谷崎潤一郎作『細雪』の上巻のあらすじを詳しく紹介するページです。ネタバレ内容を含みます。
薪岡家の四人姉妹
大阪船場に店舗を構え、大正時代に全盛を極めた薪岡家の次女幸子は、三女雪子、四女妙子とともに、演奏会に行くための準備をしていました。
先に身支度をした雪子は、幸子の一人娘の悦子につかまって、階下でピアノの稽古を見ていました。幸子は、その雪子に縁談話があることを妙子に知らせました。
それは幸子の行きつけの美容院の女主人である井谷が持ってきた話でした。幸子は、縁談の世話をするのが好きな井谷に、かねてから雪子のことを頼んで写真を渡していたのでした。
相手は瀬越という名の、神戸の海岸通にビルを持つフランス系の化学工業会社の社員でした。瀬越は大阪外語の仏語科卒のパリにも行ったことのある男で、夜はフランス語の教師も行い、合わせて三百五十円ほどの月給を得ていました。親族は田舎に母親が一人でいて、家はあるものの財産は特になく、四十一歳で初婚である理由を器量好みで遅れたと言っているようでした。
ひと月半ほど前に井谷が雪子の写真を見せて縁談を持ちかけたところ、瀬越は非常に乗り気になり、薪岡の大阪の本家、今住んでいる蘆屋の分家、そして雪子については、女学校や習字やお茶の先生を訪ねて調べ上げたようでした。
井谷は、瀬越が薪岡とは釣り合わない身分だと謙遜しているものの、祖父の代までは北陸の小藩の家老だったので、それほど不釣り合いな縁談ではないのではないかと話し、薪岡の名声も翳りが見えているので、この辺りで手を打っておかないと雪子の婚期の遅れること、まだ四十一歳なので昇給の見込みもあること、海外の会社で余裕があることなどを挙げて、その縁談を勧めました。幸子は、井谷の歯に絹を着せない物言いも好意で言ってくれていることを感じ、その縁談を進めるためにこちらから先方のことを調べてみる気になっていました。
幸子と妙子は、その歳で初婚であるということに引っかかりを感じながらも、瀬越の写真を見て、いかにもサラリーマンタイプで、雪子はフランス語を教えてもらえるかもしれないなどと噂しました。
雪子が三十歳になるまで婚期を逃し続けていたのは、強いて言えば本人も含めた薪岡の者たちが旧い家名に囚われ、若い頃に来ていた縁談を断り続けていたためで、これといった深い理由はありませんでした。薪岡家は御大家であったこともあり、大正の末頃に全盛を極めましたが、豪奢な生活を送っていた父の頃には既に破綻の兆しが見えていました。父は晩年に隠居し、家督を長女鶴子の息子である辰雄に譲り、幸子に婿を迎えて分家させましたが、雪子は良縁に恵まれませんでした。
父が死んで間もない頃、辰雄が雪子に縁談を強く勧めたことがありました。それは豊橋の銀行の重役をしている三枝という格式のある家柄の男でした。しかし見合いをしても雪子はその男の田舎臭く知性のない顔つきを好きになれず、その縁談を嫌がりました。彼女はなかなかそれを辰雄に言い出せず、話が相当に進んでからようやく自分の意思を示しました。斡旋してくれた銀行の重役に対し、冷や汗の出る思いをしながら断りを入れた辰雄は、以来雪子の縁談話に積極的にはならなくなったのでした。
その後も薪岡家は衰える一方で、銀行員であった辰雄は、臆病な自分の性質が店舗の経営に向かないと判断し、周囲の反対を押し切って船場の店舗の暖簾を他人の手に渡しました。そのことで姉妹と辰雄の間に感情の行き違いが生じたことも、雪子にとっては婚期を逃す原因となりました。
もう一つ、雪子の縁談を遠くした原因がありました。それは五、六年前、二十歳であった妙子が、同じ船場の旧家である貴金属商の奥畑家の倅の啓三郎と恋に落ち、雪子よりも先に結婚するのが難しいと思って家出をした事件があり、そのことが運悪く新聞にすっぱぬかれ、しかもその記事では雪子が出奔したという誤植となって発表されました。辰雄は、妻の鶴子以外に相談せず、その事件の取り消しを求めたものの、訂正の記事が小さく載っただけで、これがかえって雪子と妙子の彼に対する心象をさらに悪くしました。
やがて本家と心の離れた雪子と妙子は、上本町の本家から、幸子の住む蘆屋の分家へと行くことが頻繁になり、半月も泊まり続けるようになりました。幸子の夫の貞之助は大阪の事務所に通う計理士で、辰雄と異なって厳格ではないために、雪子と妙子も気安く接することができました。
そのように数年を暮らしているうちに、女学校時代から人形を作るのが上手だった妙子の作品が、百貨店の陳列棚に並ぶようになりました。それらはフランス人形や歌舞伎調のものなど多岐に渡り、独創的な作品で愛好者を集め、幸子の協力で個展を開くほどでした。
辰雄は、妙子が職を持つことに反対でしたが、結婚とは縁遠そうな彼女が一人で稼げる手があってもいいのかもしれないと考え、友達の未亡人が経営する夙川の部屋を、仕事部屋として紹介してやりました。
駆け落ち事件以来沈んでいた妙子は、以前の朗らかさを取り戻し、作品が相当な値で売れるため金回りも良くなり、貯金も抜かりなく行いました。
しかしやがて幸子は、妙子が隠れてタバコを吸ったり、奥畑と歩いていたという噂を聞くようになりました。妙子に問いただすと、奥畑が個展を見に来て大作を買ってくれたことから、再び付き合うようになったようでした。妙子は、奥畑とは清い交際をしているだけなので、信用してもらいたいと言いました。
