レフ・トルストイ『戦争と平和』(エピローグ)の詳しいあらすじ

 レフ・トルストイ作『戦争と平和』のエピローグのあらすじです。
 エピローグ第一篇の主な舞台は1820年、つまり戦争によって崩壊した秩序を取り戻すために、アレクサンドル一世が中心となって治世を行ったウィーン体制の時代です
 第四部の終わりから七年が経ち、ピエール、ニコライ、ナターシャ、マリアといった登場人物たちは、成熟した大人になっています。ドラマティックな展開であった第一部から第四部に比べると、このエピローグ第一篇は少々退屈ですが、『戦争と平和』という長大な作品がしっかりと「締めくくられた」のを感じさせてくれます。
 この偉大な作品は、簡単に独領させてはくれません。第二篇では、トルストイの歴史についての考察が待ち構えています。この部分は非常に難しいです。トルストイ自身も考えがまとまらないまま、延々と同じことを書いているようにも感じます。
 何度も読み返し、一部でも理解できたところを切り取って、あらすじ、というか要約をまとめました(もっとも、このサイト全般に言えることですが、長々と書いているので、要約にすらなっていないかもしれません)。明らかな間違いや、足りない部分がありましたら、ご連絡をいただけると嬉しいです。

※ネタバレです。目次を開いてもネタバレします。

※他の部分のあらすじはこちら
第一部  第二部  第三部  第四部

※全体の簡単なあらすじはこちら(『戦争と平和トップページ』)

第一篇

戦後のナポレオンとアレクサンドル一世

 1812年の戦争後の治世の時期に、神聖同盟、ポーランド復興などの誤った行動をとったとされるアレクサンドル皇帝は、現在歴史家に批判されています。
 しかし、個々の人々にとっての幸福の形が異なるために、皇帝の行動が正しかったのか間違っていたのかを後の人々が評価することは不可能です。
 フランスから始まったヨーロッパの動乱において分かっているのは、この戦争の時期にたくさんの人々が死んだという事実だけです。歴史を動かす原因というものは決して特定できるものではないため、ナポレオンやアレクサンドル皇帝は、決して歴史を動かしていた天才ではなく、皆と同じような人間であったとしか見ることができません。
 無数の偶然によって軍の頂点まで上りつめたナポレオンは、大きな権力を思いがけなく得ることとなり、フランスに集まった大きな人間の群れが東に移動する際の運動の頂点に立つ人間にまで押し上げられました。
 その侵攻が終着点であるモスクワに到達すると、偶然がナポレオンの見方をしなくなり、フランス軍は退却を始めます。ナポレオンは、パリに戻ると、ロシア遠征の一年後に、ロシア、プロシア、オーストリア同盟軍に大敗し、1814年に退位させられ、エルバ島に流刑となりました。翌年、フランスに戻って挙兵するも、ワーテルローでイギリス、プロシア連合軍に敗れ、セント・ヘレナに流されました。
 ナポレオンのエルバ島流刑後、ロシア、イギリス、オーストリア、プロシアを中心に、ヨーロッパの新しい秩序を決めるために各国の代表が集まり、ウィーン会議が開かれました。その後、神聖同盟、四国同盟が結ばれ、アレクサンドル一世を中心にしたウィーン体制と呼ばれる新たなヨーロッパの秩序ができあがりました。自国民の幸福と、ヨーロッパの調停を考え続けてきたアレクサンドル一世は、最高の権力を手にすることとなりましたが、その途端に彼は権力に背を向け、人間として生きたいと望むようになりました。

