谷崎潤一郎『細雪』(中巻)の詳しいあらすじ

谷崎潤一郎作『細雪』の中巻のあらすじを詳しく紹介するページです。ネタバレ内容を含みます。

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洋行を希望する妙子

 盛りの時期を越した庭の花を幸子がむしっていると、お春がやって来て、奥畑が訪れて来たことを知らせました。
 三十一、二歳になっていた奥畑は、以前より肥満し、紳士らしくなっていました。しかし幸子は、奥畑が花街に出入りするようになり、昔のような純粋な青年ではなくなったことを貞之助から聞いており、妙子にも問いただしてみたことがありました。その時妙子は、奥畑は祖父の代から遊女を呼んで遊ぶ性質があり、自分との結婚問題が進まないことからそちらの方へ足が向かうこともあるかもしれないが、国家の非常時にそのような遊びは不謹慎でもあるので、自分から辞めるように忠告しておこうと言いました。それを聞いた幸子はしばらく安心していましたが、ひと月ほど前に奥畑が女給と酔って歩いているのを見かけ、彼が普段から享楽を行っていることに気づきました。
 奥畑は、近頃妙子が人形製作を後々弟子に譲り、洋裁の方を専門にやりたいと思っているということ、そのためにフランスで修行をしたいと言い出しているということを語りました。妙子は、すぐに世間から飽きられる人形よりも、実用的な洋裁の方が需要がなくならないと考えているようでしたが、奥畑は、もうすぐ自分と結婚する彼女が、金に心配のないことを分かっていながら、芸術としての人形製作でなく、職業婦人のようなことをしようとすることに納得できないようでした。
 妙子に洋裁の習得を思い止まらせるよう頼まれた幸子は、奥畑が夫のような口の利き方をするのに反感と滑稽を覚えながら、彼女に聞いてみることを約束しました。

 幸子は、近頃忙しくしている妙子が出かける前を見計らって、奥畑に聞かれたことを問いました。
 妙子は、人形製作のような少女じみたことではなく、この戦時下で実生活につながりのある社会的に有意義なことをやりたいと考え始めたようで、これまでも服を作っていた自分であればすぐに一人前の腕になれるという自信があるようでした。
 幸子は、妙子が奥畑に愛想を尽かし、時期を見て彼との間を解消するために、自活の道を模索しているのではないかと考えました。しかし妙子は、奥畑が典型的な船場のぼんぼんで、下らない男であることを知りながらも、以前恋をした因縁を無下にすることはできないと言いました。奥畑商店の重役であり、長兄から分けてもらえる動産や不動産もある奥畑が、世間を甘く考え、ゆくゆくは財産をなくすことは容易に予測でき、妙子はそのようなことになった時に自分が食べさせていけるだけの職業を身につけようとしているのだと主張しました。彼女は本家からの仕送りがなくてもやっていける見込みがあるので、父親が残した自分の結婚資金をフランスへの修行の費用に当ててほしいと思っており、その旨を幸子の方から本家に伝えてほしいと頼みました。また奥畑に対してはフランスから帰るまで待つようにと言い聞かせ、結婚後も自分の財産には手をつけさせないつもりなので、幸子たちには構わないでおいてもらいたいと考えているようでした。
 幸子は、妙子がそこまで考えているのなら、余計な口出しはせず、その決心が本物であることを確かめた上で協力しようと約束しました。

妙子の舞

 妙子は方々からの注文に応えるために、人形製作は以前より熱心に行ないながら、毎日野寄にある玉置徳子女史の洋裁学校に通っていました。さらに舞についても、将来は名取の免状をもらい、一人前の師匠として活動したいと思っているようで、二代目山村さくと呼ばれる人の稽古場で山村舞の稽古も続け、東京の踊に圧倒されゆく上方の舞の伝統を世に顕したいという熱心な支持者によって組織される、神杉という弁護士の未亡人の家で行われる月一度のおさらい会にも出席しているようでした。
 妙子は、その会の幹事に頼まれて、六月の会場に即席の舞台を作り、蘆屋の家を貸すこととなりました。
 五十八歳で腎臓の持病があるおさく師匠は、滅多に出稽古に出るようなことはありませんでしたが、廃れゆく山村舞を挽回させたいと考えており、良家の娘でありながら熱心に稽古に励む妙子のために毎日蘆屋に出向いて稽古をつけてくれることになりました。
 すると悦子も習いたいと言い始め、月に十日ほど、おさく師匠に手ほどきを受けることになりました。

 妙子は、「雪」を披露することとなりました。新しく衣類を調えることは差し控え、鶴子が婚礼の時に用いた三枚重ねのうちの一番下のひと重ねを着て日本髪を結いました。
 見物にはローゼマリーとフリッツが最前列に、外のテラスからは二人の母親であるシュトルツ夫人が訪れました。
 悦子は、その会のご愛嬌に、「弥生は御室の花ざかり」を舞いました。
 その会に、板倉という名の写真屋が入り、撮影を始めました。板倉は、もともとは奥畑商店の丁稚で、ロサンゼルスで五、六年写真術を学び、帰朝後、奥畑から資金を出してもらい開業したスタジオを経営する写真館の主人でした。開業後、彼は妙子が自分の制作品の宣伝のための写真を一手に引き受けるようになり、薪岡とも親しく交際するようになりました。
 妙子は撮影を終えると、板倉に裾を持たせながら階段を降り、「雪」を舞い始めました。

阪神大水害

 その舞の会のひと月後の七月五日の朝から豪雨となり、阪神間に記録的な惨事をもたらした大水害となりました。
 その日の朝、悦子はお春に付き添われながらいつものように雨の中を学校に出かけて行きました。
 お春は悦子を送った後、蘆屋川の水が端に届きそうになっているのを見ました。それから十分か二十分後、妙子が本山村野寄の洋裁学校へ出かけました。
 サイレンの音が鳴り始め、お春が飛び込んできて、水がこの家の一つ東の辻まで迫っていて、山の手から海の方へ流れているということを貞之助に知らせました。
 お春は悦子の学校の方まで行こうとして、蘆屋川の上流で山崩れがあり、川の近くでは家が潰れ、人が死んでいるということを自警団の主人から知りました。それを聞いた貞之助は、お春の助言に従い、水が流れている東の方へは向かわずに、南の方へと迂回し、水に浸かりながら悦子のいる小学校の方へと向かいました。お春も貞之助の後を追いました。
 幸子は、蘆屋川駅前のガレージの運転手に会い、小学校の様子を尋ねました。運転手によると、小学校は高い位置にあり安全なようでしたが、蘆屋川よりも住吉川の氾濫の方が酷く、西の方へ行くと濁流の海のようになっているようでした。運転手は、住吉川の近くにある洋裁学校に行く妙子とすれ違っていたようで、妙子が着く頃に水が出たかもしれないと言いました。
 妙子の安否を幸子が心配していると、隣のシュトルツ夫人が顔を出して呼びました。ペータアとローゼマリーは、神戸の山手にあるドイツ人クラブ附属の独逸小学校へ通っていましたが、シュトルツ氏は二人の身を案じ、神戸方面に出かけているようでした。
 応接間へ戻ると、貞之助とお春が悦子を連れて戻りました。二人は、学校の二階に避難していた悦子を引き取り、貞之助が悦子を背負い、腰まで水に浸かりながら帰ってきたのでした。幸子は、悦子の無事を喜ぶ余裕なく、妙子の身を案じて泣きだしました。

