森鴎外『うたかたの記』の登場人物、詳しいあらすじ、感想

 『うたかたの記』は、一八九〇年に発表された森鴎外の短編小説です。
 鴎外のドイツ三部作(他の二作品は『舞姫』と『文づかい』です。)と呼ばれる、主にドイツを舞台とした初期作品の二番目に当たり、ミュンヘンに留学中の画学生・巨勢と、数奇な人生を辿り美術学校のモデルとなっている少女マリイとの、儚い運命が描かれます。
 作中に登場する国王は、実在したバイエルン国王のルートヴィヒ二世です。彼は建築や音楽に金を惜しみなく使った国王で、作曲家のワーグナーを自分の宮廷に抱え入れようとしたり、現在では世界的な観光名所になっているノイシュヴァインシュタイン城を建てた人物です。しかし普墺戦争の敗北による賠償金や、度重なる建築費で、国の財政を傾かせ、また不可解な言動により精神に異常をきたしたと見なされ、一八八六年に廃位に追い込まれます。彼はシュタルンベルク湖(作中ではスタルンベルヒ湖)のほとりにあるベルク城(作中ではベルヒ城)に幽閉され、その翌年、侍医のグッデンと共に湖で水死体となって発見されます。その死の原因は未だ謎に包まれているようです。作中では、このルートヴィヒ二世の死の場面が、非常に幻想的な雰囲気で描かれています。

 このページでは、『うたかたの記』の登場人物、詳しいあらすじ、感想を紹介します。

※ネタバレ内容を含みます。

『うたかたの記』の登場人物

マリイ
国王に寵愛された画家スタインバハの娘。父親の死後すみれ売りとなり、巨勢に助けられたことがある。現在はミュンヘンの美術学校でモデルをしている。十七、八歳の美しい娘。

巨勢(こせ)
ドレスデンに留学していた日本人画学生。エキステルと共に訪れたミュンヘンのカフェ・ミネルヴァで、マリイと再会する。

エキステル
ミュンヘンの美術学生。親戚の家のあるドレスデンの美術館で出会った巨勢と共にミュンヘンに戻り、カフェ・ミネルヴァの友人たちに彼を紹介する。

ルートヴィヒ二世
バイエルン国王。マリイの母親に思慕を寄せていた。狂気に囚われてスタインベルヒ湖の辺りにあるベルヒ城に幽閉されている

グッデン
ルートヴィヒ二世の侍医。

『うたかたの記』の詳しいあらすじ

 バイエルンの首府ミュンヘンにある美術学校には、各国から芸術家を目指す若者が集まっていました。学校の学生たちは、授業が終わると、向かいの店「カフェ・ミネルヴァ」に入り、コーヒーや酒を飲みました。
 カフェ・ミネルヴァに、二人の男が入りました。そのうちの一人エキステルは、もともとこの店の馴染みで、中にいた学生たちの顔見知りでした。もう一人は、巨勢という日本人の男でした。エキステルは、ドレスデンの親戚に会いに行っていた時に、巨勢と美術館で出会い、友人になりました。その後、巨勢がミュンヘンの美術学校に来ることになったので、一緒に帰ってきたのでした。

 店の中のひときわ賑やかなテーブルには、マリイという名の十七、八歳の少女が座っていました。彼女はヴィーナスのような顔立ちの、明らかに他の人とは異なった気高さを持っていました。マリイと巨勢は、お互いの顔を見て、驚きの表情を浮かべました。
 学生たちは巨勢に歓迎の言葉を述べ、ミュンヘンに来た理由を聞きました。巨勢はドイツ語で語り始めました。

