谷崎潤一郎『細雪』の登場人物、あらすじ、感想

 『細雪』は、1943年から1948年にかけて発表された谷崎潤一郎の長編小説です。
 1886年に日本橋に生まれ、幼い頃から秀才として頭角を表していた谷崎潤一郎は、東京帝国大学在学中に執筆した『刺青』での輝かしいデビュー以来、『痴人の愛』、『春琴抄』、『卍』といった、当時としては衝撃的な内容の作品を次々に発表し、明治末期から昭和初期にかけての近代文学における一時代を築いた大文豪です。
 『細雪』は、太平洋戦争が勃発した翌年である1942年(昭和17年)に書き始められ、1943年(昭和18年)に雑誌『中央公論』の新年号と4月号に上巻が発表されました。その後の7月号には時局に沿わないとして掲載を禁じられたものの、活字にして売り広めなければよいという当局の指示により、細々と書き続けられました。しかし個人的な知り合いにだけ読ませるための私家版『細雪』を出版したところ、これが取締当局を刺激し、兵庫県庁の刑事の来訪を受け、今後の出版を固く禁じられるということがありました。
 そのような処分を受けながらも、谷崎潤一郎は昭和19年までを熱海で、20年からは岡山県の勝山で、戦争が終わってからは京都と熱海で書き続け、『細雪』を完成させました。戦後になって中央公論社から、上巻が昭和21年6月、中巻が昭和22年2月に、下巻が『婦人公論』の昭和22年3月号から23年10月号まで連載され、同年12月に単行本として刊行されました。昭和初期における阪神間を舞台とした、旧家における四姉妹を中心とした人々の生活を描き出した本作は、発売と同時にベストセラーとなり、今なお日本の近代文学における代表作として取り上げられることの多い作品です。
 このページでは、そんな『細雪』の登場人物、あらすじ、感想を紹介します。ネタバレ内容を含みます。

『細雪』の登場人物

※詳しい登場人物一覧はこちら

薪岡幸子
大正時代に栄華を極めた薪岡家の次女。夫の貞之助、娘の悦子とともに、兵庫県蘆屋にある分家で暮らしている。花では桜、魚では鯛が好きで、毎年春が来ると京都に桜を見に行くことを欠かしたことがない。亡くなった父の寵愛を一心に集めて育ったので、精神的にも体質的にも堪え性がなく、悦子の世話をしてくれる雪子を重宝している。雪子や妙子よりも背が高く、夏の間は洋装を好み、そのほかの季節は和装を好む。雪子の婚期が遅れていることを憂慮し、あちこちに縁談話がないかと持ちかけている。

薪岡雪子
薪岡家の三女。大阪では縁遠いと言われる羊年の生まれ。姉妹の中で最も細面で、華奢な体格をしているものの、幸子や妙子よりも頑丈で病気をしない。和装を好み、厚化粧をすると引き立つ美貌を持つ。悦子のことを非常に可愛がっていて、幸子の代わりに面倒を見ることも多い。日本趣味で和服を好むが、外国の文化にも慣れ親しんでいる。これまで自分を含めた薪岡家のものが、格式高い家柄に囚われ、若い頃に来ていた縁談を全て断っていたため、婚期を逃している。結婚前の本家に属する身分でありながら、妙子と共に本家と分家を行ったり来たりする生活を送っている。

薪岡妙子
薪岡家の四女。「こいさん」(船場言葉で末の娘という意味)と呼ばれている。姉妹の中でも、亡き父親の前世時代の恩恵を性質を受けずに育ち、独立心が強い。幸子と雪子に比べ背が小さく、丸顔で目鼻立ちがはっきりとしており、洋装を好む。ニ十歳の時に同じ船場に店舗を持っていた奥畑家の倅の啓三郎と恋に落ち、駆け落ちをしたことがある。辰雄との折り合いが悪く、雪子と共に本家と分家を行ったり来たりする生活を送っている。女学校時代から行っていた人形製作が愛好者を集め、個展を開くほどの腕前となり、相当な収入を得ている。

薪岡貞之助
幸子の夫。大阪の事務所に通う計理士で、養父から分けてもらった資産で家計を補いつつ暮らしている。商大出で文学趣味があり、雪子や妙子と気安く接することができる。

薪岡悦子
小学校に通う貞之助と幸子の一人娘。雪子に非常になついている。隣家に住むドイツ人一家シュトルツ家の子供たちと仲が良い。

薪岡鶴子
薪岡家の長女。辰雄を婿に迎え、大阪上本町の、もともと薪岡家の郊外の別宅として使われていた純大阪式の家屋に住んでいる。四人の姉妹の中では最も背が高く、京女であった母親の面影をとどめている。早くに死んだ母親の代わりに妹たちの面倒を見、六人もの子を育てる苦労人。酒が好き。

薪岡辰雄
鶴子の夫。銀行員。実家は名古屋にある。晩年に隠居した薪岡の父から家督を譲られるも、臆病な自分の性質が店舗の経営に向かないと判断し、船場にあった店舗を他人に譲る。これが原因となり、雪子や妙子との折り合いが悪い。旧家の婿ということもあって転勤を免除されていたが、銀行の方針が変わったことや、自分の中にも昇進を望む心が湧き起こってきたことで、丸の内支店への栄転を命じられ、東京へ発つ。

お春
薪岡家の女中。洗張屋の張惣の主人の娘。十五歳の頃、女学校が嫌いで女中奉公を志願し、目鼻立ちが可愛らしかったため、幸子から奉公を許される。奉公仕立ての頃は、入浴や洗濯が嫌いだったことから他の女中からの苦情が絶えなかったが、姉妹たちから親しまれて「お春どん」と呼ばれ、悦子の学校の送り迎えなどを行なっている。こっそりと幸子の化粧品をつかい、顔だけは綺麗にしている。口が軽いことで、しばしば幸子や幸子から咎められている。独り言が多い。

奥畑啓三郎
船場の旧家である貴金属商の三男。関大卒。二十歳の頃の妙子と駆け落ち事件を起こしたことがある。
妙子の個展に姿を現して大作を買い、再び会うようになる。

井谷
幸子たちの行きつけの美容院の女主人。美容術の研究で一年ほどアメリカへ渡ったことがある。中風症で寝たきりの夫を扶養しつつ美容院を経営し、一人の弟を医学博士にさせ、娘を日本女子大学校に入れた。歯に絹を着せない物言いをする。縁談の世話をするのが好きで、たびたび雪子に見合い話を持ってくる。