 住吉川周辺では、濁流が渦巻き、多くの死傷者が出ているようでした。
 関東大震災に東京に居合わせたことがある貞之助は、このような時の風説がいかに信用ならないかを知っていたので、幸子を宥め、向こう水なことはしないと約束して、お春に留守番を任せて妙子の行方を探しに出かけて行きました。
 本山駅へとたどり着くと、駅の構内にも水が浸水していました。貞之助は駅で一服し、線路を進んで歩きました。鉄橋を渡ると海のように川が氾濫しており、貞之助はその光景に茫然と見惚れました。
 貞之助は甲南学校の生徒たちと道連れになり、水に浮かび上がっている枕木を飛び越えながら進みました。すると列車が立ち往生しており、その窓の中から学校の生徒たちがこちらを呼び、この先へ行くのは危険なので、上がって来るようにと言いました。貞之助は仕方なくその汽車の中に乗り込みました。その列車には、さまざまな人が避難していました。
 やがて本山駅と汽車の間の線路は水に没し、貞之助たちの乗る六七尺ある高さの線路の土手も浸水し始めました。前の車両にまで水が上がると、車掌は一つ後ろの車両に移るよう、乗員を誘導し始めました。自分はいざとなればなんとかなるだろうと高を括っていた貞之助は、目と鼻の先にいるはずの妙子のことを気にしながら、一心に外を見守りました。すると水がひき始め、学生たちが外へと逃れました。貞之助は彼らの後に続き、濁流に飲まれそうになりながら、甲南女学校と目と鼻の先にある電信柱に抱きつきました。すると女学校の門の扉から熊手のようなものを差し出してくれた人がおり、貞之助はそれに捕まって門の中に引きずり込んでもらいました。

 一方、午後三時ごろになってようやく雨が止み、青空がのぞき始めた頃、幸子は泥まみれになって帰宅するであろう夫たちのために、風呂を焚くように命じました。悦子はお春と水を見物に出かけ、近所の下男や女中が水を貰いにくる他は、家の中はひっそりと静まり返っていました。
 四時ごろ、音やんの倅の庄吉が仕事先の大阪から見舞いに訪ねてきました。庄吉によると、妙子の通う洋裁学校の向かいにあるアパートの前には多くの死骸が流れついているということをようでした。幸子はその話に心を痛め、最悪の場面を想像せずにはいられなくなりました。
 庄吉は、幸子が気を揉むのを見て、様子を見てこようと申し出、家を出て行きました。
 そこへ妙子を心配して度を失った奥畑がやってきました。日ごろはよそよそしい態度を決め込んでいた幸子も、この日ばかりは彼を家にあげてやりましたが、この機会を利用して自分達の家庭に取り入られるのではないかと考え、夫や妙子が帰ってこないことを手短に話すと、自分は二階に上がりました。
 幸子は、応接間を覗きそうになる悦子を勉強するようにと六畳の部屋に押しやり、往来を眺めていると、シュトルツ氏が、神戸へ行く道で出会ったペータアとローゼマリーを連れて帰ってきました。幸子は、三人がそれほど服も汚れずに戻ったのを見て、夫が困難に巻き込まれているのではないかと、余計に心配になりました。
奥畑は野寄の方へと行ってみると申し出ました。幸子は、妙子のことで親身になってくれる人であれば、誰でも感謝したい気持ちになっており、奥畑にも涙を見せました。
 奥畑が出て行くと、幸子は気分を落ち着けるように椅子に座りました。夕飯の時間は既に過ぎており、悦子だけ先に食べさせるようにとお春に言いつけました。悦子はこのような時に母につきまとうと叱られることを知っていて、宿題が終わっても部屋にこもっていました。
 幸子は二階の妙子の部屋に入り、額に嵌っている四枚の写真を眺めました。それは六月五日の郷土会の時の「雪」の写真で、板倉が妙子にさまざまな注文をして、光線の効果にも苦心しながら撮った傑作でした。幸子は、その日に妙子が上手に舞ったことを思い出し、ちょうどひと月前にこのような盛装で写真を撮ったことが不吉にも思われました。末っ子に生まれ、誰よりも世故に長けた妹を、雪子を不憫に思うあまりに疎んじるようなことがあったことを幸子は思い出し、もし妙子が生きて帰れば洋行にも行かせ、奥畑とも一緒にさせてあげようと考えました。
 そこへ、泥だらけになった貞之助が、妙子と庄吉を連れて戻りました。妙子は、朝とは異なった銘仙の一重を着ており、幸子を見るなり緊張が緩んだせいか泣き出しました。

 妙子は、板倉に助け出されたという経緯を語り始めました。
 その日の朝、八時四十五分に家を出た彼女は、バスに乗り、九時ごろ洋裁学校に入りました。学校は休みということになったものの、妙子は洋裁学校の経営をしている玉置女史に誘われて、学院の隣にある家でコーヒーを飲みました。そこへ一時間で学校が休みになった玉置女史の息子の弘が帰り、水が迫っていることを伝えました。すると瞬く間に水が室内に侵入し、三人は協力して扉を閉めて堰き止めました。しばらくは面白半分に水の侵入を楽しんでいた三人でしたが、水が胸の辺りまでくると、真剣な顔つきになりながら、ピアノとテーブルの上に立ちました。窓の外は激流が流れており、脱出することもできませんでした。やがて水面から首から上だけを出しているだけの状態になると、妙子は自分達が死ぬであろうと考えました。
 すると妙子の部屋の頭の上で人が歩くような音がして、屋根の上から隣の藤棚の上に飛び移った人影が現れました。その人影は藤棚に捕まりながら水に浸かり、窓に片手に届かせようとしました。間もなく妙子は、その人影が板倉のものであることに気づきました。妙子はおろした窓から上半身を乗り出して板倉に捕まり、藤棚の上に救助されました。周囲に広がる海のような光景を見た妙子は、まだ部屋の中に玉置女史と息子がいることを伝えました。すると板倉は流れてきた丸太を藤棚から窓の中に押し込んで橋を作り、部屋の中でカーテンを引き裂いて紐を作り、玉置女史と弘を救い出しました。
 三人と板倉は、藤棚から屋根の上に逃げました。ここにいた理由を質問すると、板倉は、その年に山津波が起きるという予言があったのを知っていて、その日は朝から水が出るような予感がしており、様子を見るつもりで住吉川の辺りまで出かけてきたようでした。彼は野寄の方まで出てきたところで水難に遭い、妙子が洋裁学校に来ていることを思い出し、濁流の中を駆けつけました。そして激流の中に飛び込んで校舎の屋上へと渡ると、玉置女史の女中が家の屋根から仕切りに手を振っているのを見かけ、妙子が家の中にいることを知らされ、再び激流の中で溺れかけながら救出に向かったのでした。

