井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』の詳しいあらすじ

井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』の章ごとの詳しいあらすじを紹介するページです。

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一 万次郎等五名の漁師、浪の間に間に漂うこと

 万次郎は土佐の国幡多郡中の浜という漁村に生まれ、十三四のころから漁船に乗り、魚はずしをして生計を立てていました。十五歳のときに、彼はいつものように他人の持船に雇われてその年の初漁に出ました。他の乗組員には、船頭の伝蔵、伝蔵の弟の重助、伝蔵の倅の五右衛門、同じ地域の漁師である寅右衛門でした。彼らは鯖や小鯛の大群を見つけ、漁を始めましたが、直後嵐に会って遭難しました。そして遭難から十三日目に、ようやく絶海の孤島を発見して上陸しました。上陸の際に重助は足に怪我をしました。

二 万次郎等、絶海の孤島に助船を求めること

 彼らは漂着したその日を無人島元年の第一日と決めて人生に対する懐疑を捨て、苦労せずに捕ることができるアホウドリを食べて生活しました。伝蔵が足を怪我し、他の三人も次第に体調に異変をきたす中、万次郎だけは元気でした。
そして六ヶ月が経ったある日、島に近づく異国の船に助けられました。

三 万次郎等、ますます故国を遠ざかること

 万次郎たちを助けたのは、ジョン・ホーランドというアメリカの船号で、船長はホイットフィールドという名前でした。船長は船医に万次郎たちの手当をさせました。一命をとりとめた万次郎たちは、アメリカ船の捕鯨の様子に感動しながら、水夫の仕事を手伝いました。

 ホノルルに着くと、船長は五人の上陸の許しを得るため、奉行所に出頭して手続きを行ってくれました。一ヶ月ばかり船内で待機した後、五人は上陸しました。奉行はドクトル・ジョージという名で、彼らが公費でこの島に住めるようにしました。

 ホイットフィールド船長は日本人の国民性を気に入りました。その中でも万次郎の快活で胆力のあるところを深く愛し、ホノルルの有力者に頼んで、本土に万次郎を連れて行き、文明教育を授けることにしました。
ホノルルに残る伝蔵とその倅の五右衛門はドクトル邸の中間(ちゅうげん)、として、寅右衛門は桶大工の家の職人見習いとしてはたらき、重助は足痛が再発し、百姓家で養生しました。

四 万次郎、大海に乗り出し捕鯨の快味を満喫すること

 万次郎はキングズミルブルク、スペイン領ギャム、英領エミオウ島、ギャムを経由して、船長の故郷であるマサチューセッツ州ヌウ・ベッドフォールドへ渡りました。船中で万次郎はジョン万と称され、捕鯨の技術に熟練しました。船長の家がある対岸の町、ハアヘイブンに着くと、万次郎はジェームス・アレンという桶屋の家に寄寓しました。アレンの娘のジェーンは私立学校を経営していました。万次郎はジェーンの学校に通い、また近所のハアズレという数学者に数学、測量、読書、習字を習いました。
ハアヘイブンへニューヨークのアレンテベシという、以前万次郎たちを無人島から助け出した船の乗組員が訪ねてきました。アレンテベシはフランクリン号という船の船長になっていて、万次郎を捕鯨船に雇い入れたいと申し出ました。かつて大洋で捕鯨を行った感覚を忘れられなかった万次郎はそれに同意し、船に乗り込みました。
フアロー諸島、サンチャゴ、カオバンに寄り、ヌウ・ギネア、ドロン群島、琉球を経由し、フランクリン号は奥州の沖で日本の漁船に出会いました。万次郎は彼らと接触し、日本へ帰ろうと試みました。しかし仙台の漁師たちに土佐弁が理解されず、万次郎は日本に寄ることをあきらめました。やがて一行はホノルルに寄港し、大工になった寅右衛門と万次郎は七年ぶりに再会しました。重助は死亡していました。伝蔵親子は日本に帰ったと万次郎は聞かされましたが、まもなく二人はホノルルへ戻ってきました。

