太宰治『斜陽』の詳しいネタバレあらすじ

太宰治作『斜陽』の章ごとの詳しいあらすじを紹介するページです。ネタバレ内容を含みます。

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 かず子の母はスープをひとさじ吸って、「あ」とかすかな叫び声をあげました。かず子はスープに嫌なものでも入っていたのかと聞きましたが、母は何事もなかったようにスープをひらりと飲みました。母の食事の仕方は、礼儀作法には外れていましたが、かず子の目にはとても可愛らしく、エロティックにすら見えました。弟の直治は母のことを本物の貴族であると言っていました。
 母は、裏庭のしげみの奥へ用をたすこともありました。ルイ王朝の頃の貴婦人達は、宮廷の庭や廊下の隅に、平気で用を足していたことを知り、母もそのような貴婦人の最後の一人ではないかと、かず子は思うのでした。
 母は、かず子の作ったスープを、「お上手に出来ました」と言い、朝食を終えました。

 先程小さく叫んだのは、直治のことを思い出したのかとたずねると、母は「かも知れないわ」と答えました。直治は高等学校で文学に凝って不良少年のようになり、大学の時に召集されて南方の島で消息を絶ったのです。
 かず子は、直治を心配する母を思い、目頭を熱くして、直治のような悪漢は簡単には死なないと言いました。綺麗な人が早く死ぬのだと言うと、母は、心配な病気にかかったばかりにも関わらず、それなら自分は九十まで大丈夫だと言いました。かず子は「意地わるね!」と言って涙を流しました。

 その四、五日前、十個ほどの蛇の卵を、近所の子供が庭で見つけました。かず子はそれを蝮の卵だと思い、燃やそうとしました。卵はどうしても燃えなかったので、近所の子供に梅の木の下に埋めさせ、墓標を作って拝みました。それは蝮の卵ではなく、普通の蛇の卵でした。
 十年前、父親の臨終の時に、枕元に蛇が出たため、母は蛇を恐れていました。そのことは母と叔父だけの秘密でしたが、父親が亡くなった日の夕方、かず子がお供えの花を切りに庭に出ると、庭にある木の枝という枝に蛇が巻き付いていました。
 蛇の卵を焼いたのを母に見つけられたので、かず子は何か不吉なものを感じ、母の寿命を縮める小蛇が自分の胸の中にいるような気がしました。
 二人はその日、母親だと思われる蛇を見つけました。母は、その蛇が卵を探しているのだと言って、沈んだ声で「可哀想に」と言いました。かず子は夕日に当たった母の顔を非常に美しく感じ、自分の胸の中にいる醜い蛇が、母という美しい母蛇を食い殺してしまうのではないかという気になりました。

 父親が亡くなってから、かず子の一家は、母の弟の叔父の世話になっていました。しかし、無条件降伏になり財産がなくなって、東京の家を引き払わなければならなくなり、叔父に言われるがまま、伊豆の山荘に引っ越しをすることになりました。母は、どのような家か見ることもなく引っ越しを決めました。
 引っ越しの準備をしていると、母は顔色を悪くして部屋に入り、かず子がいるから伊豆に行くのだと言いました。もし自分がいなかったらどうするのかとかず子が訊ねると、母は夫の死んだこの家で死んでしまったほうがいいのだと答え、はげしく泣きました。
 それまでかず子は、のんきな優しい母親だと思って甘え、母は惜しまずにかず子と直治のために散財していました。しかし母が激しく泣くのを見て、かず子はお金を無くしてしまった事がおそろしいことだと初めて気づきました。
 翌日、かず子と母は、叔父と連れ立って、伊豆の山荘に着きました。母はこの土地の空気の美味しさと、海を臨める景色を褒め、気丈に振る舞っていましたが、そのうちに高熱を出して寝込んでしまいました。
 かず子は母のことが可哀想になり、このまま一緒に死にたいと思いました。