ニコライとマリアの結婚生活

 ロストフ伯爵は、さまざまな苦労や悲しみの結果、以前のように陽気に自分を見せることはあっても、周囲から哀みの目を向けられるようになりました。ナターシャが出て行くと、彼は病気になり、財産を失ってしまったことを泣きながら妻に詫び、息を引き取りました。
 ロシア軍と共にパリにいたニコライは、父親の死を知ると退職届を出してモスクワに戻りました。家庭には予想よりも膨大な借金が残されていることが分かり、債権者たちはいっせいに支払いを要求しました。
 その借金を含めた遺産を相続したニコライは、義弟のピエールからの三万ルーブルを受け取り、母親にすがられて軍務に戻ることを諦め、モスクワで文官の職に就くことを決めました。彼は、母親とソーニャとともに小さなアパートに移り住みましたが、ロストフ伯爵夫人は、逼迫した財政状況を理解できず、慣れ切った贅沢な暮らしをやめられませんでした。ソーニャは、ロストフ伯爵夫人をなだめながら家計を切り盛りし、ニコライを助けました。ニコライはソーニャに感謝しつつも、距離を置くように努めました。彼は何一つ望むことなく、あらゆる気晴らしを避ける状態に耐えながら生活しました。

 1813年の冬の始め、マリアはモスクワに行き、ロストフ家を訪れました。
 ソーニャの手前、ニコライは、マリアにそっけなく接し、彼女の好意に我慢がならないといった態度を示しました。しかし伯爵夫人は、毎日のようにマリアの話を持ち出し、彼女の家を訪ねるようにニコライにうるさく言いました。
 そっけない態度を取られたマリアは、ニコライが自分に何か隠しているのではないかという考えを心のどこかに抱きながら、ロストフ家にはもう行くまいと考えました。冬の半ばになり、ニコライの訪問を受けたマリアは、動揺を隠しながら対応しました。しかしそのうちに彼女は話し疲れ、自分が人生の喜びを少ししか与えられていないのだという思いに囚われました。彼女は、ニコライがヴォローネジの頃とは変わってしまった原因がわからず、思わず泣き出し、部屋から出ていこうとしました。ニコライはそれを引き止めました。

 この出来事が二人の距離を再び縮める契機となり、1814年の秋、ニコライとマリアは結婚し、ロストフ伯爵夫人、ソーニャとともに、ルイスイエ・ゴールイに移り住みました。

 その後三年のうちに、ニコライは領地経営をしっかりと行い、残っていた借金を払い終わりました。そしてさらに三年後、ニコライは、ルイスイエ・ゴールイの近くに領地を買い足し、父の代に手放したオトラードノエを買い戻すための交渉を始めました。
 ニコライの領地経営は、百姓のことを理解し、彼らの希望を満たしながら正しい命令をくだすことで、大きな成果を挙げるようになりました。今では彼はロシアの民衆を愛すようになっていました。
 マリアは、ニコライの民衆に対する愛を理解できず、嫉妬しました。

 ニコライは、貴族社会に興味がなく、農業や猟ばかりに熱中しました。冬の間は妻や子供と共に過ごし、マリアとの結びつきは深くなっていきました。ソーニャとのことは、彼は結婚前に残さずマリアに話していました。マリアはソーニャに対する罪を感じ、親切に接しなければならないと思っていましたが、彼女に対する憎しみを抑えられないことがよくありました。
 ソーニャは、家族のために献身的に尽くし続け、自分の立場を苦にしていないように見えました。

ピエールの帰りを待つナターシャ

 ナターシャは、1813年の早春に結婚し、1820年には、三人の娘と一人の男の子がいました。彼女は逞しく太った母親になりました。
 二人は、モスクワとペテルブルク、モスクワ近郊の村、母のいるニコライの家を転々としながら暮らしました。ナターシャは、夫や子供の生活を満たすため、社交会に頻繁に出ることはなく、以前まで本能的に行っていた、自分の魅力を誰かに向かって見せることをやめました。
 ピエールは、ナターシャの尻に敷かれ、仕事以外で外出することはできませんでした。しかし、家にいる時は、ナターシャが自分の希望を叶えるために奔走してくれたため、彼は家庭を自分の思う通りにすることができました。ピエールは、吝嗇なナターシャのおかげで、生活費が以前の半分しかかからず、財政状況が良くなってきたのを感じました。

