呼び、毎日厳しい稽古をつけました。佐助は撥で殴られて泣き出すこともありました。春琴の折檻が酷くなるにつれ、周りの大人は眉を潜めましたが、佐助は泣きながらもその折檻をありがたがっている様子でした。厳しすぎる稽古を見とがめた母が春琴を叱るようになってからは、佐助はどんなに辛くても声をたてませんでした。
佐助が十八歳になると、春琴の品性を改めさせたいと思った主人は、二人の師弟関係を解き、いずれ商人になる予定であった佐助の将来に責任を持つという約束を佐助の親と結び、佐助を春松検校の門に入れました。それにより、佐助は丁稚としてでなく、春琴の相弟子として生きることになりました。
春琴の妊娠
佐助が二十歳、春琴が十六歳の時になると、両親は二人の結婚を持ち出しましたが、春琴は厳しくその提案を撥ねつけました。そのうちに春琴は妊娠し、隠し果せない体になりました。二人の間に関係があったことは間違いありませんでしたが、二人ともそれを否定し、春琴に佐助との結婚を持ちかけても、全く受け付ける様子はありませんでした。両親は結局春琴の相手が誰かわからず、春琴を有馬へ湯治にやることにしました。
春琴は十七歳で子供を産み、その子供は佐助にそっくりでした。それでも二人は自分たちの関係を否定し続け、父なし子と見なされた子供は他所に貰われて行きました。
師匠の看板を掲げる
それから再び春琴は佐助に手を引かれて稽古に通うようになり、二人の間は公然のものとなりました。そのような曖昧な関係が二、三年続いた後、春琴が二十歳の頃に春松検校が死去し、春琴は独立して師匠の看板を掲げることになり、淀屋橋筋に一戸を構えたところに佐助もついて行きました。春琴は佐助と夫婦のように見られることを嫌い、いつまでも厳格な師弟関係を続けました。これはおそらく、旧家の令嬢としてのプライドと、盲目の僻みと、大阪という封建の風習が強く残る土地で、目下のものに対して体を許したことを恥ずる心から春琴が自らに課したことでした。佐助は春琴の入浴、爪切り、用足しなど、全ての世話を引き受け、春琴も高貴な夫人らしく、恥ずかしがることなく佐助に身の回りの世話を任せました。
春琴は鶯や雲雀を飼い、鳴き声を楽しみました。それらの費用は大抵ではありませんでした。また、外面がよい春琴は、付き合いのために気前を見せることも度々ありました。しかし、実は無駄金を使わせない閉まり屋で、奉公人は極度の節約を強いられました。
四方に敵を作る春琴
父の安左衛門が死に、兄が家督を継ぐと、以前ほどの仕送りを見込めなくなりした。とはいえ、まだまだ生活には余裕があり、春琴自身も生田流の琴や三絃において大阪一流の名手であったことは間違いありませんでした。生活の苦労を知らない彼女は図に乗ることが多く、弟子を打擲したり、気ままに振る舞いました。そのため、次第に世間に敬遠され、四方に敵を作ることとなっていきました。
ある雑穀商の息子で、放蕩自慢の利太郎という男が、春琴の門に入り琴三味線を習い始めました。利三郎は、親の身分を鼻にかけ、威張る癖があったため、春琴はあまり好きではありませんでした。
ある日、利太郎の父親は、隠居所で梅見の宴を催し、春琴を招きました。春琴の付き添いとしてその饗宴に行った佐助は、手引きが疎かにならないように、外で飲むことを禁じられており、勧められても誤魔化していました。佐助が春琴とは別室に下がった時に、利太郎が春琴の手を握り、春琴が振り払っているところに佐助が駆けつけました。そのようなことがあった翌日も利太郎は稽古に来たので、それまで手厳しい稽古をすることがなかった春琴は、途端に無遠慮な怒号を飛ばしながら稽古を行い始めました。利太郎は次第に辛抱することができなくなり、横着に気のない弾き方をするようになりました。ある日、春琴が利太郎の眉間を撥(ばち)で突いて流血させると、利太郎は「覚えてなはれ」と捨て台詞を残して立ち去り、それきり姿を見せませんでした。