 翌日、医者に強い注射を打ってもらい、その翌日に病気は治りました。かず子の母は、東京の家が恋しくて気が遠くなり病気になってしまったが、今では神様が新しい自分に蘇らせてくれたようだと言いました。
 それからかず子と母は、安穏に暮らしてきましたが、かず子にはその安穏が見せかけのものに過ぎないという予感がありました。母は日に日に衰え、かず子は自分の胸の中にいる蛇が母を犠牲にしてまで太っていくように感じました。

 蛇のことがあってから十日ほどだった頃、かず子は火事を起こしかけました。風呂のかまどの燃え残りの薪を、火を消し忘れて薪の山のそばに置いたことが原因でした。火は屋根に燃え移りそうなところで近所の人たちによって消されました。巡査は、これを届け出ないことにしてくれました。
 翌日、この村の宿屋のおかみさんであるお咲さんに助言をもらい、かず子は昨夜の火事で迷惑をかけた人たちにお詫びのお金を持って歩きました。
 そのうちの一人に、風が強かったら村中が燃えてたと叱責を受け、かず子は尤もだと思いました。そして火事のお詫びのためにみじめな死に方をするくらいなら、華麗に滅びたいと考えました。

 その翌日から、かず子は畑仕事に精を出しました。終戦間際、かず子は徴用されて肉体労働を行ったことがありました。外国人のような顔立ちをしているので、スパイだと言われることもありましたが、一人の若い将校が、林の奥にある板が積んである場所にかず子を連れて行き、休ませてくれたことがありました。将校は文庫本を渡し、弁当を持ってきてくれました。午後になって帰ってよいと言われ、かず子が文庫本を取り出してお礼を言おうとすると、言葉が出ず、涙が流れました。将校の目にも涙が光りました。
 かず子はこの時の地下足袋を履いて畑仕事に精を出し、不安や焦燥を紛らわせました。母はより生気がなくなりました。

 ある日、母は、直治が生きていることをかず子に伝えました。南方から帰還した同じ部隊の人が、叔父のところに挨拶に来て、直治がもうすぐ帰還することを伝えたのでした。直治はひどい阿片中毒になっているということでした。高等学校の頃にも彼は麻薬中毒になった過去がありました。そのため母は薬屋から借りを作り、その金を返すのに二年もかかったのでした。
 叔父によると、阿片中毒を治すまで帰還は許されないだろうということでしたが、もし帰還しても今の東京ではとても生きていくことができないだろうから、この伊豆の山荘で養生させたほうがよいとのことでした。しかし叔父の方でも送金するための財産がなくなり、かず子を駒場の血縁に奉公させる提案をしてきました。
 その言葉にかず子は取り乱し、直治が帰ってくるから自分は邪魔者になるのだろうと、自分でも思いがけない言葉を母にぶつけ、「行くところがあるから出て行く」と言って、激しく泣きました。
 そのため母は、叔父にかず子の奉公を断る手紙を書き、これからは着物を買って、畑仕事などせずに贅沢に暮らそうと言いました。
 母は、先ほどかず子が怒りに任せて言った「行くところ」とはどこなのかを聞きました。結婚期間中、かず子は夫から怒られた時に、恋人があると言ったことがありました。夫は、かず子が好きだと公言していた妻子ある絵描きの細田との関係を疑い、お腹にいる子供も細田の子ではないかと言い始めました。そのうちに周囲がかず子と細田との関係を誤解し、かず子が里に帰って死産し、それきり夫との関係が途絶えたのでした。かず子が細田と恋仲であったとその夫から聞かされていた母は、細田のところへ行くのかとかず子に聞きました。かず子は、前の夫が細田と自分との仲を邪推しただけだと否定しました。

 

 かず子は、牡丹色の毛糸にコバルトブルーの糸を足して、セーターを編んでいました。
 それはかず子が小学校の頃に母が編んでくれた首巻きに使われていた糸でした。当時のかず子は、頭巾になっているその首巻きを被ると小鬼のように見えて嫌だったので、その首巻きをしませんでしたが、今になってその首巻きが空の色に調和していることを知りました。二十年が経ち、かず子がこの色の良さが本当にわかるまで、何も言わずに、好きなようにさせてくれていた母が、自分と直治のために弱っていくことにかず子は不安になりました。

