フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(第二部)の詳しいあらすじ

 『カラマーゾフの兄弟』の第二部は、さまざまな人物のもとを訪れるアレクセイの一日を中心に物語が進行します。この作品の核とも言うべき箇所で、特にイワンの語る「大審問官」と、ゾシマ長老が息を引き取る間際の説法は、ドストエフスキーの神に対する考え方の揺らぎがそのまま表現されていると言っても過言ではないでしょう。
 この作品中最も読むのに苦労する箇所ですが、ここをしっかり読み込むほど、第三部から急加速する物語について行くのが容易になると共に、登場人物が抱える十人十色の苦悩や、各々の欲望が交錯しあうストーリーの面白さ、そして何より、この作品の偉大さが理解できるようになるでしょう。
 このページでは『カラマーゾフの兄弟』(第二部)のあらすじを詳しく紹介していきます。

※ネタバレです。目次を開いてもネタバレします。

※他の部分のあらすじはこちら
第一部  第三部  第四部  エピローグ

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※詳しい登場人物紹介はこちら

第四編

アレクセイを送り出すゾシマ長老

 翌朝早くアレクセイは起こされました。ゾシマ長老は疲労しながらも、意識がはっきりしており、懺悔と聖餐式を望みました。
 パイーシイ神父による懺悔聴聞、懺悔と聖餐式、塗油式を終えた長老は、最後の力をふりしぼって集まった僧たちに説教を行いました。それは、修道院に入ったことによりすでに俗世の人々より劣っていて、あらゆる人たちに対して罪を負っていることを認識し、その罪を後悔し、奢らず、悪しき人を憎まず、互いに愛し合うことを説いたものでした。
 周囲の人々は、長老の死後に何かしらの偉大なことが起きることを期待していました。

 アレクセイはラキーチンから呼び出され、ホフラコワ夫人からの手紙を渡されました。その手紙には、赴任先から音沙汰のない息子を死者として法要を行ってよいかと町の老婆から聞かれたゾシマ長老が、それを固く禁じたことについて書かれていました。その息子からロシア本土に帰るという連絡がきたようで、このことを知ったホフラコワ夫人は奇蹟として皆に伝えるよう、アレクセイに頼んできたのでした。
 ラキーチンがアレクセイよりも先にこれをパイーシイ神父に伝えていたため、皆は長老の死による奇蹟の到来を期待していました。

 北国オブドールスクの小さな修道院から来たある神父は、その前日、この修道院のフェラポント神父を訪ねていました。フェラポント神父は、三日に一斤半のパンだけで生活している七十五歳の修道僧で、その神がかり的な生活で精霊と話をしているという噂が流れ、大勢の修道僧の尊敬を集めていました。彼は長老制度の反対者で、修道院の僧庵に暮らしながら、ゾシマ長老のことを訪ねたことがありませんでした。
 もともと長老制度に疑問を抱いていたオブドールスクの神父は、フェラポント神父を訪ね、修道院にはびこる悪魔や、時折りやってくる精霊について話すのを聞き、ゾシマ長老よりも彼の方に惹かれていており、長老が奇蹟を起こすという皆の期待にショックを受けました。

 再び疲労を覚えたゾシマ長老は、アレクセイを呼び、自分が遺言を残さずに死ぬことはないので、これから約束した人たちのところへ行くようにと命じました。アレクセイは後ろ髪を引かれる思いで修道院を出て行きました。
 アレクセイが俗界の誘惑に惑わされないようにとゾシマ長老から託されていたパイーシイ神父は、出ていこうとする彼に祝福を与えました。

フョードルを訪れるアレクセイ

 アレクセイは、まずフョードルを訪ねました。フョードルは、今朝もまだ昨日の疲れが残っている様子で、イワンが自分の言いつけ通りに買い手が現れた領地の村チェルマーシニャへ行こうとしないのは、カテリーナに恋をしている彼が、ドミートリイとグルーシェニカを結婚させるため、自分を殺すつもりなのではないかと考えていました。これからも淫蕩にふけるために金が必要であった彼は、ドミートリイを牢に入れようかと思案しながら、グルーシェニカが彼に同情するのを懸念し、それができずにいるようでした。
 フョードルは激昂しながら、ドミートリイやイワンに対する怨言を並べたて、アレクセイに出ていくよう促しました。アレクセイは、別れの挨拶をするために、何気なく父の肩に接吻をしました。
 フョードルは、翌日も来るようにとアレクセイを見送ると、ベッドに横たわり、すぐに眠りにつきました。

イリューシャとの出会い

 父への敵意に燃えるドミートリイを探し出さなければならないと考えながら歩き始めたアレクセイは、十歳か十一歳くらいの六人の中学生の集団に出くわしました。彼らは溝を隔てて立っている少年めがけて石を投げつけていました。
 アレクセイは、その六人を制し、川の向こうにいる少年をかばうために彼らの前に立ちはだかりました。六人の少年たちによると、川向こうの少年はアレクセイのことを知っているようでした。
 再び少年たちの間で石の投げ合いが始まり、一人で応戦していた少年は、胸に石が当たると泣きながら逃げていきました。
 アレクセイは、その青白く痩せた、背の低い少年に追いつき、自分を知っているのかと訪ねました。しかし少年はそれには答えず、敵意を込めた目でアレクセイに飛びかかり、中指に噛みつきました。
 アレクセイは、やり返そうとせず、自分になぜ敵意を持っているのかと聞きました。すると少年は大声で泣き出し、逃げ出していきました。アレクセイは、いつかもう一度その少年を探しだし、自分に敵意を向ける理由を探ろうと決心しました。

ホフラコワ夫人を訪れるアレクセイ(リーズに結婚話をする)

 町にあるホフラコワ夫人の家に着いたアレクセイは、ゾシマ長老が今日亡くなるだろうと伝えました。
 そこにはカテリーナが訪れており、ホフラコワ夫人は、彼女とグルーシェニカの間に起きた争いのことを知っていました。家にはイワンもやってきていて、カテリーナと深刻な話をしているようでした。

