レフ・トルストイ『戦争と平和』(第四部)の詳しいあらすじ

 レフ・トルストイ作『戦争と平和』第四部のあらすじです。第四部では、ボロジノ戦後、ロシア各地で繰り広げられる登場人物たちのドラマが描かれます。ロシア人はモスクワを放棄し、軍人以外の農民、地主、僧ら、あらゆる階層の人々がパルチザンと呼ばれるゲリラを組織し、撤退しゆくフランス軍を攻撃します。いわゆる総力戦の様相を呈す中、この作品の登場人物たちも、かつてない厳しい生活を強いられます。肉体、精神の極限とも言える状況の中で、彼らが導かれる運命の物語は、この『戦争と平和』が、「あらゆる小説の中で最も偉大な作品」と呼ばれるにふさわしい感動を与えてくれます。

※ネタバレです。目次を開いてもネタバレします。

※他の部分のあらすじはこちら
第一部  第二部  第三部  エピローグ

※全体の簡単なあらすじはこちら(『戦争と平和トップページ』)

第一篇

エレンの死

 ボロジノ戦の当日、ペテルブルクのアンナ・シューレルの家ではパーティーが開かれていました。
 そのパーティーでは、エレンが病気になったことが話題になっていました。その病気は、彼女が二人の男と同時に結婚することができないためにでっちあげられたものであるということが暗黙の了解となっており、エレンの診察にあたっているイタリア人医師は、そのために呼ばれたものだと思われていました。

 ボロジノ戦が終わってからも、戦場からもたらされるはずの知らせはなかなか届かず、人々は不安な気持ちになりました。そこへエレンが胸の炎症を起こして急死したという知らせが入り、ペテルブルクはその話題で持ちきりとなりました。
 さらにその三日後、モスクワ明け渡しのニュースが届きました。モスクワ総督のラストプチンは、クトゥーゾフをその首謀者と見なし、皇帝宛ての手紙の中で非難しました。
 皇帝は、その真意を確かめようと、クトゥーゾフ宛てに手紙を書き、その返事によってモスクワが燃えてしまったことを知りました。クトゥーゾフは裏切り者として人々からの非難を受けることとなりました。

マリアとの距離を縮めるニコライ

 ニコライは、ボロジノ戦の数日後に、戦闘の影響の少なかった南西部の町ヴォローネジへの出張を命じられました。
 現地での仕事をこなしたニコライは、県知事の家のパーティーに招かれ、ゲオルギー勲章を持つ、気立ても育ちも良い青年として、この上流社会をたちまち魅了してしまいました。

 ニコライは、マリアが母方の叔母であるマリヴィンツェフ夫人とヴォローネジで暮らしていることを知りました。彼が親しくしている県知事夫人は、マリアとの縁組を勧めました。ニコライは、ソーニャのことが頭の片隅にあったにもかかわらず、マリアとの縁組を進めてほしいと、県知事夫人に遠回しに頼みました。

 アンドレイからの手紙の指示でモスクワからやってきて、マリヴィンツェフ夫人の家に住むことになったマリアは、目まぐるしい生活の変化や、兄の心配で、ニコライへの気持ちを押し殺していました。マリヴィンツェフ夫人からニコライが訪れてくるという話を聞いたマリアは、落ち着かない気持ちになりましたが、ニコライが訪れると、新しい生命力が芽生え、落ち着きを取り戻しました。その品の良い美しさは、ブリエンヌを驚かせるほどでした。彼女はまだ喪に服していましたが、県知事夫人は二人が会えるように取り計いました。マリアの美しさに魅了されたニコライは、ソーニャとのことが耐えず頭の中にあったものの、自分を今引きずっていこうとする力に身を任せることを決めました。
 しかし、ボロジノ戦とモスクワ放棄の知らせを受け取ると、ニコライは、ヴォローネジの生活が味気ないもののように思い始めました。

 連隊に戻る数日前、大聖堂で行われた祈祷式で、ニコライは、兄を心配して悲しむマリアの姿を見て、彼女の精神世界の深みを感じ、それが自分の心に深く食い入るのを感じました。