瀬越
雪子の見合い相手。北陸の小藩の家老を先祖に持つ。大阪外語の仏語科卒でパリ留学経験があり、フランス系の会社の神戸の海岸通にビルを持つフランス系の化学工業会社の社員。

野村巳之吉
雪子の見合い相手。兵庫県の農林課に勤務する水産技師で、県内の鮎の増産に関する指導や視察を仕事として行なっている。長女を三歳で、次いで昭和十年に妻を流感で、そしてその翌年に長男を十三歳で亡くしている。

櫛田
蘆屋川の停留所の近くに開業している医師。見立てが上手く、技量が卓越しており、近所で引っ張りだこになっている。

板倉勇作
板倉写場というスタジオを経営する写真館の主人。岡山の小作農の倅で、もともとは奥畑商店の丁稚で、アメリカへ渡ってロサンゼルスで五、六年写真術を学んだと言うが、ハリウッドで撮影技師になろうとして機会を掴み損ねたという噂がある。帰朝し、奥畑から資金を出してもらい、開業後、妙子が自分の制作品の宣伝のための写真を一手に引き受けるようになった。

沢崎煕
雪子の見合い相手。菅野が懇意にしている名古屋の素封家の当主。数千万の資産家で、先妻とは死別している。早稲田の商科出の四十四、五歳で、亡妻は華族の出で、子供が二、三人あり、貴族院議員の父の資産が相当にある。
先妻の死後、辰雄の姉の菅野から雪子と会ってみることを勧められ、興味本位で縁談を持ちかける。

橋寺福三郎
雪子の見合い相手。静岡出身の医学博士。四十五、六歳の立派な風采の男。ドイツに留学経験のある東亜製薬の重役。妻を亡くしており、十三、四になる娘と二人でばあやを使って暮らしている。社交的に訓練された愛嬌のある人物。

三好
神戸の湊川に住むバーテンダー。外国汽船のバーテンダーをしていたと言われている。

御牧実
雪子の見合い相手。貴族院議員の子爵を父親に持つ。学習院を出て東大の理科を中退し、海外を転々とした経験がある。帰国後、建築家として身を立てようとしたものの、自局の変化のために注文が減り、再び父親の財産を食いつぶしながら生活している。

『細雪』のあらすじ

上巻

※上巻のもっと詳しいあらすじはこちら

 大阪の船場に店舗を構えていた薪岡家は、大正の末頃に全盛を極めた名家であったものの、豪奢な生活を送っていた先代の頃には既に凋落の兆しが見えていました。本家は大阪の上本町にあり、そこでは長女の鶴子に婿養子として縁組みした辰雄が家督を相続し、六人の子供を抱える大世帯となっていました。
 次女の幸子は、父の晩年に大阪の事務所に通う計理士の貞之助を夫に迎えて分家し、一人娘の悦子とともに兵庫県の蘆屋にある邸宅に暮らしていました。
 父親は三女の雪子と四女の妙子に結婚相手を見つける前に他界しました。その後も薪岡家は衰える一方で、銀行員であった辰雄は、臆病な自分の性質が店舗の経営に向かないと判断し、周囲の反対を押し切って船場の店舗の暖簾を他人の手に渡しました。
 父の死後、雪子は幾度となく見合いをしてきましたが、三十歳になっても縁談相手に恵まれませんでした。それは本人を含めた周囲の者たちが、薪岡の名にこだわって選り好みをしていたためでした。当の本人も、非常に可愛がっていた悦子と離れるのが嫌で、婚期が遅いことを寂しがってはいませんでした。
 また五、六年前、妙子が二十歳の頃、同じ船場の旧家である貴金属商の奥畑家の倅の啓三郎と出奔した事件があり、そのことが雪子が出奔したという誤植となって新聞に発表されたことも、雪子を縁遠くする原因となっていました。この記事に辰雄は取り消しを求めたものの、訂正の記事が小さく載っただけで、これがかえって雪子と妙子の彼に対する心象を悪くしました。本家と心の離れた雪子と妙子は、幸子の住む蘆屋の分家へと行くことが頻繁になり、半月も泊まり続けるようになりました。
 そのように数年を暮らしているうちに、女学校時代から人形製作を趣味としていた妙子の作品が好評を集め、百貨店の陳列棚に並ぶようになりました。辰雄は、妙子が職を持つことに反対しながらも、夙川に仕事部屋を与えてやりました。妙子は個展も開き、相当な収入を得るようになり、それとともに個展に訪れた奥畑と再び会うようになりました。幸子は、妙子と奥畑の結婚が決まったものと考え、その前に雪子の縁談を急がなければならないと考えました。
 そのような時に、幸子の行きつけの美容院の女主人である井谷から、雪子の縁談話が持ち上がりました。相手は瀬越という名の、フランス系の化学工業会社の社員でした。瀬越はパリ留学経験のある四十一歳で、親族は田舎に母親が一人でいるだけでした。薪岡よりもやや劣る家柄だったものの、本人は雪子との縁談に非常に乗り気になっているようで、またフランス趣味を持っている雪子と趣味が合うのではないかと考えた幸子は、その縁談を進めてみようと考えました。
 見合いはオリエンタルホテルで、薪岡家からは貞之助、幸子、雪子が出席して行われました。
 瀬越は、パリ仕込みというところが感じられない、嫌味のない堅実な会社員といった印象で、宴は和やかな雰囲気の中で終わりました。
 翌日、井谷が知らせるところによると、瀬越は雪子が細身でひ弱そうに見えることと、彼女の左の眼の下に見える染みを気になってはいたものの、結婚に非常に乗り気であるようでした。
 貞之助は、雪子を連れて阪大に行き、彼女のレントゲン写真に異常はなく、シミも結婚すれば治るというお墨付きを貰いました。瀬越はこの報告を受け、いま一度雪子と打ち解けた話がしたいと申し出ました。貞之助からこの縁談についての話を受けた本家は、瀬越の国元を調べ始めました。
 しかし、幸子もこの縁談に乗り気になっていたところへ本家からの連絡が届き、瀬越の国元の母が精神病であるため、その縁談を断るようにと命じられました。貞之助は心苦しさを味わいながら、断りの返事を送りました。