春琴が、将来芸者になる準備をしていた少女の頭を撥で叩き、生え際に傷を作ったことで、その父親が殴り込んできたこともありました。
事件
そのようなことが続いていたため、春琴には敵が多く、また奉公人としての立場ながらも春琴の事実上の夫として仕える佐助に嫉妬する者も多くいたようでした。春琴の美貌と才能に嫉妬する他の検校や女師匠もいたため、誰が犯人なのかは定かではありませんでしたが、梅の宴から一ヶ月ほど経った頃、台所に忍び込んだ賊によって沸騰した湯を顔に浴びせかけられました。
春琴が自分の顔を見るなと命じたため、駆け付けた佐助はすぐに行燈の灯を遠のけ、目をつぶりました。その後春琴の顔は包帯で巻かれ、医者以外に焼け爛れた顔を見せることはありませんでした。
春琴は、自分の焼け爛れた皮膚を見たかと佐助に聞きました。佐助は、一瞬間その姿を見ましたが、咄嗟に顔を背けたため、何か恐ろしい印象の幻影が残っているに過ぎませんでした。医者が来なくなると、佐助にだけは自分の姿を見せなければならなくなると言って、珍しく涙を流す春琴に対し、佐助は必ず顔を見ないようにすると約束しました。
盲目になった佐助
春琴の傷が癒え、包帯をとっても差し支えない状態になったある朝、佐助は下女の使う縫針を密かに持ってきて、自分の両眼を刺しました。痛みも発熱もありませんでしたが、たちまち視界が白濁し、佐助は視力を失いました。
盲目になったことを伝えると、春琴は、それはほんとうか、と聞き、しばらくの間黙りました。その数分間、佐助は師弟として隔てられていた心が一つになったことを悟り、自分が春琴と同じ盲目の世界に来れたことに、この上ない幸福を感じました。
痛くはなかったかと聞かれると、佐助は春琴の苦しみに比べれば何でもないと答え、まだぼんやりと見えているのは春琴の昔のままの姿であると言いました。佐助にだけは自分の変わり果てた姿を見られたくなかったことを察してくれたことに対し、春琴が礼を言うと、二人は抱き合って泣きました。
事件のその後
事件から九年が経ち、春琴が四十六歳になった明治七年、十二歳の鴫沢てるが、内弟子として家に住み込み、春琴と佐助の間の手引きとして奉公しました。
春琴は、いつも頭巾で顔のほとんどを覆っており、てるは、春琴の顔を見てはならないと命じられていました。盲目となった佐助は春琴を労り続けており、二人は視覚を失っても、触覚の世界を楽しんでいるように見えました。
佐助は春琴から琴台という号を与えられ、子弟をすべて引き継ぎました。世間からの同情を集め、以前よりも多くの門下を得るようになりました。春琴は隣の部屋におり、佐助は呼ばれると、稽古の途中でもその部屋に行きました。
春琴は段々と昔の驕慢さを失っていきましたが、佐助はそれを望まず、以前にも増して自分を卑下し、春琴に昔の自信を取り戻させようと、収入の全てを捧げました。二人が結婚しなかったのは昔の関係を維持したい佐助が望んだことでもあったようでした。
後年、佐助がてるに語ったところによると、目が見えなくなって初めて、春琴の美しさが分かるようになり、それととともに春琴の奏でる三味線の真価が、ようやく理解できるようになったようでした。春琴が三味線を弾き始めると、佐助はその隣で一心に耳を傾け、弟子たちは奥の間から聞こえて来るその音に、何か仕掛けでもしてあるのではないかと噂しました。春琴は作曲家としても才能を発揮し、独創性に富んだ曲を残しました。
春琴は明治十九年に病気になり、十月十四日に心臓麻痺でこの世を去りました。
その後、佐助は長く悲しみを忘れず、暇があれば春琴の代表作である「春鶯囀(しゅんおうてん)」を弾きました。その後も妻妾を持たずに二十一年を孤独に生き、明治四十年十月十四日、門弟たちに看護されながら、春琴と同じ命日に八十三歳で息を引き取りました。佐助は、死の間際も在りし日の春琴を鮮やかに作り上げ、見ていたのだと思われます。