 その時、貞之助は、逃げ込んだ甲南女学校で午後三時ごろまで休ませてもらい、水が引いてきた時を見計らって洋裁学校へと向かい、玉置女史の住宅の屋根にいる妙子たちを見つけました。妙子や玉置女史はひどい恐怖に取り憑かれており、また自身も疲れ果てていたため、貞之助は一時間ばかり仰向けに倒れこみ、四時ごろになってようやく帰路につきました。そして流れの変わってしまった住吉川を渡っている時に庄吉と出会い、板倉に誘われて彼の家で一時間ほど妙子を休ませてもらいました。妙子は板倉と一緒に住んでいた妹の銘仙の単衣を借り、家へと帰りました。
 その後奥畑は板倉の家を訪ね、妙子が救い出されたことを知ると、蘆屋へは戻らず、翌日自分の代わりに妙子を見舞ってほしいと板倉に頼んで大阪に帰っていったようでした。
 その翌日、奥畑の命令通りに板倉が訪れて来ると、妙子は改めて昨日の礼を言い、危険であった時のことを語り合いました。

雪子の帰郷、薪岡と懇意になる板倉

 阪神間は、至る所に土砂が堆積し、人々は埃っぽい往来を歩かなければなりませんでした。水害を新聞で知って心を痛めた雪子は、貞之助からの電話で家族の無事を知らされましたが、九死に一生を得た妙子の顔を見るため、また荒らされた蘆屋の町の有様を見るために二ヶ月ぶりに東京から戻りました。
 雪子は、ひっそりとした家にたどり着き、シュトルツ氏の家でローゼマリーと遊んでいる妙子の声を聞きました。その頃、暑中休暇になった悦子は、毎日のようにシュトルツ氏の子供たちと遊んでいました。ペータアやフリッツがいるときは、悦子もローゼマリーもフランスを敵国に見立てた戦争ごっこに加わり、西洋間の家具の飾り付けを動かして女中たちを困らせました。
 幸子、雪子、妙子は、西洋間を子供達に明け渡し、昼間は食堂の西にある涼しい六畳の日本間でごろごろしていました。妙子は水害から元気がなく、洋裁学校も休みとなっていて、夙川のアパートにも滅多に出かけませんでした。
 板倉は、水害の写真のアルバムを作ると言ってそこらじゅうを見て回っているらしく、薪岡にもよく顔を出し、水害の被害を伝えにやってきました。彼は三人の姉妹や悦子を車に乗せて海水浴に連れていき、日増しに薪岡と懇意になりました。ぞんざいな態度ではあったものの、話が面白くて愛嬌があり、用を頼めば引き受けてくれるので重宝し、姉妹たちは、悦子の世話や、家に入り込んだ蜂を追い出したりするのを板倉に任せました。

おさく師匠の死

 六月から体調を崩していた山村のおさく師匠が、腎臓病を悪化させて入院したという知らせが妙子に届きました。幸子は、出稽古に来てもらったことが体に障ったのではないかと気に掛かりながら、妙子を師匠の入院する大阪へと向かわせました。
 妙子によると、師匠は七月三十日にあるお嬢さんに名取を出すことになり、紋付を着けて盃事を行い、その翌日に倒れました。昏睡状態で妙子が挨拶しても分からない様子で、舞に関係した譫言ばかりを漏らしているようでした。
 幸子と妙子がもう一度見舞いに行くと、その五、六日後に逝去の知らせが届きました。
 幸子と妙子は、悔やみを述べるために師匠の家に行きました。そこは大阪で由緒正しい山村流の伝統を伝える家柄とは思えないような、侘しい長屋のような家でした。その落魄とも言える暮らしぶりは、おさく師匠が初代から受け継がれた舞の型を崩すことを嫌い、芸術的良心に忠実であったが故に、時代に順応することができなかったためでした。
 芸者時代に落籍されたこともあったものの、夫も子もなく、家庭的にも恵まれなかった師匠の葬儀は、近親者もおらず、少人数で営まれました。比較的最近師匠と親しくなった妙子は、集まった人々が故人を偲ぶ色々な話を聞きました。師匠は稽古に熱心で、上方の舞が時勢に取り残されているのを見てじっとしておられず、東京へ打って出ようという考えがあったようでした。
 師匠の死によって、妙子の名取にしてもらおうという望みは、断たれることとなりました。

シュトルツ氏とペータアとの別れ

 日中戦争で神戸の店の利益が上がらなくなったため、シュトルツ家がドイツに帰ることになりました。
 シュトルツ夫人は、幸子のような素晴らしい隣人と別れなければならないのを惜しみながら、夫とペータアが今月のうちに出発してアメリカ経由で帰国し、自分はローゼマリーとフリッツを連れて来月マニラへ渡り、そこにいる病気の妹の家に滞在し、その子供を連れて欧州に発つことを伝えました。
 シュトルツ氏とペータアは、八月の下旬に横浜を出発する船で帰ることが決まっているようでした。

 悦子は、七月の末あたりから再び神経衰弱と脚気の気味があったため、東京の大家に診てもらおうとしており、本家に顔を出すことも兼ねた東京見学に、幸子と雪子と妙子の三人で行くつもりでした。しかしおさく師匠の病気で東京訪問が遅れ、また幸子が地蔵盆に鶴子の代理で上本町の寺に行かなければならないので、ペータアとシュトルツ氏の出航を横浜まで見送りに出ることもできませんでした。
 そこで薪岡ではペータアの送別会を開き、その後行われたシュトルツ家で開かれたドイツの子供たちを集めたお茶の会には、日本人で唯一悦子が呼ばれました。
 その翌日、ペータアは一人で薪岡に挨拶に来て、寄港地のアメリカで悦子に何か買ってあげたいと申し出ました。靴を送ってくれるように頼むと、ペータアは悦子の足の型の寸法をとって帰っていきました。
 八月二十二日、悦子は雪子に連れられて、三宮までシュトルツ氏とペータアを見送りました。その夜の食卓の席で、悦子はペータアが自分との別れを惜しみ、東京まで来てほしいと言っていたことを話しました。幸子はその話を聞き、横浜まで行ってあげなさいと言いました。幸子は二十四日の地蔵盆を済まさなければ行けないので、悦子と雪子は先に東京へ向かい、横浜で降りてペータアを見送り、東京見物をしながら渋谷の本家で待ち、二十六日頃幸子と落ち合うことに話が決まりました。雪子は、七月から二ヶ月ほどは蘆屋にいる腹づもりでやってきたので、内心しょげながらも、東京に行きたがる悦子のために身支度を始め、特急券を買いました。
 列車は、朝七時に大阪を発ち、三時過ぎに横浜に着くので、二、三時間はペータアとシュトルツ氏に会う余裕がありそうでした。
 翌日、悦子と雪子は蘆屋駅から旅立って行きました。

幸子の東京訪問

 幸子は二十七日のかもめで東京に行くことを決め、貞之助の世話を妙子に任せ、いろいろと重宝しそうなお春とともに旅立ちました。
 雪子と悦子は、本家の長男の輝雄と共に東京駅へと迎えにやってきました。悦子と雪子は、船の甲板で待ち受けていたシュトルツ氏とペータアと落ち合った後、東京見物を提案し、桜木町を出発して丸の内界隈を案内し、東京駅で彼らと別れたようでした。

