太宰治『ヴィヨンの妻』の登場人物、あらすじ、感想

 『ヴィヨンの妻』は1947年発表の太宰治の短編です。題名に含まれる「ヴィヨン」とは、15世紀にフランスで活躍した詩人のフランソワ・ヴィヨンのことをさします。フランソワ・ヴィヨンはパリで放蕩を繰り返し、乱闘騒ぎで司祭を殺し、強盗事件を起こして逮捕された人物です。彼は死刑判決を受けましたが、恩赦によってパリ追放の刑に減刑され、その後消息を断ちました。

 この小説の主人公は、放蕩を繰り返す夫と、語り手である内縁の妻です。夫はある料理屋の酒をほとんど無銭で飲み尽くした挙句、店の金を盗み出して宴会を開きます。死刑判決を下されたフランソワ・ヴィヨンに比べると、だいぶスケールの小さい放蕩者ですが、彼の放蕩の様子が、太宰治特有のおかしみと哀しみを持って描かれています。言い訳をしながら放蕩を繰り返す男の弱さと、そのような夫を持ちながらも、したたかに生きていく女の強さが対照的に描かれた作品です。

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ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

『ヴィヨンの妻』の登場人物


二十六歳。一人子供を抱え、貧乏生活している。

夫(大谷)
三十歳。妻のことを顧みず、借金をしながら飲み歩いている。

坊や
私の子供。四歳。

ご亭主さん
中野で料理屋を経営している。

おかみさん
その妻。

秋ちゃん
ご亭主さんとおかみさんのところに私の夫を連れてきた新宿のバーの女給。

矢島さん
私に時たまお金を届けてくれる出版関係の夫の知り合い。

店の客
二十五、六歳。夫のファン。

『ヴィヨンの妻』あらすじ

主人公の「私」が子供に芋を食べさせた井の頭公園

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※ネタバレです。

 私は病弱な四歳になる息子をかかえ、貧しく生活していました。内縁の夫はいつもどこかで飲み歩いて、ほとんど家に帰りません。ある日夫が荒い呼吸をしながら家に帰り、なにかを探している様子です。

 しばらくすると、一組の男女が玄関を開けました。彼らは料理屋を経営している夫婦でした。夫が店で盗みを働いたので、追いかけてきたと言います。夫は探しあてていたナイフで男を脅し、逃げていきました。私は二人を家にあげて、彼らの話を聞くことにしました。

 終戦も間近になった頃、新宿のバアで女給をしていた秋ちゃんという年増の女に連れられて、夫は初めて彼らの店を訪れました。その日は夫は上品な様子でおとなしく飲んで、秋ちゃんに勘定を払わせて帰っていきました。

 二度目に夫が一人で来たとき、百円紙幣を一枚手渡してお釣りをもらいませんでした。しかし夫が支払いをしたのは、この一回のみで、それから三年間、彼らの店のほとんどの酒を一人で飲みつくしたのです。

 そのうちに夫は酒量も増え、連れてきた新聞記者と喧嘩を始めたり、店で使っている二十歳前の女の子をだまし込んで手に入れたりするようになりました。挙句の果てに、店にあった五千円を盗んで逃げ出しました。ここまで聞いた私は、おかしさが込み上げてきて、亭主に悪いと思いながらも、声を挙げて笑ってしまいました。

 私は二人に警察沙汰にするのだけはやめてもらい、翌日店に行くことにしました。私は料理屋に着くと、確実にお金を持ってきてくれる人がいるので、夫が盗んだ金は返せると、自分でも思いがけなかった嘘をつき、それまで店で手伝いをさせてもらうことにしました。

 九時ごろ、クリスマスのお祭りの三角帽と黒い仮面で顔の上半分を隠した夫が、連れの女と入ってきました。夫が来たことを伝えると、亭主は夫と連れの女を連れて店から出て行きました。三十分ほどで亭主は帰ってきました。夫は店の金を盗んだ後、京橋のバーで大宴会を開いていたそうです。連れの女であったバーのマダムにお金を立て替えさせ、昨日盗んだ分だけは返したそうですが、それまでに作った夫の借金は返って来ませんでした。私はこれから毎日店で働かせてほしいと亭主にたのみました。

