芥川龍之介作『偸盗』の登場人物、あらすじを紹介するページです。作品の概要や管理人の感想も。
※ネタバレ内容を含みます。
『偸盗』の登場人物
太郎
地味な紺の水干に揉烏帽子をかけた、二十歳ほどの侍。七、八年前に天然痘を患い、片眼が潰れた。以前は仏教を敬う男であった。牢獄で放免(検非違使のしもべ、囚人の護送などを行う役職のこと)の仕事をしていた頃、盗みのために牢に入れられた沙金を一目見ただけで恋に落ち、猪熊の婆が沙金を助け出しに来ても見ぬふりをしていた。その後、沙金の家に出入りして偸盗の一員になり、盗み、火付け、殺人に手を染めている。盗人の疑いをかけられて牢に入れられた次郎を助け出し、沙金の家に連れてくるが、次郎と沙金が関係を持つようになり、激しく嫉妬する。
次郎
太郎の弟。十七、八歳の目鼻立ちの整った男。以前は太郎と釣りなどを楽しむ仲であった。筑後の役人だった頃に盗人の疑いをかけられて牢に入れられたが、沙金にそそのかされた太郎によって救出され、その後は沙金の家で暮らす。沙金と体の関係を結ぶと、その醜い心を憎みながらも、美しい身体に惹きつけられ続け、兄や他の男たちを嫉妬するようになる。
猪熊の婆
六十歳ほどの、黄ばんだ髪の毛を垂らした、目の円い、口の大きな、どこかひきがえるの顔を思わせる、卑しげな老婆。長い蛙股の杖をついている。宮中の台所で召使をしていた頃に、身分違いの男との間に沙金を産む。その後今の夫である猪熊の爺と結婚して盗賊団の一員となる。沙金と爺の関係を知った時には泣き騒いだが、今ではそれが当然だと思うほどに心が荒んでいる。沙金に執着する太郎を危険視し、次郎に沙金の護衛を頼む。
猪熊の爺
酒太りした禿頭の老人。左兵衛府(宮中の警護役)の下人をしていた頃、今の妻である猪熊の婆に恋焦がれていた。婆が情人の子を産んで姿を消すと、酒や賭博を始め、強盗へと身を落とした。その十五年後に婆に再会すると、連れ子の沙金が昔の婆を連想させ、沙金と別れたくないがために、昔とは変わってしまった婆を妻に娶る。
沙金
中肉の二十五、六歳の女。狭い額、ゆたかな頬、鮮やかな歯、淫らな唇、鷹揚な眉、つややかな髪を持つ。顔は恐ろしい野生と異常な美しさが同居している。絶えず嘘をつき、酷い殺しを平気で行い、見ず知らずの男にも肌を任せる。
猪熊の婆が身分違いの男との間に産んだ子。二十人以上もの盗人の頭として洛中を騒がせ、日頃は遊女のようなことをして暮らしている。強盗へ入る夜には、好んで男装束になり、その衣装や武器を羅生門に隠している。義理の父である猪熊の爺や、太郎や次郎とも体の関係を持っているが、現在は次郎に執心している様子。
阿濃
沙金の家で働く十六、七歳の召使。ちぢれ髪の、色の悪い、太った、白痴のような女。両親を知らずに育った。惨めな少女時代を過ごし、飢えに耐えかねて盗みを働き、裸で地蔵堂の梁に吊り上げられた時に沙金に助けられ、自然と盗人の集団に入った。それ以来、猪熊の夫婦や沙金に打たれながら生活していたが、ただ一人自分に優しく接する次郎には恋心を抱いている。
臨月を迎えており、本当の父親が誰なのかは不明だが、自身は次郎の子であることを信じて疑わない。
『偸盗』のあらすじ
京の都が荒れ果てていた頃、世間を騒がせていた偸盗(盗人団)が、藤判官(藤原氏で検非違使の役人をしている者)の屋敷を襲撃しようとしていました。その偸盗は、猪熊の爺、猪熊の婆と呼ばれる老夫婦と、その娘である沙金が中心となって結成されていました。
頭として、二十人以上の偸盗を束ねる沙金は、異常な美しさを持ちながら、絶えず嘘をつき、酷い殺しを平気で行い、見ず知らずの男にも平気で肌を任せる、心の醜い女でした。