 翌年、妙子の個展が開催され、幸子は、その三日目の夕方、雪子と悦子を連れて会場の片付けの手伝いに訪れました。そこには妙子の弟子であるロシア人女性カタリナ・キリレンコが来ていました。カタリナは、ある日突然妙子の仕事部屋を訪れて弟子にしてほしいと申し出てきたロシア人女性で、革命後に日本にやってきて、今は別れたイギリス人の夫から貰った金で生活しているようでした。妙子はすぐにカタリナと親しくなり、蘆屋の家でも指導するようになりました。そのためカタリナは幸子や貞之助とも懇意になっており、夫婦を自宅に招待したいと申し出ました。
 幸子は、貞之助と妙子と共に彼女の家を訪れ、カタリナの母に、兄のキリレンコ、そしてその兄の友人のウロンスキーを紹介されました。一同は国際情勢について議論し、貞之助は足元がふらつくほどに酒を飲みました。

 三月下旬、幸子の女学校時代の同窓の陣場夫人から、野村巳之吉という四十六歳の水産技師との見合い話が持ち上がりました。幸子は、ついこの間縁談を破談にしたばかりの雪子の気持ちを慮り、一、二カ月返事を待ってもらいたいと礼状に書いて送りました。
 四月の中旬、幸子、雪子、妙子は毎年欠かしたことのない京都へ桜を見に出かけました。その翌月から幸子は黄疸に罹り、床の間で療養しました。体調のすぐれない中、以前親しくしていた丹生夫人らの訪問を受けた幸子は、大儀に感じながらもお客をもてなしました。
 幸子が快方に向かった入梅の頃、本家では辰雄の栄転が決まり、それまで関西を離れたことのなかった鶴子は、混乱しながら引っ越しの準備を始めました。

 鶴子の出発が二、三日後にさしせまったころ、父の妹にあたる富永の叔母が訪ねてきて、もともと本家に属する雪子と妙子が分家にいることは世間体が悪いので、人形製作のある妙子には猶予を与えるにしても、雪子にはこれを機会に家族と一緒に発ってもらうようにと指示しました。関西を離れることが嫌だった雪子でしたが、この話を聞くと観念した様子で東京に行くことを了承しました。

 鶴子の一家と雪子は、船場時代から付き合いのあった多くの人々に見送られながら関西を発ち、東京に着くと渋谷の道玄坂に手狭な家を見つけました。
 雪子が発ったことで、彼女を非常に慕っていた悦子は眠れなくなり、神経衰弱になりました。幸子は、雪子を呼び戻したいと考えながら、心配を募らせて彼女を近所の名医櫛田に診せました。櫛田は脚気の治療と食事療法を勧めました。

 年が明けると、悦子の神経衰弱は徐々に良くなりました。雪子を頼る必要はなくなったものの、幸子は、関西の生活が恋しいあまり涙を流すことがあるという彼女のことが不憫でならなくなりました。
 そのような時に、以前持ちかけられた野村巳之吉との縁談の件はどうなっているのかという手紙が陣場夫人から届きました。幸子はこの見合い話を渋谷の本家に知らせ、雪子は帰郷することとなりました。
 見合いを間近に控えた三月五日、幸子は有馬温泉で病後の療養をしているある奥さんを見舞うために、友人とバスで六甲越えをして有馬へ行き、その後出血して苦痛を訴え、流産らしいと言われました。幸子は妊娠の予感があったにも関わらず、バスに乗った自分を責め、貞之助に詫びながら悔し涙を流しました。この一件で見合いは延期されることになりました。
 延期となった見合いは三月十五日に決まりましたが、幸子の体調は当日になっても戻りませんでした。見合い相手の野村は、写真以上に老人臭く、取りつきにくい印象の男でしたが、食事が進につれ、雪子を目の前にした興奮で饒舌になっていきました。一同はトーアホテルから北京楼という山手の中華料理家に移ることとなり、幸子は体調のすぐれない中、急な石段を登らされました。帰り際には野村は自分の家に寄って行けと仕切りにすすめ、家に着くと子供のように喜びながら所々を案内し、死んだ家族の写真を幸子や雪子に見せました。貞之助は、体調の悪い幸子に気を使わない野村や陣場夫人に腹を立てました。
 見合いの後、幸子は病室にこもり、寝たり起きたりして暮らしました。雪子はしばらく自分の意思を示しませんでしたが、やがて亡くなった妻や子供の写真を見せる野村にひどく不愉快にさせられたので今回の縁談を断りたいと、妙子を通じて伝えました。
 幸子は雪子の意思を先方に伝え、また今回の結果を本家に報告すると、蘆屋に来てからひと月になる雪子に、一度東京へ帰ることを勧めました。
 雪子は、悦子が友達を呼ぶのが恒例になっている節句と、京都の花見を済ますと、四月の中頃に東京へと帰って行きました。

中巻

※中巻のもっと詳しいあらすじはこちら

 幸子のもとへ奥畑が訪ねて来て、近頃妙子が人形製作を後々弟子に譲り、洋裁の方を専門にやりたいと思っているということ、そのためにフランスで修行をしたいと言い出しているということを伝え、将来職業婦人になりたいという考えを改めるように諭してほしいと頼みました。幸子は、奥畑が花柳界に出入りするようになったことを知っており、彼が夫のような口の利き方をするのに反感と滑稽を覚えながら、彼女に聞いてみることを約束しました。
 妙子は、世間を甘く見ている奥畑が将来財産をなくすであろうことを見抜いており、その時に自分が食べさせていけるだけの職業を身につけようとしているのだと主張しました。彼女は人形製作の注文に答えながら、野寄にある玉置徳子女史の洋裁学校に通うかたわら、さらに舞についても、将来は名取の免状をもらうために、山村さくという師匠のところへ舞の稽古にも通う生活を送っていました。山村舞は上方の伝統的なものであり、妙子は、これを世に顕したいという熱心な支持者から成る会の幹事に頼まれて、六月の会場に蘆屋の家を貸すこととなりました。
 舞の披露会では、妙子は演目「雪」を披露しました。その会に、もともと奥畑商店の丁稚であった写真家の板倉が入り、撮影を行いました。板倉は、奥畑家から資金を出してもらって開業した後、妙子の作品の写真を引き受けるようになり、薪岡とも親しく交際するようになっていました。

