『三人姉妹』(ロシア語:Трисeстры́)は、1900年に執筆された、ロシアの大劇作家アントン・チェーホフの戯曲です。『かもめ』『ワーニャ叔父さん』『桜の園』とともに、チェーホフの四大戯曲のうちの一つに数え上げられており、その中では三番目に当たる作品です。初上演は、1901年1月31日、すでに『かもめ』の再演と『ワーニャ叔父さん』を成功に導いていたモスクワ芸術座で、ロシアの名演出家コンスタンティン・スタニスラフスキーの手により行われました。封切り後はすぐに人気を博し、以来、ロシアのみならず世界中で数多く上演され続けるクラシックとなっています。このページでは、そんな『三人姉妹』の登場人物、あらすじ、感想を紹介します。
『三人姉妹』の登場人物
オーリガ(オーリャ)
プローゾロフ家の長女。十一年前に旅団長になった父親に連れられて、モスクワからロシアの田舎町に引っ越して来た。すでに両親は亡くなっている。第一幕では二十八歳で、四年前から女学校の教師として働き、忙しい日々を送っている。いまだに結婚することができず、モスクワに帰ることを夢見ている。
マーシャ(マリーヤ)
プローゾロフ家の次女。第一幕では二十三歳。ピアノの訓練を受けているが、しばらく弾くことをやめている。女学校卒業直後の十八歳の頃に中学教師のクルイギンと結婚するが、その後夫に失望するようになる。新しく指揮官として町にやって来たヴェルシーニンと恋に落ちる。
イリーナ(アリーナ)
プローゾロフ家の三女。第一幕では二十歳。オーリガと同じく、モスクワに帰ることを夢見ており、その地で本物の愛を見つけることができると信じている。また労働に憧れ、第二幕では電信局で、第三幕では市役所で働いている。第四幕では教員の免許を取得し、愛してはいないものの尊敬するトゥーゼンバフからの求婚を承諾する。
アンドレイ(セルゲーエヴィチ・プローゾロフ)
プローゾロフ家の唯一の男兄弟。第一幕では大学教授を目指しており、手先が器用で、語学にも堪能な青年として姉妹たちの期待を背負っていた。町の中産階級の娘ナターシャに恋をして結婚し、子供をもうけるが、三年後には妻に支配され、大学教授になるという夢も潰え、市会の書記として働きながら賭博で負け続ける日々を送るようになる。
ナターシャ(ナターリア・イワーノヴナ)
アンドレイの妻。結婚前は庶民的な趣味を三姉妹に笑われる内気な娘であったが、結婚後は子供のためにイリーナに温かい部屋を譲らせたり、年老いた女中アンフィーサに辛く当たったりと、傍若無人に振る舞うようになる。また市会の議長であるプロトポーポフと不倫関係を結ぶ。
クルイギン(フョードル・イーリイチ)
中学のラテン語教師。マーシャの夫。文官七等。自分中学の五十年史を書いたことを誇りに思い、ことあるごとに誰かにプレゼントしようとする。マーシャを含むプローゾロフ家の人々を深く愛しており、一家が悲しみに沈んでいる時に、笑わせようと試みることが多い。終盤ではマーシャの不倫に気づくが、彼女のことを許し、受け入れようとする。
トゥーゼンバフ(ニコライ・リヴォーヴィチ)
男爵、ドイツから帰化した陸軍中尉。器量はよくないものの、ペテルブルクの裕福な家庭出身の折り目の正しい人物。これまで働いたことがなかったものの、五年間恋をしていたイリーナに感銘を受け、煉瓦工場で働くことを決意する。
チェブトイキン(イワン・ロマーノヴィチ)
六十歳になる軍医。プローゾロフ家に長く親しみ、幼い頃から三人姉妹を非常に可愛がっており、イリーナの名の日の祝いにはサモワールを用意する。三姉妹の母親に思いを寄せていた。医者としての知識は近年落ちており、第三幕では患者を死なせてしまったことで自責の念に駆られる。
ソリョーヌイ(ワシーリイ・ワシーリエヴィチ)
決闘癖のある陸軍二等大尉。イリーナに恋をしているが、粗野な性格で座をしらけさせる発言が多く、嫌われている。
ヴェルシーニン(アレクサンドル・イグナーチエヴィチ)