 ニコライがソーニャとマリアとの間で葛藤していた頃、以前からソーニャへの当てこすりが酷くなっていたロストフ伯爵夫人は、モスクワで起きたことに動揺し、ニコライとの結婚を断るようにソーニャに懇願しました。自己犠牲に慣れていたソーニャでしたが、ニコライと別れることを諦めることはできず、曖昧な返事をしました。しかし、アンドレイとナターシャが再び愛し合うようになったのを見たソーニャは、二人の結婚が実現すれば、その親戚関係のために、ニコライとマリアは結婚できなくなることを期待し、ロストフ家の財産が失われてしまったことや、マリアと結婚してほしいという伯爵夫人の願い、最近のニコライ自身の冷たさにより、彼との約束を断って自由を与えるという手紙を、涙を流しながら書きました。
 その手紙を受け取ったニコライは、この手紙に喜び勇んで、マリアとの距離を急激に縮めていきました。

プラトン・カラターエフと出会うピエール

 フランス軍によって勾留されたピエールは、有罪に導かれるような尋問をされました。彼は、自分が何者であるかを言わなかったため、「名を白状しない者」と呼ばれました。火事が広まると、ピエールは、他の勾留されている十三人と一緒に、ある大商人の家の馬小屋に入りました。

 9月8日、ピエールは、他の逮捕者と一緒に、フランス元帥ダヴーの駐屯する屋敷に連れて行かれました。
 残忍さで有名な将軍であったダヴーが自分のことをロシアのスパイだと主張したため、ピエールは初めて自分の名を名乗りました。ダヴーはピエールとの人間的なつながりを感じたものの、彼を処刑場へと引き立てる命令を下しました。ピエールは、他の逮捕者たちと一緒に、柱が立っているところへ引き立てられました。五人の逮捕者たちが射殺される中、ピエールを含む他の逮捕者は射殺を免れました。彼らはその射殺を見せられるためにその場へ連れて来られたのでした。

 処刑のあと、ピエールは罪を赦されて捕虜となり、掘立て小屋へと入れられました。恐ろしい処刑の現場を見てから、彼は生きる希望を失い、その原因が自分でないところにあるために、元の自分に戻ることはできないと感じました。

 闇の中で、隣に座っていた小柄な男が、ピエールに優しい言葉をかけ、持っていたジャガイモをやりました。その男はプラトン・カラターエフという名で、古参兵として今度の戦争に参加し、熱病によってモスクワの野戦病院に入っていたところを捕まって、この掘立て小屋に入れられたようでした。彼は百姓として良い暮らしをしていたのが、他人の林に材木をとりに行って捕まり、裁判にかけられて兵隊になった過去を語りました。ピエールは、心優しい百姓プラトンとの会話により、美しく新しい世界が、自分の中にできあがってくるのを感じました。

 ピエールは、四週間をその掘っ立て小屋で過ごしました。彼はさまざまな人々と寝食を共に過ごしましたが、その中でも頑丈ですばしこく、なんでも上手くこなし、話好きで歌を歌うプラトンの印象が強く残りました。

アンドレイの死

 マリアは、ニコライと愛し合っているという確信を得て、幸福な時期を過ごしていました。しかし、アンドレイがロストフ家と一緒にヤロスラヴリにいるとニコライから聞くと、七歳になるニコーレンカらを連れて、すぐに出かける支度を始めました。

 二週間にわたる苦しい旅行の末、一行はヤロスラヴリに着き、商人の家に泊まっているロストフ家の皆と初めて対面しました。伯爵夫人は、マリアに会えたことを喜びました。

 マリアは、モスクワで会ったときに嫌な印象を残していたナターシャがアンドレイに付き添っていることを知り、悔し涙を溢れさせました。しかしナターシャと再会した途端、彼女の全ての人々に対する愛の大きさにマリアは気づき、ナターシャだけが自分の悲しみを分かち合う人なのだと感じました。
 ナターシャは、泣きはじめるマリアを慰め、アンドレイのところへ連れていきました。

 アンドレイは、死の危険を脱したように医者は告げていました。しかし、彼は、生きている者が理解できないようなものを理解し、それに呑み込まれていくようになったため、あらゆる現世のことがどうでもよくなっていました。二日前から現れた彼のこの兆候を、ナターシャとマリアははっきりと理解しました。
 アンドレイを生に戻すためにマリアが用意した最後の手段であるニコーレンカに会っても、彼は冷笑するだけでした。