五 伝蔵等日本入国に失敗し、運つたなくハワイに帰港すること

 万次郎は伝蔵親子からの話を聞きました。彼らはツワナという人の厄介になっていましたが、王の命令で土地を分けてもらい、耕作とカツオ釣りで生計を立てていました。そこにホイットフィールドが現れ、もとホーランド号の水夫のコーカンが船長になったということを聞きました。彼らはコーカンに頼んで日本に帰る予定でした。しかし、一旦は日本に上陸したものの、そこは無人島同様の松前であったので、船長がそのままその地に居続けるのを許さず、ホノルルに帰ってきたのでした。

六 ジョン万、米国に帰港して再びホノルルに渡ること

 万次郎は再び航海へ出ました。船長アレンテベシが発狂したため、マニラからアメリカへ送還させ、士官のメエラが船長に、万次郎が副船長になりました。万次郎は三年半の航海を終え、大量の鯨をとり、三百五十ドルの報酬をもらい、ハアヘイブンに行き、ホイットフィールドに再会しました。

 その後万次郎はカリフォルニアにわたって金を採取し、ホノルルに再びわたり、日本に帰る準備をしました。寅右衛門は帰依、結婚をしていて、現地に残ることにしたため、伝蔵親子と、遭難して助けられてハワイに来ていた紀州の漁夫とともに帰国することにしました。しかし紀州の漁夫と万次郎が喧嘩して帰国は延期になりました。

 万次郎が帰国の船を探していたところ、支那の茶を買い付けるために、上海に向けて邂逅するサラーボイド号という船があることを聞きつけ、フィツモアという船長に乗せてもらうように頼みました。日本に寄るかどうかは風向き次第と言われましたが、万次郎たちは自らボートを購入し、日本近くからそれに乗り込み、漕いで渡ることにしました。五右衛門にはハワイに妻がいましたが、別れを告げて船に乗り込みました。

七 ジョン万等、首尾よく琉球に漕ぎ寄せて生まれ故郷に帰ること

 三人は沖縄島の南端マブニマギリに漂着しました。高待遇を受けながらも、詳細な取り調べを受け、七ヶ月後に薩摩へ移送され、そこでも四十八日間の取り調べを受けました。藩主斉彬自ら出向いたこともありました。その後長崎に移され、再び踏み絵を含む取り調べを受け、ようやく土佐に戻りました。万次郎の母は健在でした。

八 万次郎、官船に乗り再び亜米利加大陸にわたること

 翌年ペリーが来航すると、万次郎は江戸に迎えられ、旗本となりました。阿部伊勢守に幕府の方策を建議するように命じられ、捕鯨業を推進しましたが、暴風で失敗に終わりました。その後日米条約批准交換のための通訳として木村摂津守、勝麟太郎、福沢諭吉、中浜万次郎らと咸臨丸に乗り込み、アメリカへ渡りました。サンフランシスコで歓迎を受け、万次郎は同行しなかったものの、ワシントン行きの使節は大統領ブキナンと日米条約批准の文書を取交しました。万次郎はサンフランシスコからホノルルへ渡り、昔馴染みと再会を果たし、日本に帰国しました。

九 万次郎、風雲急をつげる折りから雄藩にむかえられ顧問となること

 万次郎はなおも捕鯨への夢を捨てきれず、一番丸という船の船長になり、一度だけ捕鯨を行いました。しかしロシア軍艦の来航などにより、幕府の威信が失墜すると、捕鯨の願い出を取り下げて、通訳として忙しい日々を過ごすようになりました。また翻訳を行なったり、英学修行の者たちにアメリカ風のしっかりした英語を教えました。
その後普仏戦争実地視察を行い、帰途ではハアヘイブンに寄り、ホイットフィールドやハワイの旧知を訪問しました。万次郎は七十二歳になっても捕鯨を行う夢を見続けましたが、一八九八年十一月十二日に他界しました。