不安をぬぐい切れない幸子は、アパートの女主人に話を聞きました。その女主人は、妙子の部屋に男が泊まっているということはないと受け合いました。部屋を覗いてみても、女芸術家らしく、雑然としながらも掃除が行き届いており、男が出入りしている形跡は見当たりませんでした。
幸子は安心して妙子を信じましたが、それから一、二ヶ月ほど経った頃、奥畑が不意に訪ねてきて、自分と妙子は、父兄の了解を得られるまで何年でも待とうという固い約束をしたことや、事件の当初と比べ、自分の父母も結婚に反対ではなくなってきたことを話し、自分たちの関係を幸子にだけはわかっていてほしい、そして自分たちを信用して欲しいと頼みました。
雪子のことを慮って妙子と奥畑の結婚を後に延ばしておきたかった幸子は、妙子と奥畑の関係を自分に任せておいてほしいと答えました。
妙子の縁談が決まったようなものとなると、幸子は、これまで以上に雪子の縁談を急ぐ必要を感じました。雪子は、自分が未亡人になった時の生活の保証ができる人であれば、相手が四十を超えて初婚でなくとも、また子供がいたとしても、辰雄や貞之助の言う通りのところへ行くと言いました。幸子は、瀬越のことを調べさせましたが、人格について悪い話を聞かず、またいくらか年かさでも初婚で、さらにフランス仕込みの美術文学にも通じているだろうということで、雪子との趣味も合いそうであったため、縁談相手として適しているであろうという結論に達しました。瀬越の方も薪岡家の返事を気にしているらしく、井谷は頻繁に返事を催促しに訪れました。幸子は井谷に急かされる形で、食事会の日取りを大方明後日ということにしておいて、明日の昼ごろ電話で正式な返事をすると約束をしてしまいました。
そしてその食事会の日取りの返事をすることになっていたその日、幸子、雪子、妙子は演奏会に行こうとしていたのでした。
当人の雪子は、その縁談を嫌がってはいなかったものの、軽々しく急な食事会を行わないでほしいと考えているようで、その気持ちを察した幸子は、今日明日でなくとも四、五日後には行くように雪子に言ってほしいと妙子に頼みました。そのうちに井谷から電話がかかってきて、幸子は、翌日の食事会だけは見合わせてほしいと伝えました。
両親に死なれた後、妙子と共に本家と分家の間を行ったり来たりしていた雪子は、悦子のことを非常に可愛がっており、自分がどこへ嫁ごうとも心残りはないように思われながら、悦子と別れるのが嫌で、婚期が遅れていることもそれほど淋しいとは思ってはいませんでした。蘆屋の家でも、もともと雪子と妙子が使っていた部屋を、妙子が仕事場として使うようになったので、今では雪子と悦子が同じ部屋を使っており、雪子は、悦子が熱を出した時の看病など、幸子以上に母親のような役割を果たすようにもなっていました。死んだ父の寵愛を一心に集めて育ち、精神的にも体質的にも堪え性がない幸子は、悦子の面倒を見る雪子を重宝しており、雪子が帰ってこない本家からの陰口にも関わらず、自分の家に住み込むのを許しているのでした。
雪子は、一人だけ置いて行かれることに不機嫌になっている悦子に、玩具を土産に買うことと夕方までには帰ることを約束し、綴り方の宿題をやっておくようにと言いつけました。幸子が井谷に明日の食事会の断りの電話を入れる間、今度の縁談についてどのように思っているのかと妙子に聞かれた雪子は、妙子の予想通り、急かされたことが嫌なのだということを伝えました。
着飾って家を出た三人は、蘆屋川から神戸行きの電車に乗り込みました。家で留守番をしていた悦子は、ままごとに飽きると、宿題の綴り方を始めました。
夕方、雪子は家に帰り、悦子を寝かしつけ、彼女に頼まれていた作文の添削を始めました。
その作文には、飼っている兎のことが書かれていました。
蘆屋の隣の家には、半年ほど前からシュトルツというドイツ人の一家が住んでおり、その夫婦には、十歳か十一歳ほどのペータア、悦子と同じくらいの年学校に見えるローゼマリー、年下のフリッツという三人の子供がいて、悦子はその子供たち、とりわけローゼマリーと仲良くなりました。シュトルツ家ではアンゴラ兎を飼っており、悦子はローゼマリーと一緒にその兎を可愛がるうちに、自分でも兎が欲しくなり、幸子に買ってくれとせがみました。幸子は兎を買うことに難色を示しましたが、そのうちに出入りの煙突掃除の男が、悦子にあげてくれといって真っ白な兎を一匹持ってきました。悦子が作文に書いたのはこの兎のことで、その朝は悦子が片方だけが寝ていた兎の耳を立てようとして遅刻しそうになったので、雪子はその耳に触るのを気味悪く思いながら足袋をはいている足で立ててやったのでした。作文には、雪子が足で兎の耳を立てたことがそのまま書かれており、それを読んだ雪子は、「足で」という部分を慌てて消しました。
翌日、悦子は、なぜ足で耳を立てたことを書いてはいけないのか理解できない様子でした。
瀬越との食事会
延期されていた見合いは、オリエンタルホテルで行われることになりました。出席者は井谷、井谷の二番目の弟で瀬越の旧友である大阪の鉄屋国分商店に勤めている村上房次郎とその妻、瀬越の同郷の先輩で、勤め先の常務をしている五十嵐という中老の紳士、貞之助、幸子、雪子でした。
十八歳になる薪岡家の女中のお春は、幸子と井谷との電話や、応接間で貞之助らが話していた内容から縁談の話を知り、それを悦子に話し、幸子と雪子から叱られました。雪子は、このようにして自分たちの縁談話が近所に広まり、その話がまた駄目になったと言われることが辛いと涙をこぼしそうになりました。