 リーズは横の部屋の扉の隙間から顔を合わせないまま、アレクセイをからかいましたが、彼の傷のことを知ると飛び出してきて、母親に薬壜を持って来るように頼みました。
 リーズと二人きりになり、どこで怪我をしたのかと聞かれたアレクセイは、これまでの少年とのいきさつを語りました。
 聞き終わったリーズは、昨日自分が渡した恋文はすべて冗談なので、返して欲しいと言いました。アレクセイは、その手紙は今はゾシマ長老のところにあるので返せないが、その内容を全て信じたので、これから学業を続けて試験に合格したらすぐに結婚しようと話しました。リーズは、相変わらず冗談を言いながらも、落ち着きを取り戻したようでした。

ホフラコワ夫人を訪れるアレクセイ(カテリーナとイワンとの会話)

 ホフラコワ夫人が戻ってくると、アレクセイは、カテリーナとイワンのいる部屋に通されました。
 アレクセイはそれまで、カテリーナが一途にドミートリイのことを愛しているのだと思い込んでいました。しかしカテリーナがイワンを愛しているにも関わらず、ドミートリイへの偽りの愛を公言し、自らを苦しめているに過ぎないとホフラコワ夫人が言ったことで、その考えに迷いが生じました。
 カテリーナは、今ではドミートリイに憐みを感じているので、彼のことを愛していないのかもしれないと思いながら、決して彼のことを見捨てず、どこか違う町に去りながらも彼のことを見守り続け、彼の幸福のための手段になるのだという決心を固めていました。
 イワンは、カテリーナのこの考えに賛成の意を示し、彼女の苦渋を耐え忍ぶ誇らしさや、その意識がいずれ満足をもたらすだろうと語りました。アレクセイは、彼女の中にあるプライドや憤りを見抜き、同情を感じました。

 カテリーナがアレクセイやイワンに感謝の言葉を述べると、イワンはだしぬけに、明日になればモスクワへ発たなければならないと言いました。
 カテリーナは、自分の窮状を、モスクワのアガーフィヤや叔母に伝えてくれる者が現れたことに喜びを表しました。アレクセイは、カテリーナが喜んだのが演技だと感じ、彼女がドミートリイのことを偽りの気持ちで愛し、イワンのことを愛しているが故に彼を苦しめているのだと指摘しました。
 それを聞いたカテリーナが怒り始めると、イワンは、カテリーナはドミートリイへの復讐のために自分を身近に置いていたにすぎず、自分のことを一度も愛したことはないのだと語りました。また彼は、カテリーナがプライドの高さから献身的な自分を演じ、ドミートリイの不実を非難するために彼のことを愛しているのだと語りました。彼は愛するカテリーナに永遠の別れを告げ、彼女から受けた苦しみを今は赦すことはできないと、握手もせずに部屋を出て行きました。

 イワンを見送ったカテリーナは、一週間前にドミートリイがある飲み屋で二等大尉に乱暴を働いた時、その大尉の息子が大声で泣き叫びながら父親のために赦しを乞うていたということをアレクセイに伝えました。
 その大尉はスネギリョフといって、気が狂っている妻を抱えながら、仕事もなく、貧しい生活を送っているようでした。アレクセイは、その二等大尉の息子が自分に噛みついた少年だということに気づきました。
 カテリーナは、何かの口実を見つけてスネギリョフに渡して欲しいと、アレクセイに二百ルーブルを託すと、素早くカーテンの奥に姿を消しました。

 ホフラコワ夫人は、カテリーナのことをしきりに褒め、彼女がドミートリイと別れ、イワンと結婚することを望むと語りました。するとカテリーナがヒステリーを起こし始めたという知らせが小間使いからもたらされ、ホフラコワ夫人は彼女のところへ向かいました。
 自分が恋について何も知らないにもかかわらず、カテリーナに酷いことを言ったことを後悔し始めたアレクセイは、リーズとろくに話もせずに、部屋を走り出ていきました。

スネギリョフ二等大尉を訪れるアレクセイ

 アレクセイは、スネギリョフ二等大尉のところへ行く前に兄のところへ寄りましたが、ドミートリイは居留守を使うよう家主に指示しているらしく、会うことがでず、スネギリョフの住んでいる家へと向かいました。

 スネギリョフは、四十五、六歳の小柄で痩せこけた、赤茶けた髪の、一目で小心とわかる男でした。
 彼は、足の悪い、頭のおかしくなった四十三、四歳の妻アリーナ・ペトローヴナと、ワルワーラ・ニコラーエヴナとニーナ・ニコラーエヴナという二人の娘、そしてアレクセイに噛みついた息子イリューシャを養っていました。

 ワルワーラは、二十歳ほどの、貧しい服装をした、不器量な赤毛の女学生で、ロシア女性の権利を見つけ出すためにペテルブルクへ行きたがっていました。

 ニーナは、やはり二十歳くらいの、美しく善良そうな目を持つ、せむしで両足が麻痺した娘でした。

 アレクセイは、ドミートリイの件で訪れてきたのだと語りました。
 するとカーテンの影から、アレクセイに噛み付いた少年イリューシャが、自分のことを言いつけにきたのだろうと叫びました。イリューシャは熱を出しているようでした。アレクセイは、気立てのよいイリューシャが、父親の仇である自分に飛びかかってきたことを理解しました。

 スネギリョフは、二人の娘とイリューシャをアレクセイに紹介しました。彼は、貧しいながらも妻と三人の子供たちを愛していました。

 頭がおかしくなっていた妻や、敵意のある眼差しを向けるワルワーラやイリューシャと離れて二人きりで話すために、スネギリョフは、アレクセイを外へと連れ出しました。

スネギリョフと語り合うアレクセイ

 スネギリョフは、ドミートリイに飲み屋から広場で引き摺り出された時に、九歳のイリューシャがドミートリイの手に接吻しながら、赦してほしいと懇願したことを語りました。ドミートリイはその時、決闘になれば受け入れる姿勢を見せたものの、家族を養っているスネギリョフに決闘を申し込むことはできませんでした。
 スネギリョフは裁判沙汰も考えたものの、グルーシェニカがドミートリイを訴え出ることに怒り、スネギリョフが稼がせてもらっているサムソーノフに言いつけると脅しました。
 イリューシャはそのことで中学校で虐められるようになったため、一人で生徒たちに立ち向かい、父親の前で涙を流し、ドミートリイに復讐することを考えるようになりました。やがてスネギリョフとイリューシャは、この嫌な街から出て行くことを考えました。

