太宰治『きりぎりす』のあらすじ、感想、考察

 『きりぎりす』は、1940年に発表された太宰治の短編小説です。太宰治が得意とする、女性の一人称で書かれた作品の一つで、急に売れっ子になった画家の妻が語り手になっています。
 名声を得るにつれ、金にこだわり、陰口ばかりをたたく嘘つきな男になってしまった夫の変化が妻からの視点で語られます。その一方で、その変化を受け入れることができない語り手の偏狭さや強すぎる自己愛も客観的な視点から読み取ることができ、様々な解釈ができる作品となっています。

※ネタバレ内容を含みます。

『きりぎりす』の登場人物


二十四歳。十九歳の時に、見合い相手である売れない画家(あなた)の作品を見て感動し、結婚を決意する。

あなた
「私」の夫。故郷は瀬戸内海。親に無断で東京に飛び出して画家になった。

但馬さん
「あなた」との縁談話を「私」の父に持ってきた骨董屋。

『きりぎりす』のあらすじ

 二十四歳になる「私」は、夫である「あなた」との別れを決心しています。

 「私」が「あなた」と結婚したのは、十九歳の頃でした。父親の会社に画を売りに来た骨董屋の但馬さんが、「あなた」の作品を見せ、この画の作者は将来有名になるだろうと言って、「私」との縁談を勧めたのがきっかけでした。父は但馬さんの言葉を冗談半分に受け取りながら画を買ったところ、後日但馬さんは本気でその縁談話を持ってきました。
 縁談の話を聞いた「私」は、「あなた」の作品を見に行き、体が震えるほどの感動を覚えました。「私」は、他の縁談をすべて断り、家族の反対を押し切って「あなた」のところへお嫁に行くことを決めました。

 それから「私」たちは、淀橋のアパートで二年ほど過ごしました。「あなた」はお金に無頓着で、貧乏な生活を強いられました。「あなた」は、人々の嘲笑を受けても、わがままな画ばかりを描いて俗世間から汚されず、「私」は但馬さんが置いていく小額のお金だけで満足し、貧乏な生活を楽しんでいました。

 そのうちに、「あなた」は、但馬さんの勧めで個展を開きました。するとその個展は高い評価を受け、画は飛ぶように売れていきました。

 「あなた」は但馬さんに連れられて、方々の名家に挨拶に行くようになりました。時には帰りが朝になることもあり、その度に「あなた」は昨夜のことを詳しく話し、後ろ暗いことが何もなかったということを「私」に納得させようとしました。「あなた」はアパートの小さい部屋を恥ずかしがるようになり、但馬さんの勧めで三鷹に大きな家を買うと、交際はさらに増えていきました。
 「私」は「あなた」の後ろ暗いところは苦にしませんでしたが、自分がいわゆる成金の、いやな奥様のようになった気がして、いまにきっと悪いことが起きるのではないかと恐ろしくなりました。

 「私」の心配をよそに、「あなた」は出世し、お客も増え、「私」たちの結婚に反対していた母親もたびたび訪ねてくるようになりました。「あなた」が新浪漫派などという団体を作ると、その団体の展覧会は非常な好評を博しました。
 無口だと思っていた「あなた」は、他人から借りてきた言葉ばかりを使って、お客と談笑するようになりました。

 そのうちに「あなた」は、お金にこだわるようになりました。魅力であった清貧なところは何一つ見出せなくなり、「私」は「あなた」のことを、嘘つきでわがままな楽天家だと思うようになりました。「あなた」が他人の悪口ばかりを言うようになると、「私」は何か悪いことが起きるようにすら願うようになっていきました。

 ある日、「私」は、「あなた」の画の熱心な支持者である有名な大家の先生のところへ連れて行かれました。その先生が「私」のことを褒めると、「あなた」は「私」の母が士族だと嘘をつきました。家を出た途端、始終ぺこぺこしていた「あなた」が、その先生の陰口を叩き始めるのを聞き、「私」は別れを決意しました。

 「あなた」は、とうとう但馬さんに対してすら陰口を叩くようになりました。

 「私」は、ラジオ放送に出演する「あなた」の声をラジオで聴き、その不潔に濁った声を聞いて、いやな人だと思い、スイッチを切りました。
 床に着くと、床の下でこおろぎが懸命に鳴いていました。それがちょうど背中の真下で鳴いているので、「私」は、自分の背骨の中で小さいきりぎりすが鳴いているような気がしました。「私」は、このかすかな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きていこうと思いました。

