坂口安吾『桜の森の満開の下』の登場人物、あらすじ、感想

 『桜の森の満開の下』は、1947年に発表された坂口安吾の代表作です。
 「桜の森は恐ろしい」と思われていた大昔の鈴鹿峠に住んでいた一人の山賊と、その山賊にさらわれてきた美しくも残酷な女との物語が描かれた作品です。
 評価が非常に高く、人気もあり、しばしば日本の短編小説の最高傑作にも数え上げられる作品の一つで、これまでに映画化、舞台化、漫画家など、数多くの派生作品を生み出しています。
 このページでは『桜の森の満開の下』の登場人物、あらすじ、感想を紹介します。

『桜の森の満開の下』の登場人物


鈴鹿峠に住み着いた山賊。街道に出ては人の命を奪い、気に入った女がいると連れ帰って自分の女房にしていた。桜の森の満開の下に来ると恐ろしさを感じ、その恐ろしさが何なのかと考えている。


男が亭主を殺してさらってきた八人目の女房。ビッコの女以外のそれまでの男の女房を全て殺させ、都に住み始めると男が捕ってきた人間の首で遊ぶ。

ビッコの女
男の女房となっていた女。男が連れてきた女が他の女房を殺す中、一人だけ生かされ、女中として使われることになる。

『桜の森の満開の下』のあらすじ

 現代では、桜の花が咲くと人々はその下で浮かれて陽気になりますが、これは江戸時代からの話で、大昔の人にとって桜の下の光景は恐ろしいものであり、絶景だなどと思われることは決してありませんでした。

 昔の鈴鹿峠は、桜の森を通らなければならない道になっていて、旅人は花の下を通るとみな気が変になり、誰もが一目散に走り出したものでした。そのうちに旅人たちはその場所を避けて通るようになり、桜の森は街道を外れて一人も通ることのない山の中に取り残されました。

 その数年後、その山に一人の山賊が住み始めました。街道へ出て時には人の命を断つ残忍な男でしたが、そんな彼も桜の森の下に来ると風もないのにゴウゴウと風の鳴っているような気がして、怖くなって気が変になりました。
 山賊は、春に花が咲いたら、その恐ろしさが何なのかをじっくり考えようと毎年のように思いながら、何年も過ごしていました。そのうちに彼のさらってきた女房は七人になりました。

 ある日、山賊は身ぐるみを剥がすだけのつもりで街道を歩いていた夫婦を襲い、女のあまりの美しさに亭主を斬り殺しました。今日からお前は俺の女房だと言うと、女は頷き、歩けないからおぶってくれと頼みました。男は女を背負い、険しい山道を歩きました。
 歩くのに危険な場所に来ても、女は男の背から降りようとはしませんでした。美しい顔を見たくなった男が、一度だけ顔を見せてほしいと頼んでも、女は首にしがみついて降りようとはせず、山道を走っておくれと言いました。男は、女の要望に応え、ひどい疲れを感じながら、家へと帰りました。

 家では七人の女房が二人を迎えました。女は、汚らしい身なりの彼女たちに驚き、斬り殺しておくれと男に頼みました。男はためらいながらも、女の言う通りに、逃げまどう女房たちを次々に斬り殺していきました。女は、最も醜いビッコの女だけを殺さず、女中に使うことに決めました。男は女の美しさに不安を感じました。それは桜の森の満開の下を通る時の不安に似ていました。

 春が近づくと、今年こそ恐ろしい桜の花ざかりの林の真ん中で、じっと動かずに座ってやろうと男は考えました。彼はこの女もそこへ連れて行こうかと考えましたが、何故かこの考えが知れては大変だという思いに捕われました。

 男は女のために猪や熊を取り、木の芽や草の根を探しましたが、女は非常なわがままで、必ず都と今の生活とを比べて不服を言いました。男は都というものを知らず、女の不服を理解できないもどかしさに苦しみました。
 女は、山賊の奪ってきた着物には手を触れさせず、身の回りを清潔にさせ、家の手入れを命じました。男は、櫛やかんざしといった無意味な装飾品を女が纏うことで、一つの美が完成されることに嘆息をもらし、物の中にも命があることを知りました。