沙金の養父である猪熊の爺は、堅気の仕事をしていた頃、今の妻である猪熊の婆に惚れこんでいました。しかし、婆が身分違いの情人との間に沙金を産んで姿を消すと、悪事に手を染めるようになり、十五年ぶりに母娘と再会すると、昔の婆の面影のある沙金と近づくためだけに婆と結婚しました。それ以来、猪熊の爺と沙金は体の関係を持つようになり、猪熊の婆は諦めきってそれを容認していました。
一年前に盗人団に入った太郎もまた沙金に惚れこんでいました。太郎は以前、牢獄で働いており、盗みを働いて捕まった沙金を一目見るなり恋に落ちました。そのうちに太郎は沙金と牢を隔てて会話するようになり、猪熊の婆が沙金を助けに来ても、見ぬふりをしました。それ以来、太郎は沙金の家に出入りするようになりました。
ある日、役人になっていた弟の次郎が、盗人の疑いをかけられて牢に入れられたことを太郎は知りました。沙金は太郎に牢を破るように勧め、太郎は五、六人の盗人とともに、弟を救い出し、護衛を斬りました。それ以来、彼は罪人として生きることを決め、弟と一緒に盗人の仲間入りをし、火付けや殺人を行うようになりました。彼が悪事を働くのは、全て沙金のためであり、沙金と関係を持つ浅ましい性格の猪熊の爺を殺そうとすることすらありました。
しかし、今では沙金は次郎に惚れこんでいるようでした。太郎は天然痘を患ったことで隻眼となっており、心根は似ているのに自分より美しい次郎に沙金を奪われることに耐えられませんでした。
太郎の弟である次郎もまた、沙金の心の醜さを激しく憎みながらも、その身体から離れることができず、他の男に嫉妬しながら、兄に対する罪悪感を抱えていました。
猪熊の婆は、嫉妬心をこじらせた太郎が沙金を傷つけないよう、次郎に護衛を頼んでいました。
猪熊の家にいる召使の阿濃(あこぎ)は、惨めな少女時代を送っていた阿濃は、盗みを働いて裸でつるし上げられたところを沙金に助けられ、偸盗の一員になりました。白痴のようであった彼女は、父親のわからない子を妊娠しており、唯一自分に優しく接する次郎が父親だと固く信じていました。
次郎は、その日の夜に盗みに入る予定になっている藤判官の男と、沙金が話しながら歩いてくるのを見かけました。沙金は、その男を騙し込み、屋敷内の様子を探っていました。そして驚くべきことに、彼女は今夜屋敷に盗みに入ることをその男に話していました。次郎と二人になりたい沙金は、邪魔者の太郎を消そうとしており、太郎が馬を盗みに行くときに、屋敷のものに殺させようとしているのでした。以前は心から兄を慕っていた次郎でしたが、沙金を自分だけのものにする欲望に勝てず、黙ってその奸計に同意しました。
夜更になり、羅生門のほとりに太郎、次郎、猪熊の爺、猪熊の婆、沙金らの偸盗が集まり、藤判官の屋敷に向けて出発しました。臨月の阿濃は、羅生門で皆の帰りを待ち受けました。
藤判官の屋敷へ向かった偸盗たちは、待ち構えていた侍たちに出鼻をくじかれました。太郎は敵に囲まれ、猪熊の爺や婆は傷を負いました。
次郎もまた、敵や仕掛けられた犬に囲まれ、無我夢中で斬り合いながら逃げました。気が付くと彼は、その日の昼間に死にかけた女を狙っていた野犬の群れの前に出ていました。その野犬たちが一斉に飛びかかってきたため、彼は兄を殺そうとした天罰が下ったのだと思い、死ぬ覚悟を決めました。
そこへ、沙金の命令通りに馬を盗んだ太郎が現れました。太郎は、沙金を手に入れた次郎が殺されればよいと考えており、野犬に襲われようとしている次郎と目を合わせても、助けずに通り過ぎました。しかしその直後、彼は「弟」という言葉を不意に呟くと、馬の手綱を握り返し、次郎を助けに戻りました。次郎は後ろに飛び乗り、涙を流しながら兄を抱きました。