陸軍中佐。オーリガたちの町に指揮官として新しく駐在することになった砲兵中隊長。時折自殺を試みる妻と二人の娘を抱えている。モスクワで姉妹たちの父親と同じ旅団にいたことがあり、当時幼かった三人の姉妹を覚えていた。マーシャと不倫関係を結ぶ。
フェドーチク(アレクセイ・ペトローヴィチ)
陽気な陸軍少尉。第三幕の火災では、家が全焼する。
ローデ(ヴラジーミル・カールロヴィチ)
陸軍少尉。中学で体操を教えている。
アンフィーサ
長くプローゾロフ家に勤める八十歳の乳母。老いによって仕事ができなくなり、ナターシャから家を追い出されそうになる。
フェラポント
市会の守衛、耳の遠い老人。
※その他、実際に登場しないまでも、台詞に話題がのぼる人物として、市会の議長プロトポーポフ、故人である三人姉妹の両親、ヴェルシーニンの妻子などがいます。
『三人姉妹』のあらすじ
第一幕
ロシアの田舎町にあるプローゾロフ家で、三女イリーナの名の日の祝い(誕生日の代わりに、自分と同じ名前の聖者の命日を祝う正教徒の習慣)が行われようとしています。彼女を祝うため、町の中学教師の長女オーリガ、既婚者の次女マーシャが客間に集まっています。そこへこの町に駐屯している士官の陸軍中尉トゥーゼンバフ男爵、軍医チェブトイキン、陸軍二等大尉ソリョーヌイが現れます。
オーリガは、ちょうど一年前に死んだ父親を回想しています。彼女たちは、十一年前に旅団長になった父の赴任先であったこの町にモスクワから連れられてやってきました。オーリガはその後、この土地で中学校の教師になりましたが、ここ最近の四年間は働き詰めで結婚に恵まれず、モスクワに帰りたいという望みばかりが強まっています。
次女のマーシャは、この土地で女学校を出たばかりの十八歳の時に、中学教師のクルイギンと結婚しました。結婚当時、彼女は教師であった夫を立派な人物であるように感じていたものの、今では退屈な夫に幻滅を感じていました。
唯一の男兄弟であるアンドレイは、死んだ父親の希望で、軍人ではなく学問で身を立てることを決め、大学教授になろうとしていました。彼は細工やバイオリンなど、さまざまな才能に恵まれており、語学にも堪能で、その夏は英語の本を一冊訳そうとしていました。彼は町のナターシャという娘に恋をしていたものの、三姉妹はその女のことが気に入らないようでした。
三女で末っ子のイリーナは、モスクワで新しい恋を探すことを夢見ていました。また彼女は労働というものに憧れを持っており、人間は額に汗して働かなくてはならないのだという考えに目覚めています。ペテルブルクの裕福な家で育ち、これまで働くことがなかったトゥーゼンバフはイリーナに恋をしており、彼女の意見に賛成し、自身も働こうと考え始めました。
六十過ぎのチェブトイキンは、そのような姉妹たちのことを幼い頃から知っていて、彼女たちのことを非常に可愛がっていました。彼は亡くなった三姉妹の母親を愛しており、その夢が潰えた今では諦観の境地に至り、「どっちだって同じことさ」というのが口癖になっていました。
ソリョーヌイは、いつもくだらないことを口走り、一同の座をしらけさせる男でした。イリーナはそんな彼のことを嫌っていて、それとなく距離を取っていました。
このような人々の集まりの中に、新しい指揮官としてこの地へ駐屯することになったヴェルシーニンが訪れました。ヴェルシーニンはモスクワからこの地に妻と二人の娘を連れてきていたものの、たまに自殺未遂を起こす妻に手を焼いており、結婚を後悔していました。彼はモスクワでオーリガたちの父親と同じ旅団にいたことがあり、プローゾロフ家を訪れたこともあり、まだ小さかった三人の姉妹を覚えていました。三人の姉妹はこの思いがけない再会を喜びました。
トゥーゼンバフは、イリーナと二人で残されると彼女への愛を告白しました。しかしイリーナは、それにはっきりとは応えず、自分たちは人生を暗いものとしか見ることがなくなるように、働かなくてはいけないのだと語りました。