 六年前、ドレスデンの美術館に行くために日本からやってきた巨勢は、ミュンヘンに寄りました。謝肉祭が始まる日、巨勢は、町の様子を見物し、カフェ・ロリアンという店に入りました。
 巨勢は片隅にある椅子に腰掛けました。店の中では、十五歳くらいの栗売りの少年が声を張り上げ、そのあとには十二、三歳の少女が続いていました。少女は清らかな声で、籠に入っているすみれを売って歩いていました。
 店内にいた犬が、鼻を栗の箱に差し入れると、栗売りの少年はそれを払い除けました。驚いた犬は少女にぶつかり、少女は持っていた籠を落としました。籠の中のすみれは、犬に踏みにじられて泥土にまみれ、すぐに汚れてしまいました。この光景を見た人々は、少女を罵って笑いました。呆然と立ちすくむ少女を残し、栗売りの少年は逃げ出しました。やがて少女が残った花束を拾おうとした時、店の主人が出てきて、自分の店で紛い物のようなもので商いをするなと言って、彼女を店から追い出しました。
 少女は言葉もなく店から出て行きました。

 巨勢は店を出て、泣きながら歩いている少女に追いつき、すみれの代金を受け取るようにと言って、財布の中に入っている七、八マルクを彼女の籠に入れました。
 少女が驚いているうちに巨勢はその場を立ち去りました。彼の心の中には、彼女の美しい顔立ちと、憂いを帯びた藍色の瞳がいつまでも焼き付いて離れませんでした。

 巨勢はドレスデンに行き、美術館に飾ってある絵を書き写す許可を得ましたが、絵画の中の女性に向かうと、そのすみれ売り少女の姿が現れ、描くことができなくなりました。彼は、その少女を永遠の姿にするために、ローレライ(通りがかった船を美しい歌声で沈めてしまう水の精)のモデルとして描くことを決心しました。

 彼が再びミュンヘンに来た目的は、しばらく美術学校のアトリエを借り、自分の作品を先生や友に見せ、完成させることでした。

 巨勢は、目に涙を浮かべながらこの話を語り終えました。マリイは顔色を変えながら、巨勢の話を聞いていました。巨勢は、この店に入った時から、彼女がその少女ではないかと思っていました。
 その後少女と会ったことはあるのかとマリイに聞かれた巨勢は、その日の夕方にドレスデンに発ったので、それ以来会うことはなかったと答えました。
 マリイは、自分がその時の少女であると言って、巨勢に感謝の言葉を述べ、テーブル越しに彼の額に口づけをしました。

 その顛末を見守っていた学生たちは、自分も相手にしてくれるかとふざけながらマリーの腰を抱くと、彼女は芸術家を気取っている学生たちを痛烈に批判し、口に含んだコップの水を彼らに吹きかけ、外へと出て行きました。
 学生たちは、彼女が狂人ではないかと噂しました。

 マリイが店を出た後、巨勢はエキステルに彼女のことを尋ねました。エキステルによると、マリイは美術学校のモデルの一人で、ハンスル嬢と呼ばれており、奇怪な振る舞いが多いために狂女ではないかと噂されていました。彼女の経歴を知る者はいませんでしたが、他のモデルとは違い、肌を見せることはなく、穢れたことをしないので、学生たちからは人気のようでした。
 巨勢は、彼女をモデルとして使いたいので、話をつけて欲しいとエキステルに頼みました。

 一週間ほどが過ぎ、エキステルが周旋した美術学校のアトリエを巨勢は借りることができました。
 マリイがそのアトリエを訪れてくると、巨勢は自分が描いているローレライの絵を見せ、彼女の面影が、その絵の中の未完成の人物にふさわしいのだと言いました。

 生い立ちを聞かれたマリイは、籐椅子に腰掛けて語り始めました。

 マリイの父は国王ルートヴィヒ二世に愛された画工スタインバハでした。彼女が十二歳の時、父は王宮の夜会に招かれました。宴が終盤にさしかかる頃、国王の姿が見えなくなり、皆は驚いて探しまわりました。マリイの父が庭園の片隅に行くと、「助けて」と叫ぶものがおり、その声の方では、一人の女が逃げようとするのを王が引き止めていました。それはマリイの母でした。父は「許してください」と言いながら、王を押し倒しました。王は起き上がると、父に襲いかかり、組み敷き、打ちすえました。
 マリイはその時家にいて、両親の帰りを待っていました。父は担がれて帰り、母はマリイを抱きしめて泣き出しました。

