アルベール・カミュの『異邦人』ってどんな話?作品の内容を詳しく解説

アルベール・カミュ作『異邦人』の登場人物、あらすじ、紹介するページです。作品の概要や管理人の感想も。

※ネタバレ内容を含みます。

『異邦人』の登場人物

ムルソー
三年前に母親を養老院に入れたが、日曜日を不意にするのが嫌で、一度も訪れたことがなかった。その母親が死んだという連絡を受け、養老院へと向かい、棺の前で煙草を吸って居眠りをする。葬儀では感情を動かす様子を見せず、家に帰ると、ゆっくりと休めることを喜ぶ。
葬儀の翌日に海水浴に行き、もと事務所のタイピストであったマリイと出会って関係を持つ。自分とは全く怨恨のないアラビア人を殺して逮捕され、動機を聞かれて「太陽のせいだ」と答える。法廷では計画的な犯行であったと邪推され、死刑を求刑される。自分のために祈ろうと訪れてきた司祭に罵詈雑言を浴びて追い出し、独房の中から自分に無関心な星空を見上げ、自分が世界と近しい存在になったことを感じて幸福になる。

ムルソーの母(ママン)
故人。三年前から養老院に入っていた。

老院の院長
小柄な老人。レジオン・ドヌール勲章をつけている。一度も母親を訪れる事のなかったムルソーを遠回しに咎める。
法廷では、ムルソーが母親の葬儀中に冷静であったこと、母親の年齢を知らなかったことを証言する。

養老院の門衛
六十四歳のパリっ子。養老院に来て五年になる。母親の棺の前にいたムルソーに煙草とコーヒーを勧める。
法廷では、申し訳ない表情を見せながらも、ムルソーが母親の棺の前で煙草を吸い、よく眠ったことを証言する。

トマ・ペレーズ
ムルソーの母親の養老院での最後の友達。足を引きずっていたため、ムルソーの母親の葬儀の列について行くことができず、涙を流す。
法廷では、母親の葬儀中に涙を流さなかったムルソーを見て苦痛を感じたと証言する。

マリイ・カルドナ
もとムルソーの事務所にいたタイピスト。海水浴場でムルソーに会い、共に映画を見た後、関係を持つ。そのうちに結婚を望むようになるが、自分が惹かれているのと同じ原因で、いずれムルソーのことを嫌いになるかもしれないという思いを抱いている。ムルソーが逮捕された後も、結婚を望み続け、法廷ではムルソーを庇おうとするが、検事に攻撃されて泣き出し、連れ出される。

エマニュエル
ムルソーと同じ事務所の発送部で働く。

セレスト
ムルソーがいつも得意にしている店の主人。法廷では、事件が不運によってもたらされたのだと繰り返し主張する。

サマラノ
ムルソーの隣人。妻が死んだ後、工場の仲間に頼んで子犬を引き取って八年間生活を共にしている。ムルソーの母親もその犬を可愛がっていた。皮膚病になったその犬に引きずられるように毎日散歩し、つまづくと折檻し、罵り合いながら生活していた。しかし実は病気になった皮膚に毎日軟膏を塗ってやっており、犬がいなくなると涙を流して悲しむ。法廷では、ムルソーがその犬の件で親切にしてくれたと主張する。

事務所の主人
パリに出張所を設け、その場で直接大商社相手の取引をしたいと考え、ムルソーをパリに行かせようとする。パリに行くのも行かないのも自分にとっては同じことだと答えるムルソーの野心に欠けた様子に、不満気な表情をする。

レエモン・サンテス
ムルソーの隣人。自称倉庫係だが、実際は売春の仲介。自分のことを騙していると思われる情婦に復讐するため、その女を呼び出すための手紙を書いてほしいとムルソーに依頼する。その手紙を読んで訪れてきた女に暴力を働いたことが原因で、巡査の訪問を受けたため、その情婦が不誠実であったと証言するようにムルソーに頼む。このことが原因で、その情婦の兄を含むアラビア人の集団につきまとわれることとなる。
ムルソーを誘って訪れたマソンのヴィラ近くの浜辺で、自分をつけ狙っているアラビア人と抗争になり、腕と口を切られる。
法廷では、被害者が恨みを抱いていたのは自分に対してだと言ってムルソーを庇うが、売春の仲介をしていることで、ムルソーにとっては有利な証言とはならなかった。