 1820年、あるペテルブルクの結社の中心的な創立者の一人となっていたピエールは、その結社のメンバーのフョードル公爵からの手紙を受け取り、さまざまな問題を話し合うためにペテルブルクに向かうことになりました。彼は四週間の予定で旅立ち、ナターシャは子供と一緒にロストフ家に滞在しました。
 デニーソフは、その間にやってきて、かつて自分を魅惑したナターシャが、すっかり変わってしまったことに驚きました。

 ピエールは予定を二週間過ぎても帰らず、ナターシャは不安でいらいらし、その不安を紛らわすために生後三ヶ月の一人息子のペーチャの世話を焼きすぎ、乳を飲みすぎた赤ん坊は病気になってしまいました。ナターシャは、赤ん坊の看病をすることで、夫に対する不安を忘れました。

 ニコライとマリアは仲睦まじく生活していましたが、時折わけもなく憎しみ合うことがありました。12月5日、冬の聖ニコライ祭の前日もまた、ニコライはわけもなく不機嫌になっているように思え、妊娠中のマリアはその夫に憎しみを感じました。
 休憩室でニコライとマリアは話し合い、仲直りをしました。二人はもうすぐ帰ってくるであろうピエールに、春まで家にいてもらうように説得することにしました。マリアは、これほどまで自分が幸せになれることを過去の自分は信じられなかったのではないかと考えました。しかし現世の幸福を味わっている彼女は、以前自分が現生では味わえない別の幸福を志していたことを思い出し、寂しげな表情を浮かべました。

 ピエールがようやく帰りました。デニーソフは、夫を迎えに行くナターシャを見て、自分が好きだった頃の彼女を彷彿とさせるものを感じました。
 ナターシャは、夫の帰りを喜びながらも、帰りが遅くなったことを責めました。ピエールは、どうしても帰れなかったことを謝り、赤ん坊の様子を見に行きました。

 十五歳になったニコーレンカは、崇拝に近い熱烈な憧れを抱いているピエールの帰りを喜びました。彼は、ピエールとナターシャから教えられる亡き父の話から、父親がナターシャを愛していて、死ぬときに遺言としてナターシャをピエールに託したのだと考えており、ピエールのような学問があり、頭も気立ても良い人間になりたがりました。

 ピエールはナターシャを伴ってロストフ伯爵夫人の部屋に入り、ペテルブルクから持ち帰った贈り物を渡しました。六十歳を超えたロストフ伯爵夫人は、ベロフ夫人を話し相手にして過ごすようになっていました。彼女は、夫とペーチャの死の後、何一つ人生において必要なものをなくし、身体的な欲求を満たすための習慣に従ってのみ生き、死を待つだけの身となっていました。

ピエールとニコライの議論

 一同は、大広間でお茶を飲みながら語り合いました。軍務でうまくいかなかったために政府に不満を抱いていたデニーソフと、政府を批判することを重要なことと考えているニコライは、ペテルブルク最上部の話をピエールに色々と質問しました。ピエールは、アラクチェーエフとゴリーツィンが政府で勢力を握っていることや、皆がなんでも陰謀と考え、いつも恐れていることを語りました。

 ピエール、ニコライ、デニーソフは書斎に移り、話の続きを始めました。
 ピエールは、博愛を掲げながらも、皇帝が神秘主義に打ち込み何にも深く関わろうとしないことを批判し、善行だけでは人々は堕落し、革命や反乱といった破滅は免れないと主張しました。それを免れるためにはすべての国民が手を組み、自立と行動を起こすことが重要であり、そのために彼は結社の範囲を広げることをフョードル公爵と話し合ったようでした。その結社の目的は、政府を敵視することではなく、政府の補佐役として働く保守主義的なものでした。そしてそれらすべての最終的な目的は、人々が自分たちの子供たちを守ることのできる社会を作り上げることでした。
 ニコライは、ロシアの改善を目指すピエールに反発し、どのような状況であれ、政府に対する忠誠を尽くすのが国民の義務であるべきだと反論しました。
 書斎に忍び込んで盗み聞きをしていたニコーレンカは、ピエールの話に夢中になりすぎ、気づかないままデスクにある封蠟とペンを折り、ニコライに叱られました。