四時が過ぎ、幸子と雪子の支度がまだであろうかと貞之助が案じ始めた頃、雨が降り始めました。タクシーを呼び出してもすべて出払っており、約束の六時五分前になってようやく到着しました。
一向は三十分遅れてオリエンタルホテルに到着し、ロビーでの紹介が済むと、小宴会場へ行きました。
瀬越は、パリ仕込みというところが感じられない、嫌味のない堅実な会社員といった印象でした。彼は学校を出て間もなくパリに行き、日本が恋しくなって帰国し、今の会社に就職しましたが、今の会社でもあまりフランス語を話す機会がないようでした。
雪子は、フランス語の先生がフランス人なのか日本人なのかと聞かれました。もともと言葉数の少ない彼女はこのような時に東京弁を話すのがぎこちなくなり、幸子はそのような雪子の欠点を補うように会話しました。
夫や義兄も飲める男であり、以前は死んだ父の晩酌の相手をしていた幸子は、瀬越が酒を飲めそうなのを良いことに感じました。場を盛り上げることが得意な五十嵐に、幸子や房次郎が上手に応対し、和んだ雰囲気の中で宴が終わりました。その後、瀬越と雪子は十五分か二十分ほど二人きりで話す機会が設けられ、その間、残りのものは別室で雑談を交わしました。
瀬越との縁談を断る雪子
翌日、貞之助の事務所に井谷が来て、瀬越は乗り気ではあるものの、雪子が細身で弱そうに見えるのが気になっており、調べさせてもらった女学校時代の成績表に欠席が多いことから、学生時代にたびたび病気をしたのではないかと懸念していたことを伝えました。
雪子が女学校を欠席していたのは、父親が芝居に連れていったためで、病気のためではありませんでした。
また、最近たびたび現れるようになった、雪子の左の眼の縁に見えるシミが、瀬越は気になっているようでした。そのシミは、結婚すればいずれ治るもののようで、女性ホルモンの注射で治療も可能でした。自分の結婚のために、雪子が早く縁付いてほしいと思っている妙子は、それとなく雪子に治療を勧めてみたことがありましたが、腰の重く、それほどそのシミを苦にしていないようにも見える雪子は、自分から皮膚科の医者に行こうとはしませんでした。
貞之助は、雪子が健康であるという証明をもらうために、阪大でレントゲン写真を撮り、また眼の縁のシミも皮膚科に診てもらおうと幸子に言いました。
義兄や姉たちの意向に任せるという意思を示していた雪子は、レントゲンと皮膚科の件を持ち出されたところ、あっさりと承知しました。
その翌日幸子は雪子を連れて阪大に向かい、雪子のレントゲン写真に異常はなく、シミも結婚すれば治るという報告を受けました。貞之助は、その写真と報告書を井谷に送りました。翌日、井谷が訪れてきて、瀬越が恐縮した様子であったこと、もう一度雪子と二人だけで打ち解けて話し合ってみたいと言っていることを伝えました。
幸子と貞之助は、本家の許しを得た上で、井谷の家で雪子と瀬越を会わせました。瀬越は、姉妹の間柄や、妙子の新聞沙汰の事件についてなど、いくつか雪子に尋ね、また自分のようなものが雪子に嫁に来てもらうのは勿体ないと思っていることや、パリ時代に百貨店のフランス人の婦人と恋に落ち、結局欺かれたこと、その反動で純日本風の趣味に憧れるようになったことなどを語りました。瀬越がそこまで打ち明けるということは、雪子との結婚を心に決めていることを明白に表していました。
井谷は、雪子の返事を待つことにしびれを切らし、本家の瀬越に対する調査はまだ終わらないのかと催促しました。幸子と貞之助は、一週間ほどと返事をしましたが、本家にこの話をしたのがつい十日ほど前で、本家が瀬越の戸籍謄本を取り寄せたのがようやく三日前のことで、国元の方を調べ上げ、見極める段にもう一度然るべき人を国元へ送るつもりのようで、時間がかかることは目に見えていました。
井谷は鶴子に直接電話し、返事を催促しました。
月が変わって十二月に入った頃、鶴子から電話が入り、良い話ではないと断った上で、こちらから出向いていくと言いました。これまで土壇場で何度も縁談を断ってきた幸子でしたが、今回は身の入れ方が違っていたため、落胆しながら鶴子の到来を待ちました。
鶴子が人を田舎にやって調べさせたところ、瀬越の母親は夫に先立たれてから、倅の顔を見ても分からなくなるほどの精神病を患っていたようでした。鶴子は、心苦しさを感じながらも、今回の縁談を断るようにと幸子に言いました。
鶴子が帰った後、幸子は雪子にこのことを切りだしました。雪子は普段と何も変わらない様子を見せながら、その話に納得しました。貞之助も、血統の上で瀬越自身やその子供に間違いがないという保証がない結婚に責任を持つことはできないと諦めました。近頃は瀬越は仕事が手につかないほどそわそわしているという話を聞いていた貞之助は、井谷の手前この縁談に乗り気のように振る舞っていたことで、彼に恥を欠かせたように感じられ、心苦しい思いを味わいました。今回縁談を断ったことは、雪子に対しても、彼女を一層不幸にさせるような気がして、貞之助はとりわけ済まない感じがしました。
断りの返事を聞いた井谷は、瀬越の精神病のことを知らなかったふりをしながら、貞之助の言い分は尤もであるので、先方には上手く伝えておくと、如才ない返答を寄こしました。彼女はさほど感情を害している様子もなく、自分の不行き届きを謝り、また雪子のために良い縁談を持ってくると言いました。