 この話を聞いたアレクセイは、兄に悔い改めさせ、赦しを乞うようにさせると誓い、イリューシャを学校を休ませてはどうかと勧め、ドミートリイから侮辱を受けた「妹」として、カテリーナが二百ルーブルの援助を申し出たことを伝えました。
 スネギリョフは、足の悪いニーナや頭のおかしくなったアリーナの治療代や、稼いだ金を生活費に充てたために学生に戻れなくなったワルワーラをペテルブルクに送り出してやるための金ができたことを喜び、イリューシャの望み通り馬と幌馬車を買い、この町を出ることができるかもしれないと語りました。

 アレクセイは、スネギリョフがこの上もなく喜んでいる様子が嬉しくなり、自分の持ち合わせも貸すことを約束しながら、彼を抱擁しようとしました。
 するとスネギリョフは、受け取った百ルーブル札二枚を握りつぶし、息を喘がせながら床に叩きつけて靴の踵で踏みにじり、自分の名誉を売り叩くことはしないと宣言して立ち去っていきました。

 アレクセイは、スネギリョフの後を見送ると、二百ルーブル札を拾い上げ、この一部始終を報告するためにカテリーナの家に向かいました。

第五編 プロとコントラ

カテリーナの家に行くアレクセイ

 カテリーナは、ひどく衰弱し、熱を出してうわ言を言い始めていました。彼女の面倒を見る間、リーズの相手をしてほしいとホフラコワ夫人から頼まれたアレクセイは、スネギリョフとの一件をリーズに話しました。
 弱々しく善良なスネギリョフは、金を見た時に自分があまりにも嬉しがってしまったことや、その上にアレクセイ自身が引っ越しのための融資を申し出たことに屈辱を感じ、金を受け取らなかったのであり、おそらく現在は、誇りに満ちながらも、金を受け取らなかったことを後悔しているであろうとアレクセイは考えており、明日になればお金を受け取ってくれるだろうという予測をリーズに向って語りました。
 アレクセイをからかったことを後悔していたリーズは、人の心がわかる彼を尊敬し、昨日の手紙が冗談ではなかったことを告白し、なぜ自分のような病気の女を貰ってくれるのかと聞きました。アレクセイは、自分にとってリーズ以上の相手はいないのだと答えました。
 アレクセイとリーズは、うろたえながら幸福に浸り、結婚後について語り合い、一生の間ずっと一緒にいることを誓い合いました。
 ホフラコワ夫人はこの会話を立ち聞きしており、アレクセイがリーズに対する同情から、慰みを語っているに過ぎないと思い込み、帰ろうとする彼をつかまえて今後来ることを禁じ、自分たちも町を離れることを宣言しました。アレクセイは、リーズと真剣に話し合ったのだと主張し、彼女からの手紙を見せるように言われてもそれを拒否しました。

スメルジャコフに出会うアレクセイ

 アレクセイは、ゾシマ長老のもとへ駆けつけたいと思いながらも、ドミートリイを探さなければならないと考え、昨日兄のいた隣家のあずまやへ行きました。
 そのあずまやには誰もおらず、アリョーシャはそこに腰を下ろしました。するとスメルジャコフが、この家の娘マリヤ・コンドラーチエヴナに向けて卑しげな歌声でギターを奏で、ドミートリイのことを誰よりも劣る男だと語るのが聞こえてきました。マリヤ・コンドラーチエヴナは、スメルジャコフに好意を持っているようでした。
 アレクセイは不意にくしゃみをして二人に気づかれ、ドミートリイを早急に探さねばならなかったのだと弁解を始めました。
 スメルジャコフは、グルーシェニカを自分の家に通さないよう、ドミートリイに脅されているようでした。

飲み屋でのイワンとアリョーシャの会話

 アレクセイは、イワンがドミートリイを飲み屋に呼び出したことをスメルジャコフから聞きだし、その飲み屋へと入り、一人で食事をしているイワンから声をかけられました。
 イワンは、この三ヶ月の間アレクセイが自分に期待の眼差しを向けていることに我慢ならなかったのが、最近になって親近感を感じるようになり、神はいるか、不死は存在するかといった問題について語り合おうという気持ちになったようでした。彼はカテリーナに惚れ込み、苦しんでいたものの、今では彼女のことを少しも愛していないことがわかり、せいせいした気持ちで離れ去ることができるのだと語りました。
 イワンは、昨日フョードルのところで神はいないと明言したのは、アレクセイをからかうためであったと白状しました。彼にとっては、野蛮で邪悪な人間が神の必要性という考えを得たこと自体が驚くべきことであり、その事実は神聖で感動的で、人間にとって名誉なことでした。神はいるのかいないのかといった問題を考える能力が自分にはない以上、イワンは率直かつ単純に神がいるということを認めようとしていたのでした。
 しかしイワンは神を認めてはいるものの、この神の創った世界を認めないと言いました。アレクセイは、その言葉の意味を理解できず、どのような意味なのかと尋ねました。するとイワンは、ブルガリアで一斉蜂起したトルコ人たちが子供たちを残虐な方法で殺していることなどを例に挙げ、罪のある大人たちのために、罪のない子供たちが苦しみを受けていることについて語り始めました。

 自分が身近な人を愛することができず、他人の姿を見た途端、相手への愛を失ってしまうことを感じていたイワンは、善悪をまだ知らない子供の場合だけは、愛することができると感じていました。そのような罪のない子供達が、他の人間のために苦しまなければならないことがあってはならないと言うのです。