生きながらえた偸盗たちは、羅生門に帰り着きました。敵に囲まれた猪熊の爺を助けようとした猪熊の婆は相討ちになり、寂しい最期を遂げていました。助けられたにも関わらず、一目散に逃げだした爺もまた、生きながらえる見込みはありませんでした。
阿濃が羅生門の楼上で子供を産み、偸盗の一人がその子供を持ってきました。猪熊の爺は、以前阿濃に堕胎薬を飲ませようとしていたにも関わらず、微笑みを浮かべながら涙を流しました。彼はそれが自分の子だと言うと、息を引き取りました。
翌朝、猪熊の家で、沙金の死骸が発見されました。その場にいた阿濃は、行方がわからなくなっていた太郎と次郎がやってきて、沙金ともみ合った末に殺したと証言しました。二人は阿濃に餞別を言葉をかけ、馬に乗って姿を消したようでした。
それから十年余り経った後、阿濃は尼になって子供を養育していました。彼女は、隻眼の男が丹後の官職の護衛をしているのを見て、それが太郎だと言いました。その男が本当に太郎なのか、誰にも分かりませんでしたが、その男の弟もまた同じ主人に仕えているということだけが、かすかに噂されました。
作品の概要と管理人の感想
『偸盗』(一九一七年発表)は、平安時代の説話集「今昔物語」を題材とした小説です。荒れ果てた平安京を騒がせる偸盗(盗人の集団)に起きる事件を書いた作品で、芥川龍之介の作品としては比較的分量があり、中編小説といっても良いかもしれません。
この作品に登場する偸盗たちは、皆個性的で、それぞれの魅力を持っています。その中でも特筆すべきは、やはり沙金でしょう。彼女は、洛中を騒がせる二十人以上の盗人の頭で、酷い殺しを平気で行う残酷さを持った女として描かれます。異常な美しさを持ちながら、絶えず嘘をつき、簡単に男と関係を持って虜にし、自分の都合の良いように操ります。他の小説でいうと、谷崎潤一郎の『痴人の愛』におけるナオミ、ツルゲーネフの『はつ恋』におけるジナイーダ、『マノン・レスコー』におけるマノンのような、数々の男を虜にする妖婦型の登場人物は、それがたとえ悪であろうと、その存在時代にインパクトがあり、大きな魅力を放ちます。『偸盗』における沙金もその例に漏れず、恐ろしくなるくらいの底知れない魅力を持っています。
そしてその沙金に翻弄され、お互いの死を望むほどに嫉妬心を募らせた太郎と次郎が、斬り合いという極限の状況の中で取り戻す兄弟愛は、読んでいて胸に迫るものがあります。
猪熊の婆、猪熊の爺、阿濃といった登場人物たちも、それぞれの思惑を抱えており、それらが複雑に交錯するストーリーも魅力的です。
芥川龍之介はこの作品について、「安い絵双紙」と評し、自分の作品の中でも最も出来の悪い作品だと語ったと言われています。
作者自身の評価は低かったようですが、管理人は個人的に、芥川龍之介の本領が最も発揮されるのは、この『偸盗』や『羅生門』といった、おどろおどろしい作品を書くときであると思っています。『偸盗』においては、「どうせみんな畜生だ。」と太郎がつぶやくシーンが印象的ですが、車輪に轢かれた蛇や、疫病持ちの女を食べる野犬といった、京都の荒廃を象徴するような、おどろおどろしい「畜生」たちが、魅力的なストーリーを更に引き立てています。
『鼻』、『芋粥』、『羅生門』といった人間の心理を巧みにとらえた作品とは趣が違うため、そのあたりが芥川龍之介の書きたい小説とは異なっていたのかもしれません。短編小説の名手として知られている芥川龍之介が、もともと長い小説を苦手としていたところもあると思います。しかし、この『偸盗』は、終盤に向けて疾走感を増してくる展開や、ストーリー自体の面白さ、沙金を始めとする癖のある登場人物など、他の作品に見られない魅力を多分に持った作品だと思います。