 その後、王は、宮廷内に二人といない美貌の持ち主であったマリイの母への敵わぬ恋のため、暴政を行い、大臣たちを理由なく死刑にするようになりました。
 巨勢は、国王が狂人となり、スタインベルヒ湖(ミュンヘンの南西にある湖)の近く、ベルヒという城に移されたと昨日の新聞に載っていたことを知っていました。マリイによると、現在国王は、昼間寝て夜起きるという生活をしているようでした。

 マリイの父は、それから間もなく病気で死にました。交友が多く、世情に疎く、物惜しみしなかったので、残された財産はほとんどありませんでした。残された母娘は、ある裏家の二階を借りて住むようになりましたが、母も病にかかり、マリイは世の中を憎むようになりました。

 やがてマリイは、翌年の謝肉祭の頃になると、貧しい子供たちに混ざってすみれ売りとなり、カフェ・ロリアンで巨勢に助けられました。彼女は巨勢の恵みのおかげで、母親が死ぬ前の三、四日を楽に過ごすことができたようでした。

 その後、マリイは上の階に住んでいた裁縫師に引き取られましたが、その裁縫師によって引き合わされた男にスタインベルヒ湖の小舟に乗せられて人気のない葦の中に連れ込まれたため、恐ろしさのために湖の中に飛び込み、貧しい漁師の夫婦に助け出されました。帰る家がなくなった彼女は、身の上を漁師の夫婦に訴え、その夫婦の娘として養育されました。現在彼女が使っているハンスルという名は、その漁師夫婦の名前でした。
 その後、舟を漕ぐ力のなかった彼女は、レオニ(スタインベルヒ湖東岸の村)に住む裕福なイギリス人の家の小間使いとなり、そこに住み込んでいた女性教師から読み書きを教わり、三年で彼女の書物を読み尽くしました。

 イギリス人の家族が国に帰ると、マリイはミュンヘンの学校のある教師に見出されてモデルをするようになりました。今は美術家たちと交流しながら面白く日々を過ごしていますが、行儀が悪く、油断すべき芸術家たちに隙を見せないために狂人のふりをしています。自分を哀れんでくれる人は誰もいない中、巨勢だけは自分を嘲笑わないと思ったからこそ、彼女は心のままに語ったのだと言いました。

 この話を聞いていた巨勢にはさまざまな感情が現れて心を動かされ、聞き終わった頃には彼女の前にひざまずきそうになりました。
 マリイは立ち上がると、スタインベルヒへ行こうと巨勢を誘いました。巨勢は、彼女に言われるがままに出かけました。
 新聞の号外を買ってみると、国王はベルヒ城に移ってから容体が穏やかになり、侍医グッデンも護衛を弛めたと書かれていました。

 夕方の五時ごろ、二人は馬車でスタインベルヒへと着きました。そこからは広々とした湖水が見渡せました。彼らはバワリアの庭というホテルを抜け、馬車でレオニへと向かいました。
 雨が降ってきてもマリイは幌を下げさせず、カフェ・ミネルバで巨勢と再会した時の喜びを語り、彼の首を抱き寄せました。

 国王が暮らすベルヒ城の下に着いた頃には、雨はいよいよ激しくなり、湖は波打っていました。
 馭者がようやく幌を下げると、マリイと巨勢は稲妻に照らされる顔を見合わせて微笑み、二人きりの世界に浸りました。

 そのうちに雨が止み、レオニで二人は馬車を降りました。そこは、ハンスル漁師の家や、マリイが雇われていたイギリス人の家があった場所のすぐ近くでした。

 巨勢は、マリイに頼まれて小舟を漕ぎ始めました。レオニの村落の端までやってくると、岸辺の木々の間から、黒い外套を着てコウモリ傘を持った、灰のように蒼い顔をした、人を射抜くような窪んだ目の六尺近い男と、髭も髪も真っ白な老人が出てきました。