 それからひと月後の七月五日、阪神間に記録的な惨事をもたらした大水害が発生しました。悦子が小学校に、妙子が洋裁学校へと向かった後で氾濫が始まり、貞之助とお春は小学校へと向かい、悦子を連れ戻りました。しかし妙子の通っていた洋裁学校は、最も被害が大きいと言われている野寄にあったため、幸子は妙子の身を案じて泣き出しました。
 貞之助は、幸子をなだめ、妙子の救出へと向かい、濁流に巻き込まれそうになりながら、ようやく妙子の洋裁学校から目と鼻の先にある甲南女学校へと辿り着きました。

 一方、妙子は学校が休みになり、その隣に住む玉置女史に誘われてコーヒーを飲みに上がりました。そこへ学校が休みになった玉置女史の息子の弘が帰り、水が迫っていることを伝えました。
 すると瞬く間に水が室内に侵入し、三人は首から上だけを出しているだけの状態になりました。外には激流が流れており、脱出の道を断たれた妙子は死を覚悟しました。そこへ妙子の身を案じて濁流の中を駆けつけた板倉が隣の藤棚の上に現れ、三人を窓から屋根の上に救出しました。
 水が引いて洋裁学校の方へやって来た貞之助が屋根の上にいる妙子たちを発見し、板倉の家で休ませてもらった上で、彼女を連れ帰りました。
 幸子に対して妙子の救出を志願して野寄に向かおうとしていた奥畑は、その途中にある板倉の家を訪ね、妙子が救い出されたことを知ると、蘆屋へは戻らず、翌日自分の代わりに妙子を見舞ってほしいと板倉に頼んで大阪に帰っていきました。
 その翌日、その指示通りに板倉が蘆屋を訪れたので、妙子は改めて昨日の礼を言い、危険であった時のことを語り合いました。

 この水害を新聞で知った雪子は、貞之助からの電話で家族の無事を知らされたものの、妙子の顔を見るため、また荒らされた蘆屋の町の有様を見るために二ヶ月ぶりに東京から戻りました。
 板倉は、水害の写真のアルバムを作るために方々を歩き回りながら、薪岡にもよく顔を出し、水害の被害を伝えにやってきました。彼は三人の姉妹や悦子を車に乗せて海水浴に連れていき、日増しに薪岡と懇意になりました。
 そのような頃、六月から体調を崩していた山村のおさく師匠が、腎臓病を悪化させて逝去し、妙子の名取にしてもらおうという望みは断たれることとなりました。

 蘆屋の薪岡家の隣に住むドイツ人のシュトルツ家が、日中戦争の影響で神戸の店の利益が上がらなくなったため、故国に帰ることになりました。かねてから薪岡家とシュトルツ家は親密な付き合いを続けており、特に悦子は、シュトルツ家の子供たち、ペータア、ローゼマリー、フリッツと毎日のように遊んでいました。出国は、まず父親のシュトルツ氏とペータアが八月の下旬に横浜を発ち、その後シュトルツ夫人がローゼマリーとフリッツを連れ、病気の妹のいるマニラを経由して欧州に帰る予定でした。
 ペータアは、悦子との別れを惜しみながら父親とともに横浜へと向かいました。その話を聞いた幸子は、地蔵盆を済ませなければならない自分の代わりに雪子を付き添いに出し、悦子をペータアの見送りに横浜まで行かせることを提案しました。その提案は、近ごろ再び神経衰弱気味になっていた悦子を、東京の医者に診せようという目的も兼ねていました。雪子と悦子は、幸子の勧めに従って関西を発ち、横浜から出航するシュトルツ氏とペータアに会い、共に東京を観光しました。幸子は地蔵盆を終わらせると、二人の後を追って東京へと向かい、鶴子の家に滞在し始めました。しかし、まだ未就学の子供たちのため鶴子の手が空く時間がなく、また鶴子が子供たちに手を上げるのを悦子が怯えたように見ることが増えるにつれ、幸子は旅館に移ることを考え始めました。そして九月一日、一家が猛烈な台風に襲われ、家が倒壊するのではないかという恐怖に襲われると、幸子は悦子とともに、貞之助の勧めていた浜屋という旅館に移りました。
 その旅館に連絡をよこした鶴子と鰻屋に行き、久々にゆっくり食事を取ることのできたのも束の間、幸子は奥畑からの速達を受け取り、妙子と板倉が密かに遭っているということを知りました。丁稚上がりの板倉と妙子の結婚は、薪岡家にとっては許されないことであり、その手紙を読んだ幸子は動揺し、悦子の診察を急いで終えると、東京に残る雪子に別れを告げて蘆屋へと戻りました。

 妙子は、幸子が戻った翌日から、製作の仕事のために夙川のアパートに通い始めました。幸子が奥畑から届いた手紙のことを切り出すと、板倉について命を助けてくれたことには感謝はしているけれども、まったく相手にはしていないので、奥畑の嫉妬心から書かれたにすぎない手紙のことなど気にしないでほしいと言いました。奥畑は、板倉との絶交を妙子に要求しているようでした。妙子は、玉置女史からヨーロッパへの遊学に誘われているようで、貞之助や本家からそのための許可をもらえるように取り計らってほしいと幸子に頼みました。

 やがてシュトルツ夫人がローゼマリーとフリッツを連れて、マニラに出航することになり、幸子と悦子は彼らとの別れを惜しみました。出航の前日は、ローゼマリーは悦子の部屋に泊まり明け方まではしゃぎ回り、当日、夜七時に幸子は悦子を連れて埠頭へ行き、涙を流しながら彼らを見送りました。

 十一月の上旬になり、貞之助が二、三日東京へ行くことになると、妙子は将来職業婦人として洋裁で身を立てるために洋行の許可を貰って来てほしいと頼みました。貞之助は鶴子にこれを伝えたものの、本家からは妙子が職業夫人となることには反対するという返事が届きました。
 この手紙を読んだ妙子は泣いて憤り、辰雄が預かっているはずの自分の取り分は取ってみせると、もとから悪感情を持っていた本家に楯突く意志を示しました。しかし十二月になると、六甲に新しい洋館を手に入れた玉置女史の興味が経営の方に移り、洋行を取りやめたため、それにともなって妙子も洋行を諦めました。しかし妙子は洋裁師になる目的は諦めるつもりはないようで、年が明けると再び学校に通い続けました。奥畑という決まった相手がいながら職業婦人になろうとする妙子を訝しんだ幸子は、彼女に奥畑との結婚の意志を問いただしました。すると妙子は涙を流しながら、奥畑が芸者や踊り子と関係し、子まで生ませていたこと、大水害以来、ズボンを汚すことさえ厭いながら自分の顔も見ずに大阪へ帰った奥畑には愛想を尽かすようになり、代わりに自分の命をも顧みずに助けに来てくれた板倉の存在が大きくなってきたこと、そして前年の九月に幸子が東京に行っている時に板倉に胸中を告白し、結婚の約束をしたことを語りました。

