芥川龍之介『鼻』ってどんな作品?登場人物、あらすじ、感想を紹介

 

 1916年発表の『鼻』は、平安時代の説話集「今昔物語集」と、鎌倉時代の説話集「宇治拾遺物語」を題材とした短編小説で、芥川龍之介にとっては『羅生門』に次ぐ二作目にあたる作品です。顎の下まで垂れ下がる五、六寸の鼻の長さを気に病み、さまざまな方法で鼻を短く見せようと画策する高僧・禅智内供が、この物語の主人公です。彼は、とある方法で鼻を短くすることに成功し、自尊心を回復しますが、以前にもまして、周囲の人々が自分を嘲笑していることに気づくようになります。

 他人の不幸には同情するものの、その人が不幸を切り抜けると、とたんに悪感情を抱くようになる人間の心理を巧みに描いたこの作品は、師匠である夏目漱石に絶賛され、芥川龍之介の名を文壇に広く知らしめることとなりました。

 このページでは、『鼻』の登場人物、あらすじ、感想を紹介します。

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『鼻』の登場人物

禅智内供
五十を超えた高僧で、宮中で僧を修行させ、天皇の健康などを祈る読経をさせている。顎の下まで垂れ下がった五、六寸(十五センチ)ほどの長い鼻を気に病んでいる。

『鼻』のあらすじ

 禅智内供の鼻は宇治川上流の池尾で知らないものはおらず、五、六寸もあって顎の下まで垂れ下がっていました。彼は自分の鼻の長さを気に病みながらも、それを気にしていないような顔をしていました。弟子に板で鼻を持ち上げてもらわなければ食事もできず、一度その弟子の代わりの給仕の少年がくしゃみをしたために、鼻を粥の中へ落としたことがあり、その話は京都まで喧伝されました。内供はこの鼻によって自尊心を傷つけられ続けていました。

 内供は、鼻の長さを短く見せる顔の角度を研究したり、自分と同じような鼻のものを他人の中に探したり、書籍の中に鼻の長かった人物を探したりしましたが、そのような試みも彼の自尊心を回復させるには至りませんでした。さまざまな薬を試しても、彼の鼻が短くなることはありませんでした。

 ある年の秋、京へ上った弟子の僧が、中国から渡ってきて長楽寺で僧になっている医者から鼻を短くする方法を教わってきました。

 内供は、鼻の長さを気にかけないふりをしていたので、食事のたびごとに弟子に鼻を持ち上げさせるのが心苦しいと言いはじめ、その方法を勧められるのを待ちました。それを察した弟子がこの方法を強く勧め、内供は促された形で、その方法を試すこととなりました。

 それは、湯で鼻を茹で、人に踏ませるというものでした。内供の鼻は湯だった中に入れても弟子に踏ませても痛みを感じませんでした。しばらくすると粟粒のようなものができ始め、それを毛抜きで抜き、もう一度茹でると、内供の鼻は短くなっていました。

 翌朝も、内供は自分の鼻を撫で、短いのを確認してのびのびした気分になりました。しかし、周りの人々がこれまでに増して自分の鼻を嘲笑していることに彼は気づきました。

 人は他人の不幸には同情しても、その他人が不幸を切り抜けると、物足りないような気持ちになったり、敵意を抱くことすらあるというのを内供は悟るようになりました。彼は日毎に機嫌が悪くなり、誰でも意地悪く叱りつけるようになりました。給仕の少年が、かつて食事中に鼻を持ち上げていた板を使って、「鼻を打たれまい」と囃しながら追い回しているのを見て、内供はその少年の顔を打ちました。やがて内供は、鼻が短くなったのを恨めしく思うようになりました。

 ある夜のこと、寒い夜で内供がなかなか寝付かれないでいると、鼻がむず痒くむくんで熱を帯びていました。

 翌朝、内供が目を覚ますと鼻は元の長さに戻っていました。彼は、鼻が短くなった時と同じようなはればれした気持ちになり、もう誰も笑うものはないに違いないと心の中で囁きました。

管理人の感想

 長い鼻に悩む禅智内供が、治療を行って短い鼻を手に入れ、その鼻が元に戻るまでの心理が書かれた作品です。自尊心が高く、自分の鼻の長さを気にとめていないように振舞っていた内供は、内心ではそれを大変に気に病み、鼻を短くする(短く見える)ための数々の方法を研究しています。やがて彼は弟子に勧められた方法によって長い鼻を短くすることに成功します。長年の悩みが消えた筈の内供でしたが、今度は周囲の人々が以前にもまして自分を嘲笑っていることに気づきます。彼は次第に不機嫌になり、鼻が短くなったことを恨めしくすら感じるようになっていきます。

 そしてある朝、自分の鼻が短くなったことを発見し、これで人に笑われることはないと晴れ晴れとした気持ちになります。

 これで一応の気持ちの整理がついたような内供ですが、周りの人々はどうでしょうか?

 内供の鼻が短くなる前は、周囲の人たちが彼に対しどのような感情を持っていたかはあまり描かれていません。近所で内供の鼻の長さを知らない人がいないことや、鼻を粥に落としたことが京都中に喧伝されたことを考えると、彼を嘲笑う人もいたことでしょう。しかし、少なくとも弟子たちは、内供が気に病んでいることを知りながら、それに気づかないふりをして治療法を強く勧めてやったりと、それなりに同情はしている様子です。

 しかし、治療が成功すると、同情していた者たちも何か物足りないような気持ちになったり、敵意を抱くことすらでてきます。それが影響して、段々と不機嫌になっていく内供を見て、弟子たちはどのように思ったでしょうか?

 もともと心から同情し、治療法を紹介し、気を使ってまでその方法を勧めてやった内供が、鼻が短くなったというのに、どんどん不機嫌になり、自分たちを叱りつけるようになる。自分たちのせいとはいえ、これには納得できようもありません。弟子たちが笑うにつれ、内供が不機嫌なり、内供が不機嫌になるにつれ、弟子たちが嘲笑う。このような負のスパイラルに陥ったとも言えるでしょう。

 鼻が再び長くなり、もう人に笑われなくなったと思っている内供ですが、自分が弟子たちに抱かれたであろう反感は、なかなか消せるものではないでしょう。鼻の長さは前に戻ったのに、弟子からの不信だけが残ったのではないかということを考えさせられる結末です。作品全体から感じられるユーモラスな語り口とは裏腹に、なかなか残酷な物語であると思います。