 夜食のあと、ニコライが部屋に引き上げると、マリアが何かを書いているところでした。それは、子供たちの育て方について書き記された日記でした。
 ニコライは、この日記を読んで、マリアの子育てに対する姿勢に感動し、その崇高な精神を嬉しく思いました。
 彼はピエールと議論になったことをマリアに打ち明け、ピエールが秘密結社に属している以上、彼が政府に反抗することを義務だと考えているのだと思い込み、批判しました。ニコライが政府に忠誠を誓うのは、以前の貧乏であった自分のように家族をさせないためであり、自分の妻や子供たちを守らなければならないためでした。マリアは、ピエールの隣人を愛するという考えが大事であると認めた上で、自分たちは、隣人よりも深く愛する子供たちを危険に晒すことはできないのだと言って、夫に賛同しました。
 彼らは、その議論を盗み聞きしていたニコーレンカの繊細で多感な性格について話しました。キリストが人類を愛したように、全ての人々を愛さなければならないと考えていたマリアは、自分の子供たちに比べて、ニコーレンカに同じような愛情を注ぐことができていないのを感じ、悲しくなりました。
 苦悩の表情を浮かべるマリアを見たニコライは、もし妻が死んだら自分たちはどのようになるのだろうと考え、聖像の前でお祈りを始めました。

 ピエールはナターシャと二人になると、思想や議論が遊びに過ぎないように見えるニコライへの批判や、ペテルブルクの社交会に出るのが嫌だったことや、各々が勝手な方向に行こうとしている結社の人々を、自分の中にある善を実践しようという単純明快な考えでまとめあげることに成功したという自慢話を語りました。
 ナターシャは、マリアの素晴らしさや、ピエールの留守中に辛かったこと、可愛らしい子供たちについて語りました。
 いちどにまったく違った色々な話題がでる彼らの会話は、あらゆる論法を無視したものでしたが、それらの会話が成り立つことは、彼らがお互いをはっきりと理解している確かな証拠でした。
 ナターシャは、息子のペーチャが泣いている声を聞き、幸福を感じながら部屋から出て行きました。

 自分の寝室に入ったニコーレンカは、ピエールとともに戦場にいる夢を見ました。二人は大軍の先頭に立っていて、軽快に進んでいましたが、不意に二人を動かしていた糸がもつれ始めました。二人の前にニコライが現れて立ちはだかり、アラクチェーエフに命じられたので、自分は真っ先に前に進むものを殺すと言いました。すると今までピエールだった人物が、父アンドレイに変わり、ニコーレンカは愛の弱さを感じながら父を抱きしめました。
 目を覚ましたニコーレンカは、父がピエールを正しいと思っているからこそ自分を撫でてくれたのだと感じ、なんと言われようと、自分は父アンドレイの満足するようなことをすると心に誓いました。

第二篇

 1789年に起きたフランス革命から、東に向けた人々の運動が始まり、それは1812年にかけて東の果てであるモスクワに到達すると、西に向かう運動へと変化し、再びパリに到達して収まりました。
 その間、膨大な土地が荒廃し、人々は貧しくなり、移住し、殺し合いました。このような歴史上の出来事の原因は何なのかを解決しようとする時、人間は歴史学に頼ろうとします。

 昔の人は、神の意思によって自分たちの行動が決められるという考え方を持っていました。そのため、歴史上の出来事の全ての原因は、神が自らの意思によって人類の歴史に関与しているという主張により、簡単に解決されていました。
 ところが、神が歴史を動かしているという考えが否定される時代になると、歴史を動かしているのが何であるのかという問いに対する答えを説明するために、さまざまな意見が生まれるようになりました。