 幸子は妙子に忿懣を覚えながら、貞之助にこの話を打ち明けました。しかし貞之助は、この件に関してあまり干渉したがりませんでした。幸子は相談相手が欲しくなり、二月の下旬に大阪三越のホールで催される、妙子も出演するおさく師匠の追善の舞の会を口実に雪子を呼び寄せました。妙子は舞を辞めていましたが、この追善の会のために再び稽古へ通い、三越では「雪」を舞いました。貞之助は、その妙子を撮影にやってきた板倉が奥畑に見つかり、カメラを壊される場面を目撃しました。

 三人の姉妹が戻り、薪岡家は再び華やかさが戻りました。長らく空家になっていたシュトルツ家には、ボッシュというスイス人が入居することになりました。
 三月、妙子の人形製作の弟子であったロシア人カタリナ・キリレンコが、ドイツ人の恋人ルドルフの斡旋で欧州に渡り、幸子らは戦時下のヨーロッパに娘を送り出すカタリナの母親の逞しさについて語り合いました。
 四月の中旬、貞之助と三姉妹と悦子は例年通り京都へ行き、その帰りに悦子が猩紅熱に罹り、看護婦とお春に看病されながら離れで生活することになりました。病気をうつされやすい幸子は、病室に入ることも控えるようにと言われ、手持ち無沙汰な日々を過ごしました。悦子は回復するにしたがい蓄音機を鳴らすようになり、ボッシュ氏からの苦情を受けました。
 五月上旬、小規模な婦人洋服店を開くことを考え始めた妙子は、辰雄にお金のことで談判するために、東京に行くと言いだしました。雪子は、妙子が一人で東京に行くことに反対し、悦子の世話を名乗り出て幸子に同行を勧めました。そこで幸子は、話し合いには干渉しないつもりで、一緒に東京へ向かうことを決めました。
妙子が職業婦人になることには反対していた辰雄と鶴子でしたが、妙子は気味の悪いほど歓待され、話し合いは一週間ほど待ってほしいと言われました。その間、浜屋に滞在していた幸子は、退屈を持て余す妙子とともに日比谷界隈を観光して過ごしました。
 その翌日、幸子と妙子のもとへ、中耳炎を悪化させて手術を行った板倉の容態が悪いという連絡が届きました。その知らせを聞いた妙子は、辰雄との談判を諦め、板倉のことを見舞うために蘆屋へと帰りました。幸子はその翌朝帰宅し、アルコール中毒の医者による手術で入り込んだ黴菌の毒が板倉の脚に回り、切断しなければ命がないということ、結果については保証できないという約束で、ある外科医が脚の切断を引き受けたものの、両親が満足な体で死なせてやりたいと言い張り、切断を勧める板倉の妹の説得に応じないことを聞きました。幸子は貞之助と相談して、板倉の様子を見舞いに行きました。結局院長が板倉の両親を言いくるめて板倉を外科医に引き渡し、脚の切断の手術が行われました。その後板倉は小康状態となったものの、翌日には再び容態を悪化させ、死に至りました。妙子は、話しかけてこようとする奥畑を警戒し、通夜には一時間ほどだけ出席し、告別式では火葬場には行かずに帰り、その後は度々こっそりと板倉の郷里の墓参りに行っているようでした。
 この五月の下旬の頃、シュトルツ夫人から手紙が届き、一家がドイツで再会し、ハンブルクで家を見つけたことを幸子は知りました。

下巻

※下巻のもっと詳しいあらすじはこちら

 二月から四ヶ月も関西に住んでいた雪子に、辰雄の姉・菅野からの縁談話が持ち上がりました。
 菅野の姉は、大垣に住む豪農の未亡人で、薪岡の娘たちもよく知っている間柄でした。相手は沢崎という資産家で、亡妻は華族出身であり、薪岡よりも格上の家柄でした。菅野の姉からの手紙には、蛍狩りも兼ねて遊びに来るつもりで、雪子と幸子に加え、妙子や悦子も連れて来てほしいと書かれていました。幸子は、雪子の器量の噂を聞いた沢崎が興味本位で申し込んできたのだろうと考えながら、雪子に意志も聞いた上で、招きを受けることを決めました。
 雪子は見合いの後で東京に帰ることとなり、菅野に一泊した後、蒲郡の旅館に泊まることが決まりました。

 大垣に着いた幸子、雪子、妙子、悦子は、菅野の息子の家族を紹介されました。菅野の姉は今回の見合い相手とは面識がないようでしたが、先代まで付き合いのあった沢崎家の当主が新しい妻を探しているということを聞き、雪子を紹介しようと思い立ったようでした。幸子は、自分たちには相談もせずに面識のない沢崎に縁談を申し込んだ菅野と、仲介人を立てずに書面だけで申し込みを行った沢崎の非常識を疑わずにはいられず、見合いを辞退しようかと考えながら、辰雄の立場も考えて、成り行きに任せることを決めました。
 到着した日の夜に蛍狩りを行い、その翌日、悦子と妙子を菅野の息子に付き添わせて関ヶ原の観光に向かわせた後、幸子と雪子は菅野家の座敷で沢崎と対面しました。沢崎には取り立てた欠点はないように見えたものの、幸子には彼が雪子に興味を持っていないように見えました。話が盛り上がることもなかったため、沢崎が食事を済ますと、幸子は汽車の時間を口実にして早々に引き揚げました。
 今回のようにこちらが引け目を感じる見合いは、薪岡にとってはじめての経験でした。しかし当の雪子が蒲郡での一夜を楽しんでいる姿を見て、幸子は救われたような気持ちになりました。見合いの後、すぐに菅野未亡人と沢崎から手紙が届き、雪子は「縁のない」以外に何の理由も書かれていない切口上な手紙で縁談を断られ、貞之助と幸子は不愉快な気持ちになりました。