 ニコーレンカは、七歳にも関わらず、父親とマリアとナターシャが感じていることをしっかりと理解しました。そしてその日から、彼は家庭教師のデサールを避け、一人きりで座っているか、ナターシャのそばに近づいて、恥ずかしそうに甘えるようになりました。

 アンドレイは、自分が死にかけていることを知っていましたが、ボロジノ戦での昏睡から目を覚ましたときに、この世の生に束縛されない愛を知り、死を恐れることはなくなっていました。すべてを愛すということは、誰も愛さないということを意味しており、そのために必要な生を、彼は拒否するようになっていきました。
 しかし再びナターシャが自分の前に現れてから、彼は彼女への愛を呼び戻され、生と死の間で揺れ動き始めました。ヤロスラヴリへの移動の間、彼の精神は生と死の戦いを続けていました。そしてマリアが到着する二日前、ナターシャが自分の傍らで編み物をしている時に、彼はナターシャをこの上もなく愛しているということを感じ、幸福を感じました。
 そのまま眠りにつくと、アンドレイは自分の部屋のドアを開けて「死」がやってくる夢を見ました。そのドアが開き、自分が死んだと思った途端に彼は目を覚まし、それ以来、死が覚醒であるという考えに取りつかれるようになりました。

 アンドレイの内面における生と死の戦いで、死が勝利を収めるようになったその日から、彼が遠くに行ってしまったことをナターシャとマリアは悟り、彼女たちはもはや、取り残されている肉体を看護しているに過ぎませんでした。

 アンドレイは聖体拝受を受け、静かにゆっくりと死んで行きました。

 マリアとナターシャはその死を看取りました。二人はその死によって、自分たちの心を包んだ敬虔な感動のために涙を流しました。

第二篇

フランス軍の撤退とタルチノ戦

 モスクワ消失の後、フランス軍は退却を始めました。ロシア軍の軍事行動は、クトゥーゾフとベニグセンの激しい派閥争いに利用されていたため、フランス軍との戦いという本来の目的とは異なった力によって動いていました。

 攻撃力の低下を免れなくなったナポレオンは、和を求めてクトゥーゾフに使者を派遣しました。これ以上の戦闘がロシアの破滅を招くことを見抜いていたクトゥーゾフは、ナポレオンの意向通り、軍を攻撃に転じさせないよう全力を尽くしながら、フランス軍の撤退する道の側面に沿って自軍を移動させました。
 しかし皇帝からの攻撃の要望などの要因により、クトゥーゾフはフランス軍に対して無益な攻撃を仕掛けざるを得なくなりました。

 攻撃は10月5日に定められ、その前日、クトゥーゾフは作戦命令書に署名しました。
 しかし、その作戦命令書を受け取った将軍エルモーロフは、そのとおりに采配をすることはありませんでした。
 翌日、クトゥーゾフは、自分が望まない戦闘の指揮を取らなければならないことに不愉快になりながら、攻撃部隊が集結することになっている場所へと行き、攻撃についての命令が出ていないことを知りました。エルモーロフの策略によって全軍の笑い物にされたクトゥーゾフは怒り狂いました。

 その翌日の夜になり、ようやく軍は出動しました。クトゥーゾフは、その戦闘は混乱しか生まないことをよく知っており、できる限り自分の部隊を抑えようとしていました。
 コサックの部隊が攻撃を繰り返し、ミュラの軍が後退していることを知ると、彼はようやくゆっくりと進撃を命じました。
 結局このタルチノ戦では、ロシア軍は勝利を収め、クトゥーゾフは金剛石章を受けました。

 ナポレオンは、モスクワ入城後、ロシア軍の動きを注視し、ミュラにはクトゥーゾフを見つけ出すように命じました。さらにアレクサンドル皇帝には、ラストプチンのモスクワに対する処置を非難する書簡を送りました。そして食糧補充のための計画的な略奪しか許さず、僧には教会での勤行を行えるようにし、商人や農民をモスクワに呼び戻すための布告を行いました。
 ナポレオンがモスクワでとった行動は、どれも素晴らしいものでしたが、それらの策は全てうまく行かず、モスクワでは略奪が横行しました。
 ナポレオンがモスクワを略奪するにまかせ、荒廃した道を通って後退したことは、軍にとって破滅的なことでした。そしてタルチノ戦での敗北を知ったナポレオンは、ロシア軍への攻撃命令を出しました。