 幸子は、悦子が生まれてからの九年間は、全く東京を見ておらず、新橋から東京駅の間に現れる高層建築の景観に、多少の興奮を覚えないでもありませんでしたが、青山から渋谷へと抜ける道は寒々しく、道ゆく人の顔つきは冷たく感じられ、東京という土地によそよそしさを感じました。
 道玄坂を登り切ったところにある閑静な住宅街に入ったあたりで、鶴子の子供の秀雄、芳雄、正雄が幸子たちを出迎えました。鶴子の住居は、見るからに粗末な借家で、子供たちのために足の踏み場もないくらいに散らかされていました。それでも所帯疲れした様子もなく、嗜みを忘れない鶴子を見て幸子は感心しました。
 幸子はしばらく姉の家に厄介になって積もる話をするつもりでいましたが、まだ学校に行っていない三人の子供たちのため鶴子の手が空く時間がなく、また鶴子が子供たちに手を上げるのを悦子が怯えたように見ることが増えるにつれ、貞之助の勧めた浜屋という旅館に移ることを考え始めました。浜屋の女将はもともと大阪で仲居をしていた人で、幸子の娘時代からの顔見知りでもありました。
 しかし鶴子や辰雄がなにかともてなしてくれるため宿を移るということも言いだしづらく、櫛田医師が紹介状を書いてくれた杉浦医師が旅行中であったこともあり、幸子はその診察が済みさえしたら一刻も早く関西に発ちたいと思いながら、八月いっぱいを渋谷で暮らしました。

関東大暴風

 九月一日のこと、震災記念日であったことから、この間の山津波で妙子が遭難し、板倉という写真師によって助け出されたことを語った夜、猛烈な台風が関東を襲い、幸子は生まれてはじめてと言うほどの恐怖を経験しました。停電の中、幸子、雪子、悦子の三人は風が強くなるにつれ、お互いにしがみついて抱き合いました。
 この渋谷の安普請が倒壊するのではないかという恐れを抱いていた幸子は、輝雄の勧めに従って一階に降り、その途中で家の柱と壁の隙間が一二寸離れるのを目撃し、階段を駆け下りました。
 一階で四人の大人と七人の子供がうずくまりながら恐怖に耐えていると、輝雄は、裏の塀向こうの頑丈な平家に住む、同じ学校に通う息子がいる小泉さんのところへ避難しようと言いました。お春は、お久に案内を頼んで小泉さんのところへ行き、避難してきてもよいという許可を得て戻りました。留守番をすると言った辰雄を除いた輝雄、哲雄、幸子、雪子、悦子がお春と一緒に避難し、お春が一人戻って正雄と芳雄と秀雄を運びました。鶴子は梅子を背負い避難しました。お久も逃げてしまったので、三十分ほど後になって、辰雄がバツの悪そうに小泉さんの宅へ入ってきました。小泉宅は、家が潰れないだろうかという懸念が起こりようもないほどしっかりしていました。
 そして薪岡家の人々は、明くる朝の四時ごろ、風が収まるのを待って家へと戻りました。

浜屋滞在

 翌朝、自身の中に恐ろしい昨日の記憶が残っており、怯え切って神経過敏になっている悦子の様子を見た幸子は、大阪の夫を急報で呼び出し、築地の浜屋へ部屋を申し込んでくれるように頼みました。すると部屋を用意しているという電話が入ったため、幸子はお春を置いて悦子とともに浜屋へと移りました。
 悦子と二人で旅先の宿に泊まることが初めてで、昨日の記憶が思い出された幸子は、容易に眠ることができませんでした。悦子もなかなか眠れず、蘆屋に帰りたいと駄々をこね、それでも朝になってからようやく眠りました。
 幸子は廊下に出て籐椅子に腰掛け、新聞を読み、築地川の両岸の人通りを眺めながら、早くも九月に冷え冷えとしてくる東京の肌寒さを感じました。旅行に出ている杉浦医師の診察までのあと四、五日を過ごすため、どのように過ごすべきかと考えていると、十時ごろお春から電話があり、鶴子が訪れてくるという知らせが入りました。幸子は悦子をお春に預けて、鶴子と二人で久々にゆっくり食事を取ろうと考え、父親と以前訪れたことのある鰻屋の部屋を女将に申し込んでもらいました。
 鶴子とともに鰻屋に入った幸子は、この辺りの大阪に似た景観について話しました。鶴子は、自分の使っているお久と同じ歳のお春を仕切りに褒め、放さないようにと忠告を与えました。
 お春は交際上手で如才なく、気前が良いために近所でも評判の女中でしたが、来たばかりのころは非常に手のかかる娘でした。洗張屋の張惣の主人が十五になるお春を置いてくれと頼みに来た時に、幸子は目鼻立ちが可愛らしいので使ってみる気になりましたが、ひと月もしないうちにこの娘が持て余し者であることに気づきました。ものぐさな性格で、入浴や洗濯が嫌いだったため、彼女の不潔な衣服を洗濯したり、虱を移されたりしたほかの女中たちが悲鳴をあげ、幸子は尼崎に帰したことが何度もありました。しかしそのたびに父親と母親がやってきて、嫁に行くまでは家に置いてやってほしいと頼み込みました。その結果、足かけ六年にもわたり薪岡に止まることになったお春は、こっそりと幸子たちの化粧品を使い、顔だけは綺麗にしているようでした。つまみ食いが好きであることや、按摩をさせても十五分も経つと眠りこけてしまうこと、再三火事を起こしそうになったこと、使いに出すと方々で油を売るために時間がかかることといったお春の有様を幸子が語ると、鶴子は可笑しな娘だと言いました。子供を助けてもらったことで、お春にすっかり打ち込んでいた鶴子は、彼女とお久を日光見物に行かせてやったらどうかと提案しました。
 幸子が、鶴子の計らいにまかせようと考えていると、浜屋宛に速達が届きました。
 その手紙は、妙子と板倉の関係を疑う奥畑からのものでした。水害の時、板倉が妙子の救助に駆けつけたこと自体が不自然で、それ以前から洋裁学校に出入りしていたこともあり、板倉が妙子と連絡を取り合っていたという確かな証拠もあるようでした。このことで妙子や板倉を詰問しても、二人とも口を割りませんでしたが、妙子は奥畑を避けるようになり、夙川へ顔を出すことも減り、板倉の方は毎日のように薪岡に通って妙子を海水浴へ連れ出しているということを奥畑は知っており、板倉に妙子の写真撮影も禁じたようでした。
 板倉は、アメリカを渡り歩き、手づるを求めてどこの家庭にも入り込み、金を借りたり女を騙したりすることには定評があるため、奥畑は、彼と妙子との間を遠ざけることが先決問題であると幸子に促しました。

 不意の手紙であったため、幸子は気を落ち着けるのに難儀し、自分達が板倉に気を許しすぎていた側面があったかもしれないと考えました。妙子が丁稚上がりの板倉に応じるなどということは考えられず、また奥畑の手紙も根拠もないものでしたが、板倉の妙子に対する献身的な奉仕や、命を助けてもらった妙子が板倉に抱いたであろう感謝の念を想像しながらも、これまで幸子は深く突き止めようとはしていませんでした。そのようところに突きつけられた奥畑の手紙は、幸子を狼狽させるものでした。
 幸子は、悦子や雪子を連れて東京にきた自分が、妙子と板倉が近づく原因を作ったようなものだと考え、悦子の診察が終わり次第、帰る手筈をする必要を感じました。

