ギ・ド・モーパッサン『テリエ館』の登場人物、あらすじ、感想

『テリエ館』は1881年に発表されたモーパッサンの短編小説です。前年に発表された『脂肪の塊』によって名声を高めていたモーパッサンの、文壇での地位を確固たるものにした作品です。フランス北部の海辺の街フェカンにある娼館に勤める娼婦たちを主人公にした、賑やかで華やかな雰囲気の小説です。このページでは、『テリエ館』の登場人物、あらすじ、感想を紹介します。

※ネタバレ内容を含みます。

『テリエ館』の登場人物

マダム
ルール県の相当な農家の出。夫とともにイヴトーの近くで宿屋を経営していたが、前の所有者である年老いた叔父から遺産として譲られ、夫とともにテリエ館を開く。今は未亡人になっている。大柄で肉づきがよく、愛嬌があり、生娘のような雰囲気がある。冗談をたたくのが好きでありながら、慎みのようなものも兼ね備えている。

フェルナンド

テリエ館の娼婦。ソバカスのある、肌がたるんだ田舎出の、やや太りすぎな大柄な金髪美人。髪の毛は先が切れて、くしゃくしゃに乱れている。

ラファエル
テリエ館の娼婦。マルセイユに生まれ港町を転々としてきた、弓形の鼻を持つ、片眼に星の入った、上顎に入れた二枚の入れ歯がひどく白ばんで目立つ黒髪のユダヤ美人。

ローザ
テリエ館の娼婦。「あばずれ」という異名を持つ。丸々と太っていて、朝から晩まで卑猥な歌とセンチメンタルな歌を交互に歌い、常にたわいもない話をして、ひっきりなしに笑い声を立てる。

ルイズ
テリエ館の娼婦。すれっからしと呼ばれる。自由の女神のつもりで、三色のベルトをいつも締めている。酒を飲むため、フロラと共に「二台のポンプ」と呼ばれる。

フロラ
テリエ館の娼婦。少し足を引きずるため、ぶらんこと呼ばれている。スペインの女を気取って、頭に銅貨の輪飾りをつけているが、足を引きずるたびに、それが赤毛の中で音を立てる。酒を飲むため、ルイズとともに「二台のポンプ」と呼ばれる。

フレデリック
テリエ館のボーイ。

プーラン
テリエ館の常連。材木商。元町長。最初にテリエ館が閉まっているのを発見する。ローザを気に入っている。

デュヴール
テリエ館の常連。船問屋。

トゥールヌヴォー
テリエ館の常連。干魚屋。妻と子供がいて、しっかりと監視されているので、友人の警察医のボルド博士の定期検診だと思わせて、土曜日だけテリエ館に来るのを楽しみにしている。

フィリップ
テリエ館の常連。銀行家の息子。

パンペス
テリエ館の常連。収税吏。妻がいる。

デュピュイ
テリエ館の常連。保険代理店員。

ヴァース
テリエ館の常連。商事裁判所判事。マダムにプラトニックな恋心を抱いている。

ジョセフ・リヴェ
マダムの弟。指物師。

ジョセフの妻

コンスタンス・リヴェ
ジョセフの娘。マダムが名付け親になっている。十二歳になり、聖体拝受を行うことになっている。

年取った夫婦
マダムたちと同じ列車に乗り込んだ、三羽のアヒルが入ったバスケットを持つ農民。

紳士
マダムたちと同じ列車に乗り込んだ、派手な格好の行商人。マダムたち一行に靴下どめを売りつける。

『テリエ館』の簡単なあらすじ

※もっと詳しいあらすじはこちら

 フランス北部の町フェカンにある「テリエ館」は、未亡人のマダムが経営する娼館でした。ここには、フェルナンド、ラファエロ、ローザ、ルイズ、フロラという五人の娼婦が雇われていて、連日多くの馴染み客で賑わっていました。

 ある日、マダムの元へ、遠方の田舎に住む弟のジョセフから手紙が届きました。ジョセフには、十二歳になる娘コンスタンスがおり、マダムはその娘の名付け親でした。コンスタンスが十二歳になったため、聖体拝受を受けることになり、ジョセフはマダムをその聖体拝受に招待したのでした。店を他の人に任せる気になれなかったマダムは、一日だけ店を閉め、女たちを連れてジョセフの家に向かいました。

 テリエ館が閉まっていることを知った馴染み客は、皆、狼狽し、いらいらして喧嘩を始めました。彼らは何度も店に足を運びましたが、店が開くことはなく、諦めて帰っていきました。