捕虜生活を送るピエール

 掘っ立て小屋で捕虜として生活していたピエールは、髭だらけの汚れた風采で、足は裸足でしたが、心には充足を感じていました。彼はフランス語が話せるため、ロシア兵とフランス兵の間に起きる問題の仲裁を務め、そのためにフランス兵にすら一目置かれる存在になっていました。彼は究極の窮乏を体験しましたが、強い体格と健康のおかげでその状況に耐え切り、その結果、それまで自分が到達できなかった心の平安と自分自身への満足を得ることとなりました。
 彼はそれまでの自由な生活とは異なった、労働に縛られた生活をしていましたが、以前の自由が仕事の選択を困難にし、自分の欲求を満足させる幸福が壊されていたことに気づきました。

 ピエールたちは移動を命じられ、混乱した人々がひしめき合う中を護衛兵たちに囲まれて歩き出しました。フランス兵は、護衛という任務に緊張し、これまでの態度とは打って変わって、捕虜たちに冷たく接するようになりました。ピエールは、再び銃殺されかけた時のような恐ろしい気分になりました。
 夕暮れになり、休憩になると、ピエールは、一人で腰を下ろしました。彼は果てしなく広がる星空を見て、自分の肉体が捕虜として束縛されていても、その星空全てが自分自身であり、自分は自由であるということを感じ、涙を流しながら高笑いを始めました。

 クトゥーゾフは、フランス軍が弱っていることを知っていましたが、まだその確証を得られていませんでした。彼はナポレオンからの講和の提案を拒否し、攻撃すべき時期を見計らっていました。
 そこへ全フランス軍がモスクワから撤退してフォミンスコエに集まっているという知らせがもたらされました。ロシアが救われたことを意味するその報告を聞いたクトゥーゾフは、泣きながら神に感謝しました。
 その後は、クトゥーゾフは新たな無用の戦闘をできるだけ避け、フランス軍の自滅を待ちました。力を失ったフランス軍は、パルチザンによるナポレオン襲撃を口実にして、一斉に後退を始めました。

 フランス軍にとってパリはあまりに遠く、彼らは資源が乏しいことを知っていながら、かつて自分たちが略奪を行ったスモレンスクに希望を求めました。

 軍功を立てたいロシアの指揮官たちは、新たな攻撃を進言しました。しかしクトゥーゾフだけは、無用な戦いを避けることに全力を傾けました。人々はそのような彼を笑い者にし、中傷しました。
 エロモーロフ、ミロラードヴィチ、プラトフらの将軍は、敵を敗走させたいという欲求を抑えることができなくなり、クトゥーゾフに白紙の紙を送り、敵に攻撃を仕掛けました。それは多大な人命をうばうこととなりましたが、フランス軍の撤退という大きな流れを変えることはありませんでした。

第三篇

ペーチャの死

 戦闘では勝敗がつかなかったものの、モスクワ大火や、農民たちの協力といった、ロシア国民の正規でない方法が、フランス軍の消滅をもたらしました。その中でも最も正規でない存在であったのが、フランス軍がスモレンスクに入ったときから現れ始めたパルチザンでした。 
 パルチザンは、デニース・ダヴィドフによって最初に組織され、それ以降、軍人の他、百姓、地主、僧など、あらゆる種類の人々が同じような部隊を結成し、森のなかを隠れながら、フランス兵への攻撃の機会を伺いました。

