芥川龍之介『蜘蛛の糸』ってどんな作品?登場人物やあらすじを詳しく解説

芥川龍之介作『蜘蛛の糸』のあらすじ、感想を紹介するページです。作品の概要や管理人の感想も。

蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)

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『蜘蛛の糸』の登場人物

御釈迦様
蓮池を覆う蓮の葉の間から犍陀多を見つけ、蜘蛛の糸を垂らす。

犍陀多(カンダタ)
人を殺したり家に火をつけたりと、様々な悪事を働いた大泥棒。道ばたを這う蜘蛛を踏み殺すのを躊躇い、助けたことがある。

『蜘蛛の糸』のあらすじ

 ある日の朝のこと、御釈迦様が極楽の蓮池のふちから地獄の底を覗きました。その地獄の底には、大悪党であった犍陀多という男が、他の罪人と一緒に蠢いていました。御釈迦様は、犍陀多が蜘蛛を見かけても踏み殺さなかったことがあるのを思い出し、この男を救い出してやろうとして、極楽にいる蜘蛛を見つけてその糸を地獄の底へ下ろしました。

 血の池でもがいていた犍陀多は、蜘蛛の糸が天上から垂れてきたのを見つけ、その糸をたぐりながら登って行きました。
 くたびれて下を見た犍陀多は、何人もの罪人が、自分の後を登ってきているのに気づきました。
 このままでは糸が切れてしまうと思った犍陀多は、自分の後をつけてくる罪人たちに向かって、この蜘蛛の糸は自分のものだから下りろと喚きました。
 その途端、蜘蛛の糸はぷつりと切れ、犍陀多は地獄の底へまっさかさまに落ちて行きました。

 御釈迦様は、犍陀多が血の池の底へ沈んでしまったのを見て、悲しそうな顔をしながらまたぶらぶらと蓮池の縁を歩き始めました。犍陀多の自分だけが助かろうとする心が、御釈迦様には浅ましく思われたのでしょう。

 極楽の蓮池の蓮は、そんなことには頓着せず、その真ん中にある金色の蕊から、良い香りを漂わせています。極楽ももう昼近くになったのでしょう。

作品の概要と管理人の感想

 『蜘蛛の糸』は、一九一八年に発表された児童向けの短編小説です。
 地獄で苦しんでいた大悪党犍陀多が、極楽へ昇るための蜘蛛の糸を独り占めしようとしたがために再び地獄へ落とされるという内容で、「利己的なことをすると、その報いを受ける」という教訓を得られる作品となっています。児童向けに非常にわかりやすい内容となっていますが、大人にとっては、また違った面白さが味わえる作品であると思います。

 そもそも御釈迦様はなぜ犍陀多を助けようとしたのでしょうか。生前に小さな蜘蛛を踏み殺すのを思いとどまったためということにはなっていますが、この行為は、「ただ殺さなかった」という非常に消極的な善であり、極楽に昇る権利を得るほどの善い行いとは思えません。それくらいのことは、他の罪人も行っているのではないでしょうか。御釈迦様が犍陀多を助けようとしたのは、「蜘蛛を助けたことがあるから」というよりは、「ただ目に入っただけ」という感じがします。

 蜘蛛の糸を登り始めた犍陀多は、他の罪人が後ろからついてくるのを見て、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」という台詞を吐いて、再び地獄へと落とされます。
 糸が切れてしまうと思った犍陀多が、ほかの罪人に向かって「下りろ。下りろ。」と言うのは当然のことであり、御釈迦様にそれが予想できなかったとは思えません。そして自分の予想通り犍陀多が地獄へ落ちると、御釈迦様は悲しい顔をするのです。それらの御釈迦様の行動は、本気で犍陀多を助けようとしているというよりは、「暇つぶしに地獄の罪人の一人に目をつけ、その行動を観察しているだけ」といった印象を受けます。蜘蛛の糸を垂らしてしまったあとは、まるで私たちがテレビドラマの物語を見るような感覚で、犍陀多の行く末を見守っているだけです。

 要するに犍陀多は、自分の浅ましい行為によって地獄に再び落とされたというよりは、御釈迦様の気まぐれによってぬか喜びさせられただけのような印象を受けるのです。つまり一度地獄へ落ちた罪人は、極楽の住人の気まぐれにも甘んじてつきあわなければいけないということでしょうか。

 もともと児童向けに書かれた作品であるため、ここまで深読みする必要はないのかもしれません。芥川龍之介の作品特有の、無駄の一切ない美しい文体を味わうだけでも、この小説を楽しむことはできるでしょう。しかし、この作品には「利己的なことをすると、その報いを受ける」というテーマだけにとどまらない、不可解な点が多いような気がします。ほんの数ページで、これだけ多くの考察ができてしまう本作は、文学の本当の楽しみ方を伝えてくれる作品だと思います。