 次にイワンは、フランス語から翻訳されたパンフレットに書かれている、二十三歳で死刑になった凶悪な殺人犯で、のちに罪を悔いてキリスト教に帰依したリシャールという者の話を始めました。
 リシャールは私生児で、六歳くらいのときに両親によって山奥の羊飼いに預けられ、仕事をさせられるために育てられました。少年時代は食事も着るものも与えられず、羊の放牧をさせられ、虐待を受けながら育ちました。そして大人になると泥棒になり、ある老人を殺して死刑を宣告されました。しかし刑務所に入ると、牧師たちが聖書の勉強をさせ、ついに自分の罪を自覚して改心することとなりました。
 この知らせにジュネーヴ中が湧き、上流社会の人々は彼を抱擁するために刑務所を訪れ、リシャールが神の御名のもとに死ぬことを喜びました。
 死刑の日、リシャールは、今日が自分の最良の日であり、主の御許にいくのだと繰り返すことしか知らない様子でした。駆けつけた人々は、断頭台へと運ばれる彼の後についていき、次々にリシャールに接吻を浴びせました。リシャールは、神の恵みを授かった、皆の兄弟として首を落とされました。

 ロシアでは、リシャールのような人間が神の恵みを授かったという理由で首を刎ねるなどということはないものの、ひどく殴るのが手近な方法であるとイワンは語りました。彼は、父親が幼い娘にしつけを施すために鞭を当て、これが裁判沙汰になっても無罪となることを例にあげながら、大人たちがまるで快楽を感じてでもいるように、か弱い子供を迫害し殺すことすらあるロシアの実体についてアレクセイに疑問を投げかけました。
 アレクセイは、子供たちを虐待する大人はどうするべきかと聞かれ、銃殺をするべきだと答えました。
 このような話を終えた後、イワンは、罪のない子供が苦しまなければならない世界を認めることはできないと宣言し、やがて全ての人が、『主よ、あなたは正しい!なぜならあなたの道が開けたからだ!』と主を讃えることが起きても、報復できない苦しみを抱き続ける方がよいと語りました。
 アレクセイは、たとえ人間に赦すことのできないものがあったとしても、ありとあらゆるもののために罪ない自分の血を捧げたキリストだけは、すべてのものを赦すことができるのだと反論しました。
 その反論を待ち構えていたイワンは、一年ほど前に創ったという叙事詩をアレクセイに披露し始めました。

大審問官

 それは宗教改革によって奇蹟を否定し始めた異教が現れ、異端審問が恐ろしかった十六世紀のセビリアが舞台でした。十五世紀も前に自分の王国を訪れると約束し、ようやく民衆の前に姿を現そうという気持ちになったキリストが地上に降り立ちました。
 ちょうど広場で、百人にもおよぶ異端者たちが、枢機卿である九十歳にもなる大審問官によって焼き殺されようとしていました。キリストはたちまち正体を気づかれ、群衆に取り囲まれ、盲目の老人の目を開き、七歳の少女の遺体を蘇らせる奇蹟を起こしました。そこへ大審問官が通りがかり、キリストを捕らえるように命じました。
 その後大審問官は牢に入れられたキリストを訪れ、翌日になれば異端者として火炙りにすることを告げました。
 大審問官は、自分たちが人々の幸福のために信仰の自由を取り上げたのだと信じ切っており、キリストが以前すべての権利を教皇に委ねた時点で、その権利を奪い返す資格はないと考えていました。そしてもしキリストがこの地上に新たなお告げを残したならば、以前キリストが擁護した人々の信仰の自由を取り上げる結果となるだろうと語りました。

 大審問官はさらに、マタイ伝の中で、悪魔がキリストに告げた三つの問いを思い出すがよいと言いました。

 その三つの問いの一つ目は、石ころをパンに変えれば、人類は従順に後に従うようになるだろうというものでした。その時キリストは、人々から自由を奪うことのないよう、その提案を斥け、「人はパンのみにて生きるにあらず」と答えました。
 大審問官は、キリストのこの行為について、天上での幸福よりも地上のパンを求める多くの人々によって、いずれ教会は破壊されるであろうと予言しました。自分が平伏すための対象を探し続けている人間は、パンのような明確なものを与えれば平伏すものであるのに、キリストは曖昧な自由を人間に与えてしまったために、その自由による苦痛、つまり何が善で何が悪なのかを自分で決めなければならない重荷を人間に与えてしまったというのです。つまり奇蹟、神秘、権威という三つの力のみが、反逆者たちの良心を永久に征服し、魅了し、幸福にすることができるにもかかわらず、キリストは自らそれらの力を斥けてしまったのだと、大審問官は主張しました。

 悪魔が告げた第二の問いは、キリストを寺院の頂上に立たせて、もし神の子なら下に飛び降りても天使が受け止めるだろうと言って、父なる神への信仰を証明させようとしたことでした。
 奇蹟による信仰ではなく、自由な愛による信仰を望んだキリストは、その誘いには乗らず、下に飛び降りることはありませんでした。それはもし自分が飛び降りれば、悪魔が喜ぶだろうということを悟ったためでもあり、奇蹟によって人間を奴隷にしたくなかったためでもありました。
 大審問官は、このキリストの行為に対し、人間は実際は神よりも奇蹟を求めているのであり、奇蹟がなけれぼ、ほかの信仰にすがるようになるだけであると説きました。キリストが思っているよりも弱く卑しく作られた人間は、大審問官たちの権力に一度は反逆したとしても、いずれ自分たちを反逆者として創った神のことを冒瀆し、その冒瀆によって自ら不幸になるだろうと予言され、そのような弱い者たちに対し、心の自由な決定でも愛でもなく、良心に反してでも盲目的に従わなければならないということを教え、彼らの無力や罪深さを認め、その重荷を軽くしてやることこそが、人類を愛することなのだと大審問官は説きました。

 悪魔は第三の問いとして、キリストを高い山の上に連れていき、この世のすべての栄華を見せつけ、「もし自分たちにひれ伏して拝むなら、これらを全て与えよう」と言いました。キリストは「ただ神にのみ仕えよ」と、この問いも退けました。
 大審問官は、この第三の忠告を受け入れていれば、キリストは帝王になることもできたのに、それを斥けたがゆえに、将来は自分に付き従う選ばれた人々にも、自分が与えた自由によって反旗を翻されるだろう、そして自分たちがあらゆる人たちを支配下に置き、幸福にするだろうと予言しました。