 コサックを率いるデニーソフもまた、ドーロホフが率いる小部隊と一緒に、フランスの輸送隊を襲撃し、取り押さえようとしていました。
 シャムシェヴォ村についたデニーソフのもとへ、将校が将軍からの封筒を持ってきました。その将校はペーチャでした。
 ペーチャは、モスクワを出ると同時に連隊に合流し、大きな支隊を指揮するドイツ人の将軍の伝令に採用されていました。既に大人の将校として働いていた彼は、兵士としての成果を上げたいと焦っていました。
 上官の将軍が、デニーソフに自分の隊に合流してほしいという手紙を送る時、ペーチャは、その役目を自分に任せて欲しいと頼み込みました。将軍は、時折無謀な行動にでるペーチャの身を案じ、デニーソフの作戦行動に参加することを禁じましたが、ペーチャはその決まりを破り、デニーソフの隊に加わりました。

 デニーソフの隊にドーロホフが合流しました。
 ドーロホフはフランス軍の数を探るため、宿営に忍び込むことを提案し、自分と一緒に来る者を募りました。ペーチャは立候補しました。デニーソフはペーチャが行くことには断じて反対しましたが、ペーチャは聞き入れませんでした。

 彼らはフランス軍のコートと軍帽を身につけて出発しました。フランス兵の宿営地に忍び込むと、ドーロホフは大胆にもフランス兵たちに話しかけ、大隊や捕虜の数などを聞き出しました。そして銃声を合図に攻撃を仕掛けることをデニーソフに伝えるよう、ペーチャに命じました。
 ペーチャはドーロホフに心酔し、自分の行ってきた偵察に得意になりながらデニーソフのもとへ帰りました。眠らずに夜明けを迎えたペーチャは、夢見心地のまま進み、銃声の合図が轟くと、デニーソフの命令を聞かずに突進しました。
 既に戦闘は始まっており、ペーチャはドーロホフに会いました。ドーロホフは、歩兵隊を待つよう指示を出しましたが、ペーチャはその命令を聞かず、フランス兵の宿営となっている屋敷に突入し、一発の銃弾に頭を撃ち抜かれました。

 フランス兵は降伏し、デニーソフとドーロホフはロシアの捕虜を奪い返しました。その捕虜の中にはピエールがいました。

パルチザンに助け出されるまでのピエール

 ピエールのいた捕虜の集団は、モスクワを出発してから、飢え、凍え、銃殺などにより、そのほどんどが落伍していました。

 プラトンはモスクワを出て三日目に熱を出し、徐々に弱って行きました。

 ピエールは、馬小屋に一晩中閉じ込められ、擦り切れた裸足で歩かされるとき、これまでの窮屈な生活よりも多くの自由を感じていました。プラトンがおそらく落伍して銃殺されるであろうことや、自分にこれから降りかかるかもしれない恐ろしい運命とは無関係に、彼の頭の中は心をなごませるような考えばかりが浮かぶようになりました。足の非常な痛みも、段々と感じなくなり、彼は人間の生命力を悟るとともに、この世には何一つ恐ろしいものなどないのだということを知りました。

 プラトンは、ピエールにもう五、六回もしている話を語り始めました。それは、友達の金持ちの商人と一緒にボルガ川の港町に行った老商人の話でした。

 その老商人が旅籠屋で目覚めると、友達の商人が斬り殺され、持ち物を奪われていました。その老商人は疑いをかけられて捕まり、鞭打ちと鼻裂きの刑を受けて懲役に送られました。老商人は、神さまに死なせてくださいと祈りながら十年以上懲役暮らしをしました。ある時、囚人たちが自分の犯した罪について語り合っていました。老商人は、罪を着せられたことを語り、妻と子の身を案じて泣き始めました。その話を聞いている中に、たまたま老商人の友達を殺した男がいました。その男は老商人の前にひれ伏し、赦しを請いました。老商人は、皆が神さまに対して罪があるということを語り、その男の罪を赦しました。
 老商人の友達を殺した男は、深く反省し、さまざまな書類を書いて老商人の釈放を請願しました。
 その届出は皇帝まで届き、老商人は許されました。しかしその頃には老商人は「神さまから許され」、この世にはいませんでした。

 この話を語るプラトンは、顔に歓喜の色を浮かべ、その歓喜はピエールの心をも満たしました。

 その翌日、プラトンはシラカバの木に寄りかかりながら、ピエールのことを見つめ、何かを話したいかのような様子でした。ピエールは気持ちが動揺するのが恐ろしく、その視線に気が付かないふりをして離れてしまいました。