 直治は帰還すると、病気でやつれてしまった母のことを早く死ねばいいと言って、宿屋へ飲みに言ってしまいました。母は直治の言うことはなんでも従おうとしました。
 直治は母から二千円をもらい、東京へと出かけて行き、それから帰りませんでした。直治が出征前に書いていた「夕顔日記」と名付けられたノートを開くと、薬物中毒、借金、創作の苦しみ、自殺を考える手記が書かれていました。

 六年前、直治は、薬屋への支払いが滞り、嫁いだばかりのかず子に手紙を出し、しばしば金をねだりました。恥ずかしくて顔を合わせられないと言って、小説家の上原二郎のところへ届けるように言い渡し、母にだけは麻薬中毒のことを知られたくないので、その金を薬屋に払ったら養生をして麻薬中毒を治すつもりだと書きました。かず子は里から付き添ったばあやのお関さんと相談して、私物を売り、お金を届けさせましたが、直治の麻薬中毒はひどくなるばかりでした。
 お関さんによると上原は小柄で顔色が悪く無愛想なようでしたが、よくできた妻と六、七歳の娘がいるということでした。
 かず子は何度も金を渡しているうちに心配になり、上原を訪ねて行きました。上原はかず子が直治の姉であることを知ると、ビルの裏手の地下室に連れ出し、酒を飲み、煙草を吸い、いつまでも黙っていました。上原は直治の麻薬中毒を治すために、酒飲みにしてしまおうとかず子に言い始め、店を出ると素早くかず子にキスをしました。かず子は上原にタクシーを拾ってもらって別れました。その日から、かず子は自分に「ひめごと」ができたように感じました。

 直治は、かず子の離婚を自分の責任だと感じ、号泣しました。かず子は、直治に上原のところへ行って酒を飲むように勧めました。かず子は上原の小説を読んで褒めると、直治は嬉しそうにしました。やがて二人は上原の小説について話し合うようになり、直治は上原のところへ通い、麻薬中毒からアルコールのほうへと転換していったようでした。

 母は病人のように寝たり起きたりし、直治は焼酎を飲んでいるだけで、三日に一度は衣類を売ったお金で東京へ行きました。かず子はそのような生活の中で、上原に手紙を書きました。その手紙は、自分が腐っていくのが怖いという内容で始まり、M・Cというイニシャルの、妻も子供もある男の愛人として生きていくことを、母や直治に宣言したいということが書かれており、それについての助言を求めていました。さらにかず子は、そのM・Cに自分のことを聞いてくれと、上原に頼みました。宛名には「上原二郎様(私のチェホフ。マイ・チェホフ。M・C)」と書かれていました。

 返事が届くことはなく、かず子は次の手紙を上原に出しました。そこには、ある芸術家の六十過ぎの師匠から結婚の申し入れを受けたことが書かれていました。かず子はその人から抱かれる想像がどうしてもできず、子供が欲しいのだと言って断りました。その師匠のことを、かず子はチェーホフの『桜の園』の、零落するラネーフスカヤ家を買い取ろうとする成金のロパーヒンに例えました。そして上原の小説を読んでいるうちに、心の中に上原の存在が染み込んできてしまったと書き、『かもめ』のニーナのように単に小説家に憧れているわけではなく、妾でもかまわないので上原との子供が欲しいという内容で、返事を催促しました。

 さらに次の手紙では、母が、直治の師匠はどのような人なのかと問うてきたことが書かれました。かず子が上原のことを札つきの不良だというと、札つきなら、鈴を首に下げている子猫のようでかえって安全だと母は言いました。それを聞いてかず子は嬉しく思いました。そしてかず子は家に来るように上原を誘いました。
 かず子は世間で尊敬している人たちは皆が偽物であり、札つきの不良だけが自分の味方であり、自分もまた札つきの不良にならなければ、自分の生き方ではないと考えており、そのためには上原に会いにきてもらい、妾になり、その子供を産むことで自分の胸に燃える苦しみの炎を消してもらうことが必要でした。
 かず子はM・C(マイチャイルド)というイニシャルを添えて、この手紙を送りました。