その数日後、井谷は再びやってきて、五人の子供がいる某銀行の支店長をしている男との縁談話を切り出しました。貞之助があまりの悪条件に興味のない顔をすると、井谷はその様子を察してすぐにその話を引っ込めました。しかしそれは、その程度のところが雪子に相当の縁なのだと暗に諷しているようにも思われました。年末年始のために雪子は本家に帰っており、貞之助と幸子は、彼女にこれを知られずに済んだことに胸を撫で下ろしました。
妙子の個展、キリレンコ家との親交
その頃、妙子は三回目の個展を開くために製作に熱中していて、舞の稽古も週に一度大阪の山村の稽古場に通っていました。
年末の十五日、前年は大晦日に帰って行った妙子は、仕事が終わったので、大阪で舞の稽古に毎日通うために本家に帰ると言いました。
幸子は年始に帰ってきたら、自分の三味線に合わせてその舞を待ってもらうことを約束しました。
妙子の個展は神戸の鯉川筋の画廊で三日間開催され、初日で大部分の作品が売約済みとなりました。幸子は、その三日目の夕方、雪子と悦子を連れて会場の片付けの手伝いに訪れました。妙子は、自分の弟子であるカタリナ・キリレンコを幸子に紹介しました。
カタリナは、革命後に日本に渡り、別れたイギリス人の夫から貰った金で生活していたロシア人女性で、ある日突然妙子の仕事部屋を訪れ、日本風の人形の製作を習いたいので弟子にしてくれと申し出ました。外国人にしては手先も器用で頭も働き、日本着物の柄や色合いについての理解が早かったため、妙子はすぐに彼女と親しくなりました。
夙川のアパートでカタリナと同居する兄と母は、両陛下の肖像写真を部屋に掲げるほどの日本崇拝者で、妙子は家に呼ばれたこともあり、その二人とも親交がありました。カタリナの母は六十歳ほどでしたが、日本人を驚かせるほどのスケートの腕の持ち主でした。
カタリナはその頃、妙子をモデルにして羽子板を持った振袖の娘の立ち姿を製作しており、蘆屋の家にも訪れて指導を受けていたので、自然と幸子や貞之助とも懇意になっており、夫婦を招待したいと申し出たようでした。
カタリナから再三の招待を受けた幸子は、妙子が日本語が苦手なカタリナの母の口ぶりを真似るために好奇心が募ったこともあり、夫と妙子とともにその招待を受けました。
カタリナは狭い部屋に住んでいて、最初の試作品である桂馬と飛車を帯に描いた舞妓の人形や、イギリスにいる以前の夫と娘の写真を幸子たちに見せました。しかし七時になっても彼女の兄と母は帰って来ず、また食事が用意されている気配もなかったため、貞之助と幸子と妙子は、自分たちが招待されているのが間違いなのではないかと考え始めました。恐る恐る英語で聞いてみると、カタリナは、英語で自分は幸子たちを招待したのだと返し、八時になると台所に立ち、手早く食事を用意しました。
空腹を覚えていた三人でしたが、その量があまりにも多く、次々に勧められるので、すぐに満腹を覚えました。
やがてカタリナの母と、兄のキリレンコが友人のウロンスキーを連れて食堂に入ってきました。
ウロンスキーは、革命で行方しれずになった恋人を追ってオーストラリアに行き、その地で恋人と死に別れてから独身を通しており、オーストラリアの鉱山で働き、その後の商売にも成功してカタリナの兄にも資本を出している男でした。
白系ロシア人であるカタリナたちは、共産主義に対して最後まで戦うのが日本であると思っており、天皇陛下の写真を部屋に飾っていました。一同は、蒋介石や西安事件について語り合いました。異国の地にいるロシア人にとって、国際情勢は自分たちの死活問題であり、ウロンスキーとカタリナの母は多いに白熱しました。カタリナの母は白熱すると日本語が支離滅裂になり、カタリナが彼女の話を日本語で説明しました。やがて母がイギリスの政策と国民性を口撃し始めると、カタリナは反対し、親子喧嘩が始まりました。二人の喧嘩はウロンスキーの仲裁で収まりました。
貞之助は足元がふらふらになるほど飲み、ようやく十一時過ぎに帰途につきました。
野村巳之吉との見合い話
三月下旬、幸子の女学校時代の同窓の陣場夫人から、野村巳之吉という男の写真が、自筆で書かれた生い立ちと共に送られてきました。
野村は姫路に原籍を置き、灘区に住んでいる男で、東京帝大の農科を卒業し、現在は兵庫県の農林課に勤務する水産技師で、長女を三歳で、次いで昭和十年に妻を流感で、そしてその翌年に長男を十三歳で亡くしており、親類は太田という家に嫁にやっている妹がいるだけでした。
幸子は、瀬越との縁談話があった前年の十一月、大阪の桜橋で陣場夫人にばったりと会い、良いところがあれば雪子の縁談を世話してほしいと言っていたことを思い出しました。陣場夫人はその時のことを覚えていて、夫の恩人にあたる関西電車の社長浜田丈吉の従弟で、妻に先立たれて後妻を求めている人がいるということを知り、雪子にその縁談を世話しようと考えたのでした。
その時幸子は、ついこの間縁談を破談にしたばかりの雪子の気持ちを慮り、一、二カ月返事を待ってもらいたいと礼状に書いて送りました。
相手は初婚ではなく、貞之助より年上であり、瀬越よりも条件の悪い縁談だったので、幸子もあまり乗り気にはなれず、一週間ほどその手紙を放っておきました。
しかし、写真在中の郵便物が来たことを雪子が知っているのではないかと思った幸子は、隠していることもはばかられ、その写真を雪子に見せました。