 幸子は展覧会へ行く興味を失いながら、訪れてきた雪子とともに上野へ出かけ、夕方の六時ごろ宿へ戻りました。そして日光から戻ったお春に言いつけて、杉浦博士の家を呼び出してみました。すると杉浦博士は、今しがた旅行先から帰ったところで、翌日の六日には自宅の方に来てもらえれば診察するという返事をよこしました。幸子は翌日の午前中に悦子を診察させ、その日の晩に帰ることを決めました。
 雪子は、幸子がそれほど早く帰ることに驚きましたが、幸子は悦子の学校が始まっていることを口実に、翌日の午後に買い物に出かけることを約束し、鶴子や辰雄には宜しくと伝えてもらうように頼みました。
 翌日、幸子は本郷西片町にある杉浦博士を訪ねて診察を受け、浜屋に戻ってお春と雪子と落ち合い、日本橋や銀座界隈で買い物と夕食を済ませて東京駅へ向かい、見送りに来ていた鶴子と五分ほど話して、午後八時半の寝台車に乗り込みました。
 鶴子と幸子は、来年は厄年にあたる雪子の縁談をなんとか決めてしまいたいと話し合いました。
 寝台に乗り込んだ幸子は、別れ際に涙を溜めていた鶴子と雪子を思い出しながら、十一日間という慌ただしい滞在に疲れ果て、眠れない頭の中で帰宅後に待ち受けている厄介な問題を憂慮しました。

妙子を問いただす幸子

 悦子は一日だけ休んで、翌日から学校に通い始めました。幸子は二、三日経っても疲労が取れず、秋の忍び寄る家の庭を眺めながら過ごしました。
 妙子は、夏じゅう休んでいた製作の仕事を始めようと思いながら、留守中は外出を控えていたようで、幸子が帰った翌日から夙川に通い始めました。
 板倉は、妙子の不在の時にやってきただけで、二、三十分幸子の相手をして帰っていきました。妙子の態度に何の変化も見られないことから、幸子は段々と疑念が薄らぎ、東京であれほど慌てたことが可笑しくさえ思えるようになってきました。
 帰ってきてから一週間ほど経ったころ、妙子が二階の自分の部屋に入ったところへ、幸子は奥畑から届いた手紙のことを切り出しました。
 その手紙を読んだ妙子は、板倉に嫉妬する奥畑が幸子に言いつけると脅してくるだけで、板倉には感謝こそしているものの、全く問題にはしていないので、奥畑の言うことなど相手にしないでほしいと言いました。妙子はそのことが原因で奥畑と諍いを起こし、わざと会う機会を与えなかったのが、奥畑があまりに気を揉むために可哀想になり今月の三日に久しぶりに会ったところ、証拠があると言って妙子をなじり、板倉との絶交を求めたようでした。妙子は恩人である板倉との絶交を拒絶するかわりに、彼があまり蘆屋を訪れてこないように仕向け、宣伝写真を頼まないようにすることなどを約束しました。
 それを板倉に伝えたところ、板倉の方も同じような約束をさせられていたことが分かりました。
 妙子は、板倉が自分を助けたのは、恋心によるものかもしれないということに気づいていました。しかし彼女は、板倉が一線を超えてこようとしない限り、知って知らないふりをしていればよいと考えていたのに、奥畑の嫉妬があったために、板倉と会うことを避けるようになったというのでした。
 妙子は、玉置女史から、半年ほどのヨーロッパ遊学に誘われているようで、その許可を貰うことができるのかと幸子に聞きました。
 幸子は、板倉や奥畑を妙子から遠ざけるのに洋行させるのも良いのかもしれないと考えており、戦争が始まりそうなヨーロッパにも、玉置女史がついているのであれば考えることができると思いました。
 妙子は、貞之助や本家を説きつけてくれるように幸子に頼みました。

シュトルツ夫人、ローゼマリー、フリッツの出航

 シュトルツ夫人がローゼマリーとフリッツを連れて、マニラに出航することになりました。悦子は東京から戻ると、ローゼマリーと毎日のように遊び、名残を惜しみました。
 シュトルツ夫人は、夫が出発した後、残りの荷物の整理や家財道具の処分で忙しいそうに立ち働いていました。家ではアマと呼ばれる外国人の家で働く女中がいました。夫人は、以前の優秀なアマに暇を取られてしまった経験があるほど厳しく接していたものの、情愛の深い人物でした。
 幸子は、彼女のような人物を隣人に持ったことを幸せに感じながら、もっと親密な付き合いをしておけばよかったと考え、ドイツの家に日本間を作るという夫人のために帛紗を送り、ローゼマリーは、悦子に人形とその乳母車を、悦子は自分の舞を舞ったときの写真と振袖を送りました。
 翌日乗船という日になって、ローゼマリーは悦子の部屋に泊まりました。二人は明け方まではしゃぎ回り、貞之助は一睡もできませんでした。
 出帆の当日、夜七時に悦子は幸子や妙子と共に花束を持って埠頭へ行き、早くから乗船していたシュトルツ夫人の船室を訪ね、ローゼマリーに案内されて贅沢な船内を見て回りました。船室では幸子とシュトルツ夫人は別れを惜しみ、涙を流しました。
 船が埠頭を離れ、人の見分けがつかなくなっても甲板から「エツコさあん」と根気よく叫び続けるローゼマリーの声が聞こえました。

 翌月、十月十日ごろ、シュトルツ夫人が寄港地のマニラで書いた英文の手紙が薪岡の家に届きました。
 その手紙の中には、子供たちが薪岡で愉快に過ごしたことへの感謝、夫とペータアがハンブルクへ着いたこと、マニラの奇遇しているところには八人の子供がおり、ローゼマリーが一番年長であること、ヨーロッパの戦争が終わったら訪れてきて欲しいということが書かれていました。
 幸子は、以前紹介されたことのあるヘニングというドイツ人の奥さんになっている人に蘆屋川の堤防で出会い、英語もドイツ語も書けるその人の娘に翻訳を引き受けてもらい、返事を書きました。
 その直後、ペータアがアメリカで手に入れた、悦子のためのエナメル革の靴が届きました。しかしその靴は寸法を測ったにもかかわらず、悦子には小さすぎて入りませんでした。
 妙子は、方々から注文を受けている人形の製作を洋行までに仕上げるため仕事部屋に通いながら、玉置女史の紹介で、パリに六年いたことのある洋画家別所猪之助氏の夫人に、フランス語の会話を習っていたため、ほとんど昼間家にいることがありませんでした。
 悦子は、ローゼマリーの代わりに学校で気の合う友人を急に見つけることもできず、寂寥に堪えない様子でした。
 その年は、春に雪子の見合いがあり、六月に舞の会があり、その直後に妙子の遭難、おさく師匠の逝去、シュトルツ一家の帰国、東京行き、関東大暴風、奥畑からの手紙など、事件が多かったのが一度に静かになったので、淋しいことの嫌いな幸子は、自分の生活が、家庭に華やかさをもたらしていた雪子や妙子といかに密接に結びついているかを感じないわけには行かず、この二人の妹がいなくなって初めて、他に交際がないことに気づきました。
 そのような妻の様子を見た貞之助は、新聞の園芸欄を覗き、鏡獅子が出る菊五郎を見に、悦子と幸子を連れて出かけました。その夜、鏡獅子の後の幕間に、その日が流産してしまった子供の十月を迎える日だったことを思い出した幸子は、涙を流しました。

