夏目漱石『門』の登場人物、あらすじ、感想

 『門』は、1910(明治43年)に発表された夏目漱石の小説です。『三四郎』、『それから』に続く、前期三部作の最終作で、友人を裏切って妻を手に入れた主人公のその後が描かれます。独立した作品としても読めますが、『三四郎』、『それから』の読了後に読むと、より楽しめる作品となっています。
 このページでは。『門』の登場人物、あらすじ、感想を紹介していきます。

※ネタバレ内容を含みます。

『門』の登場人物

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野中宗助
もともと裕福な家の息子であったが、大学の親友であった安井を裏切り、その内縁の妻であった御米と結婚し、家族や友人との交流を絶った。現在は東京にある崖沿いの家に住みながら、役所勤めに忙殺されている。

御米
宗助の妻。かつて夫であった安井を裏切り、宗助の妻となる。

小六
高等学校に通う、宗助の約十歳違いの弟。


宗助の家の老召使い。

佐伯の叔母
宗助の父親の死後、小六を預かって面倒を見ていた。

佐伯の叔父
事業家。宗助の父に援助を貰いながら、様々なものに手を出しては失敗していた。

安之助
佐伯家の一人息子。工科の器械学を専攻。

杉原
宗助の元同級生。卒業後、高等文官試験に合格し、ある省に勤務する。

安井
宗助の大学時代の親友。御米の元夫。宗助に御米を奪われた後、満州へと渡る。

釈宜道
宗助が訪れた鎌倉の寺院の庵室を預かる僧侶。もともとは彫刻家。

老師
宗助が訪れた鎌倉の寺院の住職。

『門』のあらすじ

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 週六日の役所勤めで多忙な日々を過ごしている野中宗助は、東京のある崖沿いの家で、妻の御米とともにひっそりと暮らしていました。

 宗助は、弟の小六とともに東京の相当に裕福な家に育ちました。しかし大学時代、親友の安井の内縁の妻であった御米を奪ったことで、実家から見放され、社会から隔絶されました。宗助と御米は、広島と福岡を渡り歩いて厳しい生活を送りました。その間に父親が死に、母親も既に他界していたので、小六は十六歳で一人になりました。
 父親の死に際し、宗助は一時帰省し、叔父の佐伯に小六を預かってもらい、家の売却を任せました。そして福岡に戻り、苦しい生活を送っていたところを、偶然出会った大学時代の友人の杉原に現在の役所の仕事を世話してもらい、東京へと戻ってきたのでした。

 宗助が東京へ戻ってからも、小六はこれまで通り、高等学校に通いながら叔父の家に世話になりました。そうこうしている間に、叔父が脊髄脳膜炎で突然死にました。

 それから一年ばかり経った頃、小六はこれ以上の学資を出してやれなくなったと佐伯の叔母に言われました。叔父亡き後、佐伯家の財政は苦しくなっており、一人息子の安之助が大学を卒業して事業を始めたためでした。
 小六に相談された宗助は、重い腰を上げて叔母との話し合いをしに行きました。叔母によると、宗助の家を売り払ったときに得た金は、神田に建てた家屋のために使われ、間も無くその家屋は火事で焼けてしまったようでした。叔父に預けていた書画骨董はほとんどが持ち逃げされており、唯一残っていた高名な日本画家の屏風を、宗助は持ち帰り、御米の提案で、その屏風を道具屋に売りました。
 御米は、小六を自宅で預かり、部屋と食料だけを自分たちで分担し、残りを佐伯に分担して貰えば、小六を大学に行かせることができるのではないかと提案しました。その提案に小六は喜び、宗助と御米の家に引っ越してくることになりました。しかし佐伯の叔母は、それでも小六の月謝を出すことはできないと言いました。

 ある日、崖上の家主である坂井の家に入った泥棒が宗助の家の庭に落ち、その泥棒が残していった手文庫を宗助が坂井に返しに行ったことで、両家の間の交流が始まりました。坂井が宗助の売った屏風を買っていたことが分かると、二人はさらに親しい間柄になりました。