 これら三つの手紙を書いても、上原からの返事は来ませんでした。上原は相変わらず不道徳な小説ばかり書いているようで、直治には出版業を始めるように言ったようでした。かず子は凄愴な思いに襲われ、自分から上原に会わなければならないと思うようになりました。夏が過ぎ、上京の決心をしたとたんに、母の様子がおかしくなりました。一週間経っても熱が治らず、浸潤ということでしたが、医者は心配ないと言いました。
 しかし母の様子を叔父に伝えると、以前父親を診察していた三宅の老先生が診察に訪れ、その先生は、母が肺結核でもう手のつけようがなくなっていることをかず子に告げました。かず子はそれを母に隠しました。

 母の熱が下がらない中、かず子はローザルクセンブルグの経済学入門を読んでいました。かず子はこの著者が旧来の思想を片端から破壊していく勇気に興奮を覚えました。道徳に反しても恋する人のところへ走り寄る人妻の姿を思い浮かべ、破壊は哀れで悲しく、美しいものなのだと思い、革命を起こさなければならないと思い、そして人間は恋と革命のために生まれて来たのだという考えに至りました。

 母の熱は下がらず、手がむくみ、食欲も落ちて来ました。かず子はそれを直治に伝え、二人で泣きました。母の死後、叔父に頼るのはまっぴらだと直治は言いました。直治がかず子にどうするつもりなのかを聞くと、かず子は革命家になると言いました。
 母は蛇の夢を見たと言いました。縁側の沓脱ぎ石の上に蛇がいると言い出したので、縁側に出てみると、母の言う通り、かず子が焼いた卵の母蛇がそこにはいました。それを見たかず子は、母はもうだめなのだという諦めが生まれました。
 翌日から、かず子は母に寄り添って過ごしました。母が死ぬことが決まると、かず子の中から感傷が消え、あさましくても生き残って、思うことを成し遂げようとする気持ちが湧き上がりました。
 直治から容態を聞いた叔父が見舞いに来た後で、「忙しかったでしょう」と言ったのを最期に、人と争わずに、美しく悲しく生涯を送った最後の貴婦人であった母は亡くなりました。

 母を看取ると、かず子は悲しみに沈む間も無く、戦いとらなければならない恋にすがって生きることを決めました。
 母の葬式が終わり、ダンサーと帰ってきた直治に家を任せ、かず子は東京に向かいました。上原がいると聞いていた荻窪駅で列車を降り、家を探し、やっとの思いで上原二郎の表札のある家を見つけ、外から呼びかけました。妻と思われる女が出てきたので、上原がいるかを聞くと、たいていは荻窪駅の白石というとおでん屋にいると言いました。かず子は上原の妻にいずれ憎まれることになるのかもしれないと思いながら、切れた下駄の鼻緒を繕う紐を貰いました。

 その後、何軒かの店をたらい回しにされ、かず子は西荻の店で上原を見つけました。上原は、六年前に会った頃とは変わり、老いていました。かず子はその隣に席を作ってもらいました。皆「ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ」という掛け声で、無理やり酒を流し込んでいました。
 かず子はお手洗いに立った帰りに、チエちゃんという綺麗で若い女に呼び止められ、病身のおかみさんと三人で飲み始めました。おかみさんは、不意に上原といつも一緒にいた直治はどうしているのかチエちゃんに聞きました。チエちゃんは直治のことが好きなようで、顔を赤らめながら、ダンサーの恋人でも出来たのではないかと答えました。かず子は、自分が直治の姉だと言うと、おかみさんとチエちゃんは、このようなむさ苦しいところへよく来てくれたと言いました。