 そのような大審問官もかつて、キリストのために仕えようと試みたことがありました。しかし、教皇領が成立した八世紀から、彼らは悪魔の側につき、今ではキリストの偉業を修正した人々の群れに加わり、再びキリストを火炙りにすると宣言したのでした。

 ここまでの話を聞いたアレクセイは、その話はキリストへの非難ではなく賛美だと言いました。さらにアレクセイは、大審問官のような人物は、ローマカトリックの悪い部分であり、彼らは薄汚れた地上的な幸福や、地主になるための奴隷化という単純な欲望のために運動しているのであり、イワンが話した大審問官のように、人々の罪を我が身に背負い込んでいるわけではないと反論しました。
 しかし、イワンは、そのような薄汚れた幸福のために権力を欲する人々の中にたった一人だけでも、この大審問官のような、人類を愛し続けたあげくに開眼した人物がいたとすれば、それだけで十分な悲劇であると言いました。

 アレクセイは、兄がこのような人物像を自己の中に作り出さねばならなかったことを悲しみ、イワンが神を信じていないのだと言いました。
 アレクセイは、その叙事詩がどのような結末になるのかを聞きました。イワンは、その叙事詩の続きを語り始めました。

 大審問官は、これらの話を語り終わったあと、キリストが何を答えるかを待ち受けました。するとキリストは無言のまま老人の唇にキスをし、それを返事の全てとしました。大審問官は、扉を開け、絶対に二度と来るなと言って彼を外に出しました。大審問官は、キリストのキスを胸に残したまま、これまで通りの理念に踏みとどまりました。
 イワンがこの大審問官と同じような絶望の中にいることを悟ったアレクセイは、彼がこの先どのように生き、愛するのかと尋ねました。するとイワンは、カラマーゾフ的な低俗な力によってどのようなことにでも耐え抜くのだと答えました。アレクセイは、イワンにキスをしました。
 何もかもを話し尽くしたイワンは、アレクセイに感謝し、ゾシマ長老のところへ行くようにと言って、長くなるであろう別れを告げました。アレクセイは、気の毒なイワンの後ろ姿を見送ると、ドミートリイを探していたことなど忘れたかのように、救いを求めてゾシマ長老のところへ向かいました。

旅立つイワン

 アレクセイと別れたイワンは、堪えがたい憂鬱に襲われながら、フョードルの家に向かいました。彼は自分の憂鬱を、見えない前途に対する不安か、父親に対する嫌悪かと考えていましたが、フョードルの家の前に座っていたスメルジャコフを見て憎悪の感情を思い出し、自分の憂鬱の原因が分かりました。

 スメルジャコフは、いやらしい馴れ馴れしさでイワンに接し、苛立つフョードルとドミートリイとの板挟みに合い、グルーシェニカが来た時に知らせなかったら殺すとドミートリイから脅されている自分の窮状を訴え、翌日には持病の長い癲癇に襲われるだろうと言いました。
 癲癇の発作が予想できないことを知っていたイワンは、スメルジャコフが仮病を使うつもりであることを見抜きましたが、スメルジャコフは、もし自分が仮病を使ったとしても、発作の間にグルーシェニカが来たことについてドミートリイは責めることはできないだろうと言いました。

 フョードルは、スメルジャコフに夜遅くまでの見張りを命じ、グルーシェニカが来た時と非常事態が起きた時のノックの合図を決めていました。しかしスメルジャコフは、フョードルとの間に決めておいたこの合図を、恐ろしさのあまりドミートリイに伝えてしまったようでした。

 イワンは、スメルジャコフがフョードルのところへ押しかけるために良い条件を作り上げ、ドミートリイをけしかけようとしているのではないかと疑いました。
 スメルジャコフはそれを否定し、ドミートリイは、もしグルーシェニカが来なかったとしても、父に対する憎しみや、その父がグルーシェニカに渡そうとしている三千ルーブルを奪うために、フョードルを殺しに来るだろうと予言しました。
 もしもグルーシェニカがフョードルの妻になることがあれば、彼女がその財産を相続するので、ドミートリイ、イワン、アレクセイには一文も入らず、今フョードルが死ねば、兄弟に一人四万ルーブルずつが入ることもスメルジャコフは知っていました。また、グリゴーリイは昨夜の事件のために体調を崩し、マルファの作った薬酒で加療することになっていたため、今夜はフョードルを殺害するのにはうってつけの夜でした。

 イワンは、そのようなことが分かっていて自分にチェルマーシニャ行きを勧めるスメルジャコフを殴りたい衝動に駆られながら、翌日になればモスクワに発つことを宣言すると、無礼な敵意を表しながらフョードルの前を通り過ぎ、二階の自分の部屋へと上がりました。そして漠然とした考えや、スメルジャコフに対する憎悪を感じながら床につき、自分でもなぜだかわからないまま、父のいる階下の部屋に耳をすませました。
 彼はカテリーナとスメルジャコフ、アレクセイに出発のことを告げたものの、実際に出発することについて考えてはいませんでした。しかし翌朝の七時ごろ目を覚ますと、真っ先に荷造りを始め、フョードルに出発の旨を伝えました。フョードルは、チェルマーシニャに寄ってゴルストキンという嘘つきの商人が、その森を一万一千ルーブルで買うと言っているということを神父のイリインスキーが知らせてきたのが本当かどうかを調べてほしいと頼みました。
 イワンはチェルマーシニャへ行くかどうかは途中で決めると言うと、フョードルはゴルストキンのために一筆書きました。

 イワンは幌馬車に乗って出発し、宿場へと着き、チェルマーシニャまでの馬車を手配しましたが、ふいにこれから町へ向かう男に、自分がチェルマーシニャ行きを辞めたと父親に伝えておくように頼みました。そして汽車に乗りこみ、これまでのこととはすべて縁を切り、新しい世界へ入っていくことを決めましたが、その直後、深い悲しみに襲われました。