 それ以上歩けなくなったプラトンは銃殺されました。ピエールは後ろを振り返らず歩き続けました。後ろからはプラトンが可愛がっていた犬が唸る声が聞こえました。

 部隊がシャムシェヴォ村に着くと、ピエールは、さまざまな思念に心の中を支配されながら、焚き火のそばで眠りにつきました。

 日の出前に、ドーロホフ、デニーソフらによるコサック兵の襲撃により救出されると、ピエールは声を上げて泣きました。

 スモレンスクに着いたフランス軍は、その町の全てを略奪し、そこから先は、追撃するロシア軍を恐れ、ばらばらになって逃げ出しました。
 個々の兵士たちは、自分が助かるためだけに殺し合い、略奪を繰り返しました。多くのものは、仲間を置き去りにして馬で逃げ、それができないものは降伏し、川に溺れ、死んでいきました。誰からも指図を受けないナポレオンだけが、その状況をはっきりとわかっておらず、実行されることのない命令ばかりがくだされました。
 その間、ロシア軍は、フランス軍のあとを追いながらも、無意味な攻撃をほとんどせず、ナポレオンやその他の有力な将軍を捕虜にすることもありませんでした。歴史家たちは、ロシア軍が、フランス軍を分断させ、ナポレオンらを捕虜にして勝利を得ることはできなかった理由をあれこれと考えます。しかし個々の人々が、フランス軍の侵略を防ぐことだけを目的に戦っていたことを考えれば、ロシア軍が無意味な攻撃をせず、ただフランス軍の退却を待っていたように見えるのは当然と言えるでしょう。

第四篇

悲しみから回復するナターシャとマリア

 アンドレイの死後、ナターシャとマリアは、心の痛みを共有しました。

 しかし二週間が経ち、ニコーレンカの養育やヤロスラヴリにやってきたアルパートゥイチの様々な報告のために、マリアは現実に戻りました。 
 アルパートゥイチは、消失せず残っていたモスクワの屋敷に移ることを提案しました。マリアはその提案にしたがい、モスクワに移る支度に取り掛かりました。

 一人きりで悲しみの中に取り残されたナターシャは、生前アンドレイに言うことのできなかった「愛している」という言葉を繰り返し、涙を流しました。
 そこへペーチャの死の知らせが入りました。その知らせを聞き、狂気にとらわれたロストフ伯爵夫人を、ナターシャは眠らずに看病しました。
 伯爵夫人の心の傷は癒えず、ひと月で老婆のようになりました。ナターシャは、つきっきりで看病を行い、母親への愛情により立ち直りました。
 マリアはモスクワへの出発を延ばし、母親の看病で疲れたナターシャを癒やし、二人はより強固に結ばれました。

 マリアがモスクワに発つことになると、ロストフ伯爵は、体が弱ったナターシャを医者に診せるために、マリアとともに出発させました。

クトゥーゾフの死

 ロシア軍は、あまりにも早く撤退していくフランス軍に追いつくことができず、その数を急激に減らしながら西へと向かっていました。他の将軍や皇帝が戦闘を望む中、有名な将軍を捕虜にできないことを非難されながらも、クトゥーゾフは変わらず、衝突を避けながらヴィルナへと向かいました。
 11月5日、クラースヌイに着くと、クトゥーゾフの意に反して無意味な戦闘が始まりました。
 しかし、その戦闘でクトゥーゾフは勝利を確信し、現場にいた多くのロシアの兵士から、鳴り止まない声援を受け、涙を流すこととなりました。

 厳しい環境に耐えながら生活していた軍は、精鋭しか残されておらず、そのためにかつてないほどの活気でした。
 ある中隊に、二人のフランス人が助けを求めにやってきました。それはランバルと、その従卒のモレルでした。衰弱していたランバルは、ロシア軍の保護を受け、自分たちを助けてくれたロシア軍に大いに感謝しました。