マソン
レエモンの友人。がっちりとした大男。土日になると所有している浜辺のヴィラに住む。レエモンにつきまとっていたアラビア人と乱闘になると、そのうちの一人を殴り倒し、匕首で切りつけられたレエモンを病院に連れていく。

マダム・マソン
マソンの妻。小柄のパリジェンヌ。

アラブ人
レエモンの情婦、その兄と仲間が含まれる。そのうちの一人が、ムルソーによって射殺される。

予審判事
敬虔なキリスト教徒。ムルソーを尋問する。始め神を信じないムルソーに憤慨するが、少しずつ打ち解ける。

検事
ムルソーが武器を携えて一人でアラビア人の方へ向かったことから、犯行を計画的なものと主張し、ムルソーを心の空虚な魂のない人間だと批判して、死刑を要求する。

弁護士
自分に有利な証言をしようとしないムルソーに辟易しながらも、罪を軽くしようと尽力する。しかし、検事のものと比べると見劣りする弁論しか行うことができず、ムルソーに死刑が求刑されることとなった。

裁判長
ムルソーに死刑の判決を言い渡す。

御用司祭
独房にいるムルソーが絶望や恐れに囚われ、神を信じられなくなったのだろうと思いこみ、抱擁して祈ろうとする。ムルソーに抱擁を拒否され、襟首をつかまれて罵られたため、涙を浮かべながら独房から去っていく。

『異邦人』のあらすじ

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 母親(ママン)が死んだという電報を受け取り、アルジェ(アルジェリアの首都)から初めてその養老院を訪れたムルソーは、母親の最後の姿を見ようとせず、棺の前で門衛とおしゃべりをして、煙草を吸い、うたた寝をしました。暑さと疲労で頭がぼんやりしていた彼は、翌日の葬儀中も心を動かすことなく、アルジェに帰ると、ゆっくり休めることを喜びました。

 翌日、海に泳ぎに行ったムルソーは、もと事務所のタイピストであったマリイ・カルドナに出会いました。ムルソーはマリイのことを好ましく思っていたので、その日の夜の映画に誘いました。マリイは映画が終わるとムルソーの部屋へと入りました。

 ある仕事の帰り、ムルソーは隣人のレエモン・サンテスの話を聞きました。レエモンは、囲っていた女が働かずに金をせびるようになり、自分が騙されていると感じていました。ムルソーは、その女への復讐を考えているレエモンに協力を依頼され、その女を呼び出すための手紙を書きました。その手紙によってレエモンを訪れた女は、ひどい暴力を受けて追い出されました。しかしこれが原因で、レエモンは女の兄を含むアラビア人の一団につきまとわれるようになりました。
 ムルソーのことを気に入ったレエモンは、海辺での友人との集まりに誘いました。ムルソーはマリイを連れてそこへ出かけました。レエモンは、その浜辺にあるヴィラを持つマソンという友人をムルソーに紹介しました。一同は海へと入り、酒を飲みました。
 ムルソーとレエモンとマソンが海岸を散歩していると、レエモンにつきまとっている二人のアラビア人が彼らを見つけ、向かってきました。一同は争いになり、レエモンが怪我を負いました。その後、再びアラビア人を見かけたレエモンが、撃とうとするそぶりを見せたので、ムルソーはそれを止めるためにピストルを預かりました。
 ムルソーは今度は一人で浜を歩き、再び先程のアラビア人のうちの一人に会いました。激しい暑さを感じてその方に向かうと、そのアラビア人が匕首を取り出しました。ムルソーは引き金を引き、アラビア人を殺しました。