 やがて男は都を知らないということに羞恥を感じ始め、都に敵意を持つようになりました。女は、本当に強い男なら、自分を都に連れて行き、粋なものを身の周りに置き、自分を心から楽しめるようにしてくれと言いました。男は都に行き、ありとあらゆる物を女の前に積み上げてみせることを約束しました。

 しかし、桜の森の満開の下でじっと座ってみせることを決意していた彼は、桜が満開となるまで待たなければならないと考え、無理を言って出発を延ばしました。そして桜の森が満開になるとひそかに出かけ、風がゴウゴウとはりつめている桜の木の下に来ると、叫びながら逃げ出し、息も絶え絶えになりながら森の外へと飛び出しました。

 男と女とビッコの女は都に住み始めました。
 男は夜毎に女の命じる邸宅に忍び込み、着物や宝石や装飾具を持ち出しましたが、女はそれには心を満たされず、その家に住む人の首をなによりも欲しがりました。彼らの家には何十もの首が集められました。それらの首は毛が抜け、肉が腐り、ウジがわき、白骨になりましたが、女はどこの誰のものかをすべて覚えていました。
 女は姫君の首と大納言の首、醜い坊主の首、美しい娘の首、貴公子の首などを持って来させ、その首たちを使って、恋や憎み合いや殺し合いを演じさせる首遊びを始め、その首の顔の形がくずれるたびに大喜びで笑いました。

 男は都に馴染めず、刀をさすことのできない白昼は、あらゆる場所で怒鳴られ、うるさい人間と喋るということの退屈さに苦しみました。
 やがて人を殺すことにも、きりのない女の欲望にも退屈するようになった男は、山の上に登って都を眺め、なんと汚いのだろうと思い、夜と昼の無限の繰り返しを考え、頭が割れそうになりました。
 家に帰ると、女は相変わらず首遊びに耽りながら、新しい首を持ってくるようにと命じました。男は女の命令を断り、再び山の上へと登りました。そしてこの無限の明暗の繰り返しを止めるために、女を殺すことを考え始めました。
 捉えがたい想念を思い浮かべた彼は、夜が明けても女の家に戻る勇気がなく、数日間、山中をさまよいました。

 ある日、一本の満開の桜の花の下で目覚めた彼は、鈴鹿の山の桜の森のことを思い出し、懐かしさに我を忘れ、自分の山に帰ろうと思いました。
 男は家に帰り、山へ帰ることにしたと言いました。女は、男の持ってくる新しい首がなくては生きていけなかったので、そのうちに都に帰ってくるつもりで、男の郷愁が満たされるまで、自分も一緒に山へ帰ることを決めました。
 女と山へ帰れることになった男は、胸がいっぱいになりました。二人はすぐに出発しました。女は、ビッコの女に、すぐに帰ってくるから待っておいでと密かに言いました。

 二人は道のない林を通り、桜の森を歩くことになりました。女は、山道を歩けないので背負っておくれと言いました。男は、桜の花の下を通ることは分かっていたものの、女といる幸福のために、恐れを感じてはいませんでした。
 桜の満開の森が現れ、男は女を背負いながら、その中へ踏み込みました。すると女の手が冷たくなっているのが感じられ、彼女が鬼であることに気づきました。それは全身が紫色の顔の大きな老婆で、口は耳まで裂け、髪はちぢれた緑でした。
 男は走ってその鬼を振り落とし、夢中になってその首を絞めました。
 気づくと男は女の首に手をかけて殺していました。男は泣きながら女を呼びましたが、それは徒労でした。
 それは桜の森のちょうど真ん中あたりでしたが、孤独となった彼の不安は消え、いつまでもそこに座っていることができました。
 男は四方を見渡し、頭上の花の下に無限の虚空が満ちているのを感じました。その花と虚空の冷たさに包まれた彼は、胸の中にあたたかなものを感じ、それが悲しみであることに気づきました。
 女の顔にかかろうとした花びらをとってやろうとすると、降り積もった花の下に彼女の姿はありませんでした。そして、その花びらをかき分けようとした彼の身体ももはや消えており、あとには花びらと冷たい虚空がはりつめているばかりでした。