 フランス軍は、橋の焼かれたベレジナ渡河で大きな被害を被りました。

 自分に反目する将軍らの合流や、緩慢な軍の行動に苦言を呈する皇帝の意見などによって、クトゥーゾフは自分の役割が終わったことを悟りました。そして11月29日、ヴィルナに到着すると、彼は、皇帝の意向に反して軍の大半を停止させ、その無傷の都市で快適な生活を送り、休息をとることに没頭しました。皇帝は、ヴィルナに到着すると、追撃が遅いことに対する不満や、今後の国外遠征についての自分の考えをのべました。クトゥーゾフは、ヴィルナでフランス軍を追撃することに意味を見出さず、自軍の疲弊や、失敗の可能性ばかりを語ったため、皇帝のクトゥーゾフに対する不満は募りました、
 そのような積み重ねがあり、クトゥーゾフは勲一等ゲオルギー勲章を授与されたものの、中枢から遠ざけられると、健康を崩して息を引き取りました。

ナターシャと結ばれるピエール

 ロシア兵に助け出されたピエールは病気になり、オリョールで三ヶ月を寝て過ごしました。彼は捕虜の時に内面的な自由を得たことにより心が満たされ、また不意に悟ることとなった、生きた神がどこにでもいるという実感を得たことで、今や信仰を持っていました。

 ピエールは、オリョールにやってきた支配人とともに家系の収支をやりくりし、ペテルブルクでエレンが残した借金の問題を片付けるためと、モスクワの屋敷を修復するため、オリョールで再会した旧知のフリーメーソンであるヴィラルスキーとともに出かけました。

 一月にモスクワに戻ったピエールは、マリアがモスクワにいることを知りました。アンドレイとの思い出が蘇ったピエールは、マリアを訪ねました。
 マリアのそばには、ナターシャが黒い服を着て座っていましたが、青白く痩せ、老けていたため、ピエールはそれがナターシャであることに長い間気づきませんでした。
 ピエールがロストフ家の話題を口にすると、マリアは自分のそばにいる女性がナターシャであるということを彼に教えました。微笑をたたえるナターシャを認識すると、ピエールは途端に幸福に包まれ、自分が彼女を愛していたことを思い出し、思わず彼女への愛を語ってしまいました。

 ピエールは、二人に向かってペーチャの死を悼み、アンドレイの最期の様子を聞きました。ナターシャはアンドレイとの苦しくも喜びに満ちた最後の日々を初めて語りました。

 ピエールは、夜食の時間を彼女たちと共に過ごしました。彼は、エレンの借金やモスクワの建築費のために財産のほとんどを失ったにも関わらず、自由という財産を得たこと、そしてナポレオンを殺そうとしてモスクワに残ってから捕虜としての生活、プラトンの死までを語りました。ナターシャは、彼の身振りをも見逃さないように努めながら、話に込められた心の中を理解しようと努めている様子でした。マリアはそのような二人の間に、愛が望めそうなことを見て取りました。

 ピエールはナターシャと夫婦になるという幸福がどうしても必要なのだと考えるようになり、眠れない夜を過ごしました。翌日も彼はマリアの家に食事に出かけ、ナターシャの楽しそうな、問いかけるような光が輝く瞳と、優しさといたずらっぽさが同居した顔を見て、昔の彼女の面影をそこに認めましたが、想いを伝えることができませんでした。

 その翌日もピエールはナターシャを訪ねました。彼らは何もかもを話し尽くしてしまい、会話は途切れがちになりました。夜中になっても帰りそうにないピエールに、マリアは別れの挨拶を言いました。
 ナターシャが先に部屋を出て行くと、ピエールはマリアに向かって、ナターシャとの結婚の希望が持てるかどうかを聞きました。ナターシャがピエールを愛していることを知っていたマリアは、自分からその想いを伝えると約束しました。

 その翌日、ピエールはマリアの勧めに従って、予定通りペテルブルクへと発ちました。

 ピエールと接したことにより、ナターシャの心の中にも変化が生じ始めました。彼女は以前の生命力を取り戻し、満たされることを求めるようになりました。
 マリアは、ナターシャの中でアンドレイの存在が小さくなっていることを見て取り、傷つきましたが、それは良いことなのだと考え、彼女にピエールの愛を伝えました。
 ピエールのことを愛しているのか聞かれたナターシャは泣き出しながら同意し、彼がペテルブルクに旅立つことを知ると、それが必要なことなのだと自分に納得させようと試みました。