 それから半月余り経った七月の上旬、貞之助は上京ついでに雪子の様子を見に渋谷へと行き、鶴子と母親の法事について話し合いました。九月の中旬になると、本家から正式の案内状が届き、母親の二十三回忌と共に、父親の十七回忌も二年繰り上げて行うことが知らされました。
 同じ頃、妙子は派手な装いが目立つようになり、人形製作や洋裁に興味を失ったようになりました。幸子は、妙子が奥畑と一緒にいるところを見かけ、二人がよりを戻したのだと考えました。何か知っているらしいお春を問いつめると、奥畑は店員とグルになって店の商品を持ち出したために父親から勘当されたこと、板倉の四十九日に妙子と奥畑は再会し、妙子は憐憫の気持ちから再び会い始めるようになったことを告げました。貞之助は、勘当中の奥畑と妙子が付き合うことを辰雄が許すはずがないと考え、妙子を勘当しなければならない可能性について考え始めました。
 幸子はこのことを両親の法事でも本家に伝えませんでした。そのため、十月の中旬、貞之助は上京したついでに、鶴子に妙子の行状を話しました。するとその月の終わり頃、鶴子から手紙が届き、勘当された奥畑の家の出入りを妙子に禁じさせ、雪子と妙子の二人を東京に寄越すように、そして妙子がそれに応じない場合、蘆屋の家にも入れないようにという辰雄からの指示がありました。
 この手紙を読んだ妙子は、本家に行くくらいなら死ぬ方がましだと言ってアパート住まいを始め、その年の年末年始にかけてほとんど帰って来ませんでした。

 二月、幸子は井谷の美容院へ行きました。井谷はある集まりで紹介された丹生夫人と雪子について話し合い、縁談相手に適した相手がいるということを聞いたようでした。
 それから三日後、井谷から電話があり、雪子はその日の午後六時に行われる日本料理屋での食事会に呼ばれました。幸子は大阪の事務所に電話をかけて夫を呼び出して付き添わせ、急な話に困惑する雪子を送り出しました。相手は橋寺福三郎という四十五、六歳の製薬会社の重役で、妻に先立たれ、十三、四歳になる娘と暮らしているようでした。丹生夫人は、橋寺の亡妻と友人であったものの、本人とはほとんど面識がないようでした。
 日本料理屋で雪子のことを待ち受けていた橋寺は、社交的に訓練された風采の良い人物で、愛嬌があり、酒も多少は飲むことができました。井谷と丹生夫人は、未だに再婚への踏ん切りがつかないと正直に語る橋寺に対し、強引に結婚を勧めました。貞之助は、橋寺の印象を好ましく感じ、この縁談を進めようと考えました。その後、井谷や丹生夫人の協力もあり、幸子も橋寺に紹介され、やはり彼に対して好印象を持ちました。貞之助は、橋寺の会社や家を訪ねて、雪子との結婚に前向きになってもらおうと尽力しました。橋寺の方も、訪ねてきた貞之助を料亭に案内したり、十四歳の娘に会わせたりし、その後神戸のすき焼き店で両家の顔合わせとなりました。
 しかしその翌日、幸子の不在時に橋寺から夕食の誘いの電話があり、散々待たせた挙句にようやく電話口に出た雪子は、生来の内気な性格から、もっともな理由もつけずにその申し出を断りました。橋寺はこれを侮辱だと受け取り、腹を立て、丹生夫人に電話を入れて今回の縁談を断りました。幸子は、自分が家にいなかったことを悔やみ、貞之助が帰って来ると一部始終を語りました。貞之助は、雪子の女らしさや奥ゆかしさを理解する男でなければ、夫になる資格はないのだと幸子を慰めました。
 雪子は照れ隠しのためか、縁談を断られたと聞いても無関心らしくふるまい、幸子や貞之助に対して詫びの一言も入れようともしませんでした。幸子はそのような雪子の真意を図りかね、彼女の本当の気持ちを妙子に聞いてもらおうと思い、彼女に連絡を取ろうとしていました。

 そのような時に妙子が赤痢に罹り、奥畑の家で苦しんでいるという連絡が届きました。幸子はこのことを貞之助には伝えないまま、お春を看病にやることにしました。しかし、妙子が入院を勧められていることを知ると、雪子が自分の一存で見舞いに行ったため、幸子はその一部始終を貞之助に打ち明けました。貞之助は、渋い顔をして何も言わず、暗黙の許可を与えました。
 妙子は日増しに衰弱していき、夫への気兼ねで行くことを躊躇っていた幸子は、じっとしていられず、お春に案内されて奥畑の家を訪ねました。
 妙子は、板倉の死から一年が経とうとしている時に、奥畑の家で病気になったのが苦痛のようでした。幸子は雪子と相談の上、以前から薪岡と付き合いのある病院に、妙子を移すことを決めました。

 病院を移してから二、三日経つと、妙子の容態は快方に向かいました。奥畑は、妙子が病院に移ってからも、度々看病に訪れているようでした。幸子は、妙子の入院までにかかった費用を彼に返さなければならないと考え、雪子に相談しました。雪子は、奥畑に忠誠を誓う婆やが妙子に好感を持っていないように直感的に感じており、奥畑に借りを作るのは良くないと考え、何かしらの品を返すべきだと主張しました。
 幸子は、奥畑の婆やと懇意になっていたお春に、妙子の行状について問いただしました。するとお春は、ここ最近の妙子が奥畑の財布で贅沢三昧の暮らしを送っており、非常な酒飲みでもあること、着物を売った金で高価な衣服や装飾品を手に入れたと豪語していることはすべて嘘であり、その中には奥畑が自分の店から持ち出して与えた宝石も含まれていることを告げました。婆やによると、奥畑が妙子と痴話喧嘩をするたびに、神戸のバーテンダーである「三好」という名前を出すことから、妙子には新しく好きな人ができようでした。
 幸子はこの話に衝撃を受け、泣きながら雪子に一部始終を話しました。雪子はやはり二人を結婚させることが、妙子を救う唯一の方法であると語りました。

 数日後、妙子は退院して甲麓荘の部屋に戻り、五月の下旬になると出歩けるようになりました。その頃には貞之助が彼女の出入りを容認するようになっており、六月には毎日のように蘆屋に帰ってきて食事をするようになりました。九月に入ると、ようやく貞之助は妙子と対面を果たしました。本家の手前、別居だけはしていたほうが良いと言うので、妙子は寝起きだけは自分のアパートで行い、昼間は蘆屋で過ごし、幸子が持ってきた注文を受けて洋服を仕立てるようになりました。
 十月の初め頃、奥畑が皇帝の付き人として満州にに行くかもしれないという話になり、これを機会に奥畑と別れようと思っていた妙子は、これまで奥畑を利用してきたことを責められ、雪子と諍いを起こしました。