雪子は、縁談話があるのであれば伝えてほしいこと、そして見合いはよく調べてほしいことを幸子に伝えました。
京都への旅
幸子は、花では桜が好きで、毎年春が来ると、夫や娘や妹たちを誘って京都に花を見に行くことを欠かしたことがありませんでした。
その行事には必ず幸子、雪子、妙子は参加していましたが、ここ最近、雪子と共に桜を観ることができるのが最後になるのではないかと幸子は考えるようになっていました。
その年も、幸子たちは四月の中旬の土曜から出かけました。
土曜日は南禅寺の瓢亭へ、日曜は広沢の池に行き、池に枝をさしかけた桜の下に幸子、悦子、雪子、妙子と並んだ姿を貞之助がライカに収めました。ある年の春、この池のほとりにきた幸子たちを、一人の見知らぬ紳士が撮らせてくださいと懇願し、後日その写真を送ってくれた中に幸子と悦子の映った素晴らしいものがあったため、以来彼女たちはこの池のほとりに必ず来ることにしているのでした。その後例年通り、彼らは渡月橋に寄り、タクシーで平安神宮に向かいました。
そして海外にまで知れ渡っている平安神宮の名木の桜の紅枝垂を見たとき、彼女たちは一年間にわたって待ち侘びていた光景に感嘆の声を放ちました。
幸子は、来年もこの桜が見られるようにと願いながらも、来年は雪子が嫁に行っているのではないかと考え、雪子のためにそうあってほしいと願いました。彼女たちは例年通り多くの人に写真を撮られながら、平安神宮を歩きました。
その夜、貞之助と幸子は、二人だけ残って京都に泊まり、明くる日幸子の父が高尾の寺の境内に建立した不道院という尼寺に寄り、その日の夕方に七条駅から列車に乗りました。
二、三日後、貞之助と幸子は、京都での思い出を俳句にして纏めました。
幸子の黄疸と、下妻、相良、丹生夫人の来訪
翌月、貞之助は、幸子を誘ってもう一度京都へ行き、新緑を見ようとしていましたが、幸子の気分がすぐれないため、庭の草むしりをしていました。草むしりを終えた貞之助は、幸子の眼の中に黄疸が現れているのを見つけ、この辺りで引っ張りだこの医師である櫛田を呼びました。
黄疸と診断された幸子は、明くる日から寝たり起きたりして暮らしましたが、蒸し暑い嫌な陽気のためにそれほど良くなることもありませんでした。
床の間に活けてある、罌粟(けし)の花を見た悦子が、吸い込まれてしまいそうで気味が悪いと言ったことに納得した幸子は、せいせいするような歌の掛け軸を夫にかけてもらいました。その甲斐もあってか、翌日には気分が楽になったところへ、以前親しく付き合っていた丹生夫人が、下妻と相良という夫人を連れてやってきました。
幸子は久しく会わなかった丹生夫人には病室に上がってもらってもよいと思いましたが、下妻夫人とはそれほど親しくしておらず、また相良夫人は聞いたこともない名だったので、当惑しながらも三十分もかけて準備し、降りて行きました。
丹生夫人の女学校時代の友達であった相良夫人は、洋行帰りの洋装の女性で、夫は郵船会社に勤め、ロサンゼルスに住んでいるようでした。丹生夫人は、関西をあまり知らない相良夫人が昨日突然訪れてきて、阪神間の代表的な奥さんに会わせて欲しいと言ったので、その要望に応え、幸子のところへ連れてきたのでした。
幸子はこの三人が夕飯に呼ばれることを期待していることに気づきましたが、それまでの二時間、相手をすることを辛い気がしました。普段は大阪弁で話す丹生夫人は、相良夫人とは東京弁で話しました。相良夫人のような東京の婦人を苦手としていた幸子は、三人の話すのを聞いていると苛々し、それが顔色にも現れるので、下妻夫人がその表情に気づいて帰ろうというのを強いて止めようともしませんでした。
辰雄の栄転
入梅に入るころ、黄疸が快方に向かった幸子は、辰雄が東京の丸の内支店長に栄転することになり、東京に移住することになったということを知りました。
鶴子は、早くに死んだ母の代わりに、父や妹たちの面倒を見、早くから婿を迎えて子を持っていた苦労人でしたが、箱入り娘として旧時代の教育を受け、大阪ほど良い場所はないと考えており、未だに東京を見たことがありませんでした。そのため彼女は住み慣れた大阪を離れることを悲しみ、周囲の人々が辰雄の栄転にしか目を向けてくれずにおめでたいとしか言ってくれないことに苦しみ、電話口でおろおろしているのが幸子には分かりました。また、上本町の本家は、もともとは薪岡家の郊外の別宅として使われていたものが、父の晩年に移ることになった純大阪式の家屋で、彼女たちにとっては特別の存在でした。幸子は普段から、その家の日当たりの悪い不衛生なところを、雪子や妙子と一緒になって陰口を叩いていたものでしたが、その家がなくなるということを知り、言い難い寂しさを覚えました。
辰雄は、旧家の婿ということもあって転勤を免除されたこともありましたが、銀行の方針が変わったり、本人も昇進を望むようになったために、栄転となったのでした。
二、三日後、鶴子から再び電話があり、家は父が浜寺の別荘で使っていた「音やん」と呼ばれる、金井音吉に貸すことにしたと話しました。
その翌日、幸子は鶴子の家を訪ねて行きました。鶴子は、幸子の言葉も耳に入らないほど熱心に忙しく立ち働いていました。
幸子は家に帰り、何か事件が起きるとしばらくは呆然とし、その後興奮しきって訳の分からないまま夢中で働く鶴子についての話を雪子たちと語り合いました。
