アンドレ・ジッド『田園交響楽』の登場人物、あらすじ、感想

 『田園交響楽』は、一九一九年に発表された、ノーベル賞作家アンドレ・ジッドの小説です。
 タイトルにもなっている『田園交響楽』は、この作品中の象徴的な場面で使われている、ベートーヴェン作曲の『交響曲第六番(田園)』のことを指しています。

 アンドレ・ジッドは一八六九年のパリに生まれた作家です。彼は二十六歳の頃、少年時代から憧れ続けていた従姉マドレーヌとの結婚を果たします。しかし純粋すぎる妻が自分との肉体関係を望んでいないと思い込んでいたため、夫婦生活には問題があったそうです。同性愛志向のあったジッドは、自分の別荘があったノルマンディで家族ぐるみの交際をしていた牧師の息子と関係を結びます。その結果、彼はこの上もなく愛している妻マドレーヌに対し、罪の意識を抱えながら生きなければなりませんました。『田園交響楽』はそのような背景から生まれた作品で、語り手が作中で告白する喜びや苦悩は、ジッドが自分の人生から経験した感情と重ね合わされます。

 胸が締めつけられるようなストーリーに、ジッドがその人生を通して追及し続けたさまざまなテーマが込められた作品となっています。

※ネタバレ内容を含みます。

『田園交響楽』の登場人物

ジェルトリュード
盲目の少女。育て親である聾唖の老婆が死んだため、語り手に引き取られる。教育を受けずに育ったため、話すことすらできなかったものの、語り手の導きにより、知性を身につけていく。


この作品の語り手。プロテスタントの牧師。身寄りのなくなったジェルトリュードを預かることを義務と考えて連れ帰り、教育を授けることを試みる。

アメリー
語り手の妻。語り手がジェルトリュードを連れ帰ったことに憤慨する。

ジャック
語り手の長男。神学校に入っている。

サラシャルロットガスパールクロード
語り手の幼い子供たち。

ロザリー
語り手の家の使用人。

マルタン
語り手の友人の医師。ジェルトリュードの目に興味を持ち、手術により視力の回復が可能であるかを、ローザンヌの専門医に相談する。

ルイーズ・ド・ラ・M‥嬢
村の礼拝堂を管理する、信心深い慈善家。数人の盲目の少女を養育している。

『田園交響楽』のあらすじ

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 ある息を引き取りそうな老婆の死を看取ってほしいと頼まれた牧師の「私」は、その老婆の住む辺鄙な屋敷へと入りました。老婆はすでに息を引き取っており、「私」は、葬式や埋葬の手筈を整えてやりました。老婆の相続人は、盲目の、話すこともできない姪一人であったため、「私」は、その少女の世話をするのが義務だと考え、家に連れ帰りました。

 その少女は、ジェルトリュードと名付けられました。

 「私」は、ジェルトリュードに教育を施そうと試みました。始めのうち、彼女は無表情のまま身動きすら取ろうとしませんでしたが、諦めずに世話をし続けると、微笑みのような表情を浮かべるようになりました。それ以来、彼女の精神は目覚ましい発展を遂げ、会話ができるようになりました。
 精神の発達とともに、ジェルトリュードは美しく変貌を遂げ、「私」は無自覚のうちに彼女に惹かれるようになりました。

 妻アメリーは、勝手にジェルトリュードを連れ帰った「私」の自分勝手な行動に憤慨し、「私」が自分の子供たちよりもジェルトリュードを可愛がることに不満を抱きました。彼女は次第に「私」がジェルトリュードに惹かれていることに気づき、傷つくようになりました。

 神学校に入っていた「私」の息子のジャックが帰省し、ジェルトリュードに点字を教えるようになりました。そのうちに彼はジェルトリュードに恋をするようになり、結婚したいと宣言しました。二人の結婚をどうしても認めたくない気持ちに駆られた「私」は、まだ知能の発達しきっていないジェルトリュードに愛の言葉が身に応えるであろうと言って、告白を許しませんでした。
 ジェルトリュードは、ジャックが自分を愛していることを知ると、自分が愛しているのは「私」であると告白し、ジャックに自分のことを諦めるよう伝えました。

 ジャックが以前から予定していたアルプス旅行に発って行くと、「私」はジェルトリュードに聖体拝受を受けさせ、宗教教育を始めました。彼女が罪というものを知らないからこそ、幸福でいられるのだと思い込んでいた「私」は、戒律が自分の罪を自覚するためのものであると説く聖パウロを教えるのを控えました。

 復活祭にジャックは帰省し、ジェルトリュードと再会しました。二人は、当たり障りのないことしか言わなかったため、「私」は胸をなでおろしました。ジャックは、戒律と、その戒律を守ることにともなう忍従を重んじる傾向にあり、その忍従を他人にも強要するようになるのではないかと危惧した「私」は、彼と意見を分かちました。

 ジェルトリュードとジャックがこれ以上近づくのを恐れた「私」は、村の礼拝堂を管理する慈善家ルイーズ・ド・ラ・M‥嬢のところに彼女を預けるようにしました。ジェルトリュードはそこで、ルイーズが預かっている他の盲目の少女に踊りや歌を教えながら過ごしました。ジェルトリュードのことでいつも当てつけを言うアメリーによって家庭での安息を見出し得なくなった「私」は、毎日のように彼女のもとへ出かけました。

 ジェルトリュードは、「私」が自分を愛していること、そしてそのためにアメリーが傷ついていることに気づくようになりました。この世界が「私」が教えるほどに美しいものばかりではないということを知った彼女は、無知であるがために幸福であることを拒否し、知ることを欲しました。それとともに彼女は、自分の愛が罪であることを知るようになりましたが、「私」のことを思い切ることはできないだろうと言いました。