 上原が部屋に入ってきて、かず子のそばに腰をおろし、泊まるところがないのだろうと言いました。かず子は上原が手紙を読み、自分を愛していることを感じました。上原はかず子が泊まれる場所まで送りました。かず子は肩を抱かれても拒否せずに寄り添って歩きました。上原は、今でも自分との子供が欲しいのかと聞き、性欲の匂いのするキスをしました。かず子は屈辱を感じ、涙を流しました。二人は福井という五十過ぎた頭のハゲた小柄な絵描きの男の家の二階に上げてもらい、上原は布団を敷いて帰って行きました。かず子がまどろんでいると、再び上原がやってきて、かず子は無言で抵抗しましたが、そのうちに可哀想になり、抵抗をやめました。かず子は上原が近ごろ喀血したことを見破りました。上原は悲しくて仕様がなく、死ぬ気で飲んでいると打ち明けました。かず子は、自分の恋が終わったかのように思いました。しかし翌朝になり、上原の疲れ果てた寝顔を見ているうちに、それが美しい顔のように思われ、再び恋に落ちたことを悟りました。
 その朝、直治は自殺しました。

 直治はかず子に遺書を残しました。
 高等学校や兵隊に入った直治は、自分と全く異なる階級の人々と出会い、民衆の友になるために、家を忘れなければならないと思い、麻薬を始めたようでした。そこで下品な言葉も覚えるようになりましたが、民衆とは芯から打ち解けて話すことはできませんでした。上流貴族の生活に戻ることもできず、やがて直治は「人間は、みな、同じものだ」という思想を憎むようになります。そしてこの言葉から脅迫めいたものを感じるようになり、酒や麻薬にますますのめり込んでいくこととなったようでした。
 直治は遊んでも少しも楽しく感じませんでした。しかしこれまで生きながらえてきたのは、母の愛情のためだけだったのでした。母が死んだ今になってみれば、自分が死んでも悲しむ人はおらず、生活能力もないため、死んだ方がいいと思うようになりました。

 直治には戦地に行っても忘れられなかった人がいると言いました。その相手はある洋画家の奥さんでした。ある夏の日の午後、その洋画家を訪ねると奥さんが出てきて、洋画家は留守だったので、直治は、三十分ほど待たせてもらいました。洋画家が帰ってきそうもないと思って帰ろうとした時に、「なぜ?」と言われた時の奥さんの瞳に、直治は苦しい恋をしてしまったそうでした。その洋画家は、ただ流行に乗って絵を描くだけの巧妙な商人でした。直治はその奥さんに会いたいがために、その洋画家とよく遊びました。その奥さんが自分のことを好きだったという夢を見たあと、直治は諦めるために、他の女と遊び狂いましたが、その奥さん以外の女を美しいと思うことはできませんでした。その奥さんの名はスガちゃんという名前でした。

 直治はその日、遊び相手のダンサーにせがまれて、山荘に来ました。かず子が東京に出かけ、本質的に馬鹿なところがあるというそのダンサーが最初の発見者になってくれる今こそが死ぬ時だと思ったようでした。
 遺書の結びには「僕は、貴族です。」と書かれていました。

 直治の死の後始末をして、冬の山荘に一人で住み始めたかず子は、上原に最後の手紙を書きました。

 かず子は上原に捨てられましたが、望み通り子供を身籠りました。それはかず子が古い道徳を押しのけ、革命を行った結果でもありました。かず子は子供を育て、さらなる革命の完成のために生きていくことができると手紙に書きました。

 最後にかず子は上原に頼みごとをしました。それは、生まれてくる子供を上原の妻に抱かせ、「これは、直治が、或る女のひとに内緒に生ませた子ですの」と言わせてほしいということでした。自分自身でもなぜこのようなことがしたいのか、かず子はわかりませんでしたが、直治のためにも、どうしてもそうしなければならないのだと言いました。

 手紙の結びの宛名には、M・C(マイ・コメデアン)と記されました。