妙子の告白

 十一月の上旬になり、貞之助が二、三日東京へ行くことになると、妙子は将来職業婦人として洋裁で身を立てるために洋行の許可を貰って来てほしいと頼みました。

 貞之助は、鶴子にこれを伝え、鶴子はいずれ辰雄の意見を聞いた上で返事をすると言いました。しかし十日経っても返事は来ず、幸子から催促し、妙子と東京へ談判しに行こうとしていたところ、十一月三十日に返事が届きました。
 その手紙には、妙子は新聞の事件について引け目を感じるに及ばないため、職業婦人になろうと考えるのは僻みすぎだということ、また妙子の名義になっている金があるわけでもないので、理由の如何を問わずに出せる金もなく、妙子には将来は正式に結婚してほしいとの答えが書かれていました。また花柳界に出入りするようになった奥畑とのことは時々交際するくらいは良いものの、今のところ白紙にして置きたいということでした。
 幸子は貞之助に相談の上で、妙子にその手紙を見せました。もとから本家に悪感情を持つ妙子は、職業婦人を家から出すまいとする辰雄たちの考えを旧弊な偏見とし、自分の身の振り方について辰雄たちの指図は受けない、また将来自分に与えるべき金を辰雄が預かっているのは知っているので、その取り分は取ってみせると、泣いて憤りました。
 幸子は本家に楯突こうとする妙子をなだめました。妙子の方にも本家に楯突こうとする勇気はないようで、二、三日するといつもの落ち着いた様子を見せました。

 十二月の中旬ごろ、妙子はフランス語の稽古を辞め、洋行も辞めたと言い始めました。水害の程度が予想以上に酷く、洋裁学校の建て直しをしなければならなくなっていた玉置女史が、六甲に新しい洋館を手に入れてすぐにでも経営したくなったためと、女史の夫が彼女のヨーロッパ行きを心配したため、洋行を取りやめたのでした。
 それでも妙子は、今回のことで本家の仕送りを断って自立しなければならない必要をより一層感じることになったので、自分が洋裁師になることは辞めるつもりはなく、板挟みになりそうな幸子に、何も知らなかったことにしてほしいと言いました。

 妙子が洋裁を習ったり、洋行したりすることは、奥畑との結婚を本気で考えている行動とは思われず、幸子は反対に、彼女が奥畑の結婚を解消したいのではないかと考えるようになりました。
 板倉がふっつりと来なくなったことや、妙子の人柄や言葉遣いが柄の悪いものに変わってきたように思われることも、裏で特定の感化を及ぼす人間がいるようで、彼女の品の悪さが板倉のそれと通じているようでもありました。
 幸子は、亡き父親の全盛時代の恩恵を受けずに育ち、自分の力で貯金をするようになった妙子を不憫に思いながら、彼女がいつか問題を起こすような気がして、日頃疑問に感じている部分を正しておく必要を感じました。
年が改まると、妙子は幸子には知らせないまま洋裁学校に通い始めました。それに気づいた幸子は、ある朝出かけようとする妙子をつかまえ、奥畑と本当に結婚する気があるのかと問いただしました。
 妙子は涙を流しながら、奥畑が芸者や踊り子と関係し、子まで生ませていたことを語りました。奥畑は、それが知られると妙子に詫び、踊り子とは縁を切ったことを約束し、結婚の熱意が変わりないことを述べ立てました。しかし妙子は、奥畑のことを信用することができず、彼と離れてゆっくり考えてみたいと思い、洋行を志願したのでした。
 その頃阪神大水害が起こり、妙子は、命を危険に晒してまで助けに来てくれた板倉を見る目が急激に変わり、ズボンを汚すことさえ厭いながら、自分の顔も見ずに大阪へ帰った奥畑には愛想を尽かすようになりました。しかし奥畑とのことで懲りていた彼女は、板倉に恋をしても盲目にならず、彼が丁稚上がりで、岡山の小作農の倅で、アメリカ移民特有の粗野な性格であることも考慮して冷静に考えた上で、どうしても彼と結婚するのが自分を幸福にする道であると考えたのでした。
 仕送りなしで一人でアメリカに渡り、写真師としての技能を身につけた強靭な肉体と勇気のある板倉のことを、妙子は親の脛をかじり続けている奥畑よりも人間としては格上であると考えていました。
 去年の九月、幸子が東京に行っている間に、奥畑に交際を差し控えるよう板倉が命じられたときに、妙子はこの意中を板倉に語りました。そのときには妙子の気持ちを悟っていた板倉も、そのようなことをすれば自分は奥畑に出入りできなくなり、妙子も本家や分家から見放されるようになるだろうと考え直しを促しながら、自分は奥畑家には世話になったものの、啓三郎には世話になっておらず、妙子と結婚すれば、啓三郎と妙子の結婚に反対している奥畑家からは感謝されるかもしれないと、申し込みを承諾しました。以来二人は、自分達が結婚の約束をしたことを秘密にしておこうと約束し、妙子は、奥畑が自発的に自分との結婚を断念するように仕向けるために洋行し、経済的に立ち行かなくなる可能性も考慮して洋裁学校に通い続けようという計画を立てました。
しかし玉置女史が洋行を取りやめ、自分も洋行することができなくなってしまったため、そばにいながら板倉に会うことのできない苦痛に耐えかねた妙子は、早く結婚をしてしまおうという考えを起こすようになり、そのために迷惑を被りそうな雪子の縁付くのだけは待たなければならないと考えていたのでした。
 板倉と結婚する度胸をすでに据えていた妙子に狼狽させられながら、幸子はその結婚を思いとどまるように説得しました。しかし妙子の決意は固く、雪子の結婚を待つことが最大の譲歩なので、早く姉の縁談をまとめてほしいと言いました。
 幸子は忿懣を覚えながらも、強いて妙子を押さえつけようとせず、雪子が縁づくまで気長に説得しようと考えました。
 その話を打ち明けられた貞之助は、奥畑と結婚するよりは、苦労に耐えられる頼もしそうな板倉の方がよいと考えており、また妙子は習慣的な方法ではなく、自分で好きな相手を見つけて結婚するようにできているので、干渉すべきでないと、この点に関してはあくまで自分は部外者でありたいという意見でした。幸子は、妙子のこのような行状が世間では既に知られているために雪子に縁談話がさっぱりと来なくなったのではないかと考えました。それとともに東京で侘しく暮らしている雪子に済まないと考えるようになり、また自分の妙子に対する不満を理解してくれそうな相談相手欲しさに、二月の下旬に大阪三越のホールで催される、妙子も出演するおさく師匠の追善の舞の会を口実に雪子を呼び寄せました。