 小六が引っ越してきてから体調を崩しがちだった御米が熱を出して寝込み、肩や首を硬直させて苦しみました。宗助は小六に医者を呼びに遣らせ、ほとんど寝ずの看病をしました。翌日には御米は落ち着き、宗助は胸を撫で下ろしましたが、いつ再び同じようなことが起きるとは限らないというぼんやりとした懸念は胸の中に残りました。

 宗助は、坂井の家の子供たちと接したことを御米に話しました。御米は、これまでに三度懐妊していましたが、いずれも流産、または生まれて間もなく亡くしており、そのことで自分を責めていました。三度目の死産の後、御米は占い師のところへ行き、他人に対して犯した罪が祟っているので、子供はできないだろうと言われていました。坂井の家の賑やかな様子を聞いた御米は、泣きながら占い師に言われたことを初めて宗助に語りました。

 年が明け、宗助は再び坂井に呼ばれました。坂井は、小六を自分のところの書生にしてみないかという提案を行いました。小六が坂井の世話になれば、それによってできた余裕により、小六に教育を受けさせることができるため、宗助はこの提案を喜んで引き受けました。
 その後、会話は坂井の弟のことになりました。「冒険者(アドヴェンチュアラー)」だという坂井の弟は、満洲に行っており、兄の坂井にも彼の地で何をしているのか分からないようでした。その弟が満州の知人を連れて日本へ帰ってきているようでした。坂井の弟の知人は、かつて宗助が裏切った親友、安井でした。坂井の弟と安井は明後日に訪れて来ることになっているようでした。
 これを知った宗助は、御米に話をすることもできず、心に平穏を保てないまま数日をすごしました。耐えきれなくなった彼は、不安な気持ちから逃れるため、知り合いの伝手で、寺に入ることを決めました。

 宗助は山門をくぐり、釈宜道(しゃくぎどう)という僧侶の世話を受けることになりました。寺の老師から、「父母未生以前本来の面目」(生まれる前から、人々が備えている心性)を考えてみたらよかろうという考案(禅における問題)を出された宗助は、数日間座禅を組みながら、その問題について考えました。しかし、山を下りる日が来ても、宗助はその回答を得ることができず、悟りを得ることもできませんでした。

 もし安井が今後も坂井の家を出るようなら、引っ越してしまおうと考えながら、宗助は家に帰りました。その二日後、宗助は坂井の家を訪れ、坂井の弟と安井が満洲に帰ったことを知りました。宗助は胸を撫で下ろしましたが、このような不安をこれからの人生で何度も味合わなければならないだろうという予感を感じざるを得ませんでした。

 宗助は役所の人員整理でも解雇されず、月給も上がりました。小六は坂井の家の書生になり、宗助と安之助で、学資を分担できそうな目処がつきました。
 季節は春になり、それを有り難がる御米に対し、宗助は「うん、然し又じき冬になるよ」と答えました。

管理人の感想・考察

 夏目漱石の前期三部作の最終作として知られる『門』は、友人を裏切って妻を手に入れた主人公・野中宗助と、最初の夫を裏切って宗助のもとに走った妻・御米の物語です。三部作の最初の作品『三四郎』で、ヒロインに翻弄されて失恋する主人公・小川三四郎と、二作目の『それから』で、親友の妻を奪い、社会から見放され、生活の手立てを失った主人公・長井代助の、「その後」の話となります。

 冒頭で書かれるのは、明治時代末期(作中に、明治42年に起きた伊藤博文暗殺について夫婦が語る場面があります)の東京の片隅で慎ましく生活する宗助と御米です。彼らは弟の小六の将来をどうすべきかという問題を抱えながらも、問題を先延ばしにして、呑気な生活を送っているように見えます。