そこへ、アンドレイの許嫁のナターシャが、バラ色のドレスに緑色のバンドという衣装で現れ、イリーナに祝いの言葉を述べました。オーリガは、その緑色のバンドのことで彼女を笑いものにし、チェブトイキンも彼女のことをからかい始めました。傷つけられたナターシャは、広間から客間へと走り出て両手で顔を覆いました。アンドレイは、周囲から見えない窓の方へ来るようにと彼女に呼びかけ、自分の妻になってほしいと告白しました。
第二幕
第一幕から三年後、アンドレイはナターシャと結婚し、市会の書記として働きながら、賭博で負け続ける日々を送っています。彼は大学教授になるという夢を諦め、市会の議長になりたいと考えています。ナターシャとの間にはボービクという名の子供ができています。
オーリガは教員として働き続け、イリーナは電信局で働き始めています。
屋敷では謝肉祭の祝宴が開かれようとしていましたが、ナターシャは、昨日熱があったボービクのことを心配し、仮想踊りの人々を中に入れたくないとアンドレイに相談しました。
クルイギンに幻滅し続けていたマーシャは、文官の中にいるがさつで無愛想な人を見ると腹が立つほどになっていて、この町で品性が高く、教養のあるのは軍人なのだとヴェルシーニンに語りました。
ヴェルシーニンもまた、その日は妻と喧嘩して家を飛び出してきたようで、娘の具合も悪く取り乱していました。彼はこのような愚痴を言えるのはあなただけだと言って、マーシャに愛を告げました。マーシャはその愛を受け取るようなそぶりを見せました。やがてヴェルシーニンは、妻がまた毒を飲んだということを知ると、マーシャに別れを告げて帰って行きました。
イリーナは、詩的でもなく、思想もない今の仕事に幻滅を感じ、他の勤めを探そうとしていました。彼女に想いを寄せ、毎日仕事場への送り迎えをしていたトゥーゼンバフは、軍人を辞めて文人として働き始める決心を語り、いつも愚にもつかない発言で場を白けさせているソリョーヌイのところへコニャックを持って行き、杯をあげました。
ナターシャが仮想踊りを呼ぶのをアンドレイに断らせたため、会がお開きになり、チェブトイキンとトゥーゼンバフは帰ろうとしました。これをアンドレイに打ち明けられたイリーナは、ナターシャに憤慨しました。
そこへソリョーヌイがやって来て、イリーナに愛を告白しました。しかしイリーナに冷ややかに拒絶されたため、彼は、競争者がいたとしたら、その男を殺してやると言いました。
ナターシャは、ボービクの部屋が寒くてじめじめしているので、子供部屋にうってつけの場所に住んでいるイリーナに、部屋を譲ってほしいと頼みました。そこへ小間使いがやってきて、アンドレイの勤める市会の議長プロトポーポフが、ナターシャをトロイカでのドライブに誘っていることを伝えました。ナターシャは、そのドライブに行くために出かける準備を始めました。
中学校から帰宅したオーリガとクルイギンは、パーティーがお開きになったことを知らされました。オーリガは、病気の校長の代理として働いて疲弊しており、明日が休みであることを喜びながら寝室に入りました。クルイギンもまた、家にとてもいられないと言うヴェルシーニンの誘いを断り、帰っていきました。
ナターシャがプロトポーポフとのドライブに出て行くと、一人残されたイリーナは、それまでにも増して激しくモスクワへの思いを募らせました。
第三幕
第二幕から約一年後、イリーナはオーリガの部屋に移り、衝立で仕切られたベッドに寝ることとなりました。
近所では火事が起きており、家を焼かれそうになったヴェルシーニンの家の人たちがやって来ています。
ナターシャは、罹災者の救済会を作らなければならないという話が出ていることを立派な考えだと評しながら、大勢の人が押しかけて子供たちにインフルエンザをうつされないかと心配していました。さらに彼女は、仕事をせずに座り込んでいるだけのアンフィーサを部屋から追い出し、どうしてあのような役に立たない老いぼれを家に置いておくのかとオーリガに聞きました。オーリガは面食らい、心を乱されながらナターシャに謝りました。