それから中一日置いて、雪子は、鶴子夫婦が辰雄の名古屋の実家に暇乞いをする間の留守番を頼まれて、鶴子に呼ばれました。鶴子は戻ると、名古屋で親戚周りをした先に礼状を書くために、習字の練習を始めていました。
少し前まで泣き言を言っていたのが、覚悟を決めて働き、一日も早く東京へ行って親類を驚かそうとしている鶴子の、そのようなことを生きがいにしているところを三人の妹たちは笑い話にして話しました。
七月一日から丸の内の店に出社する予定の辰雄は、六月末に鶴子たちに先駆けて関西を発ち、東京の大森に家を見つけました。辰雄は八月十八日の土曜に大阪に戻り、翌日の夜行で鶴子や子供たちを連れて上京することとなりました。
鶴子は挨拶回りが一通り終わると、音やんの女房に留守を頼み、末の三歳になる娘だけを連れて、蘆屋の分家へ二、三日泊まりがけでやってきました。
四人の姉妹が時間の制限なく語り合うのは久しぶりのことでしたが、鶴子はそれまでの疲れが一気に出て、按摩を呼んで二階で寝ながら過ごしたため、幸子は予定していた神戸の案内をできませんでした。
鶴子の出発が二、三日後にさしせまったころ、父の妹にあたる富永の叔母ちゃんと呼ばれている老女が鶴子の使いと言いながら訪ねてきました。富永の叔母は、もともとは本家に属する雪子と妙子が分家にいることは世間体が悪いので、人形製作のある妙子には猶予を与えるにしても、雪子にはこれを機会に家族と一緒に発ってもらうよう、幸子の方から切り出してほしいと言いました。
それまで雪子と妙子は、関西に残りたいがために、わざと鶴子の手伝いをしていませんでしたが、いずれこの話が持ち上がるであろうと考えていました。幸子は、雪子に同情する一方で、彼女を家庭教師代わりにして育児を任せているという世間からの非難に反抗したい気持ちも持っていたため、二階の部屋にいる雪子に、辰雄と鶴子のいる東京に行くようにと言いました。
雪子は観念した様子で、東京に行くことを了承しました。
出立の日は、辰雄夫婦と、その六人の子供と雪子が女中と子守りを連れて大阪駅を午後八時半発の列車に乗り込むことになりました。
幸子は、鶴子が泣き出さないよう見送りに行くのを遠慮し、貞之助だけが見送りに行きました。旧い家柄が土地を引き払うことだけあり、見送りには百人近くの人が集まりました。
大阪を出るのが嫌だった妙子は、出立の間際に駆けつけ、混雑に紛れて辰雄と鶴子に簡単な挨拶をするだけでした。彼女は、舞の名手として有名な新町のお栄という老妓や、辰雄の大学時代の同窓の関原という男など、久しぶりに会う人々に声をかけられ、本当の年齢よりも若く見られました。
九月八日、幸子は、東京で書かれた雪子からの手紙を受け取りました。
その手紙には、鶴子は、汽車が走り出すと堪えていた涙を流したこと、それから鶴子の子の秀雄が大腸カタルで高熱を出して一睡もできなかったこと、大森の借家が家主の都合で解約になり、辰雄の兄にあたる商工省の官吏の麻布の種田さんの所に泊めてもらったことが書かれていました。その後辰雄たちはさまざまな人に頼み、道玄坂にようやく手狭な家画を一軒見つけ、そこを借りることになりました。辰雄が丸ビルに通うにも、輝雄が中学に通うにも便利な土地のようでしたが、鶴子や雪子がさぞかし窮屈な思いをしているのだろうと幸子は考えました。
五、六日後、移転の手伝いや見舞いのために上京していた音やんの倅の庄吉が、引っ越しを無事済ませたことを伝えにやってきました。東京の家は手狭でも明るく衛生的で、近くには繁華な町もあるため、子供たちは喜んでいるようでした。
筆不精の雪子からは、一度便りがきた後は音沙汰がなく、貞之助の提案で一家は俳句の寄せ書きを書いて送りました。雪子はこの寄せ書きに返事を寄こしましたが、再びしばらく音信が途絶えました。
悦子の神経衰弱
雪子が発った後、幸子は悦子の寝かしつけを女中たちに任せるようになりました。しかし女中たちは寝つきの悪い悦子の話し相手をする間に寝てしまうため、悦子はその横で怒りを堪えられず、一向に眠れなくなりました。また食欲がなくなり、食事の間に二、三度は箸に熱湯をかけさせるほどに潔癖になりました。幸子は、小学校二年の子供が神経衰弱に罹ることがあるのだろうかと思いながらも、心配を募らせ、櫛田医師に診てもらいました。櫛田は、悦子の脚気の手当てだけをして、西宮の専門医の辻医師に往診してもらうように電話で頼みました。
辻医師は、脚気を治療し、食欲を促進させ、頭から叱りつけないように説いて聞かせるようにすることを助言しました。
悦子の扱いに手を焼いた幸子は、雪子を呼び戻したいと思いながら、二ヶ月余りで助け舟を呼んだと言われるであろうと考え、もう少し様子を見ようと思いながら暮らしました。貞之助はもともと放任主義でしたが、支那事変の影響で女の子でも剛健に育てなければならないと考えるようになっており、幸子や雪子が箸を何度も消毒したり、テーブルクロスに落ちたものさえ食べさせないという潔癖な躾に反対するようになっており、雪子を呼び戻すことに反対でした。
十一月、貞之助は、仕事で東京に行くことになり、辰雄の家に泊まりました。子供たちは新しい生活に慣れ、雪子も機嫌良くしているように見えました。
しかし雪子は関西の生活が恋しいあまり、人前で涙を隠し切れないこともあるようで、鶴子は雪子の思い詰めている様子が可哀想になり、好きなようにさせてやろうかと考えることもあるようでした。貞之助は、このことを幸子に伝えました。
雪子の帰郷