 しかし、段々と夫婦の過去が明かされるにつれ、彼らが常人には理解できない苦悩を抱えながら生活していたことが明らかになっていきます。

 宗助が初めて御米を知ったのは、大学の親友である安井から紹介されたのがきっかけです。その時安井は、郷里から出てきて一緒に住むことになった妹として御米を紹介しています。その後も宗助は、それまでと変わらず安井の家へと通い、自然と御米と親しくなっていきます。安井は体調を崩し、転地することとなりますが、宗助はその転地先に呼ばれ、安井と御米の宿泊している宿に三日間滞在します。

 二人の距離が近づいていく場面の描写は、ここで唐突に途切れ、宗助が御米と惹かれあい、安井から奪い去る場面は書かれていません。それがどのような状況だったかは、前作の『それから』の後半部分で、非常にドラマティックに書かれており、三部作を読み進めてきた読者に、その緊張感のある名場面を連想させます。これは三部作だからこそできる鮮やかな手法であり、漱石は確信犯的に、『門』における宗助と御米の結婚に至る場面の創作を省いているのではないかと思います。

 宗助と御米の結婚後、安井は満州へと渡ったというかすかな噂のみを残して消息不明となります。もともと裕福だった宗助は、安井を裏切った代償として、大学を中退し、実家から見放され、苦しい生活を送ることとなります。夫婦は広島、福岡を転々とし、その間に父親を亡くし、ようやく東京へ戻ることができても、週六回の役所勤めに忙殺される日々を送ります。

 『三四郎』と『それから』では、どちらかというとモラトリアムな生活を送っていた主人公たちが描かれていましたが、御米と結婚してからの宗助の生活は、それらとは対照的です。仕事を非生産的なものと感じ、週一回の休みに様々な気晴らしを行おうとするも、そのために費やす時間が惜しくなり、気が付くと日が暮れてしまうという彼の生活は、現代の社会人には非常に共感できるものではないでしょうか。

 そんな宗助に、隣人の坂井との付き合いが生まれ、その付き合いによって、安井がすぐ近くに迫っていることを宗助は知ります。このままでは不安から逃れられないと悟った時、宗助は、鎌倉にある寺の門をたたきます。
 十日間ほど、宗助は座禅を組んだり、老師から出された公案(禅問答)について考えてみたりして過ごしますが、悟りを得たり、不安から解消されることはもちろん、何も変わることができないまま、いたずらに時が過ぎていきます。
 宗助の面倒を見た寺の住職の釈宜道は、信念さえあれば誰でも悟れると説きますが、それは何年も苦しい修行に耐えてようやく得られるものです。十日間の修行で心の平穏を得ようという宗助の考えは浅はかで、結局彼は自分を変えることができないまま家に帰ります。そして結末では、春が来たことを喜ぶ御米に対し、「うん、然し又じき冬になるよ」と宗助は答え、三部作は幕を閉じます。

 大学の中退、家族との絶縁、苦しく多忙な生活、そして常に安井という存在に脅かされていることなど、彼らが愛し合うことで背負うことになった代償ははかり知れません。御米は、子供ができないことすら、自分たちが犯した罪に対する罰であると考えます。宗助は山門をくぐった後も何も変わることができないということを悟り、おそらくこの先も安井が現れるのではないかという不安と向き合わなければならないでしょう。

 しかし、それでも彼らは、お互いだけを支えとして、仲睦まじく、謙虚で善良に生きています。
 そしてそのような彼らの生活ぶりが、ほのぼのとした美しいものとして描かれているがゆえに、彼らが負わなければならなくなった罪が際立って感じられるのではないかと思います。

 胸が締め付けられるような失恋の物語である『三四郎』や、ドラマティックな展開のある『それから』に比べると、『門』は少し地味な印象で、知名度も前二作に比べると、それほど高くはありません。しかし、淡々とした夫婦の生活の描写から、宗助と御米が抱える苦悩と、その苦悩を世界で唯一共有するがゆえの強い絆が徐々に浮かび上がるにつれ、深いところでの感動を覚えさせてくれる作品であると思います。