 一方、イワンに土地の売却をことづけて送り出したフョードルが幸福な気持ちでコニャックを舐めていると、スメルジャコフが癲癇の発作を起こし、穴蔵の一番上の段から転げ落ちたという知らせが届きました。
 マルファは近所の人を呼び、スメルジャコフを運び出しました。発作は激しく、フョードルは狼狽えながら手を貸しました。この町のドイツ人医師ヘルツェンシトゥーベ先生は、危険を生じる恐れがあるとして、翌朝また診にくると言いました。
 ようやく落ち着いたフョードルは、グルーシェニカが来ることを約束したというスメルジャコフの言葉を信じ、不安と期待を抱きながら、約束のノックを待ち続けました。

第六編 ロシアの修道僧

ゾシマ長老の庵室に入るアレクセイ

 庵室に入ったアレクセイを、ゾシマ長老は待ち構えていました。
 もう一度自分の心の内を明かすまでには死ぬことはないとその朝約束していたゾシマ長老は、やつれてはいても元気そうに話していました。
 そこにいたのは、イォシフ神父とパイーシイ神父、僧庵の司祭主任をしているミハイルという司祭修道士、アンフィームという修道僧、見習い修道僧のポルフィーリイでした。
 昨日ドミートリイの眼差しに恐ろしい運命を感じたゾシマ長老は、アレクセイがまだ兄に会えていないことを知ると、今から彼のところへ向かえば、恐ろしいことを防ぐことはできるだろうと言いました。
 ゾシマ長老は、アレクセイに向かい、これからの人生は多くの不幸をもたらすが、その不幸によって幸福になり、人生を祝福するようになるだろうと話しかけ、彼がなぜ自分に懐かしいものを与えるのかを語り始めました。
 それはアレクセイの精神が、十七歳で死んだゾシマ長老の兄とそっくりであったためでした。長老は、兄に似たアレクセイが人生の終わりを迎えようとしている自分の前に現れたのは、自分に回想と洞察を与えるためであると考えていました。長老は、その兄についての話を、まるで新しい生命を維持する力を得たかのように語り始めました。

アレクセイが編纂したゾシマ長老最後の言葉(マルケルの死)

 ゾシマ長老は、遠い北国のそれほど名門ではない貴族の家に生まれました。名前をジノーヴィイといって、八つほど上の兄マルケルがいました。父親は二歳の時に他界しましたが、不自由ない資産を家族に残しました。
 マルケルは苛立ちやすくも無口で善良な性格でしたが、十七歳の時には、すぐれた哲学者となり、モスクワから追放された政治犯の家に出入りするようになりました。
 その流刑人が嘆願によってペテルブルクに呼び戻されると、マルケルは神を信じることをやめ、復活祭前の大斎期にも精進しようとしませんでした。

 大斎期の六週間目になると、マルケルは結核にかかり、母はまだ元気なうちに聖餐を受けるよう説得にかかりました。
 死期が近いことを悟ったマルケルは、精進を始め、聖像の燈明を許し、神に向かって祈るようになりました。病身でありながら、快活に振る舞い、この世が楽園であると断定する彼に、母親は喜びと悲しみの両方の気持ちを抱きました。
 マルケルは、人間は誰でも、すべての人の前に罪があるのだと語り始め、感動を込めて人生を祝福するようになりました。医者は病気のために彼が錯乱状態にあるのだと診断しました。

 やがてマルケルは喜びに咽び泣きながら、小鳥たちに向かって許しを乞うようになりました。そしてジノーヴィイに素晴らしい言葉の数々を語り、自分の代わりに生きてくれと頼むと、復活祭の三週間後、幸福に浸りながら息を引き取りました。
 葬儀の時、ジノーヴィイは酷く泣きました。

アレクセイが編纂したゾシマ長老最後の言葉(修道僧になったいきさつ)

 八歳の頃に訪れた礼拝堂で、一人の少年が経卓で読み始めたヨブ記に感銘を受けたゾシマ長老は、司祭たちは、聖書を民衆に向けて読んでやり、そこから得られる感動を分かち合うだけで、敬虔な農民を増やし、それがロシアにおける無神論者たちを改宗させることにつながるのだと説きます。

 ジノーヴィイは、ペテルブルクの士官学校に入り、その三年後にこの世を去った母とは今生の別となりました。八年近くを費やしたその士官学校で、彼は多くの新しい習慣や見解を得て、礼儀や社交を身につけました。しかしそれらは上っ面の浅薄なもので、まとまった金を手に入れた彼は素行が悪く、享楽の生活にのめり込みました。
 四年ほど連隊に勤めたあと、駐屯地のK市にやってきたジノーヴィイは、快活な性格によって快く社交界に迎えられました。彼はそこで美しい令嬢に想いを寄せることになりましたが、享楽的な生活から抜け出る覚悟がつかず、結婚を申し込まないまま二ヶ月の出張に出かけました。ジノーヴィイが戻ると、その令嬢は結婚しており、以前から彼女が婚約していたことを知りました。彼は復讐することを決め、理由をつけて彼女の夫に決闘を申し込みました。

 決闘を前日に控えた夜、ジノーヴィイは、従卒のアファナーシイに腹を立て、血だらけになるほど殴りつけました。翌朝目覚めると、彼は決闘のことではなく、アナファナーシイに血を流させたことで、自分が卑しい恥ずべき人間だと思いました。彼は、自分には仕えてもらうような値打ちがあるのだろうかというマルケルの言葉を思い出し、自分がこれから善良な男の生命を奪おうとしている罪深い人間であるように思いました。
 彼はアファナーシイに謝罪し、仲介人に連れられて約束の場所へと向かいました。そして相手の弾丸をまばたき一つせずに愛情を込めて見つめながら、銃が撃たれるのを待ちました。そしてその弾が外れると、彼は相手が人殺しをしなかったことを喜びながら、自分の銃を撃たずに投げ捨て、幸福な気持ちで許しを乞いました。