雪子の帰郷

 妙子は舞をふっつりと辞めていましたが、おさく師匠の追善ということで、再び稽古へ行くようになっていました。
 紀元節の日の夕方、妙子が衣装をつけて洋間で稽古をしていると、雪子はやってきました。幸子は、衣装と鬘をつけた妙子の舞を雪子に見せるため、もう一度妙子に舞を舞わせ、この褒美として貞之助にその日の夕食を奢るように促しました。
 仕事で忙しくしていた貞之助でしたが、当日は妙子の「雪」だけでも見ようと、事務所を抜け出して三越へ駆けつけました。すると、満員の見物人の最後列で外套の襟を立てて顔を埋め、ファインダーに顔を押し付け、続けざまに妙子を撮っている板倉を見かけました。
 妙子は、出演が決定してから一ヶ月練習しただけであったにも関わらず、気後れすることなく舞い、貞之助は、その度胸に小憎らしさすら感じました。
 妙子の舞が終わった途端に板倉が急ぎ足で廊下へ出て行くと、その後から一人の紳士が追って出るのが見え、その紳士が奥畑であることに気づいた貞之助もすぐあとから廊下に出ました。奥畑は、板倉が妙子の写真を撮っていたことをなじりながらカメラを取り上げて、レンズの部分を引き伸ばし、力任せに床に叩きつけて、行ってしまいました。
 命よりも大切にしているカメラを壊されても、じっとこらえて下を向いていた板倉は、投げ飛ばされた写真機を拾い上げ、すごすごと立ち去っていきました。
 貞之助は、その夜、この一部始終を幸子に語り、このような争いごとが世間に知られる前に解決しておく方がいいだろうと話し合いました。

 それから二、三日後、妙子がこの間の舞の姿を写真に撮っておきたいと言って、その時の衣装を持って出かけたので、幸子は妙子が板倉のところへ行ったに違いないと雪子に切り出し、これまでの顛末を語りました。雪子は、幸子と同意見で、板倉と妙子との結婚に反対で、妙子に一度話してみることを約束しました。

 三人の姉妹がそろい、薪岡家は再び華やかさが戻りました。
 長らく空家になっていたシュトルツ家も、名古屋の会社の顧問をしているスイス人が新しく住み始め、家には、フィリピン人か中国人に見える妻が、アマとともに暮らしていました。
 ローゼマリーのような子供が来ることを期待していた悦子は失望しましたが、彼女には既に学校で親しい友人も増えているようでした。
 妙子は、板倉との結婚を断念するように説かれるのを避けるために、あまり家には寄り付かないようにしているようでした。しかし板倉よりも奥畑との結婚を妹に望んでいる雪子とは、意見を違えてはいても、仲違いをするようなことはありませんでした。

カタリナの旅立ち

 三月に入ると、幸子は流産した子供の一周忌であることを思い出し、涙を流しました。貞之助は、妻が時折このような悲しみの発作に襲われることを不思議に感じました。
 同じ月、カタリナ・キリレンコが、豪華船シャルンホルスト号に乗ってドイツに帰りました。
 貞之助や幸子を招待した後も、カタリナは度々妙子の仕事部屋に現れ、批評や指導を乞うていました。しかし、ルドルフというドイツ系会社の神戸支店に勤める男との交際のために、人形製作への熱意を減じ、その交際を通じてドイツが好きになり、彼の斡旋で、ベルリンにいる彼の姉のもとへ身を寄せることになったようでした。彼女は最終的には前の夫との間にできた娘のいるイギリスに渡る目的があり、ドイツへの滞在はその足がかりにするためのものでした。
 幸子と貞之助は、妙子とともにカタリナの見送りに行きました。幸子たちの他には、カタリナの母、兄、ウロンスキー、ルドルフらが駆けつけていました。幸子たちは、戦争中のヨーロッパへ娘を送り出す母の逞しさに感心しました。

 カタリナを見送った後、貞之助と幸子、妙子は、常連になっている生田前の与兵の暖簾をくぐり、カタリナがヨーロッパで金持ちの男を見つけて結婚すると言っていたことや、ルドルフとの別れがあっさりとしたように見えたことなどを語り合いました。妙子や幸子は、上方趣味の寿司を握るこの店の常連となっており、カタリナにもこの鮨を食べさせてあげればよかったと話し合いました。
 雪子は、他のお客と同じ速度で食べなければ気を悪くする店主に気兼ねしながら、まだ動いてる蝦をなかなか食べることができませんでした。

悦子の猩紅熱

 四月の中旬、貞之助と三姉妹と悦子は、例年通り京都へ行き、その帰りに悦子が高熱を出しました。櫛田医師が猩紅熱の疑いがあると診断をくだしたため、悦子は、離れになっている貞之助の書斎で、看護婦とともに療養することとなりました。
 伝染病を恐れないお春が悦子の部屋との連絡係を務めることになりましたが、消毒することを厭うので、結局は雪子がほとんど眠らずに自ら悦子の看護を行いました。一週間ほどで悦子の熱は下がったものの、体中にできた瘡蓋が剥がれ落ちるまでに四、五十日はかかるので、それまで雪子は東京へ帰るのを遅らせました。
 病気をうつされやすい幸子は、病室に入ることも控えるようにと言われ、手持ち無沙汰な日々を過ごしました。
 回復するにしたがい、退屈を訴えるようになった悦子が蓄音機を鳴らすようになると、シュトルツ邸に引っ越してきたスイス人の所から苦情が寄せられました。その苦情は、そのスイス人が住んでいる洋館の家主で、幸子の家から一軒置いて隣にあたる佐藤家を介してもたらされました。
 そのスイス人ボッシュ氏は、名古屋に勤め口があり、時たま蘆屋に帰ってきて滞在することもあるようでしたが、その一ヶ月前にも犬のジョニーの吠え声に苦情を言い渡していました。佐藤家の女中によると、非常に病身な神経質な人で、毎夜不眠症に悩まされているようでした。その上、ある日警察がやってきて、ボッシュ氏が本当にスイス人であるかどうかは疑わしく、妻に見える支那人の混血も、妻ではなくかりそめの同棲者であるということを伝え、不審なので怪しい素振りがあったら連絡してきてくれと頼みにきたこともありました。幸子は、その刑事の話を聞いてから、ボッシュ氏と関わり合いになることを避けるようになりました。
 悦子は、猩紅熱に免疫のある看護婦の「水戸ちゃん」とお春を相手に、毎日トランプで遊ぶようになりました。