 この問いに対する答えを与えるため、歴史家たちは、ナポレオンなどの国民を統治する少数の個人に焦点を当て、非凡な天才によって歴史が動いているということを主張し始めました。
 しかし、そのような歴史家の主張は、それぞれの解釈によって異なり、時にはナポレオンの権力によって歴史が動いたと主張し、時には同じ出来事の原因がアレクサンドルの権力にあると主張します。ある個人が歴史を動かしていると主張する歴史家たちは、全く反対の主張をしてお互いの主張を壊しており、何が歴史を動かしているのかという根本的な問いに対して、絶対的な解答を得ることができていません。

 そのような歴史家の対局として、世界史家や文化史家は、歴史が動いていく原因を、個人の権力ではなく、事件と関連のある一部の人々の相互作用や、人々の知的活動の中にあると考えます。
 しかし、そのような世界史家や文化史家の考え方も、何か一つの事件について言及する際には、数千万の国民を動かした原因として、自らが否定していた個人の権力という言葉を使わざるを得なくなり、矛盾を抱えることとなります。

 つまり、多数の人間の活動を一つの目的に向かわせる力として、歴史家が知っている唯一のものは、権力なのです。しかし、人々の意志が神に服従するという昔の人の考え方にとって変わる権力というものの意義が何であるのかをはっきりと説明できなければ、歴史を理解するのは不可能です。
 いわゆる一般的にナポレオンが持っていたと人々が認識している権力というものは、彼が肉体的や精神的に、他の人々より優っていたために勝ち得たものではありません。だとすれば、ナポレオンが持っていた権力とは、彼自身の能力の中にその原因があるのではなく、大衆と彼の関係の中にあるはずです。つまり、権力とは、ナポレオンという優れたところのない一人の人物に委譲された、大衆の意思の総和に過ぎないのです。

 一つの事件が生じた時にはかならず、ナポレオンやアレクサンドルといった人々の命令によって、その事件が生じたように思われます。
 しかし、彼らの命令は、多くの人々が関与する行為の一部分に過ぎず、ほとんどの場合、実行されないどころか、命令とは逆の方向に人々が行動を起こすことすらあります。そして無数の命令のうち、ほんのひと握りの遂行されたものだけが、結果的に事件に関わったように見えるに過ぎないのです。ナポレオンやその側近が出した無数の命令のうち、フランス軍がロシアへ向かおうとする一連の事件に合致した一部だけが遂行されたことにより、ロシア遠征が行われたのです。
 つまり、命令が事件の原因となることはなく、どれほど命令が出ても、別の原因がなければ、事件は生じません。事件が起きた後になって初めて、その事件に関与した命令が遂行されたのだと人々は考えるのです。
 権力とは、命令を出すものの能力によって生まれるものではなく、命令を出すものとその命令をくだされるものとの関係性によって生まれるものなのです。
 そして、主に事件それ自体に直接関与する人(実際に攻撃に参加する兵士たちのような存在)に比べ、命令を出す人は、まったくその攻撃に参加することのない、つまり事件に参加することが最も少ない者です。
 以上の理由から、神の意思によって権力が一部の人に与えられたと認めない限り、我々は権力を事件の原因と見なすことはできません。
 諸国民の運動を引き起こすのは権力ではなく、すべての人々のすべての行為です。そのため、なぜ戦争や革命が起きるのか、我々に分かることは決してなく、ただ言うことができるのは、ある事件が引き起こされるために、人々が結びつき、みんなが参加するということだけです。

 もし歴史が外面的現象にかかわるものならば、歴史を動かすのが大衆の意思の総和であるという、この単純で明白な法則を提示すれば、議論を打ち切れるように思えます。しかし、歴史の法則は人間の内面に関わります。人間は自分の意思を自由だと思っていて、法則には従属しないと考えます。この矛盾を解決しないことには、歴史の曖昧さは解決しません。