 その数日後、幸子と雪子は、元町で偶然井谷に会い、彼女が美容術の研究のために渡米をするつもりのであることを聞きました。その翌日、井谷が幸子のもとを訪れ、渡米前に滞在する東京で雪子に紹介したい人がいるので、出て来ることはできないかと誘いました。その相手は、御牧実という貴族院議員の息子で、世界各地を渡り歩いた経験があり、建築家になりかけたこともあるものの、現在は父親から分けてもらった財産を食いつぶしながら遊んで暮らしているようでした。
 井谷は、記者として働いている娘の光代が懇意にしている関係で御牧を知り、彼が名門であること、初婚であること、扶養しなければならない係累がいないこと、アメリカやフランスの言語風俗に通じていることなどから、雪子の縁談相手としてどうかと考えたのでした。今回の渡米に先立ち、光代の勤め先の社長で、御牧に家の設計を任せたことのある国嶋氏が井谷のために酒宴を催すこととなっていたため、神戸の代表として幸子、雪子、妙子が招待され、その場で雪子と御牧が引き合わされることに話がまとまりました。
 幸子、雪子、妙子は、まもなく大阪を発ち、東京駅に出迎えに来ていた光代に送られて、その送別会が行われることになっている帝国ホテルに到着しました。
 その夜、三人は井谷の部屋で御牧と初めて顔を合わせました。御牧は、雪子の写真を見た時点で、結婚の算段を早くも立て始めたようで、幸子が懸念していた結婚後の住居も、研究しようとしている日本建築の多い阪神間にしようと考えているようでした。

 東京滞在の三日目、幸子は本家に寄って今回の東京滞在が見合いを兼ねていることを鶴子に伝え、その後、両家の人々で歌舞伎座へ行きました。
 ホテルの部屋に戻ると、妙子は羽織も脱がず、安楽椅子にもたれかかっていました。幸子は、体の具合の悪いらしい妙子に、かかりつけの櫛田医師に診て貰うことを勧めました。すると妙子は、奥畑に自分を諦めさせるために、三好というバーテンダーとの子を妊娠したことを告白しました。
 幸子は動悸が抑えられなくなり、それ以上は何も言わずベッドに潜り込むと、奥畑と別れて三好と一緒になるという目的のために手段を選ばない妙子のことを憎らしく思いながら、眠れぬ一夜を過ごしました。
 幸子は蘆屋に戻ると、貞之助にこれを話しました。貞之助は、二、三日考えた後、妙子を医者に連れて行き、分娩の時期を見定め、有馬温泉で薪岡の姓を隠して臨月まで滞在させ、その後は病院に入れ、出産後、然るべき時期に三好に嫁がせようと考えました。そして十月になるとお春に付き添わせて妙子を有馬温泉に遣り、奥畑にこれまで妙子が散財した分の小切手を渡して、妊娠を内密のまま手を引いてくれるように説き伏せました。

 そのような中で、貞之助と幸子は、蘆屋に訪れてきた御牧との会談や、懸念された結婚後の生活についての質問を国嶋氏にしたことを通して、この縁談を進めようと決意しました。そして翌年の正月に訪れてきた光代に意向を聞かれると、本家の了解を得た上で雪子に意志を聞き、縁談を進めたいという返事を送りました。
 八日になると、光代や国嶋氏も参加して、京都の嵐山で両家の顔合わせが行われ、貞之助らは結納の日取りについて話し合い、阪神の甲子園にある家を御牧の父親が買い取って与えることが決まりました。
 結納は、国嶋氏の妻の一時危篤により延期されながらも、三月二十五日に東京で行われました。雪子は三月一杯を本家で過ごした後、蘆屋に戻り、幸子や悦子との残りわずかな生活の名残を惜しみました。甲子園の家は明け渡され、御牧は、尼崎の郊外にできる東亜飛行機製作所の工場に、国嶋氏の斡旋で就職が決まりました。
 桜の時期になると、幸子たちは時勢を気にして地味な格好で恒例の京都へ行きました。この花見から帰った翌る日、妙子がお産を迎え、二十時間も前から苦痛に身を悶えているということがお春から知らされました。幸子は病院に駆けつけ、院長に泣きついてドイツの陣痛促進剤を出してもらいました。しかし産み落とされた赤ん坊は泣き声を立てることはありませんでした。妙子は激しく泣き出し、幸子やお春、呼び出された三好も泣きました。
 妙子はそれから一週間後に退院し、兵庫で三好と夫婦暮らしを始めました。
 四月二十五日、妙子は荷物を運ぶために蘆屋の家を訪ね、そして以前彼女の部屋にある煌びやかな雪子の嫁入り道具を見ながら、一人で荷物を取りまとめ、兵庫へと帰って行きました。
 妙子に続いて、お春にも嫁入りの話が入り、幸子は感慨に沈みがちになりました。
 雪子もまた、二十九日の挙式に向け、上京が決まってから、日の過ぎていくのが悲しく感じられ、そのせいか毎日のように下痢をしました。その下痢は、東京へ向かう汽車の中でもまだ続いていました。

管理人の感想

 『細雪』の中心を成すのは、大正末期に栄華を極めたものの、今では没落の兆しが見え隠れする薪岡家の分家です。兵庫県の蘆屋にあるその邸宅では、次女の幸子が、夫の貞之助と一人娘の悦子と共に暮らしています。本家は大阪の上本町にあり、そこでは長女鶴子が、婿養子に辰雄を迎え、六人もの子供を持つ大世帯となっています。
 辰雄と折り合いの悪い三女の雪子、四女の妙子は、嫁入り前の本家に属する身分でありながら、気楽な分家に入り浸る生活を送っています。