妙子の上京

 五月上旬、小規模な婦人洋服店を開くことを考え始めた妙子は、辰雄にお金のことで談判するために、東京に行くと言いだしました。妙子が職業夫人になることに反対している辰雄は、その談判を受け入れないだろうと幸子は思いましたが、小心な辰雄に妙子が強く出れば異なる結果になるかもしれませんでした。
 幸子は、妙子が本家と絶縁する覚悟で東京へ行くのではないかと懸念し、自分自身も、本家か妙子のどちらの見方をすべきか、考えがまとまってはいませんでした。
 雪子は、妙子が一人で東京に行くことに反対し、幸子に同行させるため、悦子の世話を名乗り出ました。そこで幸子は、自分が妙子に同行をするけれども、話し合いを妨害するつもりは決してないので、彼女と直接話し合ってほしいという手紙を鶴子に前もって伝えました。
 幸子は、前回と同じ築地の浜屋に宿泊し、妙子は交渉を終えるまで辰雄の家に泊まり込むことを決めました。
着いた日の夕方、幸子と妙子は鶴子に出迎えられ、ローマイヤアで食事をし、その後幸子は、二人を送って浜屋へ帰りました。
 翌朝、幸子が新聞を読んでいると、辰雄との用談を翌週に延期された妙子から退屈なので行ってもよいかという連絡がありました。
 幸子はその日の午後に青山の友達を訪問する約束を済ませた後、夜の七時ごろ戻り、妙子と会いました。妙子は、輝雄が学校から帰るのを待ち受けて、明治神宮を案内してもらい、昨日のビールを飲みにローマイヤアへ再び入り、こちらへ来たようでした。渋谷の家では、彼女は辰雄から気味の悪いほどに歓待され、鶴子も熱心に妙子の話を聞きました。辰雄は今仕事で忙しいので、来週まで待ってほしい、それまでは輝雄に東京を案内をさせて遊んでいればいいだろうと言いました。
 一人で浜屋に宿泊するのを心細く感じていた幸子は、嫁入り前までは毎日、妙子と二人並んで寝ていたことを懐かしく思いました。
 翌朝、幸子と妙子は、靖国から永田町、日比谷界隈をまわり、東京では矢絣が流行っていること、中学生が両手をポケットに入れたまま歩くことなどを話しました。

板倉の死

 その翌日、歌舞伎座に行った幸子と妙子は、浜屋の女中から呼び出され、蘆屋の耳鼻咽喉科に入院している妙子の知り合いの容態が悪いという連絡を受けました。それは中耳炎を悪化させて手術をした板倉でした。彼の妹が雪子を使って連絡を寄こしたということは、容態が良くないに違いなく、妙子は、歌舞伎座を出て浜屋へ戻り、蘆屋へ帰っていきました。
 その後一人で浜屋に帰った幸子は、電話で雪子を呼び出し、板倉の妹が来て、板倉が手術のために入院していたことや、昨夜から容態が悪化し、非常に苦しんでいることを知りました。
 幸子も東京を発つことにして、鶴子を電話で呼び出しました。鶴子は、近頃雪子に縁談を申し込もうとして薪岡のことを調べさせた人によって、妙子が奥畑以外の男と付き合っていることを知らされていました。本家も妙子には奥畑と結婚してもらうのが一番良いと考えており、ひとまず彼女が夫と喧嘩にならずに帰っていったことで、鶴子は胸を撫で下ろしていました。

 翌朝、幸子が帰宅して雪子から聞いたところによると、板倉は術後の夜から脚が痛いと言い始め、その後三日が経過しても改善しなかったようでした。院長の磯貝は、手術のあとは綺麗になっていると言ってガーゼを取り替えると、苦しむ病人を放ったらかしにして出て行きましたが、看護婦に言わせると、アルコール中毒の院長が手術に失敗したということでした。妙子は三宮から病院へ直行しましたが、板倉は苦しそうな眼を向けるだけで、他に注意を向ける余裕もなく、痛い痛いと言うばかりでした。
 看護婦の言葉によると、手術のときに悪性の黴菌が入り、その毒が足のほうに回ったようでした。
 院長は、板倉の父母や嫂が訪れてからようやく他の外科医を呼びましたが、その外科医たちも手遅れだと匙を投げてしまったようでした。
 院長は、三人目の鈴木という外科医を呼び、結果については保証できないという約束で、板倉の脚を切断するすることを承諾しました。しかし板倉の父母は満足な体で死なせてやりたいと言い、望みがあるのであれば切断を望む妹の説得にも応じませんでした。
 夜汽車で眠れなかった幸子は、二階で横になった後、貞之助に相談した上で、見舞いに行くことを決めました。
 板倉は、見すぼらしい病院の、風通しの悪い部屋に寝かされていました。血色も悪くなく、思ったほどやつれてはいないように見えましたが、レモネードしか飲まず、非常な早口で痛い痛いと言い続け、時折死なせてくれと頼みました。
 妙子は、母親に手術を勧めて欲しいと妹に頼まれていると幸子に伝えました。他人に余計な口出しをすることに幸子が気兼ねしていると、看護婦が院長から親族に面会がしたいと言っていることを伝えに来ました。妙子がそれを取り次ぐために寝室に入り、板倉の父母は、院長のところへ行きました。院長は、自分の病院で死なれては厄介なことになるので、耳の処置は最善を尽くしたものの、板倉の父母が外科医に引き渡すのを躊躇していたために処置が遅れたような言い分をして、鈴木外科医に板倉を引き渡すように、父母を言いくるめてしまいました。磯貝院長は、その後も厄介払いができたという態度で、挨拶にも出てきませんでした。
 板倉は、麻酔を受けた上で、鈴木病院に搬送されて行きました。
 幸子は、手術に付き添うことにした妙子と板倉の家族を鈴木医院に送り届け、蘆屋へ帰りました。帰り際、板倉がもし死んだ場合に、妙子が彼の許嫁になっていたことが世間に知られないようにと、暗に伝え、二人の結婚問題がこのような形で終わることを、自分の内面にあるあさましさを不愉快に感じながらも有難いと思いました。

 幸子は貞之助にこのことを伝え、「水戸ちゃん」に四十日間の労を労って暇をやり、貞之助と雪子と夕飯を食べている途中で、鈴木病院にいる妙子から電話があり、板倉が小康状態を保っていることや、自分からの輸血が必要かもしれないことを話しました。幸子は、奥畑商店の店員と顔を合わせないために一旦帰宅することにした妙子のために、自動車を迎えに寄越してやりました。
 妙子は家に帰り、大腿部から切断した板倉の手術の様子を語りました。
 板倉は目が覚めると、悲痛な声で片脚になったことを嘆きましたが、それは久々に聴いた彼の尋常な物言いで、妙子は安心して蘆屋に戻りました。
 しかし、板倉は胸部や頭部を病毒に侵されており、翌日に再び容態を悪化させ、死に至りました。朝四時病院からの連絡を受けて駆け付けた妙子は、その死を看取り、幸子に連絡を寄こしました。昼ごろ妙子は戻り、板倉がはっきりとした意識を保ちながら、妙子や奥畑や、親類に一人一人別れを告げ、苦しみながら死んだことを語りました。
 奥畑は、親兄弟と一緒に田中の家まで遺骸について行き、世話を焼いていたようで、今夜と明日の晩に通夜をして、明後日告別式を行ようでした。これだけのことを語りながらも、妙子は落ち着き払い、涙を見せることはありませんでした。
 妙子は、話しかけてこようとする奥畑を警戒し、通夜には一時間ほどだけ出席し、告別式では火葬場には行かずに帰りました。幸子は、奥畑家の人々と顔を合わせないために、時間外に弔問を行いました。
その後、妙子は度々こっそりと板倉の郷里の墓参りに行っているようでした。

 この五月の下旬の頃、経由地のマニラからハンブルクへ帰ったシュトルツ夫人とローゼマリーからの英文の手紙が届きました。
 その手紙によると、シュトルツ夫人は、病気の妹のために荷物を纏め、自分の子たちと妹の三人の子供たちの面倒を見ながらマニラを発ち、ブレーメルハーフェンで夫とペータアに再会し、ハンブルクで家を見つけたようでした。