作品の概要と管理人の感想

 『桜の森の満開の下』の舞台は、大昔の鈴鹿峠。桜の森のある山に、旅人たちの金品を奪い、気に入った女がいると持ち帰って自分の女房にしてしまう一人の山賊が住み着きます。彼は人気のない桜の木の下を通るたびに恐ろしさを感じ、その恐ろしさの本質が何なのだろうかと毎年のように逡巡しています。

 男は、身ぐるみを剥がすだけのつもりで通りがかったひと組の夫婦を襲い、女のあまりの美しさにその夫を殺します。女は不安を覚えるほどに美しく、男はその不安が桜の森の満開の下にいる時と似ていることに気づきます。

 女は、これはもう典型的なサイコパスです。彼女はまず男にこれまでの女房たちを殺させ、男をたちまちのうちに支配します。そしてわがままを言って都に住み始めると、男の捕らえた首を使って遊び始めます。女が男を愛していたのかどうかというのは、ちょっとよく分かりませんが、自分の限りない欲望を満足させてくれる相手として必要としていても、男の本質を愛していたわけではないと考えた方が適当であるような気がします。

 その女の言いなりになっていた男は、昼間は人々から虐げられ、夜になると女のために人を殺しに出かける生活の中で、やがて孤独を深め、内省的になっていきます。都の生活に馴染めない彼は、人を殺すことにも退屈を感じるようになり、山へ帰ろうと決意します。女は、いずれ男を言いくるめて都にかえるつもりで、山に帰ることに同意します。
 男は女をおぶって山へと帰ります。そして桜の森の満開の下に行くと、女が全身が紫色の顔の大きな老婆の鬼になっていることに気づきます。彼はその鬼を振り落とし、首を力一杯に締め付けます。気づくと、既に女はこと切れており、あとには音もなく桜の花びらが降り注いでいます。

 男を惑わせ、恐怖に陥れたのは、(現代で言うところの)桜の美しさです。しかし男は「桜が美しいものだ」という固定観念を持ちません。昔の人が桜の花を忌避していたというのが真実かどうかはわかりませんが、「桜の花が恐ろしい」と思われている時代に、満開に花をつけた桜に見渡す限り囲まれることを想像すると、その圧倒的な景色に恐怖や不安を感じることがあってもおかしくはないのではないかと思います。美しいものを見たときに、我々は自分が感動していると思いますが、実はこの心の震えは、何かに恐怖を感じているときの感覚と、本質的には同じものなのかもしれません。男は、その恐怖によって感覚が研ぎ澄まされ、女の本質を見たのかもしれません。
 心の奥に醜い老婆の鬼を抱える女に都合よく操られていたにもかかわらず、その女を自分の手で殺めてしまったことで泣き崩れる男の姿からは、胸を締めつけられるような感覚にさせられます。そして女の上に積もった花びらをかき分けようとした彼自身も消えてゆき、あとには、「花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかり」と締めくくられます。

 戦慄を覚えるような恐ろしさと美しさの両方を、これほどまで深く感じさせてくれ、なおかつ結末では胸が締め付けられるような余韻をしっかりと残してくれる短編小説を、管理人は他に知りません。好きな日本人作家による短編小説をいくつかあげろと言われたら、芥川龍之介の『杜子春』、梶井基次郎の『檸檬』、太宰治の『富嶽百景』などと共に、この『桜の森の満開の下』は必ず入ってくる作品の一つです。
 うまく言えないんですが、主人公の男が経験するさまざまな感情の波や、極端な美しさや醜悪さを立て続けに表現して読者の感情を激しく揺さぶり、短編という形式が最も引き立つような、「一気に勝負をかけに来ている」という印象を受ける作品です。

 上に挙げた日本文学屈指の傑作『檸檬』を書いた梶井基次郎の作品の中に、『桜の樹の下には』というのがあります。その作品では、桜の樹のあまりの美しさに不安を感じ、その樹の下に死体が埋まっていると考えることで、はじめてその不安から解放されるという男の独白が書かれています。

 我々日本人にとってあまりに馴染み深い花である桜の美の中に、作家たちは恐ろしさを見るのでしょうか。美しいものの美しさだけを描写するだけでなく、その美しさによってもたらされる心の震えを、恐ろしさに結びつけて描写する作家たちは、普通の人よりも一歩踏み込んだ考え方をしているのだなと、改めて考えさせられます。