年が明け、悦子の神経衰弱は、脚気が治ったことや食事療法により徐々に良くなって行きました。雪子を頼る必要はなくなったものの、幸子は、おとなしく東京へ行くことに納得した雪子が不憫でならず、また口実をもうけて呼び戻してあげるという気休めの言葉を、彼女が信じていたのかもしれないと考え、雪子の顔を見なければ済まないような気持ちになっていました。
そのような時に、持ちかけた縁談の件はどうなっているのかという手紙が、陣場夫人から届きました。
幸子は、縁談相手の野村巳之吉という先方の写真に、陣場夫人のこの手紙を添え、渋谷の本家に手紙を送りました。
すると鶴子から返事が届き、農学士で四十代の水産技師ではこの先給料が上がる見込みはないものの、辰雄は、本人が承知なら反対はしないと言っているようで、雪子も関西に帰れると聞き、すぐに見合いを承知したようでした。
見合いは、陣場夫人と野村の間に、野村の従兄にあたる関西電車の社長の浜田氏が介在し、節分前にという先方の希望を寄こしました。幸子がすぐに雪子を寄こすようにと言ったのが、一月二十九日でしたが、三十日の午後に鶴子の下の子供が二人流感になり、雪子に看護を頼むことにしたので、陣場夫人にお願いしてもう少し待ってくれるようにお願いしてほしいという連絡が届きました。
そのうちに梅子が肺炎になったという知らせが届き、幸子は看護婦代わりに使われる雪子を不憫に思いました。
その間、手配していた調査結果が届き、野村氏は、高等官三等で、年俸三千六百円、父親が経営していた姫路の旅館は現在は残っておらず、実妹が東京の太田という薬剤師に嫁いでいることなどが分かりました。
貞之助の調べによると、野村の行状には取り立てて欠点はないものの、時々独り言を洩らす癖があるようでした。写真の顔も四十六歳というよりは、五十以上の老人に見え、雪子の気にそぐわないことは明らかでした。しかしそれが雪子を呼び寄せる口実になるために、とにかく見合いだけはさせなければならないというのが、幸子と貞之助の正直な気持ちでした。
半年ぶりに帰ってくる雪子を喜ばせるため、幸子は雛の節句をひと月遅れにする関西の習慣よりも早く雛人形と、悦子が妙子のために拵えた菊五郎(歌舞伎役者)の道成寺(長唄)の人形を一緒に飾ろうと言いました。
新暦の三月三日、飾り付けが始められました。幸子は、悦子から妙子に電話をかけさせ、雪子を迎えに行くようにと伝えました。それは東京へ帰った雪子を差し置いて、一層自由気ままに暮らしている妙子に、義理にでも出迎えをさせるためでした。貞之助も雪子を懐かしみ、彼女の好きな白葡萄酒を出してきました。
夜の九時半ごろ、出迎えに出ていた妙子とともに、雪子が家に戻りました。
悦子は雪子と一緒に寝ると言いながら、風呂に入る雪子を待つためにお春とともに寝に行き、そのまま寝つきました。雪子が風呂から上がると、幸子と妙子、貞之助は、チーズと白葡萄酒で食卓を囲みました。
雪子は東京の寒さについて、東京弁をすぐに覚える子供たちについて、また流行にとらわれず個性を尊ぶ風潮がある東京を気楽に感じているらしい鶴子について語りました。鶴子と辰雄は、東京では誰も知らない薪岡の家名を気にすることなく、安い家賃で住むことができるために、初めの頃手狭に感じていた渋谷の家を引き払う気がなくなってしまったようで、近頃は二人とも虚栄心を捨て、倹約に勤しむようになったようでした。
雪子は寝室に引き上げ、自分の持ってきた土産物を並べて眠っている悦子の顔を見て、関西へ帰ってきた嬉しさが込み上げてくるのを感じました。
雪子と野村の見合い
雪子の見合いを控えた三月五日、幸子は有馬温泉で病後の療養をしているある奥さんを見舞うために、友人とバスで六甲越えをして有馬へ行きました。その夜、出血して苦痛を訴え、櫛田医師に流産らしいと言われました。
貞之助は、事務所を休んで病室に付き添い、妊娠の予感があったにも関わらず、バスに乗った自分の不注意でこのようなことになったことを詫びる幸子を慰めました。
悦子の次の子供を望んでいた夫の気持ちを知っていた幸子は、己を強く責め、悔し涙を流しました。
陣場夫人へは、幸子が風邪をひいたということにして、見合いを延期してもらいました。
陣場夫人が見舞いにやって来ると、幸子は風邪ではなくて流産であったことを伝えました。しかし見合いは彼岸前の十五日にしてほしいと浜田氏からも頼まれているということを聞くと、幸子はこれ以上の我が儘を言うわけにはいかず、十五日の見合いを承諾しました。
幸子の体調は、十四日になっても戻りませんでした。雪子は、自分のために幸子に無理をさせまいと、もう一度見合いの延期を勧めました。貞之助も幸子を欠席させる方向で考えていましたが、雪子への同情心を抱いていた幸子は、陣場夫人からの電話で体調を聞かれ、だいぶ良くなったと答えてしまいました。
陣場夫人の提案したオリエンタルホテルに雪子が難色を示したので、顔合わせの場所はトーアホテルということになりました。
当日になっても幸子の体調は戻らず、見た目にも貧血がわかる顔つきをしていました。ホテルでは、幸子は陣場夫人の夫の仙太郎を紹介されました。
野村は、しっかりした体格ながら、白髪で髪が薄く、写真以上に老人臭い風貌で、幸子は、雪子に済まないことをしたような気になりました。どこか取りつきにくい感じのする男で、陣場夫人も恩人の浜田の従兄である野村に遠慮して、話がはずむこともありませんでした。