 この矛盾は、以下の説明によって解決することができます。それは、自分の内部から見た人間は、自分のことを自由だと感じますが、観察の対象としてみると、すべての人間は、普遍的な必然の法則に従属しているということです。
 人間が意識するのは、自分自身の自由な意志です。しかし、外部から観察した人間は、さまざまな決まった法則によって束縛されています。
 例えば、一度石が落ちることを知った人は、次からは疑わずにそれを信じ、石が落ちることを想定した行動をとります。人間は、無意識の間に、これまで経験したことによって、自分がこれから行おうとすることの結果を予期しているのです。それは、人間が一定の法則に従い、その法則に束縛されているということを示します。
 しかし人間は、経験によって認識した法則に従って生きているにもかかわらず、自分が自由であると想定しないことには生きていけません。それは、富と貧困、名声と無力、権力と隷属などが自由の程度の大小に他ならず、人間のあらゆる願望や、生への意欲は、この自由をより大きくしたいという願望に尽きるからです。

 では、ある人間の行動が、自由から来たものなのか、必然から来たものなのか、それは、その行動を観察する視点によって変化します。例えば、溺れかけてほかの人間を溺れさせてしまう者の行動は、その人が溺れかけていたという条件を知っている観察者からすれば必然のように思え、それを知らない観察者には自由なように思えます。
 ある人が犯した悪事の原因を、二十年後に調べる観察者には、その悪事が必然であったように思え、その翌日にそれを調べる観察者には、その悪事が自由の法則に支配されているように思われます。
 つまり、人間がある行動を起こしたときの状態を考察する時、その人と外界との関係が分かっていて、それが遠い過去の出来事で、その行動の原因が分かりやすいと、その行動は最大限の必然に起因し、最小限の自由に起因したという印象を与えます。反対に、その人と外界との関係が分からず、最近の出来事で、その行動を起こした原因が分からない時、その行動は最小限の必要に起因し、最大限の自由に起因したという印象を与えます。

 ある人間の行動が必然であったのか、自由であったのかは、その人間に影響する周囲の条件や、その事件が起きてからの時間や、その行為を起こした原因が分かっているかによって増減するのです。
 そして、その行動が、完全な必然だけによって引き起こされることは不可能であり、反対に、完全な自由だけによって引き起こされることも不可能です。

 人間の行動が完全な自由によって引き起こされることが不可能な理由は、人間は必ず肉体そのものによって束縛されており、手を挙げることすら、肉体の構造によって束縛されているためです。人間の行動が完全な自由なものであるためには、人間が空間の外になければなりません。
 時間に関しても、人間の行為は、それが行われた時点に縛られています。つまり、過去に手を上げた自分は、その時点で手を上げないということはできません。人間の行動が完全に自由なものであるためには、人間が時間の外にいなくてはならないのです。
 それと同じように、人間の行動は、原因にも支配されています。なぜなら全ての人間の行動には、追求がどれだけ困難であろうともすべて原因があるからです。原因に支配されない人間などあり得ません。
 以上の理由により、人間は自分を自由な存在だと認識しているにも関わらず、完全に自由な人間にはなり得ないのです。

 それとは反対に、人間を取り巻く条件、時間、行動の原因は無限であり、それら全てが解明されることは不可能であるため、全てが必然の法則によって支配されている人間も、我々には思い描くことはできません。

 つまり、ある人間の行動を引き起こした原因が解明されれば、その行動は必然に起因すると観察者は考え、原因を解明することのできない不可解な要素を、観察者は自由と呼ぶのです。

 歴史についても、我々にとって既知のものを必然と呼び、未知のものを自由と呼びます。歴史にとっての自由とは、我々が人間生活の法則について知っていることを除いた、残りの未知のものの表現にほかならないのです。
 天体の中に一つでも、これまでの法則と異なった動きをするものがあれば、その法則が存在しなくなるのと同じで、もし人間の自由な行為が一つでもあれば、歴史上の法則はまったく存在しないことになります。
 つまり、歴史の法則を探究するためには、我々が常に意識することのできる自分の自由な意思というものを否定し、自分たちが実感しない力によって束縛されているということを認めなければならないのです。