 姉妹の中で最も華奢な雪子は、一見、細面の淋しい顔立ちではあるものの、華やかな和装の似合う美貌の女性です。その美貌は関西の上流社会でちょっとした話題にもなるようで、これまで数々の縁談が彼女のもとに寄せられています。しかし本人や周囲が旧家であった薪岡の名にこだわり、それらの縁談をすべて断り続けてきたために婚期を逃し、作中でも五度にわたってさまざまなタイプの見合いを行います。いわゆる昔ながらの箱入り娘である彼女は、思ったことをはっきりとは口に出さない奥ゆかしい性格の持ち主でありながら、自分で決めたことは一切曲げようとはしないといった頑固な一面も持ち合わせています。
 一方の妙子は、丸顔で目鼻立ちのはっきりとした明るい容貌の持ち主で、人の癖を真似て皆を可笑しがらせることに長けています。姉たちとは異なり、亡き父親の恩恵をまったく受けることなく育った彼女は、独立心が高く、また手先が器用なためにまとまった収入を得ることができるほどの人形製作の腕を持っています。雪子とは対照的な、西洋趣味の持ち主である彼女は、旧式に囚われないところがあります。恋愛に関しても奔走で、二十歳の頃に出奔した奥畑や、写真家の板倉など、さまざまな男性と恋愛遍歴を重ねていきます。
 物語は幸子の心情を中心に語られますが、実際に作中の一連の出来事に関与して物語を進行する役割を担っているのは、この雪子と妙子です。この末の二人の生き方は非常に好対照を成しており、この作品に彩りを加えています。
 幸子はこの手のかかる二人の妹の行く末を常に心配し、ときに腹を立てながらも愛想を尽かすことなく、本家との折り合いをつけようと思案に明け暮れます。幸子の夫である貞之助もまた、末の娘たちのためにあれこれと奔走し、作中の至るところで活躍します。
 意外と作中でそれほど多くはないものの、この幸子、雪子、妙子の三人が揃った時の描写の美しさは、筆舌に尽くしがたい魅力があります。

全く、この姉妹はただ徒に似ていると云うのとは違って、それぞれ異なった特長を持ち、互に良い対照をなしながら、一方では紛う方なき共通点のあるところが、見る人の目にいかにもよい姉妹だと云う感を与えた。先ず身の丈からして、一番背の高いのが幸子、それから雪子、妙子と、順序よく少しずつ低くなっているのが、並んで路を歩く時など、それだけで一つの見物なのであるが、衣裳、持ち物、人柄、から云うと、一番日本趣味なのが雪子、一番西洋趣味なのが妙子で、幸子はちょうどその中間を占めていた。顔立なども一番円顔で目鼻立がはっきりしてい、体もそれに釣り合って堅太りの、かっちりした肉づきをしているのが妙子で、雪子はまたその反対に一番細面の、なよなよとした痩形であったが、その両方の長所を取って一つにしたようなのが幸子であった。服装も、妙子は大概洋服を着、雪子はいつも和服を着たが、幸子は夏の間は主に洋服、その他は和服と云う風であった。そして似ていると云う点から云えば、幸子と妙子とは父親似なので、大体同じ型の、ぱっと明るい容貌の持ち主で、雪子だけが一人違っていたが、そう云う雪子も、見たところ淋しい顔立でいながら、不思議に着物などは花やかな友禅縮緬の、御殿女中式のものが似合って、東京風の渋い縞物などはまるきり似合わないたちであった。

『細雪』より

 管理人は繰り返し『細雪』を読んでいますが、作品の中に散りばめられているこのような素晴らしい文章を読むたびに、谷崎潤一郎が非常に美に敏感な作家であったことを実感させられます。谷崎作品の魅力の一つである、マゾヒズム、フェチズムといった言葉に象徴される耽美的な要素はそれほど強くないものの、その分、他とは一線を画す、格調高い雰囲気を纏った作品であると思います。

 この作品の舞台である昭和11年11月から昭和16年4月までを日本の歴史と重ね合わせてみると、昭和12年に日中戦争が勃発、昭和14年から第二次世界大戦が始まり、昭和15年に日独伊三国同盟の締結、さらにこの物語が幕を迎えた直後の昭和16年12月に真珠湾攻撃が行われています。
 民間を巻き込む本格的な戦争を控えた時代の中で、姉妹たちは派手な催しを控えたり、バケツリレーに参加したりしています。阪神大水害という歴史的な災害も取り扱われており、この事件が物語に大きな影響を与えます。
 しかし、どちらかというと、この作品で主に描かれているのは、彼女たちが時代に翻弄される姿ではなく、そのような時勢下においても、見合いや恋愛といった、自分自身の問題に身をやつしている姿です。劇的な展開はそれほど多くはなく、雪子の見合い、そして妙子の奔放な恋愛という繰り返しの中に、断片的なサイドストーリーとして、とりとめのない姉妹たちの日常がひたすらにつらつらと書き連なっているといった印象です。鶴子、幸子、雪子の三人が良家の娘としての常識から逸脱した行動をとることはありませんし、四姉妹の中で唯一、当時の常識とはかけ離れた行動を起こす妙子に関しても、奥畑や板倉、三好といった男たちとの逢引の様子が直接書かれている箇所は皆無に等しく、後に幸子が他の誰かから聞いた話として書かれているにとどまっています。そのため、読み終わった後で内容を問われてもなかなかスパッと答えられないような、本筋を掴めないような感想を抱く人も多いのではないかと思います。いわば「日常系」作品の元祖とでも言えるような、ふわふわとした印象の本作ですが、本来谷崎潤一郎は筋のしっかりとした作品を書く作家であり、その点においても、この『細雪』は特異な存在と言えるかもしれません。しかし、美しいものをただ美しく描くことにおいては他の追随を許さない谷崎潤一郎は、この作品のような、登場人物自身の魅力が重要な評価の分かれ目になる「日常系」の作品を書く上で、もってこいの作家だったのではないかと思います。

 そのように考えると、この物語の幕となった昭和16年頃が、彼女たちが忌憚なくその単純明快な美しさを発揮できる最後の時代だったのかもしれません。その後に行われることとなった戦争についての作者の見解は、この作中では一切語られることはありません。しかし、作者自身の主義主張を心の奥底に据え置いたまま、このような平穏な時代の美しい女性たちをひたすらに描写し続けることにより、結果的にこの作品は、その後の悲惨な時代を、間接的ではあっても最も雄弁に表しているようにも感じます。太平洋戦争勃発の翌年にこの小説の執筆を開始し、時世に合わないとして発禁処分を受けながらも、この長大な小説を書き続けた谷崎潤一郎の、静かな信念のようなものが感じられる作品だと思います。