小林多喜二作『蟹工船』の章ごとの詳しいあらすじを紹介するページです。
※ネタバレ内容を含みます。
一
蟹工船博光丸は函館の港で出発を待っていました。ここには船に乗ることでしか生計を建てられない人々が多く乗り込んでいました。
函館、秋田、南部の貧民窟から来た十四、五の少年たちが、その母親に見送られていました。
漁夫たちは、白首(売春婦)の話をしたり、菓子折りを持った沖売りの女をからかいました。
炭鉱から来た男は、ガス爆発の時、炎をせき止めるために作られた壁の向こう側にいる人たちを見殺しにした話をしていました。
彼らは皆、金を残して故郷に帰るつもりで漁に出るのですが、陸に帰ると函館や小樽で散財してしまい、結局また次の年の冬も漁に出るのでした。船に乗り込むと、「糞壺」と言われる、煙草の煙や人いきれで、空気が濁ってひどい臭いのする場所で寝泊まりすることになるのです。
漁業監督、船長、工場代表、雑夫長が糞壺に入ってきました。監督は皆に向かい、この事業は一会社の仕事ではなく、ロシアに対抗する日本帝国のために行うものであり、赤化をけしかけるような者がでた場合には、酷い目にあわせると宣言しました。
二
雪が吹きつける時化の中を船は進みました。波にさらわれたのか、一人が行方不明になりました。
並行して進んでいた船が沈みそうになっているとの情報を得た船長は、その船を救助しようとしました。しかし監督は、一週間分の収益がフイになると言って、救助に向かわないよう船長を脅しました。見捨てられた船は沈没してしまいました。
蟹工船は工場船であり、航船ではないため、航海法は適用されない船でした。それは何らかの役目を終えて改造されたもので、いつ沈没してもおかしくはありませんでした。ロシアの監視船に追われながらも、そのような老朽化した船で進むしか彼等には道はありませんでした。
三
行方不明になっていた雑夫の宮口は、隠れていたところを見つかり、監禁され死にました。監督は突風が来ることを承知で川崎船(小型の発動機つき漁船)を出しました。そのうちの一艘が行方不明になったため、監督は捜索を命じました。すると、他船が目印のために置いてある川崎船を見つけ、監督はそれを漁夫たちに盗ませました。
漁夫たちは、監督を海へ落としてしまおうかと言い始めました。
行方不明になった川崎船が帰ってきました。彼らはロシアに漂着していました。そこには片言の日本語が話せる中国人がおり、その中国人は、日本では資本家が労働者を搾取していると説いたようで、帰ってきた者たちは、その言葉に感化されていました。
四
過労で心臓を悪くした漁夫は、甲板で十四、五の雑夫が漁夫に犯されているのを目撃しました。船内では夜這いが横行していました。
監督は船員と、雑夫漁夫を競争させましたが、過労のため両者とも仕事量が減っていきました。そのため、働きの多いものに褒美をわたし、少ないものに焼いた鉄棒を押し当てるということをやりだしました。
内地では、市場が開拓され尽くすと、資本家は北海道や樺太へ足を伸ばし、国家的富源の開発と称して、労働者から搾取を行ないました。虐殺も行われました。蛸部屋に入れられる鉄道敷設の労働者がいました。身体がおかしくなる鉱夫がいました。内地からだまされて連れて来られる農夫は、十年もかけて開拓した土地を資本家に搾取されるしくみになっていました。
蟹工船では風呂が月二回になり、虱が流行りました。
五
ウィンチにひっかかって、死にかける漁夫がいました。皆が身体をおかしくしていました。倒れた学生は鉄柱に縛られました。
ある日、炭山から降りて来た男がもう働けないと言い出しました。これが船員にも伝わり、皆がサボりながら仕事をするようになりました。全員がサボるので、監督は何もできずイライラするばかりでした。
中積船から弁士が乗って来て、活動写真(映画)を見ることになりました。皆は祝いの酒に酔いました。酔った者たちによって監督の部屋は壊されましたが、監督は運良くそこにはいませんでした。
六
駆逐艦から士官たちがやってきました。船長、工場代表、監督、雑夫長が応対しました。監督は士官にへこへこしながら現場を離れたため、皆は気楽に仕事を行いました。士官たちと監督たちは夜通しで飲みました。彼らの会話を聞いていた給仕は、漁夫や船員の生活が搾取されていることを人一倍実感することになりました。この船が行く行くは駆逐艦の警護付きてロシアの方に行き、こっそりと現地を調べる目的があるらしいという情報を彼は得ていました。
七
川崎船を下ろす際、一人の漁夫の頭にあたり、首が胸の中に入り込む大怪我を負いました。船医は皆に同情的でしたが、監督は診断書を書かせないように命令しました。怪我をした漁夫は一命をとりとめましたが、船医も敵側の人間なのであると、皆は思うようになりました。
二十七歳の、脚気の若者が死にました。監督は現場の生産性を落とさないために、病気のものしか通夜に出さず、湯灌のお湯も贅沢に使うなと言いました。皆はサボをしてでも皆でお通夜をしようと決めました。死体は麻袋に入れて病人だけで海に流しました。皆はその死に方を知り、同情すると同時に、自分の行く末も同じような道を辿るのではないかと考え、ゾッとしました。
八
皆は一日置きにサボを行ないました。漁夫が船頭に怒鳴り散らすことも出てきました。そのようなことが効果を上げてきたという自覚が生まれ、二人の学生、吃りの漁夫、「威張んな」と船頭に言った漁夫などの、リーダーのような存在が生まれました。
壊れた発動機船の修繕のために下船したカムサツカから、若い漁夫が赤化宣伝のパンフレットを持ってきました。それ以来、川崎船に乗り込んだ後、見当を失ったフリをして上陸し、赤化について聞いてくるものが現れました。
九
監督は焦りだし、他船の網すら引き上げるようにさせました。監督の前では、船長は無力であり、有事に責任を取らせるための看板でしかありませんでした。
仕事が忙しくなり、監督は、抵抗すると銃殺するというビラを貼り、ピストルを示威運動のように撃ちました。皆は意気消沈しましたが、芝浦の漁夫や吃りの漁夫は、皆を鼓舞し続けました。
十
監督らが時化の日に漁に出させようとしたことがきっかけとなり、ある数人の漁夫が仕事を行いませんでした。それが漁夫、雑夫、火夫、水夫にまで伝わり、ストライキが始まりました。吃り、学生、芝浦、威張んなが要求条項と誓約書を監督に突きつけました。明日の朝にならないうちに色よい返事をしてやると監督が言うと、芝浦は監督を殴りつけ、皆がドアを壊してなだれ込みました。
皆は監督の結論を待つことにしました。するとそこに駆逐船がやってきて、水兵たちが代表の九人を護送してしまいました。ストライキは失敗に終わり、仕事はより過酷になりました。しかし皆はもう一度ストライキを企てました。
附記
二度目のストライキは成功しました。
函館へ帰港すると、ストを行なった船は、博光丸だけではなかったことがわかりました。監督は会社から解雇されました。その後、ストに参加した漁夫や雑夫は、さまざまな仕事場で同じような活動を行うようになりました。