 賑やかな急行列車の旅を終え、ジョセフの家に着いた女たちは、翌日聖体拝受を受けるコンスタンスを次々に抱きしめ、接吻を浴びせました。彼女たちは一部屋に二人ずつ入り、眠りにつきましたが、太っていたローザだけは、一人で小部屋をあてがわれ、眠れない夜を過ごしました。彼女は隣の部屋で眠れずにすすり泣いていたコンスタンスの声を聞くと、喜んで自分の部屋に呼び寄せました。コンスタンスは聖体拝受の前日の夜、娼婦の胸に顔を押し付けて眠りにつきました。

 翌朝、女たちは、コンスタンスの着付けや髪結いをしてやり、それが終わると自分たちの化粧に取り掛かりました。村の人々は、都会から来た煌びやかな女たちに目を釘付けにされました。

 聖体拝受が始まると、女たちは、自分の幼かった頃を思い出して泣き始めました。その涙は村人にも次々と伝播し、教会の中は熱狂に包まれました。祭司は、それを秘蹟と呼び、女たちに感謝の言葉を捧げました。

 聖体拝受が終わると、村中で宴会が始まりました。ジョセフは羽目を外して飲み、半裸になってローザを手ごめにしようとしました。女たちはジョセフをからかい、ふざけ倒しました。

 二日続けて休業するわけにはいかないマダムは、帰りの列車に間に合うため、ふざけているジョセフの肩を掴んで部屋から放り出し、二輪馬車を用意させました。
 女たちは歌を歌い、ジョセフは手綱で拍子を取りながら馬車を走らせ、駅に着きました。

 マダムの一行が戻ると、テリエ館はお祭り騒ぎとなりました。馴染み客は次々と女を寝室に連れていき、女たちはいつもよりも素直に男に従いました。
 勘定になると、マダムは気前よく勘定を割引き、「毎日お祭りというわけにはいきませんよ」と、晴れ晴れと答えました。

管理人の感想

 なんともおおらかな雰囲気に包まれた作品です。終始男が女を追いかけ回しているような展開で、テリエ館が閉まっていると知ったときの男たちの狼狽ぶりや、どんな時でもふざけ倒す女たちの賑やかな様子を読むだけでも楽しむことができます。しかし、そのような話の面白さを持つ一方で、深読みしようとすれば、かなり深読みできてしまう作品でもあると思います。

 ここに登場する娼婦たちは、男たちに現世の喜びを与えるだけでなく、聖体拝受では、その熱狂的な涙によって人々に宗教的な喜びを与えます。彼女たちは、意識してそれを行なっているのではありません。テリエ館にいる時も、厳かな教会にいる時も、彼女たちはただ自分の感情に任せ、笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣いているだけです。

 そしてこの小説に登場する周囲の人々も、彼女たちが娼婦だということに(知らないだけかもしれませんが)眉をひそめることなく、ひとりひとりの人間として、女性として接しているように思われます。(彼女たちを「淫売婦」だと噂する農家の夫婦だけは、この小説で唯一、彼女たちと楽しむことができないまま列車を降りて行きます。)それどころか、リヴェの村の人々は、都会から来たきらびやかな彼女たちを崇拝しているようにも見え、祭司ですら、「自分たちの教区を教化し、人々に感動をもたらした」として、感謝の言葉を投げかけています。もし村の人々が、彼女たちの職業を忌み嫌っていたら、聖体拝受での感動の連鎖は決して生まれなかったでしょう。このような寛容さが、この物語の中だけのことなのか、当時のフランスの田舎町はこんなものだったのかはわかりませんが、周囲の人々にも、彼女たちから幸福をもらう準備ができていたようにも思えます。

 宗教の規律を厳格に守っている人々にとっては、娼婦である彼女たちは、卑しむべき存在でしょう。しかし、宗教の教えとは正反対の場所にいる彼女たちが、図らずも、心の底から揺り動かされるような感動を人々に与えるのです。それは、いくら高名な司祭が話す説教でも得られない種類の感動でしょう。人々が幸福になるための道標を示すという意味では、彼女たちが行っていることは、宗教よりも宗教的であると言ってもいいかもしれません。

 モーパッサンがキリスト教に対してどのように考えていたかはわかりませんが、『脂肪の塊』で、愚かな人々に加担する二人の修道女を描いていることからも分かるように、人の心を持たない敬虔さよりも、娼婦の中にある純粋な魂の方を高尚なものとして考えていたことは間違いないと思います。

 厳格なカトリックの思想と、自由な恋愛志向が同居するフランスは、このあたりのことを扱った小説が多いように思われます。属している世界や地位ではなく、「人の心」を見る小説家たちにとっては、娼婦たちの中にある純粋な魂は、書きたくなる格好の材料だったのでしょう。この『テリエ館』もまた、マダムたちの純粋な魂や、周囲の人々のおおらかで寛容な心を描くことで、どのような心構えが人間に幸福をもたらすかを教えてくれる作品であると思います。