チェブトイキンは、ある女の治療ができずに死なせてしまったことを嘆いていました。以前と比べて医者としての知識も落ちていた彼は、その女の死が自分の責任の様な気がして、普段の自分に欺瞞を感じ、長らく辞めていた酒を再び飲むようになっていました。彼は依然慕っていた三姉妹の母親からもらった時計を落として壊しました。
罹災者救済の音楽会を開くことを周囲から期待されていたトゥーゼンバフは、以前はピアノが得意であったマーシャに演奏させることについてクルイギンと相談しました。彼は煉瓦工場で働くことを決心しており、自分について来てほしいとイリーナに頼みました。
ヴェルシーニンの家は無事だったものの、驚愕と恐怖の表情を浮かべる娘たちを見て、彼はこの先どのような目に遭うだろうという考えが頭から離れなくなりました。彼は自分達の旅団が遠方へ移される予定であることを話しました。
ソリョーヌイがやってくると、イリーナは向こうへ行ってほしいと言いました。ソリョーヌイは、トゥーゼンバフと違う待遇を受けたことに納得がいかないまま去っていきました。
クルイギンは、マーシャがヴェルシーニンと関係を持っていることを知りながら、彼女のことを許し、変わらない愛を捧げていました。しかしマーシャはヴェルシーニンとの恋に見切りをつけることができず、彼の不幸せな暮らしや二人の女の子も含めて恋してしまったことを、オーリガとイリーナに泣きながら告白しました。
二十四歳になったイリーナは、市役所で働くようになっていましたが、回ってくる仕事がばかばかしく感じられ、モスクワに行けば恋人に会えるかもしれないと思っていた自分の愚かさを振り返りました。彼女は、プロトポーポフが議長を勤める郡会の理事になれたと喜ぶアンドレイを堕落したものだと評し、彼が火事場へ駆けつけず、自分の部屋にこもってバイオリンを弾いていることに憤慨して泣き始めました。
オーリガは、イリーナを慰め、醜男でも折り目の正しい純潔なトゥーゼンバフのところへ行くよう、勧めました。
アンドレイは、自分の夢が潰えたことやナターシャの浮気を知りながら、ナターシャが立派で潔白な人間であること、そして自分が市会議員という今の職に満足していることを信じ込もうとしていました。そんな自分に対する不満を表す姉妹に対し、彼はナターシャを尊敬するようにと要求しましたが、やがて結婚当初に思い描いていた幸福が現実にならなかったことを認め、涙を流し始めました。
イリーナは、トゥーゼンバフのところに嫁に行くことを決意し、一緒にモスクワへ行こうとオーリガを誘いました。
第四幕
砲兵中隊がポーランドへ移ることとなり、プロゾーロフ家の人々は兵隊たちとの別れを惜しんでいます。
オーリガは校長になり、忙しくて女学校に寝泊まりするようになっていました。アンフィーサはオーリガと一緒に学校の宿舎に入ることとなり、寝台付きの一部屋が与えられました。イリーナは、女教員の試験に合格し、トゥーゼンバフと明日式を挙げて、煉瓦工場へ向けて旅立ち、明後日には小学校に着任する予定でした。
そのイリーナに恋をしていたソリョーヌイは、広小路でトゥーゼンバフに決闘を申し込みました。
介添人としてその決闘を見届けて翌日発つことになっていたチェブトイキンは、恩給がつくまでの一年間を働いて退職し、戻ってきて余生を送るつもりでした。
イリーナや軍人たちに旅立たれ、プローゾロフ家に残されるアンドレイは、妻のナターシャに時折俗悪さを感じるということをチェブトイキンに打ち明けました。チェブトイキンは、この場所を出ていくとよいと忠告を与えました。
ソリョーヌイがやって来て約束の時間であると告げ、チェブトイキンと連れ立って決闘の約束の場所へと向かいました。
トゥーゼンバフは、町に用事があると告げ、一時間で戻ってくるので、その後二人で働いて、金持ちになることをイリーナに誓いました。生まれてから一度も恋をしたことのないイリーナは、トゥーゼンバフを愛してはいなかったものの、忠実で従順な妻になることを誓いました。