 ジノーヴィイは、決闘を行わなかったことを問題視され、軍隊内で裁かれそうになりました。しかし辞表を出して修道院に入る決意を表明すると、周囲の人間は彼に好意を持ち、進んで付き合いを求めるようになりました。社交会でも、ジノーヴィイは皆に愛され、決闘相手の夫婦さえも、彼に感謝の念を抱くようになりました。

 そのような彼の元へ五十歳ほどのひとりの紳士が近づきました。それは、有力な地位にある、養老院や孤児院に秘密裏に多額の寄付をしていた男でした。
 ジノーヴィイの行動に心を打たれていたその紳士は、決闘の場で赦しを乞うたときの心持ちがどのようなものであったのかと聞きました。
 ジノーヴィイは、アファナーシイとの一件を、その紳士に語りました。その話を聞いた紳士は、毎晩のように訪れてくるようになりました。ジノーヴィイの方もその紳士を信頼するようになりましたが、そのうちに彼が何かを打ち明けたいという気持ちになっていることに気づきました。

 ある日、その紳士は、人を殺したことがあると打ち明けました。十四年前、彼は、自分の町に邸宅を構えていた地主の未亡人に熱烈な恋をして、結婚して欲しいと告白しました。しかしその未亡人は、他にある軍人の男に想いを寄せていて、家の出入りを禁じられてしまいました。彼はある夜、庭から屋根を越えて彼女の部屋へ忍んで行き、その未亡人の寝姿を見ると嫉妬の憎しみに心を捉えられ、ナイフを心臓に突き立てました。
 彼はそれが召使いの仕業に見せかけるために金品を盗みました。嫌疑は、素行の悪い一人の農奴にかかり、それがその紳士の犯行だと考えるものはいませんでした。

 その後彼は二年ほど仕事にかかりきりになり、新しい妻子にも恵まれ、慈善活動によって尊敬すらされるようになり、事件のことを忘れかけました。しかしやがて妻が自分の罪を知ったらどうなるのだろうと考え、その妻や子を愛撫する資格が自分にあるのだろうかという苦悩を抑えられなくなり、皆に自分の罪を告白してしまおうかと考えるようになりました。そして三年ほど悩んだあと、ジノーヴィイの決闘事件が持ち上がり、彼は罪の告白を決心したのでした。

 ジノーヴィイは、それを実行するように彼に勧めました。しかし彼は、罪人の身内として生活しなければならなくなる妻子のことを考え、なかなか実行に移すことができず、毎日のように蒼白な顔をしながらジノーヴィイを訪れました。やがてジノーヴィイのほうも、彼と会話するのに疲労を覚えるようになりました。
 紳士は段々と半狂乱になりましたが、ジノーヴィイはなおも告白するようにと忠告を続けました。やがて紳士は憎しみに近い感情をジノーヴィイに向けるようになり、もう来ることはないだろうと言って帰って行き、もう一度戻ってきてから再び去って行きました。

 翌日、その紳士の家で行われたパーティーで、彼は集まった人々の前で自分の犯行を自白し、十四年前に盗んだ金品をすべて取り出しました。しかし人々はその言葉を信じようとはせず、彼を精神錯乱の状態と診断し、彼の心を乱したとして、ジノーヴィイに非難の目を向けました。やがてその紳士は命に関わる病気にかかりましたが、周囲の人間はジノーヴィイに面会を許しませんでした。
 紳士は死の間際になり、ジノーヴィイとの面会を強く望みました。ジノーヴィイが訪れて行くと、彼は地上の楽園を心の中に感じることができるようになり、子供たちに接吻もできるようになったと語りました。そして彼は最後に会った時、一度別れを告げてから戻ったのは、自分を裁いているように思われたジノーヴィイを殺そうとしたのだと白状しました。

 その一週間後、紳士は息を引き取りました。ジノーヴィイは沈黙をまもり、町を離れ、その五ヶ月後には、修道僧としての道に踏み込みました。

アレクセイが編纂したゾシマ長老最後の言葉(最後の説法)

 自分が修道僧になったいきさつを語り終えたゾシマ長老は、修道僧とは一体何なのかと一同に尋ねました。
 長老は、ロシアにおける修道僧を、孤独の中で修行を積み、やがて必要な時に、神の正しい真理を現代の歪んだ心理の前に提示する者と考えていました。

 文明社会では、人間の五感にのみ隷属する科学によって、人間の高尚な精神の世界は追い払われてしまっています。
 自由が著しく宣言される現代では、人々は欲求を増幅させ、それを満たすことを求め続けるため、お互いへの羨望を増大させ、色欲や尊大さのために生きることへとつながり、かえって人間は心を縛られます。そのため修道僧たちは、笑い物にすらされている精進や祈祷を続け、不必要な欲求を捨て、自己の傲慢を贖罪によって鎮め、神の助けを借りることで、真の精神の自由への道を開くべきなのです。そして修道院は、神の体現者である民衆の心をこのように育むことで、無神論者に打ち勝ち、統一された正教のロシアが生まれるであろうと長老は説きました。

 しかし、民衆にも罪があり、多くの子供たちが性的に搾取され、飲酒に手を染めています。そのような実態を修正するため、修道士たちが一刻も早く立ち上がり、民衆に道を説くことが必要なのです。
 ロシアの民衆は、卑屈でも、執念深くも、嫉妬深くもなく、真の美徳を持っているので、いずれ貧者である彼らの謙虚さを、富める者たちは認め、兄弟愛が生まれるでしょう。救いは民衆の中から生まれるに違いありません。その民衆の信仰を大事にするようにと、長老は修道士たちに説くのでした。