管理人の感想・考察

 『きりぎりす』は、名声を得たことで変わってしまった画家の夫に失望する妻の心理が書かれた一人称作品です。

 主人公は十九歳の頃、縁談相手に売れない画家を紹介されます。その画家の作品を見て、体が震えるほどの感動を覚えた主人公は、家族の反対を押し切ってその画家との結婚を果たします。
 夫は、他人の評価を気にせず、好きなものを書いてばかりで、展覧会を開こうとすらしません。しかし、そのような夫の生き方に主人公は清貧さを感じ、貧乏でも幸せな時を過ごします。しかし、個展が大変な好評を博してから、無口な夫が、どこかから借りてきたような言葉ばかり使ってお客と談笑するようになり、お金にこだわり、他人の悪口ばかりを言うようになります。そのような夫を見て、主人公は失望していきます。

 というのが、主人公の口から語られる夫との物語なのですが、細かいところを読んでいくと、彼女の奥底に眠っている心理は、語られていることとは少し異なっているように感じます。

 この主人公は、夫が変わってしまったために別れを決意したと言いますが、そもそも最初から彼女は夫を愛していなかったようにも思われます。
 主人公は、夫と会うよりも先に、その作品を見ただけで結婚を決意しています。彼女は、最初から夫の人柄や容姿に惹かれたわけではなく、その作品に惹かれていたのです。

 そもそも彼女は結婚する前から、「愛する人」のところではなく、「この世界中に自分でなければ、お嫁に行けないような人」のところへ行きたいものだと考えており、貧しい画家の、親戚に愛想を尽かされ、酒を飲み、左翼だと言われている夫の経歴は、そのような彼女の理想とぴったりと合致します。

 初めて会った印象で語られるのは、夫のワイシャツの袖口の清潔なことで、夫自身についての描写はありません。その後も夫の人柄について語られることはなく、彼女が夫のどのようなところに惹かれたのかが見えません。

 結婚後、彼女は、「貧乏になればなるほど、私はぞくぞく、へんに嬉しくて」この世では立身しないであろう夫を一生支えていくことに喜びを感じます。

 独白の端々で語られるこれらのエピソードは、彼女が夫を愛しているのではなく、貧しい画家を支える自分を愛しているという、よい証拠であると思います。

 このような心構えの彼女にとって、夫が出世することは、貧しい夫を支える自分自身への愛の行き場がなくなることを意味します。夫の本質を愛しているわけではなかった彼女が、名声を得た夫と別れたくなるのは当然の成り行きであったのかもしれません。

 一人称作品というのは、すべて語り手の主観によって成り立っているので、それらが全て真実であるとは限りません。語り手は、普通の人間と同じように本音と建前があり、自分を正当化したがったり、虚勢をはったり、意識的あるいは無意識的に嘘をついたりします。だからこそ、語り手の言うことから、どれが真実でどれが虚飾なのかとあれこれと想像するのが一人称作品のひとつの楽しみ方であり、この『きりぎりす』は、その醍醐味をたっぷりと味合わせてくれる作品であると思います。

 また、この作品の結末では、題名ともなっている『きりぎりす』が面白い描かれ方をしており、さまざまな解釈ができそうな場面となっています。

 主人公は、ちょうど自分の背骨の下で鳴いているこおろぎの声を聞き、背骨の中で小さいきりぎりすが鳴いているかのような気がします。「こおろぎ」の鳴き声を、背骨の中にいる「きりぎりす」の鳴き声のように感じるというのは、なんだかよくわかりませんが、当時は「きりぎりす」のことを「こおろぎ」と呼ぶこともあったようで、その辺の区別が曖昧だったのかもしれません。鳴いていたのが「こおろぎ」なのか、「きりぎりす」なのかはわかりませんが、主人公は、そのきりぎりすのように聞こえるかすかな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きていこうと思います。

 このきりぎりすが、どのような意味を持つのか。それは当時の「きりぎりす」という虫が、世間でどのように捉われていたかを知らないと、なかなか解釈が難しいようにも感じます。
 ためしにきりぎりすの鳴き声を検索して聞いてみると、派手さはないものの、なかなか素朴で可愛らしい声をしています。江戸時代から1980年代頃まで、きりぎりすは鳴き声を鑑賞するために、店頭で売られる商品価値のある虫だったようで、この作品の発表当時、その鳴き声は、今よりももっと身近に人々を楽しませていたことでしょう。この声が背骨の中で響くことを想像すると、(虫嫌いの人は、文字通り「虫唾が走る」といった気分になるでしょうが)体中が澄んだもので満たされるような気分にもなり、まさに主人公が夫に求め続けていた「清貧」を感じさせる鳴き声であると思います。
 これは、その直前まで主人公が聴いていた、ラジオから流れる夫の「不潔で濁った」声とは非常に対照的です。このきりぎりすの声を大切に背骨にしまっておこうと主人公が考えたのは、夫が失くしてしまった清貧さを、自分だけは保ち続けていこうという気持ちの表れなのかもしれません。