アントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん』の登場人物、あらすじ、感想

 アントン・チェーホフ作『ワーニャ伯父さん』は、1897年に発表され、1899年にモスクワ芸術座で初演されました。『桜の園』、『かもめ』、『三人姉妹』と並び、チェーホフの四大戯曲と呼ばれる作品のうちのひとつです。

 退職した大学教授セレブリャコーフが、病気を患って引っ越してきた田舎の領地がこの作品の舞台です。この領地は、セレブリャコーフの前の妻の地所であり、その前妻の兄であるワーニャ伯父さんが長年管理してきました。ここにいる人々は皆、何かしらの悩みや葛藤を抱えていて、田舎領地ならではの閉塞感に、ストレスを溜め込んでいる様子です。
 ある日、セレブリャコーフはこの地所を売って、有価証券に変えようとする提案をします。長年この土地で働いて借金を返してきたワーニャ伯父さんはそれに激怒します。
 複雑にもつれ合った登場人物たちの鬱屈した感情、そして人間の持つ哀しさが表現された作品となっています。

※ネタバレ内容を含みます。

『ワーニャ伯父さん』の登場人物

セレブリャコーフ(アレクサンドル・ヴラジーミロヴィチ)
退職の大学教授。都会暮らしがあわず、死んだ前の細君の地所にしぶしぶ転がり込んできた。リューマチ、頭痛、肝臓肥大症を患っている。

エレーナ(アンドレーヴナ)
その妻、二十七歳の美貌の持ち主。年老いた夫の面倒を見ながら田舎暮らしをすることに退屈を感じている。

ソーニャ(ソフィア・アレクサンドロヴナ)
セレブリャコーフと先妻(死亡)の娘。アーストロフに恋をしている。

ヴォイニーツカヤ夫人(マリヤ・ワシーリエヴナ)
三等官の未亡人、セレブリャコーフの先妻とワーニャの母。

ワーニャ伯父さん(イワン・ペトローヴィチ・ヴォイニーツキイ)
ヴォイニーツカヤの息子。四十七歳。セレブリャコーフの先妻の兄。エレーナに恋をしている。

アーストロフ(ミハイル・リヴォーヴィチ)
セレブリャコーフを診ている医師。地所の森を自分で管理し、森林の必要性を感じている。

テレーギン(イリヤ・イリイーチ)
落ちぶれた地主。婚礼の次の日に妻に駆け落ちされたが、現在はその女に援助し、好きな男との間にできた子供の養育費を払ってやっている。あばたづらのため、ワッフルと言われていて、この屋敷に厄介になっている。ソーニャの名付け親。

マリーナ
年寄りの乳母。

下男

『ワーニャ伯父さん』のあらすじ

第一幕

 午後二時過ぎ、セレブリャコーフの田舎屋敷の庭で、年寄りの乳母マリーナと医師アーストロフが話しています。
 二人は十一年前からの知り合いでした。アーストロフは医師で、この十年間休む間も無く働き、まともでない人間にばかり囲まれ、人間がすっかり変わってしまったと言います。彼はこの春の初めに、発疹チフスの流行っている不潔な村で手術を行い、クロロホルムを嗅いだ患者を死なせてしまいました。そのことで気が咎めているアーストロフは、未来の人々は自分の仕事をありがたいと思ってくれることはないだろうとマリーナに言います。マリーナはアーストロフに、神様は覚えていてくれるよ、と慰めます。

 この屋敷には、退職した大学教授セレブリャコーフとエレーナの夫妻が最近引っ越してきていました。リューマチ、頭痛、肝臓肥大症を患っているセレブリャコーフは都会暮らしがあわず、死んだ前の妻の地所にしぶしぶ転がり込んできたのです。彼は寺院で働く男の子供として生まれ、官費で勉強し、教授から親任官に成り上がり、さらに枢密院議員の婿に収まりました。現在の妻であるエレーナは美貌の持ち主でした。

 そこへ、セレブリャコーフの前の妻の兄ワーニャが登場します。長年この土地を管理し続けてきた彼は、セレブリャコーフのことを、文学も芸術もさっぱりわからないくせに、他人の考えを受け売りするだけで成り上がり、思い上がった態度をとると言って憎んでいました。また、彼は、セレブリャコーフの夫妻がこの土地に来てから不規則な生活になったと苦言を呈します。ワーニャがセレブリャコーフを憎む原因はそれだけではありませんでした。彼はエレーナに恋をしていたのです。