 翌日から私は「椿屋のさっちゃん」という名で、店で働きました。夫は二日に一度くらいきて、勘定を私に払わせ、時には一緒に帰ることもありました。そのうちに、店に通う人たちが皆犯罪人であるということに私は気づきます。立派な身なりの奥さんがお酒を売りに来ましたが、それは水酒でした。彼女のような上品な人がこんなことをたくらまなければならない世の中で、後ろ暗いところなしに生きていくことは不可能であると私は思います。そして正月の末に、店の客に家まで送ってもらい、その人に私は汚されました。

 その日も私は勤めに出掛けました。夫は店で飲みながら、一人で新聞を読んでいました。店の金を盗んだのは、私と子供にいい正月をさせたかったからだと夫は言い、自分は人非人でないから、そのようなことをしでかしたと続けます。私は嬉しさを感じることもなく、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」と答えました。

管理人の感想

主人公のダメっぷり

 語り手である「私」の夫は、ダメな人間を数多く書いている太宰治の作品の中でも、トップクラスのダメ人間です。

 彼はひと月も家に帰らず、たまに泥酔して帰って来ては、「ああ、いかん。こわいんだ。こわいんだよ、僕は。こわい! たすけてくれ!」と言って「私」の蒲団に潜り込んでは、がたがた震えます。そして三年間もほぼ無銭で飲食を行なった上、店の金を盗んで大宴会を開きます。

 料理屋の亭主が語る夫のエピソードを聞いて、妻である「私」が思わず笑ってしまうほどの男です。

 『人間失格』においても、酒に溺れ、道化を演じながら内面では苦しんでいる男の姿が描かれましたが、この『ヴィヨンの妻』の主人公は、『人間失格』ほどシリアスでなく、どこかおかしみを持って描かれています。

 たしかに彼は苦しいのでしょうが、その苦しみを隠れ蓑にして、自分を許してくれる人々に甘えながら、ちゃっかりと酒を飲んでいるようにも思えてしまいます。苦しいから酒を飲むのか、酒を飲むために自分の苦しみを利用しているのかはわかりませんが、「仕方のない奴だな」と思われながらも、許されてしまうような人間性を持つ人物像のようです。

 しかし、彼の弱さが露見する部分もちょくちょく出てきます。彼は以下のようにも語ります。

 「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです。」

 そして彼は死にたくて仕方ないと言います。人から与えられる優しさや愛も恐怖に感じながら、放蕩を繰り返さざるを得ない彼の悲しい生き方には、やはり憐憫の情を抱かざるを得ません。

「私」の持つしたたかな強さ

 弱みをさらけ出す夫に対し、妻である「私」は、夫の借金を返す当てがあると嘘をついて酒場で働き、「椿屋のさっちゃん」として人気者になります。店に通ううちに、「私」は客たちが皆なにかしらの後ろ暗いところを持っていることに気づき、このような世の中で後ろ暗いことなしに生きていくのは不可能であると悟り、自分を家まで送った男と関係を持ちます。

 散々に放蕩を繰り返してもなお、自分を「人非人」でないと正当化しなければならない弱さを持つ夫に対し、「私」は「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」と答えます。

 作品の冒頭では夫を支える苦労人の妻であった「私」が、ほんの数日で夫の持つ罪の意識を自分の中に抱え込み、それをはるかに超えたところから「生きていさえすればいい」と言葉を発しているような、底知れぬ女性の強さのようなものを感じざるをえません。

 代表作である『斜陽』にも描かれているように、太宰治の作品に登場する女性は、非常にしたたかであり、覚悟のできている人が多いように思います。そのような女性像は、特殊な女性遍歴を持つ太宰治でしか表現できないものではないでしょうか。そのような女性の表現方法も、太宰治の小説の数多い魅力のうちの一つだと思います。