芥川龍之介『杜子春』ってどんな作品?登場人物、あらすじを詳しく解説

芥川龍之介作『杜子春』の登場人物、あらすじを紹介するページです。末尾に管理人の感想をちょっとだけ載せています。

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『杜子春』の登場人物

杜子春
元は金持ちの息子。財産を使い果たし、洛陽の西の門の下で途方にくれているところを眇の老人に話しかけられる。

鉄冠子
片目眇(すがめ)の老人。峨眉山に住む仙人。

『杜子春』のあらすじ

 ある春の日暮れ、金持ちの息子であった杜子春は、財産を使い果たし、川に身を投げようかと考えながら唐の都洛陽の西の門の下にたたずんでいました。そこへ片目眇(すがめ)の老人が通りがかり、何を考えているのかと杜子春に聞きました。今夜寝るところもなくどうしたものかと考えていると杜子春が言うと、老人は杜子春の頭の影になっているところに黄金が埋まっているので、夜中に掘ってみるとよいと言いました。
 杜子春が伏せていた目をあげると、老人の姿はありませんでした。

 夜中に黄金を掘り当てた杜子春は、洛陽一の大金持ちになり、贅沢な暮らしを始めました。しかし、間もなく多くの客が家に押し寄せるようになり、毎日酒盛りを開いているうちに、杜子春はそのお金を使い果たしてしまいました。
 友人も失った杜子春が洛陽の西の門の下で途方にくれていると、再びあの片目眇の老人が話しかけました。寝るところもなくどうしたものかと考えていると杜子春が言うと、老人は杜子春の影の胸のところに黄金が埋まっているので、夜中に掘ってみるがよいと言いました。杜子春は再び大金持ちになりました。しかしそれも三年が経つ頃にはすっかりなくなってしまいました。

 再び片目眇の老人が杜子春に話しかけました。
 人間に愛想をつかした杜子春は、道徳の高い仙人だと思われるその老人に、弟子にしてくれるよう頼みました。老人は峨眉山に住む鉄冠子と名乗り、杜子春を弟子に取り立てました。鉄冠子は杜子春と一緒に青竹にまたがると、峨眉山へと飛んでいきました。

 峨眉山に着くと、鉄冠子は杜子春を絶壁の上に連れて行きました。そして、自分が西王母(中国神話の女神)に会いに行く間、様々な魔性にたぶらかされても、ここに座り続けて一言も声を上げてはならない、もし声を上げれば仙人にはなれないと言いました。杜子春が決して声を上げないと約束すると、鉄冠子は飛び去って行きました。
 杜子春が岩の上に座っていると、魔性たちは、虎や大きな白蛇や雷に次々と襲われる幻影を見せました。それでも杜子春は黙って岩の上に座っていました。すると金の鎧を着た神将が現れ、何者なのかと聞いてきました。それでも杜子春が黙っていると、怒った神将は、戟(ほこ)で杜子春を突き殺しました。

 杜子春の魂は、仰向けに倒れた体から抜け出し、地獄の底へ降りて行きました。そして大勢の鬼によって閻魔大王の前に連れ出され、なぜ峨眉山にいたのかを聞かれました。何も答えない杜子春を、鬼たちは剣の山や血の池、灼熱地獄や極感地獄に放り込み、あらゆる責苦を味合わせました。それでも杜子春は歯を食いしばって一言も口をききませんでした。
 すると閻魔大王は、畜生道に落ちて痩せ馬となった杜子春の父と母を連れて来させ、鬼に鞭打たせました。杜子春は目をつぶったまま黙って耐えていました。すると地面に倒れた母親が、自分たちはどうなってもよい、杜子春が幸せになれるのならそのまま黙っているようにと言いました。
 その優しさに心打たれた杜子春は目を開け、馬の首を抱いて、泣きながら「お母さん」と叫びました。

 気づくと杜子春は洛陽の西の門の下に佇んでいました。片目眇の老人が彼に話しかけました。杜子春は弟子にはなれませんでしたが、鞭を受けている父母を見て黙っていなかったことを、嬉しく感じました。
 鉄冠子は、もしあの場で黙っていたら、即座に杜子春を殺してしまおうと思っていたようでした。
 今後は何になるつもりかと鉄冠子は聞きました。杜子春は、何になっても人間らしい、正直な暮らしをするつもりだと言いました。
 去り際、鉄冠子は、泰山の麓に持っている一軒の家を畑ごとやるから、そこに行って住むとよいと言いました。

作品の概要と管理人の感想

 『杜子春』は一九二〇年(大正九年)に児童文学雑誌『赤い鳥』に掲載された芥川龍之介の代表作の一つです。千年以上前に中国で書かれた小説『杜子春』を、童話の形にして作られた作品です。主人公杜子春が、峨眉山の仙人の鉄冠子の導きによって、洛陽一の金持ちになったり、仙人になるための試練を受けたりして、最終的に人間らしい正直な生活を行おうとするまでが書かれています。
 冒頭の杜子春は、家の金を使い果たして路頭に迷う青年として登場します。鉄冠子の指示によって莫大な黄金を手に入れた杜子春は、二度にわたってその金を使い果たし、金を持っている自分にしか寄り付かない人間に対する愛想を尽かします。
 仙人になる試練を受けるために峨眉山に連れてこられた杜子春は、何があっても口を聞いてはならないという鉄冠子の言いつけに従って、様々な責め苦に会いながらも無言を貫き続けます。
 しかし、地獄で馬になった両親が傷つけられる場面に遭遇すると、耐えきれなくなった杜子春は、思わず叫び声をあげてしまいます。
 仙人になれなかった杜子春でしたが、苦痛を受けている両親を見て叫び声をあげたことを嬉しく思い、これからは人間らしい正直な生活をするつもりだと言って、鉄冠子から畑を授かります。
 このように物語を追っていくと、杜子春は、自分がなりたい者にならせてもらい(またはなりたい者になるための手順を教えてもらい)、そのたびに元の自分に戻ってきていることがわかると思います。外面的にはまったく同じ人物ですが、川に身を投げようとまでしていた冒頭の杜子春は、結末では人間らしい正直な暮らしをする決意を固めるまでに成長しています。外面的には裕福でも心は貧しい生活や、人間を超越して仙人になっても親を思う心を捨てなければならない生活を知り、杜子春は意識を新たにしたのです。同じ境遇でも、ちょっとした意識の差で、人間の幸福度はこうも変わることができるということでしょうか。
 そして鉄冠子は、仙人の道を目指す杜子春を静観しているようでもあり、杜子春が幸福になるための道へとうまく導いているようでもあります。鉄冠子がなぜ杜子春に目をつけたのか、何を目的として試練を与えたのかはわかりませんが、この辺を考察してみるのも面白いかもしれません。新潮文庫版のその他の作品と比べてみると、『蜘蛛の糸』で御釈迦様に導かれようとしていた犍陀多は、自分だけが助かろうとして再び地獄に落ち、『犬と笛』で山の神々に導かれた髪長彦は、少なくとも外面的に成功して御姫様と結婚し、この作品で鉄冠子に導かれた杜子春は、外面的な成功を超越して内面的な幸福を掴んでいるように感じます。
 何はともあれ、杜子春との別れ際に畑を与える鉄冠子は、粋で良いですね。