アンドレイは乳母車を押しながら、若くて快活で頭がよかった過去の自分を思い出し、なぜ自分たちは、退屈で不幸せな人間になってしまったのだろうと嘆きました。彼が大事な姉妹たちを思って涙声で感慨に浸っていると、子供たちのために大きな声を出さないようにとナターシャに注意されました。ナターシャは、小間使いをしょっちゅう叱りつける毒妻になっていました。
この町の滞在で、すっかり姉妹たちに馴染んでいたヴェルシーニンは、あと二ヶ月ほどこの町に残っている妻と子供たちに何事かが起きた場合は力添えをもらうことを頼みました。
校長になったためにモスクワへ行く夢を絶たれたオーリガは、ヴェルシーニンとの別れを惜しんで涙をぬぐいました。そこへマーシャが現れ、ヴェルシーニンに長いキスをしてはげしく咽び泣きました。ヴェルシーニンは、マーシャを抱きしめ、去って行きました。
そこへクルイギンがやってきて、むせび泣くマーシャをそのまま泣かせておき、どんなことがあろうと自分は幸せであり、不平を言わず、責めもしないので、元の通りの生活を始めようと言いました。マーシャはオーリガに慰められながらも、自分の人生は失敗であったと嘆きました。
遥か遠くで銃声が聞こえた後、チェブトイキンがやってきて、トゥーゼンバフが決闘で殺されたことを伝えました。婚約者を失ったイリーナは静かに泣きながら、このような苦しみが何のためにあるのか分かる日までは、自分たちは働いて生きていかなければならないのだと語り、翌日は一人で発ち、学校で子供たちを教えて、自分の一生を捧げることを誓いました。
オーリガは二人の妹を抱きしめ、この苦しみは後に残る人々の喜びに変わり、幸福がこの世を満たし、人々が自分たちを祝福する日が来るだろうと語り、これからも生きて行こうと誓い合いました。
管理人の感想
ロシアが生んだ大戯曲家チェーホフの四大戯曲のうちの一つである『三人姉妹』は、発表以来世界中で上演され、現在に至るまで「定番」に数え上げられる作品ですが、主人公らしい主人公がおらず、それぞれの登場人物が噛み合わない台詞を好き勝手話すというチェーホフならではの特徴が顕著なため、難解な印象を受ける人も多いのではないかと思います。チェーホフ自身もこの作品の執筆中、「今回の戯曲は書きづらい、ごたまぜの感じで、登場人物がやたらと多い」と語り、また初めてこの作品の朗読を聞いた役者たちも戸惑ったようです。
『桜の園』のページでも同じようなことを述べましたが、戯曲というものは、読者のためにではなく観客のために書かれるものであるため、視覚と聴覚という多大な情報を得ることのできる舞台を見てようやくすんなりと理解できるものです。そのため、これを文学作品として読もうとしても、小説のようにすらすらと頭に入ってくるものではなく、上演される舞台を想像しながら何度も繰り返し読むことで、ようやく登場人物の置かれている状況が理解できてくるものだと思います。
特にチェーホフ劇には筋らしい筋がなく、登場人物の巧みな台詞まわしによって、彼らの置かれている状況が徐々に浮き彫りになるというもので、シェイクスピア劇などと比べてもかなり読み解くのが難しい印象を与えます。またチェーホフの戯曲は、重要な要素が役者によって直接表現されるわけでなく、事件が舞台の外で起きると言われています。『三人姉妹』においても、ナターシャとプロトポーポフの不倫関係や、イリーナに大きな傷を残すことになるであろうトゥーゼンバフとソリョーヌイの決闘といった出来事は、舞台の中で直接演じられません。舞台の外で起きた出来事によって話が進行するといったこの技巧は、たとえば『ロミオとジュリエット』のように観客の感情をジェットコースターのように動かすものではないかもしれませんが、事件そのものよりも、その事件を受けた登場人物の心理に寄り添うような見方ができるため、しみじみとした感慨に浸らせてくれるものだと思います。しかしその分、これを文学作品として読む方にとっては、チェーホフ劇の難解さをより顕著にしてしまう一因にもなっているような気がします。