 エレーナとセレブリャコーフの夫婦、ワーニャの姪であるソーニャ、落ちぶれた地主でここを訪れているテレーギン、ワーニャの母親のヴォイニーツカヤがやってきます。

 アーストロフは地所の方隣の官有林の森番が年寄りで病気がちなので、自分で森を管理していました。彼は森林の保護の必要性を感じ、新しい林を毎年植えつけて、そのことを評価されていました。セレブリャコーフと先妻の子供であるソーニャはアーストロフに恋をしていて、熱心にその話に耳を傾けました。

 セレブリャコーフのことを崇拝しているワーニャの母親のヴォイニーツカヤ夫人は、不満を憎々しげに語るワーニャのことをたしなめました。

 エレーナは年の離れたセレブリャコーフと結婚し、生きるのが大儀で退屈だと思っています。しかし、彼女は、自分に言い寄ってくるワーニャを、貞節や純潔や、自分を犠牲にする勇気を枯らしてしまった人間だと批判します。

第二幕

 夜、屋敷の食堂で、エレーナは、痛風に苦しむセレブリャコーフの面倒を見ています。セレブリャコーフは、学問に身をささげ、れっきとした同僚たちと交際してきたと自負しています。しかし今ではこの墓穴のような場所に放り込まれて、皆に嫌われながら生活していると嘆きます。また、自分がエレーナの若い時期を蝕んでいるということを気に病み、彼女のことを信用することもできていない様子です。

 そこへソーニャ、ワーニャ、マリーナ、ヴォイニーツカヤが現れました。
 ソーニャは父親にきつくあたり、エレーナとは口もききません。ワーニャは相変わらずエレーナに言いよっています。そんな家庭に入り、エレーナはいらいらしていました。

 ワーニャは三十七歳のころ、死んだ妹のところで十七歳のエレーナをたまに見かけていましたが、なぜその時に求婚しなかったのかと悔やんでいました。その頃は、彼はセレブリャコーフを崇拝し、この地所から金を得て送金していました。しかし今ではセレブリャコーフの成し遂げた学問の価値が低いものだと思うようになったと言います。

 アーストロフが再び屋敷を訪れます。彼は、セレブリャコーフが気難しく、指示に従わないことに閉口していました。そしてワーニャがいつも自分の人生に不平を言い、エレーナは美しいが無為安逸な生活を送っていると、この一家の問題点をソーニャに向かって話しました。
 アーストロフは愛する人もなく、無知で不潔な百姓にも、頭が痛くなるようなインテリにもうんざりしていました。ソーニャはアーストロフに酒を止めるようたのみ、自分の想いを伝えようとしますが、結局打ち明けることはできませんでした。アーストロフが去っていくと、ソーニャは自分の不器量を悲観します。

 そこへエレーナが入ってきて、もう仲違いはやめようとソーニャに言い寄り、二人は仲直りします。エレーナは、金のために嫁に来たと思われているのではないかと気に病み、それでソーニャが怒っているのだと思っていました。エレーナは結婚当時、本当にセレブリャコーフのことを愛していると思っていたのだと語りますが、いま幸福なのかとソーニャに聞かれると、幸福ではないと答えます。二人はアーストロフのことを偉大だと噂し、意気投合します。
 エレーナはピアノを弾こうとしますが、ピアノが癇にさわるセレブリャコーフはそれを許しませんでした。

第三幕

 セレブリャコーフは、ワーニャとソーニャを客間に呼び出しました。

 夫婦がここへ来てから、エレーナの魅力にほだされ、ワーニャは仕事を怠けるようになり、アーストロフも森の管理を怠けて毎日ここへ来るようになりました。

 退屈で死にそうだと言うエレーナに、ソーニャは百姓の子にものを教えたり、療治をしたりとやることはたくさんあると諭します。
 ワーニャはエレーナに、魔女になって男の誰かに惚れ込むことを勧めます。エレーナはその言葉に怒り、ワーニャは仲直りの印にと薔薇を摘みに退場します。

 ソーニャはエレーナに、アーストロフへの思いに耐えきれなくなったことを相談します。エレーナは、アーストロフが自分に気があること、そして自分もアーストロフを悪く思っていないことを自覚していました。しかし彼女は、アーストロフにソーニャへの想いを聞き、もし答えがノーであれば、二度とここへは来ないようにお願いすることを約束します。
 アーストロフが図面を見せたいと言ってきたので、エレーナはその場を利用することにしました。アーストロフは図面を見せながらこの近場の緑がなくなっていることをエレーナに語り始めます。
 エレーナはアーストロフに、ソーニャのことをどう思ってるかと聞きました。するとアーストロフは、女としては好きではないと答えます。その答えを受けたエレーナは、ソーニャとの約束通り、もうここへは来ないでほしいと頼みました。するとアーストロフは動揺し、自分の想いをエレーナに伝え、接吻し、明日森の番小屋にくるように頼みます。
 そこへ花束をもったワーニャが帰ってきて、その有様を目撃してしまいます。
 ワーニャに見られたことに気づいたエレーナは、アーストロフと離れ、彼を帰しました。このことでエレーナはここを発つことを決心し、その手配をワーニャに頼み込みました。