 修道僧になってから巡礼を始めたゾシマ長老は、旅の途中でアファナーシイと出会いました。その時アファナーシイは大変に喜び、彼を家に招待し、家族を紹介しました。まだ祝福を与えることのできない修道僧であったゾシマ長老は、アファナーシイの子供たちのことを神に祈り、自分が修道僧になったのが彼のおかげであることを説明しました。アファナーシイはその話を理解できないながらも、感動して涙を流し、寄付を行いました。
 その時以来、ゾシマ長老は、アファナーシイと自分の間に偉大な人間的結合が生まれたのを感じました。そして、今後ロシアのあらゆるところで自分たちのような人間的な結びつきが生まれ、召使いが家族の一員のように迎えられる時が来るだろうと予想し、そのような偉大な仕事は、自分たちがキリストとともに行うのだと考えるようになりました。

 さらに長老は、アレクセイを含めた一同に、以下のような説法を続けました。

・祈りを忘れてはならないということ

 祈りは新しい感情がひらめき、そしてそれ自体が教育でもあります。この地上のどこかで、誰からも忘れられたまま死んでいく者たちにとって、自分たちのために祈ってくれる人がいるという考えが救いになり、また神も祈る者と祈られる者を慈悲深く眺めてくれるでしょう。

・人々の罪を恐れず、罪のある人間を愛し、あらゆるものを愛すること

 あらゆるものを愛することで、その中にひそむ神の秘密を理解することができ、やがて完璧な愛で全世界を愛することができるようになるでしょう。とりわけ動物、植物、子供を愛することが、われわれの心を震わせ、浄化させ、ある教示をもたらしてくれるのです。
 他人の罪を見たときは、それを力ずくで捕らえるのではなく、謙虚な愛で捕らえることです。謙虚な愛こそが、すべてを征服することができるほどに強い力なのです。しかしそのような愛を獲得するのは難しく、長期間にわたる努力によってようやく手に入れることのできるものです。大切なのは、偶発的にではなく、永続的に愛することです。そのようにすべてのものを愛すことで、やがては歓喜に包まれるようになるでしょう。

・神に楽しさを乞い、心を明るく持つこと。またあらゆる他人の罪の責任が自分にあると考えること。

 神に楽しさを乞い、心を明るく持つことで、他人の罪のせいで善行をまっとうできないと考えるようなこともなくなるでしょう。あらゆる他人の罪の責任は自分にあると考えることが唯一の救いとなるのです。自分が善行をまっとうできないというのは怠慢と無力であり、それを他人の責任にするということは、サタンの傲慢さに加担して、神に不平を言うことになるのです。

・天上とのつながりを感じること

 われわれの思考や感情の根本は、天上の世界にあり、物事の本質をこの地上で理解することはできません。しかしその代わりに我々は、天上の世界とのつながりを有しているという尊い感情を与えられているのです。
 この地上にいるすべての迷える人間は、キリストの導きがなければ滅んでしまうでしょう。
 神は他の世界からとった種子をこの地上に撒き、この世界を育て上げました。その育て上げられた地上の者たちは、天上の世界とつながっているという感情によって溌剌と生きることができるのです。そのような感情が弱まってしまえば、人は人生に無関心になったり、憎んだりするようになるでしょう。

・人は誰をも捌くことはできないということ

 人は誰しも審判者にはなり得ません。
 もしも罪人を目の前にして、自分もその罪人と同じような罪人であり、その目の前の者の罪に対して誰よりも責任があるという自覚があるのなら、裁くこともできましょう。しかし、目の前の人の罪を引き受けることができたとしても、罪人を捌くのではなく、その罪を我が身に引き受け、咎めずに放してやるがよいでしょう。なぜなら罪人は、放されたのち、自分のことをずっと厳しく捌くからです。

・倦むことなく実行し、神を信じ続けること

 たとえ人が自分の話を聞こうとしなくとも、彼らの前に平伏して赦しを乞い、相手が怒っても、望みを捨てずに黙々と仕え、すべての人に見捨てられても、涙で大地を濡らすがよいでしょう。
 そしてたとえこの地上のあらゆる人が邪道に落ちたとしても、最後までたった一人残り、神を信じ讃えるがよいでしょう。
 罪を犯し、その罪のことで悲しむようであれば、正しい他人のために喜び、その人が罪を犯さずにいてくれたことを喜ぶがよいでしょう。
 他人の悪行によって制しきれない悲しみと憤りを感じた時には、その悪行を自らの罪であると考え、悪人たちに光を与えることをしなかった我が身に苦悩を求めるがよいでしょう。
 褒美を求めず、地位や力を恐れず、懸命で心美しく、節度を知り、時期を知ることを学び、孤独におかれたら大地に接吻し、あらゆる人や物を愛し、その熱狂を恥じずに尊ぶことが、選ばれた者のみに与えられる神からの偉大な贈り物なのです。

・地獄についての解釈

 地獄とは、もはや二度と愛することができぬという苦しみです。
 地上の生活は愛するために与えられたにもかかわらず、愛を嘲笑的に眺め、無関心に過ごした人々は、死後、主の御許にのぼり、愛を知る正しい人々と接触することとなります。その時になって彼らはようやく開眼し、愛の犠牲に捧げることのできた地上での生活が過ぎ去ってしまったことを悟るでしょう。
 しかし、天に登ったあとで正しい人々からの愛を受け入れながらも、自分がそれを返すことのできないという自覚もまた、愛の行為に似たものであるため、苦痛の軽減には役に立つはずです。

・自殺者、サタンの傲慢さに共鳴した者について

 地上で我が身を滅ぼした自殺者は嘆かわしいものです。彼らのことを神に祈るのは罪悪であるとされ、教会からも見捨てられるように言われますが、彼らのために祈ることも差し支えはなく、そのことでキリストが怒ることもないでしょう。
 地獄に落ちて、真理を悟ったあとでさえ、神と人生を呪い続け、サタンの傲慢に共鳴し、怒り狂った態度を取り続ける人々もいます。彼らは、神と人生を呪った結果、自分を呪ったことになり、己の怒りの炎で己を焼き続け、死と虚無とを渇望し続けるでしょう。しかし死を得ることはできないでしょう。

 以上が、ゾシマ長老が最後に語ったアレクセイの手記でした。長老はこれらのことを雄弁に語ったあと、まったく不意に苦しみ始め、大地にひれ伏して接吻し、嬉しそうに祈りながら息を引き取りました。