 それは、国王と、侍医グッデンでした。

 舟に乗っているマリイにその母親の面影を見た国王は、持っていた雨傘を投げ捨て、近づいてきました。それを見たマリイは気を失い、舟から落ちました。
 グッデンは、湖底の沼に落ち入った王を引き戻そうとして揉み合いになりました。
 葦の間に隠れていた杭に胸を打ち、気絶したまま沈もうとするマリーを引き上げた巨勢は、岸辺で争っている国王たちを残して、ハンスル漁師夫婦の家まで漕ぎつけました。
 ハンスルの家の中からは、白髪の老婆が出てきました。水に落ちたのはマリイだと巨勢が叫ぶと、老女は泣きながら走り寄り、二人を家の中に入れました。
 老女と巨勢はマリイを介抱しましたが、彼女が息を吹きかえすことはありませんでした。
 その亡骸の横で、巨勢と老女は夜通し語り合いました。

 一八八六年六月十三日の夜七時、ルートヴィヒ二世は、湖で溺れ、これを助けようとした侍医のグッデンとともに命を落としました。ミュンヘンはこの噂で持ちきりとなりました。
 美術学校でも、この噂のため、行方知らずになった巨瀬の身を案じるのは、エキステル以外いませんでした。六月十五日の朝、エキステルがアトリエに入ると、著しく痩せ細った巨勢がローレライの絵の前で膝まずいていました。
 国王の死の知らせのため、同じ時にハンスルの娘が溺れたことを問う者はいませんでした。

管理人の感想

 『うたかたの記』は、森鴎外の留学先を舞台とした『ドイツ三部作』の二番目の作品です。これら三部作は、現代人には馴染みのない文語体で書かれた作品であるため、しっかりと理解するのがなかなか難しいです。
 『舞姫』のページにも書きましたが、文語体の作品に馴染めないときは、声に出して読むと少しばかり理解が深まります。文語体の文章は全く廃れてしまったわけでなく、時代劇などでその響きがある程度再現されており、それは日本人の耳に、おそらく深く刻み込まれています。そのため、文語体の文章を、頭ではなく耳で理解するように心がけると、多少は読みやすくなるのではないかと思います。

 この作品のヒロインであるマリイは、同時代の日本文学作品の登場人物には見られない個性を持っています。宮廷お抱えの画家の娘として産まれた彼女は、幼くして父親を亡くしてすみれ売りとなり、巨勢に助けられます。母親の死後、住み込むこととなった裁縫師の家で酷い扱いを受け、逃げ出した先でスタインベルヒ湖のほとりにすむ漁師夫婦に助けられ、裕福なイギリス人一家の小間使いを経て、ミュンヘンにある美術学校のモデルとなります。彼女は巨勢に生い立ちを語り、自分の人生をより知ってもらいたいとばかりに、彼をスタインベルヒ湖に連れ出します。その道中で彼女は自分の熱烈な気持ちをしっかりと表現し、没個性的に描かれている巨勢を引っ張ります。このような性格は明治時代の文学作品に描かれる日本人女性には表現され得ないものですが、外国人女性であるマリイがこのような行動をとっても、不自然な印象を与えません。

 このようなしっかりとした自我を持つ女性は、明治期のもう一人の代表的作家である夏目漱石の作品に登場する日本人女性のような奥ゆかしさはありませんが、気高く、気品に満ちていて、美しいです。ドイツ各地を転々としながら勢力的に活動し、先進的な雰囲気に触れ続けた鴎外の作品ならではの女性像だと思います。

 そして終盤では、マリイの母親に狂気にも似た恋慕の情を抱いていたルートヴィヒ二世が登場します。彼はマリイに母親の面影を見て、湖の中に入り込み、侍医のグッデンと共に溺死します。その姿を見たマリイは気を失って湖の中に落ち、巨勢によって助け出されるも、胸を杭に打ちつけた影響で死に至ります。

 この非常にドラマティックな結末は、まるでアメリカの作家エドガー・アラン・ポーの短編を彷彿とさせるような幽玄な気配に満ちており、このような雰囲気も日本の同時代の小説とは一線を画しています。

 湖畔の城に幽閉されていた国王の謎めいた死、その国王との因縁で壮絶な過去を送ってきたマリイ、そして彼らが交錯する異国情緒に満ちた物語が、日本古来の書き言葉であった文語体で書かれているという、このアンバランスさが『うたかたの記』の魅力だと思います。分からないところは現代語訳に頼るのもありですが、少しずつでも文語体の原文で読破することで、おそらく唯一無二の、貴重な読書経験を味わえる作品だと思います。