 セレブリャコーフ、ソーニャ、テレーギン、マリーナ、ヴォイニーツカヤが入ってきます。
 ソーニャは、自分の想いが遂げられなかったことをエレーナから知らされます。

 皆がそろうと、セレブリャコーフは、自分が老人で病身なので、財産の整理をしたいと伝えます。彼は、若い妻も娘もいて、この田舎で生活を続けていくことに限界を感じていました。そうかといって都会暮らしもできないので、この地所を売り払い、代金を有価証券に振り替えて、残った余分の金でフィンランドに別荘を買いたいと言うのです。この土地は先妻の亡くなった父が、先妻の嫁入り支度に買ったもので、今は娘のソーニャの手に渡ったものでした。そのため、それにはソーニャの承諾がいるのでした。

 ヴォイニーツカヤはセレブリャコーフの案に無条件に賛成しますが、ワーニャは激怒します。この土地はテレーギンの叔父から九万五千ルーブリで買ったもので、父親が七万しか払わずに死んだため、ワーニャはこの十年で残りの二万五千を払い終えていたのです。しかも彼は、死んだ妹のために相続権を放棄し、番頭として土地の差配をして働き、セレブリャコーフに送金してきました。それに対し、セレブリャコーフからは年額五百ルーブリしかもらっていなかったのです。ワーニャは憤慨して出て行ったかと思うと、ピストルを持ち出し、セレブリャコーフに向けて発砲します。そしてその一撃が外れると、椅子に座り込んでしまいました。この場面に遭遇したエレーナは、こんなところにはいられないと嘆きます。

第四幕

 エレーナとセレブリャコーフはハリコフへ出て行くことを決めました。エレーナはアーストロフに想いを打ち明け、彼を抱きしめて別れを告げます。
 ピストルはテレーギンが穴倉に隠しました。自殺を試みたワーニャは、アーストロフのモルヒネを盗みますが、それが知られ、しぶしぶ返します。
 セレブリャコーフとワーニャは和解し、ワーニャは月々の仕送りをすると約束しました。
 セレブリャコーフとエレーナは発っていきました。

 二人きりになったワーニャとソーニャは、再び仕事をしっかりと始めようと語ります。ワーニャが辛い胸中を訴えると、ソーニャは、じっとこらえて生きていこうと言います。彼女はワーニャを抱きながら、時がきて、素直に死を迎えれば、その時にこそほっと息がつけるのだ、と言いました。

管理人の感想

 チェーホフの作品全体に言えることですが、この『ワーニャ叔父さん』でも、それぞれの登場人物が、哀しみを背負って生きていく様が巧みに描かれています。

 退職した大学教授のセレブリャコーフは、勉学に勤しんでまじめに暮らしてきたのにも関わらず、体を壊し、都会暮らしも田舎暮らしもできず、皆に嫌われながら過ごしています。若い妻を娶っても、妻の若い時期を自分が蝕んでいるのではないかと気に病んでいる様子です。

 その妻であるエレーナは、結婚当時はセレブリャコーフのことを本当に愛していると思っていましたが、今では年老いた夫と田舎の生活に退屈し、いらいらする毎日を送っています。

 ワーニャは、自分のものにならない土地を苦労して管理し、セレブリャコーフに貢いできましたが、その苦労は報われず、今ではセレブリャコーフの行ってきた仕事すら否定しています。彼はさらにエレーナへの叶わぬ恋に苦しんでいます。

 ソーニャやアーストロフもまた、それぞれの恋を抱え、思い煩っています。

 大雑把な分類になるのを恐れずに言うと、四大戯曲と言われる『桜の園』、『かもめ』、『三人姉妹』と、この『ワーニャ伯父さん』の中でも、他の三作の登場人物は、不倫に悩んでいたり、芸術家や没落貴族として苦悩していたりと、特殊な人物の苦悩が比較的多く描かれているのに対し、この『ワーニャ伯父さん』は、誰もが人生の中でいつかは背負わなければならないような、「地味」な重荷が描かれています。そのため、一人一人の哀しみを考えれば考えるほど、彼らの心の痛みに共感することができ、この作品の持つ深みを感じられることでしょう。他の三作のような華々しさはないものの、憂愁を感じられる作品となっています。

 そして、結末における登場人物たちは皆、安易な死を選ぶでもなく、快楽の中におちいるでもなく、じっと耐え忍んで、正しく生きていく道を選ぼうとします。その姿勢からも、生きる指針のようなものを与えてくれる作品であると思います。