 ムルソーは逮捕され、尋問を受けた後、独房に入りました。彼は特に不幸を感じませんでした。
 弁論が開かれると、ムルソーは、母親の葬儀で常に冷静であったことを非難されました。さらに検事は、ムルソーが初めから殺人を行うために争いを扇動し、計画通りに殺しを行なったのだと主張し、ムルソーのことを心の空虚な魂のない人間だと批判しました。
 ムルソーは殺人の動機を聞かれ、太陽のせいと答えました。
 弁護士の弁論は、検事の弁論に比べると弱く、ムルソーは死刑を言い渡されました。
 窓から空だけが見える独房に戻ったムルソーは、御用司祭の訪問を受けました。ムルソーは神を信じていないと言いましたが、司祭は、いつか彼が神様の方に向かっていくだろうと主張し、抱擁を求めました。ムルソーがそれを拒否すると、司祭はムルソーのために祈ろうとしました。
 すると、ムルソーは、司祭の襟首をつかんで祈りをやめろと叫び、罵詈雑言を浴びせて司祭を追い出しました。
 平静を取り戻し、自分に無関心な星空を見上げたムルソーは、自分が世界と近しいものになったように感じ、幸福になりました。彼が望むのは、処刑の日に、大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて自分を迎えることだけでした。

作品の概要と管理人の感想

 アルジェリア生まれのノーベル賞作家アルベール・カミュ(一九一三年〜一九六〇年)の代表作『異邦人』は、一九四〇年に完成されました。(アルジェリアは当時フランスの植民地であり、カミュの父親がフランス人入植者であったため、当ブログではこの作品をフランス文学に含めています。)一九四二年に出版されると、たちまち評判を得て、カミュはフランス文壇の寵児として知られるようになりました。
 母親の葬儀に何の感動もしめさず、その翌日に女と海水浴場に行って関係を結び、自分とは怨恨のないアラビア人を殺して逮捕され、動機を聞かれて「太陽のせいだ」と答える主人公ムルソーは、一見、本来の人間とはかけ離れた、心を持たない者のような印象を受けます。
 しかし、人間というものは、ある感情に支配されているように見えても、頭の片隅では他のことに気を取られ、常に何かしらの欲望を感じ続けているものです。たとえ母親の葬儀の間であっても、コーヒーを飲みたいという欲望はなくなるものではありません。その翌日に女性と遊びたいと思う男性もいるでしょうし、法廷の場にうんざりするのも頷けます。司祭が自分のために祈ってくれても、それが自分の信じない神に対する祈りであれば、怒りを感じるのはむしろ当然かもしれません。非人間的に思われるムルソーのこれらの行動は、全て思うがままになされたものであり、ある側面だけから見れば、自分を偽りながら生きている多くの人々よりも人間的であるとも言えるでしょう。
 多くの文学作品の登場人物たちは、願望を満たそうとする自分と、人間社会で常識とされる範囲の中で行動しなければならない自分との間で、煩悶し続けてきました。美、官能、恋といった世界に入り込んだ彼らは、自分に対して誠実に生きれば生きるほど、社会との齟齬を感じ、時に発狂したり、時に自らの命を絶っていきました。
 ところが、この作品の主人公ムルソーは、常識の規範という概念が存在せず、したがって自分を社会の常識に当てはめられずに煩悶をすることもありません。彼の中にあるのは、その時の自分の心を満たすことだけです。母親のことを心から愛しているという彼の言葉も、たとえ葬儀中に心を動かす素振りをして見せなくても、嘘ではないでしょう。
 そのように考えると、このムルソーという男は、誰よりも嘘をつかず、誰よりも誠実に生きているように思えます。しかし、自分に誠実に生きることで、彼は周囲から不誠実な人間だと思われ、死刑を宣告されてしまうのです。
つまり、この作品では、本当に自分に誠実に生きようとすればするほど、社会との齟齬が生まれ、その中で生きていくことが困難になるという不条理が書かれているのです。
 自分の考えを持たない人間たちが、自分たちのルールを押し付けて来る今の世界にうんざりしていたムルソーは、独房の窓から見上げる夜空を眺め、「世界の優しい無関心」に心をひらきます。このように生きてきたムルソーだからこそ、死(つまりうんざりするような人間社会からの脱出)を目前にして、自分が世界に近しい存在に感じるような幸福を感じられるのかもしれません。この不条理の世界のなかで自分を偽りながらしか生きていけない私達には、ムルソーが独房の中で感じた根源的な幸福は、決して掴めないでしょう。