幸子は貞之助を呼び、野村が北京楼という山手の中華料理屋での食事を希望しているものの、椅子に座ると調子が悪いので、陣場夫人が日本間の座敷をとってくれたことを伝えました。
しかし陣場夫人は、野村と雪子と自分を浜田氏同じ車に乗せたいと言い、貞之助が理由を尋ねても、曖昧な答えを返しました。貞之助は、幸子の体調を気遣わない陣場夫人に不愉快な気持ちになり、彼女が自分たちの娘の縁談をまとめてやるのだと、恩を着せようとしているのではないかとも考えました。
さらに北京楼に入るために急な石段を何段も登らなければならず、日本間も塞がっていたために、貞之助は、この見晴らしの良さばかりを褒め、弁解もしなかった陣場夫妻への憤りを募らせることとなりました。
晩餐では、独墺合邦のことが話題にのぼりましたが、幸子は背の高い椅子に腰掛けているのが具合が悪く、貞之助は腹が立っていたため、野村と陣場だけの遣り取りになりがちになりました。雪子は、姉たちの気勢が上がらないのと、野村が絶えずジロジロ視線を浴びせるので、決まり悪そうに下ばかり向いていました。やがて野村は、雪子を目の前にした興奮で饒舌になっていきました。彼は浜田丈吉を親戚に持っていることを自慢に思っているらしく、しきりに浜田の名を口に出しました。また薪岡に関する事柄をよく調べ上げており、井谷からも話を聞いているようでした。貞之助は、野村が神経質であることがだんだんと分かってきました。
帰り際には、自動車が一台しか来ておらず、同じ方面の青谷に住む野村を、いくらか遠回りにはなるが乗せて行ってやって欲しいと言われ、幸子は勾配のある道の悪い青谷までの路を、自動車に揺られなければなりませんでした。
野村は家に着くと、自宅に寄るようにしきりに勧めたため、貞之助は気の利かない野村や陣場に忿懣を感じながら、幸子が少しだけ寄らせてもらおうと言ったことに同意しました。
足場の悪い急な階段の上にある家に着くと、野村は子供のように喜びながら、自分の家の所々を見せて回り、死んだ家族の写真を幸子や雪子に見せました。
帰り際、待たせてあった自動車に乗り込んだ陣場は、雪子と野村の結婚を仕切りに勧めました。貞之助は、本家の意見も聞いた上で、いずれ相談すると約束して陣場夫妻と別れました。
野村との縁談を断る雪子
中一日置いて陣場夫人は訪ねてきて、野村が雪子との結婚を望んでいることを伝えました。浜田も、野村が執心であるなら、財産に関しては生活の苦労はさせないことを約束しているようでした。
まだ一昨日の無理が祟って寝ていた幸子は、その申し出を断ることができるように、自分たちは代理を務めているに過ぎず、本家が野村の身元調べなどをしているのだと、本家に責任を転嫁するような挨拶をして夫人と別れました。
見合いから五日目の朝、幸子は病室で二人だけになった機会を捉えて、野村が老けて見えることの懸念を示しながら今回の縁談についてどう思っているのか雪子に尋ねました。雪子は、野村であればいつでも来たい時に蘆屋に遊びに来れるであろうという意味のことを語りました。幸子は、そのようなことを許してくれる野村との結婚も、雪子にとって悪くないのかもしれないと考えました。
その翌日、見合いが済んだことを東京に知らせ、彼岸の間中、幸子は寝たり起きたりして過ごしていました。
ある春らしくなった日の朝、病室の縁側で日光浴をしていた幸子は、庭の芝生で猫の鈴を抱きながら、しゃがんだ雪子の後ろ姿を見て、彼女が東京へ呼び戻される日が遠くないのだという予感を抱いて、この庭の春に名残を惜しんでいることを察しました。出歩くのが好きな雪子は、ここのところ電話で妙子を呼び出して、元町あたりをぶらついて帰って来るのが習慣になっていて、縁談のことなど念頭にないように楽しそうに出かけていく姿が見受けられました。
妙子は、雪子と元町を歩いている時、野村に見つかり、お茶に誘われたということを幸子に話しました。その時雪子は慌てて真っ赤になり、へどもどするばかりだったので、野村は丁寧にお辞儀をして行ってしまったようでした。
その後、妙子が聞くと、雪子は野村の家の仏壇に亡くなった妻や子供の写真が飾ってあるのを見て、ひどく不愉快にさせられ、そのような男に女の繊細な気持ちが分かるはずはないと、妙子の方から断ってくれるように幸子に頼んで欲しいと言ったようでした。
ようやく雪子の本心を察した幸子は、陣場夫人に、本家が不賛成であるという口実を婉曲に伝え、野村との縁談を断りました。
それらの報告を送っても、本家は何とも言ってきませんでしたが、幸子は雪子が来てからひと月になることであるし、一度東京へ帰ることを雪子に勧めました。
雪子は、悦子が学校の友達を招いてお茶の会を催すのが恒例になっていた四月三日の節句を済ませ、それから三、四日後に見ごろになる祇園の夜桜を見るまで、東京行きを延ばそうかと逡巡しました。悦子も、花見が終わるまでは帰らないで欲しいと雪子に言っており、また貞之助も、流産以来感情的になっている妻のために雪子が帰るのを延ばすことに執心しました。
雪子は、帰るか帰らないか決めかねた様子で蘆屋の家にとどまりましたが、九日十日の京都行きの日になると、東京から持ってきた花見の衣装を出しました。
幸子は、雪子は黙っていても自分の思うことを通さないといけない人で、今に夫を持っても、言いなりにしてしまうだろうと可笑しがりました。
京都の花見が済み、四月の中頃に雪子は東京に帰って行きました。