 私の友人の医師であるマルタンがジェルトリュードの目を調べ、手術によって視力を回復させることができると分かりました。ジェルトリュードに自分の姿を見られることを恐れた「私」は、彼女に手術の話を切り出すことをためらいました。

 ジェルトリュードが手術のためにローザンヌの病院に入院すると、「私」は、彼女を愛していることをはっきりと自覚し、その罪に苦しむようになりました。

 手術が成功し、目が見えるようになったジェルトリュードは家に戻りました。「私」たち家族は彼女の退院祝いを行い、ルイーズの家に送りました。
 しかし、その直後、ジェルトリュードは小川に落ち、助け出されたものの人事不省に陥りました。

 意識を回復した後、ルイーズがなんとか聞き出したところ、彼女は川辺に生えている瑠璃草を摘もうとして足を踏み外したのだと答えました。
 「私」は、彼女を何度か訪れましたが、満足に話をすることができませんでした。

 翌日の夕方、「私」が再び訪ねると、ジェルトリュードは熱を出していました。彼女は、自分は死のうとしたのだと告白し、目が見えるようになった後のことを語り始めました。

 手術の後、彼女はこの世界の美しさを知りました。しかし、家に帰ってアメリーのやつれた顔を見た時、それまで実感することのなかった罪の意識を覚えました。
 彼女は病院にいる間に、私が教えることを避けていた聖パウロの句を読んでもらっていて、その中にある一節「われかつて律法(おきて)なくして行きたれど、戒命(いましめ)きたりし時に罪は生き、我は死にたり」という言葉をなんども胸に繰り返しました。
 彼女にその節を読んでいたのは、ジャックでした。手術後、ジャックが目の前に初めて現れた時、心の中に描いていた「私」そっくりの顔をしており、自分が本当に愛していたのは、「私」ではなくジャックであったのだと彼女は悟ったようでした。ジャックはカトリックに改宗して僧門に入ったため、もはや彼と結婚する手立ては残されていませんでした。ジェルトリュードは、ジャックとの結婚を断るように導いた「私」を責めました。

 虚脱状態を繰り返したジェルトリュードは、翌日の明け方息を引き取りました。その死後、彼女はジャックとともに改宗していたことが分かりました。

 「私」は自分のために祈ってくれとアメリーに頼み、聖書の句を読んでもらいました。「私」は泣きたいと思いましたが、自分の心が砂漠よりも干からびているのを感じました。

管理人の感想

 『田園交響楽』は、身寄りのない盲目の少女を引き取って教育を施すことを決めた牧師が、その少女と次第に惹かれ合うも、導きに失敗し、自殺に追い込むまでが書かれた作品です。

 牧師である語り手は、妻アメリーの負担になることも考えず、善行を施しているつもりでジェルトリュードを預かり、教育を施そうとします。
 ジェルトリュードは、この世界の有り様を教わるにつれ美しく変貌を遂げ、語り手は自分でも気づかないまま彼女に惹かれていきます。彼の無自覚な恋は、妻アメリーを傷つけ、息子のジャックがジェルトリュードに結婚を申し込むのを妨げます。そのうちにジェルトリュードも語り手のことを愛するようになり、語り手は浮き立つような気持ちを覚えます。
 語り手は、ジェルトリュードに罪や悪といった概念を教えることをせず、この世の良い側面だけを教え続けます。しかし、そのうちにジェルトリュードは、この世には自分が教えられたほど美しいものばかりではないと気づくようになり、真実を知ることを欲するようになります。それとともに彼女は、自分が既婚者である語り手を愛しているのは罪なのではないかと考えるようになっていきます。
 ジェルトリュードの手術が決まり、自分の姿を見せることに恐れを感じ始めた時になって、ようやく語り手は彼女を愛していることを自覚し、罪の意識を感じ始めます。
 しかし、目が見えるようになったジェルトリュードは、これまでの自分の行いがアメリーを傷つける罪であったこと、そして自分が愛していたのは語り手でなくジャックであったことを確信して絶望し、自殺を図ります。

 この作品は、「盲人もし盲人を導かば、二人とも穴に落ちん」という聖書の文句がテーマになっていると言われています。語り手は、ジェルトリュードの導く上で盲目であったというだけでなく、ジェルトリュードに恋をするようになった自分の心に対しても、自分のために傷つくことになったアメリーの心に対しても盲目であったと言えるでしょう。はたから見れば彼は愚かであったと言えるでしょうが、そのような状況で、いったいどれだけの人が、自分の誤ちに気づくことができるでしょうか。特に人間は、自分が善を成していると思っている時と、恋をしている時に盲目になりがちなもので、語り手がジェルトリュードを正しい方向に軌道修正してやるのは不可能だったのではないかと思います。
 そのように考えると、語り手がジェルトリュードを家に連れ帰った時から、この悲劇は始まっていたのであり、考えれば考えるほどに、彼が陥った袋小路のような状況に、やりきれない気持ちにさせられます。

 ストーリーだけを見ると、なんとも痛ましい内容の作品ですが、個人的には、この作品から受ける印象はそれほど暗くありません。
 それは、ジェルトリュードの真っ直ぐな純真さのためであると思います。それがこの悲劇の原因になったとはいえ、この世にはびこる悪や罪といった概念を知らず、決して虚飾を行わず、心の中のありのままをさらけ出す彼女の姿は、なんといっても美しいです。そして舞台であるアルプス山脈の描写は、そのような彼女から受ける純真な印象とぴったり合致し、この作品の美しさを際立たせています。

 カトリックとプロテスタント、聖書の中の文句など、日本人には馴染みのないテーマも扱っていますが、善とは何なのか、本物の愛とは何なのかといった、誰もが考えうる普遍的なテーマについて問題提起する作品であると思います。