『三人姉妹』は、このようなチェーホフ劇の典型的な要素が数多くあり、なおかつオーリガ、マーシャ、イリーナおよびアンドレイを軸として、さまざまな人間が複雑に交錯するため、ほかの四大戯曲と比べてもさらに難解です。しかしその分、登場人物の一人ひとりの台詞を、どのように舞台上で演じられるのかと想像しながら注意深く読むことで、彼らの抜き差しならない苦しみが少しずつ理解できるようになるものだと思います。
長女オーリガは、故郷のモスクワに帰ることを夢見ながら中学教師として働いている二十八歳の女性です。自分の器量が衰えつつあることを感じている彼女は、結婚に遅れたことを自覚しており、「どんな男でも、もし頼まれれば老人でさえ」結婚するだろうと語り、モスクワに帰ることがこの閉塞的な世界から抜け出す唯一の手段であると考えています。
女学校卒業直後の十八歳の時に結婚した次女のマーシャは、好人物ではあるものの退屈な中学教師の夫クルイギンに失望するようになっています。あらゆることに対して激情的にふるまう彼女は、オーリガやイリーナと比べても特にナターシャとの折り合いが悪いようです。また指揮官として町にやって来た妻子のいる中佐ヴェルシーニンと恋に落ち、退屈で狭い世界に生き続けなければならない不幸な運命をさらに嘆くようになっていきます。
オーリガと同じようにモスクワへ帰ることを熱望する三女イリーナは、労働というものの詩的で観念的なイメージに惹かれ、電信局で働き始めますが、すぐに仕事に幻滅します。そしてモスクワで恋人を見つけるという空想が絵空事であったと悟ったとき、尊敬しているものの愛してはいない男であるトゥーゼンバフ男爵からの求婚を受け入れます。
唯一の男兄弟であるアンドレイは、第一幕では父親の希望に沿うために大学教授を目指し、町の娘ナターシャに恋をして結婚を申し込みます。しかし三年が経つと、大学教授になる夢が潰え、市会の書記として働きながら、賭博で負け続ける日々を送るようになっています。ナターシャは自分と子供のことしか考えられない毒妻に変貌し、アンドレイの勤める市会の議長プロトポーポフと不倫関係に陥ります。アンドレイは、ナターシャが立派で潔白な人間であること、そして市会議員という今の職に満足していることを自分で信じ込もうとしながら、ナターシャを嫌う姉たちと対立し、苦しみます。
そして結末では、マーシャはヴェルシーニンと別れ、イリーナの結婚相手トゥーゼンバフが恋敵のソリョーヌイとの決闘によって銃弾に倒れ、三姉妹はこれまでと何も変わることができないという現実を突きつけられます。乳母車を押すだけの父親に成り下がったアンドレイや、諦観の境地で「どっちだっておなじことさ」と独りごちるチェブトイキンにも、もはや彼女たちをこの閉塞的な世界から連れ出す手立てはありません。
しかしそれでも、姉妹たちは三人で生きていくことを誓い合い、イリーナは自分を必要とする人のために学校で働くことを決意します。なんとも健気な彼女たちの姿に、胸を締め付けられるような感覚にもさせられますが、唯一この物語の中で救いとなり得る存在が、それまで間抜けな寝取られ男として描かれてきたクルイギンです。彼はマーシャの浮気に気づきながら、次のように語ります。
わたしの大事なマーシャ、やさしいマーシャ。‥‥お前ははわたしの妻だ、たとえどんなことがあろうと、わたしは仕合わせだよ。‥‥わたしは不平は言うまい、ひと言だってお前を責めはしまい‥‥ほら、このオーリャが証人だよ。‥‥また元どおりの生活をはじめよう。わたしはお前に、ひと言だって、遠回しにだって、何ひとつ‥‥
『三人姉妹』神西清訳
この台詞はなかなか感動的で、変わることばかりを考えていた姉妹に対し、変わることのない、ひたむきなマーシャへの愛を語る彼の姿は、このような息の詰まるような世界でどのように生きていくべきなのかを、知らず知らずのうちに姉妹たちに教え諭しているようでもあります。
彼の存在が、マーシャのみならず、鬱々とした雰囲気に閉ざされそうになる彼ら全員の光となってくれることを、思わず願わずにはいられません。